第17話 出発
翌朝、日が昇り始めて間もなく、リオは宿を後にすることにした。
「昨日は怪我したお客様の治療をしていただいてありがとうございました。おかげで大事には至らずに済みました」
宿の女将、昨日怪我した男を治療しようとした女性が、リオに深く頭を下げて謝罪した。
「いえ、気にしないでください。この年齢で旅をしているとああいったトラブルも多いんでしょうし。女将さんが謝ることじゃありませんよ」
恐縮した様子の女将に気を使わせないように、リオは
「その、本当は私が仲裁できれば良かったんですが、いつもの喧嘩だと思って気づくのが遅れてそれもできませんでした。本当に申し訳ありません」
酒場を経営していると喧嘩は日常茶飯事なのだろう。
とはいえ、女将の話を聞く限り刃傷沙汰はそうそうないようだ。
「いえ、あの人達を怒らせた原因は自分にも一端がありますから。まぁ絡み酒の気質があるのに大量の酒を飲んだあの人達の完全な自業自得だと思いますけど」
あの男達のことを思い出してリオが呆れた表情をする。
酔っぱらっていたとはいえ、品のある行動とはいえないように感じたからだ。
「その、あの人達も悪気があったんじゃないと思うんです。普段は良い人達で。可愛がってもらっているクロエが同年代の少年に親しげに接しているのを見て、酔っぱらっているのも重なって、ついからかいたくなってしまったというか」
女将はリオを害そうとしたあの男達の弁護をした。
きっと情に厚い人なのだろう。
だが、人によってはこういった対応は不快に感じるのだろうなと、リオは思った。
「そうですか……」
あの男達に対しては既に深く含むところがあるわけではないため、怒りはしなかったが、何とも言いようがなく、リオは曖昧な返事をする。
「申し訳ありません。それに、お風呂の代金もお支払い頂いたのに昨日の騒ぎで沐浴できなかったんですよね? ご迷惑をおかけしましたので代金をお返しいたします」
そう言って、女将は宿代を全額返却しようと、貨幣の入った小包を差し出してくる。
「いいですよ。騒がしくしてしまいましたし、料理も美味しかったですから。ご馳走様です」
そんな女将の申し出をリオは断る。
「ですが朝ご飯も食べて行かれないようですし。その、少々お待ちいただけますか? すぐ戻ります。代わりにお弁当を作らせていただきますので」
そう言うと、貨幣の小包をカウンターに置き、リオの返事を聞くよりも先に女将は厨房へと小走りで走っていった。
(律儀で良い人なんだろうけど、なんていうか騙されやすそうな雰囲気があるな。代金を俺の目の前に置いていくあたり無防備だし)
リオが女将に対して抱いた印象だった。
なんというか、苦労人という言葉が妙に似合う雰囲気を女将は持っているのだ。
厨房の方をふと覗くと、クロエと見知らぬ少女がエプロンをつけてリオの方を見ていた。
リオと視線が合うと、二人はサッと厨房の中へ隠れる。
(クロエと……妹か? まだ小さいな)
見ればまだ小学校低学年程度の年齢である。
クロエもせいぜいが小学校高学年程度だろう。
あのくらいの年齢の少女でもこの宿では働かなければならないのかと思うと、女将の苦労が透けて見えて気がした。
(ここは女性三人で切り盛りしているのか? 旦那の姿は一切見かけないけど)
この宿に入ってからリオは一度も亭主の姿を見ていなかった。
厨房に籠っているのかとも思ったが、調理場は女将が主になって切り盛りしているようだ。
(まぁ、いいか)
特に自分が気にすることでもないだろうと、リオが思考を放棄したところで、女将が弁当の入った小包を抱えて戻ってきた。
「昨日の残り物との混ぜ合わせで恐縮なんですが、具材をたくさんパンに詰めておきました。クロエが早起きして焼いたので是非食べてください」
「これはどうも。ありがとうございます」
リオが笑みを浮かべて礼を言う。
「おい! 帰ったぞ!」
すると入口から見るからに酔っ払った男が宿屋に入って来て、女将を見つけるとふらふらとした足取りで歩いてきた。
「あなた! また、朝からそんなに酔っぱらって!」
「うるせぇ! 酒は飲みてぇ時に飲むもんだろうが!」
怒鳴り散らすと、男がいきなり女将をひっぱたいた。
その様子を見てリオが驚く。
どうやらこの男が旦那のようだ。
朝帰りに酔っぱらって帰ってくるあたり、碌な主人ではないようにリオには思えた。
居たたまれない気持ちになったが、家庭の問題に第三者が口出ししても余計にややこしくなる気がして、それをする気も起きない。
「うう」
だが、殴られた箇所を押さえて女将がうずくまっているのを見ると、リオはため息を吐き、女将へと近寄り精霊術で怪我を治療した。
殴られた痛みが一瞬で消えて、女将は驚いた顔をしたが、リオが何をしたのかを理解し、礼を言って頭を下げる。
「なんだ? 何しやがった?」
リオが何をしたのかはわからなかったが、女将を庇うような行動に、旦那が不機嫌そうな顔で睨んできた。
「やめて! この方はお客さんなの!」
慌てて女将が旦那の前に立ちはだかる。
(それじゃあまた殴られるだろう……)
リオは呆れた。
責任感が強いのはわかるのだが、不器用な女性だった。
旦那が激昂して再び女将に殴り掛かろうとすると、旦那の動きをいなして、リオはそっと頭に触れた。
「『
すると僅かにリオの手が光り、数秒もすると旦那の目に理性が戻った。
「酔いざめの魔法です。すっきりしたでしょう?」
と、リオが冷めた口調で告げる。
「え……? あ、ああ。すまなかった」
一瞬でクリアになった思考に戸惑ったように旦那が言う。
「謝るなら俺じゃなく、女将さんに謝ってあげてください」
呆れたような声でそう言うと、リオはチラリと女将に視線を移した。
「す、すまん」
旦那がばつの悪そうな表情で女将に謝る。
酒乱の気はあるが、酩酊していなければ無暗に暴力をふるう人間ではないようだ。
「ほ、本当に申し訳ありません!」
非常に恐縮した様子で、女将が頭を下げてきた。
「いえ、あんまり騒ぐと他のお客さんの迷惑になりますよ。お弁当ありがとうございました。それじゃ」
これ以上ややこしくなる前に立ち去ろうと決め、別れを告げると、リオは宿の外へ出た。
(まぁ何の解決にもなってないんだけどな)
本来ならば当事者で解決すべき問題だったにもかかわらず、一時の偽善に駆られて行動してしまったことを少しだけ後悔する。
朝から少し憂鬱な気分になってしまった。
「肉まんでも食うか」
気分を入れ替えるため、昨日食べそびれた懐かしの郷土料理を食べることにした。
女将からもらった弁当はお昼に頂くつもりだ。
市場の朝は早い。
そもそもこの世界の人間の行動開始時間が早いのだ。
商人や農家の人間でなくても、遅くとも朝六時には起きるのが一般的だ。
すでに市場には朝食を販売する露店が立ち並んでいて、良い香りがそこかしこから立ち上っていた。
「肉饅頭を二つください」
「はいよ!」
大銅貨を二枚支払って肉まんを受け取る。
ほかほかと湯気を立てているが、見た目は肉まんというよりはお焼きに近かった。生地のもっちり具合も少々物足りない。
想定外なジャブを喰らったが、とりあえずは食べてみようと口の中に含む。
すると、塩で味付けされた豊満な肉汁の旨味が口の中に広がった。
美味い。だが、肉まんというよりはハンバーグに近い。リオはそんな感想を抱いた。
(レシピを知らない……。いや、味付けに使う生姜やオイスターソース、それにごま油がないのか)
物足りない味の原因を考察する。
美味しくないわけではない。
だが、期待していた味と異なっていたために少しだけ落胆した。
肉まんのレシピはリオも知っている。
いっそのこと、旅をする間に自分で世界各地の素材や調味料を集めて作ってみようかという考えが、頭の中に浮かんだ。
前世では一人暮らしをしていたこともあり、料理は数少ない趣味であり、レシピも頭に色々と入っている。
そのおかげで、各ジャンルの本職には及ばないものの、材料さえあれば一通りの食事は作ることができる。
人間以外の人族が存在したり、地球には存在しない生物が多数存在したりするこの世界であるが、地球と同じ動植物も数多く存在する。
もしかしたらこの地域にない食材でも他の地域にはあるのではないかと想像を膨らませた。
(片手間で探してみるか)
旅をする間に立ち寄った場所で見慣れた食材があれば、その種を持ち帰ろうとリオは考えた。
そんなことを考えながら東の通行口から都市の外へと出る。
森の中を縫うように街道が続いているが、リオはわざわざ街道から外れて森の中へと入っていった。
ガルアーク王国内であれば指名手配はされていないようであるが、リオは通常の人間族の移動速度とは比較にならない程に速く移動していく。
移動速度を上げるなら人目に付かない場所を移動した方が良いだろうと思ったのだ。
まだ朝も早いために森の中には霧が立ち込めている。
いつもよりはややゆっくりと、だが視界の悪さをものともしないような速度で、リオが走りだす。
リオは靄がかかった視界の中で迫りくる木々の群れを巧みに避けていった。
そんな中でリオの視界に人影のようなものが写った。
進行方向に真っ直ぐ三十メートルも進んだ位置だ。
その人影は地面にうつ伏せになって倒れている。
(……死体か?)
滅多にいるわけではないが、都市の近くでも、森の中に入ってしまえば魔物や肉食動物がいることはある。
そういった生物に運悪く襲われた人だろうかとリオは思った。
倒れている人影に近づくと、全身を覆い隠すようにローブを羽織っていた。
大きさからして、リオよりも年下の子供だろう。
(……子供。行き倒れか? なんだ?)
疑問は覚えたが流石にそのまま放置するのも後味が悪い。
仕方なくリオは声をかけることにした。
「おい、大丈夫か?」
揺さぶってみるが反応はない。
顔が見えるように抱きかかえると、肌のぬくもりがローブ越しに感じられた。
(生きてはいるみたいだな)
ひとまず安心して顔を覗き込むと、フードから少女の顔が覗けた。
(っ!?)
突如、少女が目を開ける。
同時に僅かな殺気に気づいた。
リオが少女の手元に視線をやると、その手には刃渡りの長い一本のナイフが力強く握られていた。