閑話 ラティーファの軌跡 その二
私は自分で自分の心がよくわからなくなっていました。
やられること、やらされること、すべてに、すごく嫌悪感を覚えているし、すごく恐怖感も覚えているのに、命令には平然と従うようになりました。
この世界で身につけた私なりの処世術です。
けど、四肢を拘束されて仰向けの状態にされると、この世界に来た最初の体験を思い出してしまい、発狂しそうになってしまいます。
他の事は耐えられても、それだけは耐えられません。
そのことに気づくと、お兄様は定期的に私の四肢を拘束して虐待するようになりました。
時折、お兄様は人が変わったように私に優しくしてくれることもあります。
けど、こいつは決して私の兄なんかじゃない。
こいつの優しさは偽物です。
もうスティアードのことはお兄様という生き物だと思うことにしました。
私の本当の兄はこいつじゃなくてお兄さんだ。
今の私のお母さんや、前の私のお母さんとお父さん、そしてお兄さんのことを思い出せば、完全に心が壊れることはありませんでした。
「ああ、クリスティーナ姫」
ある日から、お兄様は私に別の女の子を重ねるようになりました。
クリスティーナという名前やセリアとかいう名前をよく聞きます。
彼女達に操を捧げているのか、私の身体に触れることはほとんどなくなりました。
でも、変な臭いは発しています。
そして、ある日、何があったのか、お兄様の機嫌がすごく悪い日がありました。
なにやらお兄様が通っている学校で何か失敗をやらかしてしまったそうで、その日は執拗に鞭で打たれました。
断片的な言葉からすると、リオという名前の少年のことを恨んでいるようです。
その名前は何度か聞いたことがあります。
セリアとかいう人と仲が良いらしく、多くの婦女子を誑かす破廉恥な男だとか言って、よく私に鞭を打ってきたからです。
この人はどの口で何を言っているのだろう。
私にはよくわかりません。
そして、それから数日後、私はお父様に呼び出されました。
お父様が私を呼び出す時はたいてい誰かを殺せと命じる時です。
必要な暗殺道具一式を用意してもらって身に着けると、私はお父様がいる部屋に向かいました。
「それが暗殺対象の衣類だ。匂いを覚えろ」
と、お父様が冷たい声で言いました。
「はい」
短く返事をすると、私は言われたとおりに衣類を嗅いで匂いを覚えます。
どういうわけか少しだけ懐かしさを覚えました。
けど、首輪のおかげで即座に行動しなければという気持ちがわいてきて、その気持ちもすぐに流されてしまいます。
飼われている屋敷を出て、私は匂いを追跡しました。
どうやら匂いの主は王都の外へ向かったようで、私はその匂いの主を追跡するために走り出しました。
そうして走っているうちにおかしなことに気づきます。
匂いの痕跡は強く残っているのに、いっこうに匂いの主の姿が見当たらないのです。
走れども、走れども、暗殺対象に追いつくことはできません。
ようやく追いつけたのは二日以上経った後でした。
どれだけ走ったのでしょうか。
王都からこんなに遠くに来たのは初めてです。
遠目から暗殺対象が賑やかな都市の中に入っていくのを確認します。
驚いたことに対象は黒い髪の人間でした。
この世界で黒髪の人間を見たのは初めてのことだったので、珍しく私は動揺してしまいます。
しかも私と歳の近い子供です。
少しだけ話をしてみたい気はしましたが、首輪のおかげで暗殺の命令に逆らうことはできません。
もし逆らえば全身に激痛が走るからです。
一度、命令に逆らおうとして、気が狂いそうになるくらいの痛みが全身を襲ったことがあります。
あの痛みはもう嫌だ。
やむを得ず、私は彼を殺す段取りをつけることにしました。
フードを被っていても獣人の私が都市に入ると目立ってしまう可能性があったので、ひとまず都市の外で機会をうかがうことにします。
すると一日で暗殺対象の少年は外に出てきました。
それを好機と考えた私は先回りをして死んだふりをすることにしました。
暗殺というのは最初の一撃で決まります。
相手が油断している瞬間に素早く殺すのが常套手段です。
森の中で倒れている人間がいればとりあえず声をかけるはずです。
だから、近寄ってきたところで毒の塗ったナイフで刺すことにしました。
その少年は予想通り私に声をかけて、死んでいるかどうかを確認するために、私を抱きかかえました。
いざ少年を殺そうと思い、間近で少年の顔を見てみると、私は少しだけ動揺してしまいました。
少年の雰囲気がどことなく私の知っているお兄さんに似ている気がしたからです。
黒髪だからでしょうか。
それもありますが、決定的なのは違います。
目です。
この少年の目は、バスの中で物憂げに外を眺めるお兄さんの目に、似ている気がしました。
けど、首輪が私に少年を殺せという感情を冷酷に呼び起こし、私は少年のわき腹目がけてナイフを突き刺しました。
少年はかつてないくらいの反応を見せてナイフを避けようとしましたが、これだけ密着した状態で私のナイフを躱すことなどできません。
少年は慌てて私を突き飛ばしましたが、私は任務達成を確信しました。
あのナイフに塗られている毒は即効性の猛毒だからです。
フードが取れて私の耳を見ると驚いたような顔を浮かべましたが、案の定、少年は顔色は急激に悪くなっています。
だというのに、傷口を押さえる少年の手が光ると、少年の顔色が良くなっていきました。
(な、なんで……?)
驚いた私はとっさにその少年に止めを刺そうと近寄ります。
毒の塗られたナイフを刺したのに、その人は元気よく動き出しました。
まるで毒が効いていないみたいです。
(つ、強い……)
しばらく戦ってみると、私はその少年の強さを実感しました。
見た目からして私よりも少しだけ年齢は上のようですが、種族的に身体能力は私の方が圧倒的に上回っているはずです。
なのにその少年は私並みかそれ以上の速度で動きます。
訓練で鍛えた私の攻撃もまったく通じません。
どれだけナイフで突こうとも、そのすべてを受け流されてしまいます。
攻撃が当たる気がしないんです。
(か、勝てない……)
そして、私のすべてを出し切った時、私は敗北を予感しました。
このままだと私が殺されてしまいます。
ゾッと背筋が冷たくなりました。
今までさんざん人を殺しておいて、私は死にたくないと思っていたのです。
焦った私は大振りな突きを放ちました。
すると、次の瞬間、私の腹部に衝撃が走ります。
意識が吹き飛びそうになりました。
けど、そのまま鮮やかに地面に叩きつけられ、無理やり意識を現実に引き戻されます。
そうして四肢を拘束され、仰向けにされると、私の頭の中は真っ白になりました。
この体勢だけは無理です。
この世界で記憶を取り戻した最初の記憶がフラッシュバックしてしまうんです。
「ひっ、ひっ、ひうっ、ううううっ、ひぐうううっ」
私は我を失って泣き叫びました。
少年が何かを言っていますが、私の耳には入ってきません。
じたばたともがいていると、いつの間にか意識を奪われ、気がつくと、手足をロープで縛られていました。
目の前には暗殺対象の少年がいます。
首輪のせいで、殺せという命令に従わなくてはならないという気持ちが、私の中で沸き上がってきました。
何とか脱出して暗殺を試みようとしてみますが、それはできそうにありません。
すると、暗殺対象の少年が、涼音としての私が昔ドラマで見たような方法で、尋問してきました。
私は黙ったままですが、すべてを見透かされたような気がして少し怖いです。
黙ったまま少年の質問を聴いていると――。
「……奴隷から解放されたいか?」
と、何やら悩ましげな表情を浮かべて、そんなことを言ってきました。
感情の希薄な私ですが、明らかに動揺したと思います。
当たり前です。
それが叶うと良いなって。
大切な人達にもう一度会いたいって。
心は摩耗しても、ずっとそう思って生きてきたんです。
けど、奴隷として、ペットとして生きるしかないんだって、半ば諦めかけてもいました。
だから、その言葉は私の心の奥底に響いてやみませんでした。
「そうか」
そんな私の反応から、少年は私の気持ちを察したようです。
けど、私は少年の意図が読めずにじっと彼のことを見つめていました。
(私、奴隷から解放されるの?)
一度沸き上がった希望が急激に私の中で芽吹いているのがわかりました。
ドキドキと胸の鼓動が止まりません。
すると、少年は再度私に奴隷から解放されたいかと尋ねてきました。
奴隷でなくなった後も少年のことを殺す気かと聞かれましたが、奴隷から解放されればそんなことは絶対にしません。
この少年に対する私の殺意は首輪によって作られたものなのだから。
(でも、あいつらが仕組んだ罠じゃない、よね?)
もしかしたらお兄様達が近くにいるんじゃないかと、私に希望を持たせてどん底に突き落とすんじゃないかと、どこか疑心暗鬼になり、私は周囲を見渡してみました。
だけど、この場には私と目の前の少年しかいません。
意を決しておそるおそる小さく頷くと、少年は私の首輪に手をかざしました。
すると、カン、という高い音をたてて、私を拘束し続けていた首輪が外れます。
私は呆然と外れた首輪を眺めました。
首輪の感覚を確かめるために、縛られた状態で必死に首を動かします。
だけど、そこには、長年の間、私を縛り付けていた首輪の感触はありませんでした。
「ぇ……、ふぇっ、ふぇ、ひっく、ひっく、うぇええええん」
水道の蛇口が壊れた様に、私は泣き出してしまいました。
涙が止まりません。
どうして泣いているのか、最初はよくわかりませんでした。
けど、すぐにこの感情が喜びだということに気づきました。
それに気づけたことが、自分にまだ感情が残っていたことが、嬉しくて、さらに泣いてしまいます。
どれだけ泣いたんでしょうか。
少しずつ泣き声が収まってきた私に――。
「そろそろいいか」
と、少年が声をかけてきました。
ビクリ、と私の身体が震えます。
あろうことか私はすっかり少年の存在を忘れていました。
嬉しいけど、何を言ったらいいのかわからず、私は、戸惑いながら、少年を見つめました。
「毒は拭いておいたが、お前のナイフは返す。もう逃げていいぞ」
そう言うと、少年が私にナイフを返してくれました。
少年は、私を拘束していたロープも切ってくれ、攻撃してきたお腹の治療もしてくれました。
「え……?」
されるがままの状態で、私は戸惑いの声を上げました。
逃げていい。
逃げる。
どこに?
恥ずかしいことに、いきなり逃げていいと言われても、私にはどうしたらいいかわかりませんでした。
「だから、逃げていいぞ。人間の領域はお前には暮らしにくいだろうけど、亜人の領域ならそうでもないだろ。ここから東に行けば亜人の領域がある。俺も東に向かっていたんだが、あいにくと服が破れたからな。一度都市に戻ることにする。ここでお別れだ」
と、戸惑っている私に言い聞かせるように、少年が言いました。
東……。
東ってどっちだろう。
匂いを追って走ってきた私には方向がよくわかっていません。
(この人が東に進んでいたっていうことは……王都の反対側に行けばいいの?)
どうすればいいのかわからないまま悩んでいると、少年は足早に都市がある方に戻って行きました。
(あ、行っちゃった……)
立ち去る少年の後ろ姿を呆然と眺めます。
それから私はしばらくうろうろと周囲を歩き回りました。
私の帰る場所ってどこだろう。
王都の屋敷?
違う。
違う!
あんな場所は私が帰る場所じゃない!
けど、そこ以外の場所を私は知らない。
(東に行けば私の仲間の種族がいるの?)
この世界で唯一私に優しくしてくれた存在が私のお母さんでした。
そのお母さんと同じ種族の人達なら私に優しくしてくれるんだろうか。
そんな希望が胸の中で芽吹きました。
だけど、漠然としたまま東に向かうのは怖いです。
どうしよう。
そんなことを思っていると、近くに先ほどの少年が近づいてきていることに気づき、どういうわけか私は慌てて隠れました。
(あ、あの人に付いて行けば……)
私達が戦った場所を通り過ぎていく少年の姿を見守ると、私はなんとなくその後ろを付いて行ってみることにしました。
少年の移動速度は速いけど何とか付いていけます。
そうしてしばらくその後を付いていると、ふと、少年が立ち止まり――。
「……出て来い」
と、どこか呆れたような声色で言いました。
ビクリ、と私の身体が反応します。
気配は消していたはずなのにどうして?
そんなことを考えましたが、私ではあの少年には勝てません。
だから私の追跡くらい割と簡単に見破れるんでしょう。
私はおそるおそる少年の前に姿を現しました。
「どうした?」
と、少年に尋ねられました。
「あ、あの、東、行く、一緒……」
何を言っているんだろうか、私は。
いくら首輪で心を操られていたとはいえ、自分のことを殺そうとした人間が一緒に付いて行きたいと言っても、承諾するはずがありません。
でも、あのお兄さんと似た雰囲気があるこの人なら、もしかしたら私のお願いを聞いてくれるかもしれない。
どうしたらいいか途方に暮れていたあの時のように、私のことを助けてくれるかもしれない。
そんな淡い期待を抱いてしまいました。
少年は私の同行を渋るようなことを言っているけど、私は勇気を振り絞って自分の意思を伝えてみることにしました。
「……行きたい、です」
今の私なら、あの時、お兄さんに話しかけることができたのかな。
ふと、そんなことを思いました。
「俺は人間だぞ。自分勝手な存在だ。お前を奴隷として扱っていた連中と同じなんだぞ?」
少年は困ったように私の同行を拒否するようなことを言っています。
「嫌な感じ……しない、です。変な臭い、も、しない」
けど、ここまで来たらもう私も引きたくありませんでした。
私にはこの少年が私のことを飼っていたあの男達と同じようには思えません。
だって、私を苛めて興奮した時にスティアードが発する変な臭いもしません。
それに、ピリピリとした雰囲気もない。
なんていうか、優しいオーラが出ている。
そんなところがあのお兄さんに似ているんだと思いました。
「それに俺は獣人のテリトリーには入れない」
どうやらこの人は獣人のテリトリーに入れないみたいですが、私はそこまで一緒に行ってみたいと伝えてみました。
すると、この少年は私の我儘を聞いてくれました。
ふと、私の中で、この人はあのお兄さんの生まれ変わりなんじゃないかって、そんな突拍子もない考えが浮かびました。
そんなはずはないのに。
この少年がやさしくしてくれたせいで、そんなことを思ってしまいました。
「少しここで待ってろ。都市に行ってお前の必需品を買ってくる。そうだな、一時間で戻ってくる。わかったか?」
なにやら少年は私に必要な荷物を買ってくれるみたいです。
私が小さく頷くと、少年は都市へ向かって歩き出しました。
「そうだ、名前はなんていうんだ?」
ふと、少年が立ち止まり、私の名前を聞いてきました。
「ラティーファ」
私はこの世界のお母さんが与えてくれた名前を名乗りました。
私の宝物です。
「そうか。俺はリオだ。よろしくな。ラティーファ」
すると、少年も名乗ってくれました。
リオというそうです。
なんて呼べばいいのかな。
リオ、リオ君、リオさん。
リオさんでいいかな。
リオ……お兄ちゃん。
ふと、そんな呼び方が私の頭の中をよぎった。
お兄さんはあの人だけの呼び方だ。
けど、この人から感じる優しさは、なんかあのお兄さんのものと似ている気がする。
だから、この人のことをお兄ちゃんって呼べたらいいな。
なんて、立ち去るリオさんの後姿を眺めながら、私はそんなこと考えた。