小児性愛者や引きこもりは「犯罪者予備軍」として差別されるべきなのか

文春オンライン / 2020年10月1日 6時0分

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©️iStock.com

 少し前、幼い男の子の体をリアルに再現した「ショタラブドール」のルポ漫画が、インターネット上で批判の的になっていた。

 このルポ漫画自体の是非については論旨からずれるため言及を控えるが、問題なのは、「ショタラブドール」を購入して性的な満足を得る行為、または小児性愛者に対して「気持ち悪い」「こういう人間はいつか現実でも事件を起こす」といった差別的な批判が公然と行われていたことだ。

小児性愛者、引きこもり……『予備軍』に向けられる差別

 自分たちの理解が追いつかない、価値観が大きく異なるなど、いわゆる「マイノリティ」と呼ばれる人たちのことを、大衆が「犯罪者予備軍」として排除しようとする動きを、これまでに何度も目にしたことがある。

 例えば、2019年に発生した「川崎市登戸通り魔事件」、「京都アニメーション放火殺人事件」の容疑者がどちらも引きこもりの中年男性だったことから、ニュースでは連日「引きこもり」といった属性ばかりが取り上げられ、さも「引きこもり」が犯罪者予備軍であるかのような偏見を助長する報道が次々になされたことは、みなさんにとっても記憶に新しいかもしれない。

 他人に理解されづらい性的指向を持つ人や引きこもり、社会的少数者とされる人々が、誰にも危害を加えず「社会の一員」として共存する意思を持っているにもかかわらず、偏見や差別によって社会参加の機会や居場所を奪われることは、現在の日本でも決して少なくない。

犯罪を起こせばもちろん罰を受けて然るべきだが

 小児性愛自体がそもそも「治療の対象なのか」という論点において、私は「そうではない」と考えている。こうした性的指向は、決して「病気」や「異常なこと」ではない。一方で、心理士である知人のもとへは、小児性愛者など、世間的に理解されづらい性的指向を持つ人々がときどきカウンセリングに訪れるという。

 日本では性的同意能力のある年齢の下限が13歳とされており、12歳以下の子どもとの性交渉はたとえ本人の同意があったとしても認められていない。もちろんこれは当然のことであり、議論の余地はない。

「小さな子どもにしか性的興奮を覚えられない」人は、欲望のままに子どもと性行為をすることはもちろんできないし、衝動を合法的に叶えることもできない。もちろん、身勝手な欲望で子どもに危害を加えることもしたくないし、する気もない。できれば「普通に」大人を好きになって、結婚して家庭を持ちたい。

 そんな風に「自分の性的指向をどうにかして『矯正』したい」と助けを求めて「治療」に訪れる人が、少なからずいるのだという。彼らは自分の性的指向を他人に知られないよう、息を潜めて生きている。

 もしも知られてしまえば自分たちがどんな目に遭わされるのかを、痛いほどに理解しているためだ。

「~する可能性があるから、~を禁止しよう」という差別

「ショタラブドール」騒動でも散見された「子どもへの性犯罪を助長する可能性があるから、子どもを模したラブドールは販売禁止にするべきだ」という主張について、「間違っていない」と考える人はきっと少なくない。私自身も、数年前まではこうした論調について、特に疑問に思うこともなかったと思う。

 暴力や差別について学んでいくと、「~する可能性があるから、~を禁止しよう(権利を奪おう)」といった言論は、しばしば特定の属性、特に「マイノリティ」と呼ばれる人々に対する排除・迫害行為を正当化するために多く用いられていることに気付かされる。

 例えば「虐待された経験のある子が親になると、自分の子を虐待してしまう危険性があるため、子を持つべきではない」という言説について。いわゆる「虐待サバイバー」と呼ばれ、さまざまな場で過去の経験を執筆している私自身、「加害者予備軍」としてレッテルを貼られ、傷つけられることが決して少なくない。

 知人男性から寄せられた好意に応えなかったというだけで、態度を豹変させた相手から「お前みたいなクズの欠陥人間は、一生子どもを作るな。子どもが不幸になるだけだ」と、面と向かって罵声を浴びせられたこともある。

 たとえ「虐待の加害者には虐待された経験を持つ者が多い」ことが事実であっても、すべての虐待サバイバーが自分の子に暴力を振るうわけではない。ほとんどの場合、彼ら彼女らは子どもを虐待することもなく、良好な関係を築くことができる。そして、虐待の加害者には、虐待された経験がない者も当然いる。

 にもかかわらず、マイノリティである虐待サバイバーのみが「子どもを持つべきでない」といった風に、子どもを持つ権利を他人から侵害されるのだ。

「治療の対象」であるかどうか

 自分の性的指向や子ども時代の傷とどう付き合うかについて、本人が不自由なく、かつ他人に危害を加えず生活しているのであれば、私は「治療」を受けるべきであるとも思わない。

 私の場合は子どものころから長年心身の不調を抱えていて日常生活すらおぼつかないため、数年前から心療内科に通っている。投薬治療を続けてきたが、対症療法のみでは効果が見られず、現在はこれまでの治療と並行して、カウンセリングによる治療を受けるようになった。

「子どもを持ちたい」という兼ねてからの願望と、自分の中にあるかもしれない「加害リスク」との間で悩み苦しんだ結果、数年がかりで導き出したのが「自分自身の感情をコントロールできるようになれば、子どもを作る」という答えだ。

 機能不全家族で育った虐待サバイバーであっても、絶対に子どもを虐待してはならないと、自分の中で固く決意している。

 特定の属性が有する犯罪率の高さは、その属性を持つ個人の問題というよりは社会構造的な問題だと考えられる。

 必要なのは「“加害リスク”を持つ者を排除しよう」という動きではなく、子どもへの性犯罪・虐待が起きづらい環境の整備や、被害が疑われる子どもをいち早くケアに繋げやすくするなど、社会全体のシステムの見直しではないだろうか。

居場所を奪われた人たちの行く末について

 日本ではかつて、「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」の宮崎勤元死刑囚にまつわる偏向報道によって、世間で「オタクバッシング」が起こった。いわゆるアニメ好きや「ロリコン」の男性に対して「現実と妄想の境界が曖昧であり、性犯罪者予備軍だ」などといった無根拠な偏見が強まったためだ。

 そうした理不尽なバッシングに遭うことを恐れた人々が、いわゆる「オタク」と呼ばれる趣味趣向を隠さねばならない時代が、確かにあった。

 ここ数年、社会から排除され、居場所を失いつつある人々の行く先について、考えさせられることが増えた。

 子どもを虐待した親、少年院を退院して行き場のなかった子ども、薬物依存症の患者や引きこもりの中高年、住所不定無職の人、そして「異常性癖」とされる性的指向を持つ人たち。

 彼ら彼女らを無根拠な差別や偏見によって「社会」から追い出せば、そうでない人たちの平和は守られるだろうか。私にはそうは思えない。

 ケアや支援を必要とする人々を締め出してしまえば、彼ら彼女らは社会参加の循環プロセスに乗れないまま、一体どこに行ってしまうのだろう。

(吉川 ばんび)

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