TUBEは夏の季語って彼女がいったから

蝉の声がかすかに響いていた。もうすっかりと聴こえなくなったと思っていたけど、この山深い森では微かに聞こえるようだ。ここだけ夏が名残惜しく残っているかのように思えた。

 

朝夕の冷え込みはまさしく秋のそれで、日が照った日中は汗ばむような暑さであっても、確実に夏の撤退と秋の侵攻を意識せざるを得ない、そんな日々が続いていた。だから、この蝉の声は少し意外で、ちょっとだけ残された夏を拾い上げたような、すこし得した気分になった。

 

ワイヤーの入っていないマスクが欲しい。ワイヤーが入っていると鼻のところが擦れて血が出る。祖母がそんなことをいうので、近くのドラッグストアでワイヤーの入っていないものを箱で買い、わざわざバスを乗り継いで届けた。

 

玄関先に出た祖母は、本当に鼻の部分に定規で当てた線のように傷ができていて、右手でこちらを制しながら「ソーシャルディスタンス!」と叫んでいた。仕方なく、そのまま帰ることにした。本当にこのババアだけは何とかして欲しい。人を呼びつけておいていつもこれだ。結局、いつものように売り言葉に買い言葉、喧嘩みたいになってしまった。

 

少しだけ黄金色になりかけた棚田の真ん中を歩いてバス停へと向かった。ときおり吹き抜ける風が稲穂を揺らし、用水路から大量に流れ込む水の音が聴こえた。

 

小さな木造のバスの待合所は著しく傾いていて、その横の壁にはどれだけの年代を経たのか見当もつかないマルフクの赤い看板が斜めにかかっていた。待合所内に貼られたバスの時刻表は文字がかすんでいてほとんど読めないし、たとえ読めたとしても古文書みたいに変色しているこれを信じていいものかと思えた。

 

また、遠くに蝉の声が聞こえた。

 

しばらく待っていると、その蝉の声に混じって足音が聞こえてきた。その足音は待合所の前で止まり、しばらく間をおいてマスク姿の女性がひょいと中を覗き込んだ。誰もいないだろうと思っていたのに、先約がいたことに驚いたようだった。彼女は躊躇する素振りを見せたが、少しだけ傾きかけた日差しを嫌ってか、待合所内の離れた場所に腰掛けた。

 

目が綺麗だと思った。

 

マスクをしていて目の部分しか見えなかったが、彼女の目は綺麗だった。待合所に差し込むややオレンジ色の光が彼女の瞳をよりいっそう際立たせていた。ただ、それは美しいのだけど、どこか悲しみを帯びているようにも感じた。

 

そこで初めて、膝の上に置かれた彼女の量の手に、小さな骨壺が握られていることに気が付いた。それは本当に小さいもので、薄ピンク色の布に包まれていた。

 

「ペットですか?」

 

たしか、祖母の家があるこの辺りより、さらに奥深い森の中にペット霊園があったはずだ。そこでは火葬もやってくれたはずだ。彼女はペットを亡くしたのだろう。そしてそこで火葬してもらったのだ。

 

「ええ、ハムスターを飼っていたんですけど。今朝がた……。それで調べたんですけどこういう場所にしか火葬してくれる場所ないんですね」

 

彼女は目をくりくりさせながらそう答えた。

 

「たしかに、住宅街のど真ん中で火葬ってわけにはいかないですもんね」

 

僕の言葉に、彼女は深く頷き、まるでその存在を確かめるように手元の骨壺に視線を落とした。

 

また沈黙が待合室を満たした。気まずい感覚だけが残った。本当にバスは来るのだろうか。話しかけたのは良いものの、こうして会話が途切れてしまうと気まずさしか残らない。こんなことになるくらいなら話しかけない方が良かった。

 

蝉の声が少しだけ弱くなっていた。

 

ふいに彼女が口を開いた。いや、マスク越しにそれは見えなかった。けれども、彼女はしっかりとこちらを見て言い放った。

 

「TUBEってどうして夏の季語じゃないんでしょうか?」

 

予想外の問いかけに完全に面食らってしまった。

 

「え? TUBE? あのアーティストの? 季語? え?」

 

戸惑っていると補足するように彼女が続けた。

 

「季語って、植物だとか自然だとか伝統行事だとかだと思いがちじゃないですか。それも昔からあるものみたいな。けれども、最近の言葉でもあるんですよ。アイスクリーム、アイスコーヒー、アイスティ、アロハシャツ、ハンモック、サングラス、みんな夏の季語です。コレラだって夏の季語なんですよ」

 

「はあ」

 

あまりに勢いよく喋るものだから彼女のマスクは次第にズレ、鼻の頭のあたりまで見えるようになっていた。

 

「ようは、みんなが夏と感じるものが夏の季語となりうるわけなんです。だったらTUBEは夏の季語でしょう。みんな夏を感じる」

 

「そう、そうなんですか」

 

「ベストセラー・サマー、シーズン・イン・ザ・サン、SUMMER DREAM、Beach Time、SUMMER CITY、あー夏休み、夏だね、夏を待ちきれなくてだって夏じゃない夏を抱きしめてゆずれない夏あの夏を探してOnly You 君と夏の日を、 RIDE ON SUMMER、夏が来る! 夏だと丸わかりのタイトルをあげただけでもこれですよ。「夏だね」なんて開き直ってるとしか思えない。夏っぽくないタイトルでも聴いてみたら夏やんてものばかりですよ。これが夏の季語じゃないならなんなんですか。え? お?」

 

夏の季語じゃないならアーティストなんだろうと思ったが言わないでおいた。

 

「アイスクリームが夏の季語でTUBEが夏の季語じゃないのはおかしい。だって私、冬にコタツに入りながらアイス食べるの好きですもん」

 

彼女の息遣いは荒い。もう蝉の声は聞こえなくなっていた。

 

この彼女の主張はもっともだけど、一か所だけ相いれない部分がある。彼女が落ち着くのを待って、反論を試みた。

 

「僕だって冬にコタツでアイス食べるの好きですよ。でもそれでもアイスは夏の季語だと思います。だって、そうじゃない季節に食べることで強烈にその季節を意識するんですから。冬にあっても夏を連想させる。だからアイスは夏の季語です」

 

彼女は少し考えこむ素振りを見せた。

 

「そういえば……」

 

もう彼女のマスクは顎のあたりまで下がっており、口を開く素振りが丸見えだった。

 

「そういえばTUBEはずっと夏にライブツアーをしていたんです。「N・A・T・S・U」とか「世界の果てまで夏だった」みたいに完全に開き直ったタイトルでやっていたんです。それでも次第に冬にもやるようになって、なんだったかな、確か「冬でごめんね」っていうこれまた完全に開き直ったツアーだったかな、あの時に、夏じゃないTUBEに強烈に夏を感じてしまったんです。冬の方が夏じゃん、TUBEってそう思ったんです」

 

「そういうものですよ」

 

「だから夏の季語ですよね、TUBEは」

 

彼女はそう言って笑った。とてもその笑顔が似合っていて、理由もなく胸がドキドキするのを感じた。

 

また、差しむ光のオレンジ味が強くなり、彼女をより魅力的に照らしていた。よく見ると、彼女は大粒の涙を流している。

 

「そうじゃないときの方がその存在を強く意識する、か……。この子もそうだったな。いなくなってすごくこの子の存在が強いものだってわかった気がする」

 

彼女は手にしていた骨壺を強く抱え込み、もう一度視線を落とした。今度は僕が彼女の言葉を受けて深く考え込んでしまった。

 

「いなくなってからその存在が強くなるか……」

 

そこに、すこし荒っぽいエンジン音を響かせて待望のバスがやってきた。僕も彼女もゆっくりと立ち上がった。ただ、僕はバスの入口を通りすぎて、そのまま歩き出した。その姿に気が付いた彼女が振り向いて話しかける。

 

「乗らないんですか?」

 

「ええ、マスクのワイヤーで赤くなった場所に塗る薬を婆ちゃんに持ってきたの忘れてました。届けてきます」

 

「次のバス、3時間後だよ?」

 

「それまで、ソーシャルディスタンスとって婆ちゃんと話してます」

 

「そっか。じゃあ、これで。楽しかったです」

 

「僕も」

 

バスのエンジンがせかすように唸りをあげる。

 

「ねえ、やっぱりTUBEは夏の季語だよね」

 

「きっとそうですよ。自分がそう思えばなんだってそうだと思います」

 

バスのエンジン音に混じって蝉の声が聞こえる。

 

「あ、蝉の声。まだここは夏だね。夏が残ってるね」

 

「そう、夏だね」

 

その言葉に彼女はまた笑顔を見せた。しっかりと骨壺を抱えた姿で。

 

彼女を乗せたバスはあっという間に木々が折り重なる坂道を下り見えなくなった。僕は棚田の真ん中を「笑顔が似合う」と謳いながら祖母の家へと向かった。稲穂が擦り合う風の音に混じって、また遠くの蝉の声が聞こえた。

 

 

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