閑話 ラティーファの軌跡 その一
転生前と、転生後にリオに会うまでのラティーファについての話です。
彼女は奴隷という身分にいたため、後半は少々辛い内容になっているかもしれません。
耐性のない方は心の準備をしてお読みください。
次の話からは本話ほど辛い描写はありません。
リーダビリティを重視した結果、語り手であるラティーファの精神年齢が高めになっております。
成長した彼女が追憶的に語っていると思いながらお読みくださると良いかもしれません。
私は遠藤涼音、小学四年生の九歳でした。
季節は夏、つい先日、夏休みに入ったばかりです。
ですが、水泳開放日に合わせて毎日小学校まで通っています。
夏休みだというのに、学校には、友達に会うためにプールにやって来る生徒達がたくさん、かく言う私もその一人です。
ごめんなさい。
少し嘘を吐きました。
友達と会うのも楽しみですけど、実はもう一つだけ理由があります。
その理由は帰り道に乗るバスです。
(あ……、やった! 今日も乗っている!)
今日もプールで泳いで家に帰るためのバスに乗ると、既に一人のお兄さんが乗っていました。
見た目はとても整っていて、芸能人と見間違えるくらいに格好良くて、見惚れてしまうくらいです。
名前も歳もわからないけど、たぶん大学生です。
そのお兄さんはいつも同じ時間帯のバスに乗車しています。
たぶん生活リズムが整っている人なんだと思います。
私がプールに通うのも、帰り道だけバスを利用するのも、全てはこのお兄さんのことを一目でも見たいからです。
けど、お兄さんの良いところは見た目だけじゃありません。
お兄さんは性格もすごく優しいんです。
それを知ってもらうには私とお兄さんの出会ったきっかけを語らないといけません。
そう、私とお兄さんとの出会いは一年以上前でした。
お兄さんはもう忘れているかもしれないけど、私はお兄さんに助けてもらったことがあります。
それは私が普段は滅多に使わないバスに乗った日でした。
その日は午後から土砂降りの雨が降って、家の遠い私が歩いて帰るには、少し大変な日でした。
そこで、私はバスに乗って家に帰ることにしました。
こういう日のためにお母さんから最低限のお金はもらっていたんです。
けど、その日は運動会の準備があってすごく疲れていて、バスの中で寝過ごしてしまいました。
お金も足りなくなり、普段あまりバスを利用しないこともあり、私はどうしたらいいのか分からなくなり、あろうことかバスの中で泣き出してしまいました。
そんな時に声をかけてくれたのがお兄さんです。
「どうしたの? 乗るバス間違えちゃった?」
優しい声でそう言われて、ふと、顔を上げると、そこにはお兄さんがいました。
少し大げさですが、その頃、少女漫画を読むのが流行っていて、私はそのお兄さんを物語の登場人物と錯覚してしまいました。
「え、あ……乗り過ごし……です」
と、少し呆気にとられたように、私は言いました。
「あぁ、なるほど。本当はどこで降りなきゃいけなかったの?」
どこか納得したような表情を浮かべて、お兄さんが言いました。
私が降りなければいけないバス停を告げると――。
「わかった。じゃあ、次のバス停で降りようか」
と、私を安心させるように優しく言ってくれました。
本当は知らない人に付いていったらいけないと教えられているんですが、心の中で私はお兄さんに頼ることを決めていました。
「あ、でも、お金足りないかも、です……」
「大丈夫だよ」
お兄さんがそう言うと、すぐに次のバス停に到着し、私はお兄さんと一緒にそこで下車しました。
ちなみに運賃はお兄さんが払ってくれました。
それから、特に迷うそぶりもなく、お兄さんは乗るバスを決めて、失礼なことに私は黙ったままお兄さんに従っていました。
「本当は知らない人間に付いていったらいけないと思うんだけど、今は緊急事態だから許してね」
黙っている私がお兄さんのことを不審がっていると思ったのか、お兄さんが苦笑しながらそんなことを言いました。
「ち、ちがっ。そんなことないです!」
慌てて否定しましたが、かえって肯定しているように見えたかもしれません。
それから、時折、お兄さんは、私に気を使ってか、気まずくならないように会話を振ってくれました。
けど、私は、緊張してしまって、要領の得ないことばかり言っていた気がします。
今思えば元の世界でお兄さんとあんなに話せた機会は後にも先にもこの時だけだったのに、この時の私は本当に何をしていたのでしょうか。
照れ屋な自分の性格が憎たらしいです。
私が降りるバス亭まで短い時間でしたが、本当にあっという間に過ぎ去ってしまいました。
「ここまで来れば大丈夫かな?」
と、私の家から最寄りのバス停に到着すると、お兄さんが言いました。
「え? あ……」
この時、魔法が解けたかのように、私は現実に戻ってきました。
(これで……終わり?)
嫌だ。
まだ、ありがとうも伝えていません。
よく控えめな性格をしていると言われる私ですが、この時ばかりは今までにないくらいに強くそう思いました。
「お、お礼! お礼を! バス代も払わないと!」
と、気がつけば捲し立てるように声が出ていました。
「いいよ。当たり前のことをしただけだから」
と、本当にそう思っているような顔をして、お兄さんは言いました。
けど、私はそんなことはないと思う。
このお兄さんの優しさはなんていうか先生や友達のものとはなんか違う。
もっと無償の、そう、まるでお父さんやお母さんのようなものだと思えました。
「あ……、ダメ……」
立ち去ろうとするお兄さんに、そんな言葉を投げかけます。
伝えたいことはたくさんあるのに、一言も口から言葉は出てきません。
どうすればいいんだろうと、思わず泣きそうになってしまいました。
「ああ、えっと、じゃあお礼をしてもらってもいいのかな?」
と、少し慌てた様に、お兄さんが言いました。
たぶん私が泣きそうになったからです。
「あ、ありがとうごまひゃい!」
慌ててお礼を言おうとして、緊張のあまり舌を噛んでしまった私。
お兄さんを見上げると小さく笑っていました。
すごく恥ずかしかったです。
「あ、ありがとうございました……」
再度、今度は顔を真っ赤にして、お礼を言う。
「どういたしまして」
「は、はい。こっち……です」
そう言って、私はお兄さんを自分の家に案内します。
バス停から家までは歩いて一分くらいです。
家に辿り着くと、私はチャイムを鳴らしました。
インターホンのカメラ越しに私とお兄さんの姿を確認すると、すぐにお母さんが出てきました。
「涼音、お帰りなさい。どうかしたの?」
と、私とお兄さんの顔を交互に見て、お母さんは少し不思議そうな顔をしました。
「お、お礼、しないといけないの! お兄さんに助けてもらって、その……」
気持ちだけが先行し、要領を得ない私の言葉を聞いて、お母さんはさらに困惑したようです。
「実は――」
そんな私の言葉を補完するように、お兄さんがお母さんに事情を説明してくれました。
「あらあら、それはこの子がご迷惑をおかけしました。ありがとうございます」
と、お母さんはお兄さんに深く頭を下げてお礼を言いました。
「いえ、無事に送り届けることができて良かったです。それではそろそろお暇させていただきますね」
微笑みながら別れの挨拶を告げると、お兄さんはそのまま立ち去ろうとします。
「えっと、お茶でも飲んで行きませんか?」
すると、お母さんがお兄さんを引き留めました。
ナイスだよ、お母さん。
「すみません。この後バイトがありますのでお気持ちだけで……。ありがとうございます」
けど、お兄さんには用事があるようで、このまま帰らないといけないようだった。
すぐにお母さんが家の中に戻り、お兄さんに運賃以外に多めにお金を渡していました。
お兄さんは頑なに断っていましたが、お母さんもなかなか強引で、無理やり渡していました。
そして、お兄さんは、申し訳なさそうに礼を言い、帰っていきました。
「すごく良い人だったわね」
去っていくお兄さんを見送ると、お母さんが言いました。
「うん……」
それだけじゃない。
すごく格好良かったもん。
「それにすごく格好よかったわね、涼音」
私の心の中を読んでいたかのように、お母さんが言った。
「うん……、っ!?」
私は思わずつられて返事をしてしまいました。
慌ててお母さんの方を見上げると、ニコニコと微笑みながら私の方を見ていました。
私の顔は真っ赤です。
「うふふ、どんなことがあったのか詳しく教えてね」
お母さんに隠し事はできません。
「明日からバス通学にする?」
今日お兄さんとの間であったことをすべて説明すると、お母さんがそんなことを言いました。
「え? い、いいの!?」
思わず声が上擦ってしまいました。
「いいわよ。あのお兄さんと仲良くなれるといいわね」
くすくすと笑うと、お母さんはそんなことを言いました。
好きだとは言ってないけど、確実に私の気持ちはお母さんにバレています。
お母さんってすごいな。
そして、次の日から、私のバス通学が始まりました。
同じ時間のバスに乗ってみると、お兄さんを発見できました。
バス後方三列目の窓際席と、乗っている位置も昨日と同じです。
この時間帯は人が少ないからすぐに発見できました。
けど、私は、恥ずかしがっていたので、足早に移動し、お兄さんのすぐ斜め後ろの席に陣取りました。
気づかれないようにそっと視線を送ります。
しばらく見つめていると、お兄さんが私の視線に気づいたようで振り向きました。
私は慌てて視線を逸らします。
お兄さんは私のことに気づいていたとは思いますが、特に声をかけてはきませんでした。
安心したような、残念なような、そんな気持ちです。
それから一年以上もバスに乗り続けています。
朝は会うことはできないけど、帰りのバスに乗ると、よくお兄さんを見かけることができます。
どうやらほぼ毎日同じ時間に乗っているようです。
恥ずかしがって隠れるようにチラチラと視線を送る私。
この一年間でだいぶ視線を気取られないようにするスキルも上がりました。
今日も同じようにお兄さんのことを見つめます。
もう一人、綺麗な女子高生の人がよくこの時間帯のバスに乗って、お兄さんのことを見ていることが多いです。
負けられません。
それはそうとお兄さんはどこか物憂げな様子で外を見つめることが多いです。
(どうしてなんだろう……)
その理由が気になって仕方がありません。
話しかけたいけど、今更という気持ちもあります。
何の進展もないままバスに乗り続ける私を、お母さんは励ましてくれています。
(いい加減勇気を出して声をかけてみようかな)
そんなことを思っていると、バスが大きく揺れて、私は意識を失いました。
そして、眼が覚めると、私は薄暗い石の部屋の中にいました。
(どこ……ここ?)
肌寒さを感じて身を寄せる。
身に着けているのは薄いボロ布だけです。
粗末なベッドの上にかかっている毛布を強く引き寄せて、少しでも暖を取ろうとします。
そこで、視界に入って来た手が、私のものよりも小さく、真っ白で、ガリガリであることに気づきました。
(え……?)
髪の色も黒ではなくて日本人の肌の色に近いようなそんな色です。
その時、私は自らに起こった異変に気づきました。
そう、私の中に知らない私の記憶があるのです。
ラティーファという奴隷の少女の記憶です。
(な、なん……で……)
寒さとは別に、私の身体が小刻みに震え始めました。
(う、嘘……)
それは恐怖から来る震えです。
ラティーファとしての私の中にある記憶。
その中で今まで受けてきた仕打ちの数々が私を震え上がらせるのです。
どうやらラティーファの自我は薄いようで、私の自我が全面的に表に出ています。
だからこそ、感じる恐怖もラティーファが感じるものとは比べ物になりません。
(夢、夢だよ……。これは夢……)
強くそう思い込んで毛布を被ります。
けど、毛布の中にいつまで包まっていても夢は覚めません。
身体の震えも止まりません。
やがて、おそるおそる毛布から顔を出して、薄暗い部屋の中を見渡してみました。
妙に記憶に馴染んだこの薄暗い部屋が、ここが現実であることを、強く主張してきます。
ふと、頭の中に私よりも二歳年上のお兄様と呼ばせる少年の顔が思い浮かびました。
あんなのは兄じゃない。
私が知る兄はお兄さんみたいな人だ。
だというのに、私を痛めつけて愉悦で歪むその少年の笑顔が頭の中から離れません。
部屋の中には彼が私で遊ぶための器具が散乱しています。
言うのもおぞましい変な道具ばかりです。
ガチャリ。
と、その時、部屋の中に扉の開く音が響きました。
「ひぃ!」
思わず私は叫び声をあげてしまいました。
後になって思い返せば最悪の行動です。
「ん? なんだ? なんだ、なんだ!?」
中に入って来た少年はスティアードとかいう私の兄です。
私の反応を見て、一瞬だけ不思議そうな表情を浮かべると、その少年は今にも小躍りしそうな歓喜の表情を浮かべました。
「ひっ、こ、こな、こない、で!」
勢いよく私に近づいてくるスティアードに向かって、片言の言葉を話します。
まともに会話をすることもないし、きちんと言葉を教えられたことがないおかげで、どうにも私は喋るのが苦手なようです。
私が喋れる言語は日本語以外に二種類ありますが、私の種族の言葉を教えてくれた今の私のお母さんは二年前に亡くなっています。
だからその二種類とも不完全な言語能力しか備えていません。
「はは、なんだ? 今日はずいぶんと良い声で鳴くじゃないか!」
「お、おに、お兄、様」
満面の笑みを咲かせながら、お兄様が私の目の前に顔を寄せてきました。
この少年は私にお兄様と呼ぶように強要しています。
お兄さん以外にそんな言い方は絶対にしたくないのに、首に着けられた首輪のせいで、命令に従わなくちゃという気持ちになってしまいます。
荒い鼻息が気持ち悪くて、全身に鳥肌が立ちました。
ふと、股下が温かくなるのを感じて――。
「は、はは、失禁したのか!? ええ!? 何してんだよ! お前ぇ!?」
どうやら私は怖さのあまり失禁してしまったようです。
お兄様は、言葉は怒っているのに、顔は笑っています。
それがすごく怖くて、私は泣いてしまいました。
「ご、ごめ! ごめ、んなさい!」
許してもらいたくて必死に謝ります。
「そうだなぁ」
お兄様が馴れ馴れしく私の身体にべたべたと触れてきます。
「最高に気分が乗ってきたぞ。今日は特別に可愛がってやるよ」
お兄様は家来の人を呼ぶと、私の部屋の掃除をさせました。
そして、四肢を拘束して、ベッドの上に仰向けにして私を縛り付けました。
怖い。
怖くて暴れたいのに、動くなという命令と首輪のせいで何もできない。
無理やり心をいじられているようで、すごく気持ち悪い。
「お前は獣臭いくせに顔だけは綺麗だからなぁ」
「お、お兄様! ゆ、許して!」
私が何を言ってもお兄様は手の動きを止めません。
ひたすら私の全身を撫でまわします。
「おいおい。湿っているじゃないか。さっき失禁したからか?」
お兄様が何を言っているのか理解できません。
けど、すごく不快です。
身の毛がよだつほど気持ち悪いです。
お兄様が臭い。
すごく臭い匂いがします。
まだお母さんが生きていたころに、お父様のところから戻って来るとまき散らしていた臭いと似ています。
「ふふふ、お前が成人になったら処女を奪ってやるのもいいかもしれないな」
ひたすら私を撫でまわし続け、私が泣き叫ぶのを楽しむと、その日はそんなことを言って、去っていきました。
それから、しばらくの間は、この日の私の反応に気を良くしたのか、お兄様は頻繁に私のところに来るようになりました。
記憶を取り戻して最初の頃こそ、私はこの日のように過剰な反応をしていましたが、日が経つにつれて、お兄様は私のそういった反応を好むということに気づきました。
だから、心を押し殺して、少しずつ反応を薄くしてみることにしました。
すると、お兄様が私の所に来る頻度が少し減りました。
けど、今度は、躾と称して、鞭で私のことを痛めつけたり、地面にぶちまけた食事をそのまま食べて綺麗にするようにと命令したりするようになりました。
また、お父様に命令されて、この頃から戦闘訓練の頻度が増え始めました。
来る日も来る日も人を殺す技術を身に着けていました。
獣人の私は人間よりも肉体が強いらしく、見た目は子供なのに人間の大人以上の身体能力を持っているから、優秀な暗殺者になれるんだとか。
私は言われるがまま訓練に取り組むことにしました。
訓練中はお兄様と会うこともありません。
そして、命令されて初めて人を殺しました。
初めて人を殺した時は、すごく怖かったし、抵抗感もあったけど、不思議と身体は普通に動きました。
これも首輪のせいなのでしょうか。
そう思ったけど、すぐに違うと気づきました。
首輪をつけると命令には逆らえくなるけど、感情までなくなるわけじゃない。
たぶん、この頃には私の心は壊れ始めていたんです。
以降、その二から、その六まで番外編が続きます。
その二、その三、その五は本編の後追い要素の意味合いが特に強い話になっております。
直接本編で描かれていない情報が出る話は、その一、その四、その六となっております。
そういった情報だけを読み取りたい方はそちらの話をお読みください。