ぼくが映画監督になるまで/藤田慎也の人生ストーリー
Q:映像制作の仕事に興味があります。
そういった活動をされている方の人生ストーリーが読みたいです。
*****
YouTuberという職業にもすっかり聞き慣れ、誰もが制作した映像を配信することができる令和の時代。
2020年1月末で会社員を辞め、映画監督として活動を始めているのが藤田慎也さん、34歳。
現在、「ASTP映画制作部」というチームで映画製作を行っています。
この日は、映画「アルペジオ」の撮影初日。
大阪城公園近くにある豊国神社で、成功を祈願していました。
藤田さんはなぜ、このタイミングで会社員から映画監督として生きることを決断したのでしょうか?
その人生ストーリーに迫ってみました。
目次
学生時代から物語に魅了されていた
Q:モノづくりとか、物語に関する興味って学生時代から強かったんですか?
▼藤田
園児の頃は、泥団子作ってました。
テカテカのやつ(笑)
▼藤田
思い返せば、プラモデルとかジクソーパズルを作ることが好きでしたね。
▼藤田
8歳の時にスーパーファミコンが発売されて、ドラゴンクエストとかファイナルファンタジーなどロールプレイングゲームにハマってました。
▼藤田
小学生高学年の時には、「RPGツクール」というロールプレイングゲームを自作できるソフトで、ある友達と「あーでもないこーでもない」と言いながら3ヶ月くらいかけてロールプレイングゲームを作ってました。
Q:昔から冒険ものが好きだったんですね。
▼藤田
そうですね。
マンガだと、「鋼の錬金術士」とか、「コナン」の作者の青山剛昌先生の「剣勇伝説YAIBA」を読んでました。
兵庫の田舎で生まれて、学生時代はまだまだ情報も少なかったですね・・・。
両親は厳しくなく、どちらかというと甘い。
自由にさせてもらっていました。
工業高校の電気コースを卒業後、エンジニアとして勤務
Q:そこまでゲームが好きならゲームの制作会社に就職しようとは思ってなかったんですか?
▼藤田
中学の頃に家の生活状況を見ていたんですけど「大学には行かせてもらえないだろうな」と諦めていました。
なので、工業高校の電気系コースに進学し、卒業後は車の部品メーカーの工場でエンジニアとして働いていました。
Q:なるほど。社会人になって初めての仕事はどうでしたか?
▼藤田
仕事自体は楽しかったです。「何年か後にこんな車が世に出るのか、その車の部品を今作ってるんだなぁ」とワクワクもしていました。
でも、2000年頃の日本は残業が当たり前の時代だったので、夜中の2時とか3時まで働いてました。
Q:家には寝に帰るだけ?
▼藤田
車通勤だったんで、帰ることもできないこともありました。
眠すぎて道の駅とかで寝てたり。
年功序列なので、働けど若いから給料は安いし、外食が多くなるからそこにお金を使わないといけなくて「なんのために生きてるんだろう?」と思っていました。
Q:その会社では何年働いてたんですか?
▼藤田
4年半ですね。先輩が「自分の時間がとれないし、やりたいことできないから辞めるわ」と言い出したので「辞めて何をするんですか?」と話をしたのを覚えています。
その時に自分も「今働いている会社のことしか知らないしなぁ」と思ったし、「自分もこのままでいいのかな?」と思い、仕事を辞めることにしたんです。
淡々と過ごした20代
Q:その後はどう過ごしていたんですか?
▼藤田
父の知り合いの紹介で半導体の製造をする会社に就職しました。
でも、世はリーマンショックで、外資系の企業だったので不景気で週6日休みでした。
多くても週3日仕事に行けたらいい感じでした。
収入がないから、マクドナルドに夜中0時から5時まで働いてましたね。
半年経ったくらいから週5日勤務になりましたけど。
でも、27歳の時に別の会社から買収され、29歳の時に倒産して無職になりました。
「あ、もうこの会社は潰れそうだな」とは思っていたのであまり焦ったりもしませんでした。
Q:「潰れたし次、行こう」みたいな感じですか?
▼藤田
はい(笑)
30歳目前になって、自由がほしくて「遊びたい」と思ったんです。
それから派遣社員をしながら地元のツレと飲むイベントを開催したりするようになったんです。
▼藤田
特に収益性は考えず、「楽しければいい」という感じでした。
当時は会社の都合に結構振り回されてましたね。
Q:会社の都合とは?
▼藤田
「残業はしません」と勤務先の会社に伝えていたんですけど、「残業しろ」と言われていたんです。
派遣会社からは「残業はしなくていいです」と言ってくれていたんですが、勤務先の上司からは残業を強いられたり叩かれたり。シンドかったですね。
そして、そのころに家に借金があることも判明して、、、驚くことにその借金はぼく名義になってたんですよ。ダブルパンチでした。
自分名義の借金があることに衝撃
Q:藤田さんの知らない間に自分名義の借金があったんですか?
▼藤田
はい。300万円台後半ほど。
それを知ったキッカケは・・・母が肩の筋肉を切ってしまって病院に連れて行ったら「すぐ入院してください」と医師から言われたんです。
それで、ぼくが家事をするようになったんですけど、届いている郵便物を見ていたらぼく名義の借金の明細が届いていたんです。
「マジか…」とビックリしたんですけど事実は変えられないし、ぼくが好き勝手生きてる間に母が家のことをやりくりしてくれてたんだなとも感じたし、、、特に怒りも湧かなかったです。
Q:昔から借金があったと?
▼藤田
そうです。
ぼくが社会人になった頃からあったんです。
この時に「ずっとサラリーマンをしていくつもりもないし…これからどう生きよう?」と考えるようになりました。
ちょうど、仲間とYouTubeでチャンネルを作って動画配信をしていたこともあって、「自分が好きな物語の映像…映画を作ろう!」と思ったんです。
映画は人に影響を与え、行動するキッカケになる
Q:なるほど。2000年頃と違って、自分たちで映画を作れる時代ですよね。
▼藤田
はい。派遣社員として働いている時に、「下町ロケット」という映画を見ている時に、NISSAYのCMの「見守るということ」が流れてきたんです。
▼藤田
命や人生観についてのメッセージが伝わってきて、泣きました。
描写の仕方が、「アルマゲドン」のブルースウィルスが演じていたように、人が最後に命の火を絶やす様子が描かれていたんです。そんな映像にグッときました。
Q:藤田さんが何度もみてしまう映画ってありますか?
▼藤田
「猟奇的な彼女」ですね。
この映画は中盤はラブコメディで前世とか運命的な出会いが描かれているんですけど、ストーリーにしっかりと伏線が張られていて、それを回収していきながらハッピーエンドに向かう構成がすごいんです。
今見ても主人公の友達かのように泣きます(笑)
この映画のワンシーンで、ある老人が努力せずに運命を待つヒロインにこういうんです。
「運命とは、努力した者に偶然という橋をかけてくれる」と。
ここにググッと胸をつかまれます。
映像を使った物語は、人生にものすごい影響を与えるじゃないですか?
ぼくも映画の制作にチャレンジしてみたいなと思ったんです。
今後の夢・目標
▼藤田
夢に向かって一歩踏み出せない人が、一歩踏み出せるキッカケになれる映画をつくりたいですね。
今、映画制作って出演者や編集者の想いやエネルギーは必ず作品に溢れ出ると思うんです。
ぼくと同じ想いの仲間と出会い、共に制作をすすめていきます。
▼藤田
ぼくは今34歳なんですけど、本気で映画を撮っています。
現在制作中の映画「アルペジオ」は、60分から90分くらいになりそうです。
自分も会社を辞めての挑戦だし、エネルギーを込めて作品を作りたいですし、「やってみたらできたよ!」と伝えられるように、しっかり頑張っていきます。
この映画を制作するために実施しているクラウドファンディング
▼藤田慎也プロフィール
兵庫県に生まれ、学生時代にはロールプレイングゲームやマンガにハマる。工業高校を卒業後、車の部品メーカーや半導体製造の会社で働く。30歳目前の時に、自分名義の借金があることが発覚。その後「これからどう生きるか」を考えた結果、夢を諦めないことの大切さを伝えるために映画監督として活動中。
Twitter
投稿者プロフィール
最新の投稿
経営者2020.04.20ぼくが経営者になるまでの話/藤田直の人生ストーリー
フリーランス2020.03.17ぼくが映画監督になるまで/藤田慎也の人生ストーリー
経営者2020.03.01ぼくがデイサービスを立ち上げるまでの話/金児大地の人生ストーリー
経営者2020.01.15ひとりひとりの想いや才能が活かされる未来を創りたい/小泉希久也の人生ストーリー