今、木曽川の川面にはたくさんの水鳥が遊んでいます。木津の河川敷にある「木曽川犬山緑地」から川沿いの散歩道を下流に歩いて見ることにしましょう。広々とした木曽川には太陽がいっぱいです。
今日は、今からおよそ八百年前北条義時率いる鎌倉幕府軍と後鳥羽上皇を総帥とする京都朝廷軍とが、眼前に広がる木曽川を舞台にして闘った承久の乱のお話をしましょう。
源 頼朝亡き後、鎌倉幕府は北条氏が権力を握ることになります。朝廷による政治を取り戻そうと考える後鳥羽上皇と鎌倉幕府との間は次第に険悪になって行きます。
承久3年(西暦1221年)5月、遂に上皇は「流鏑馬」にかこつけて諸国の兵を集め、幕府を倒す計画を練ります。そして倒幕の院宣が下るわけですが、これに対し幕府側も大軍を集めて反撃にでます。
「吾妻鏡」と言う鎌倉幕府の歴史を書いた史料によりますと、幕府軍は19万余騎の大軍を三道に分けて鎌倉を出発します。東海道を十万余騎、東山道を五万余騎、北陸道を四万余騎。信じられないほどの大軍です。一方、朝廷軍もこれを木曽川の線で迎え撃つべく、軍を東へ進めます。
双方の大軍が尾張北部のこの地で木曽川を挟んで、左岸に幕府軍、右岸に朝廷軍が対峙しました。上流は大井戸の渡しから下流へ鵜沼の渡し・板橋・池瀬・摩免戸と展開し、州俣に至りました。
大井戸の渡しは国道41号線が木曽川を渡る中農大橋の少し上流です。鵜沼の渡しは犬山橋の少し下流と考えられ、板橋はよく分かりませんがライン大橋の下流ではないでしょうか。池瀬は伊木ヶ瀬でしょうから大伊木、尾張側で言えば山那でしょう。摩免戸は今の前渡で、尾張側は草井です。
この戦は朝廷軍の惨敗に終わり後鳥羽上皇は隠岐に流されることになります。一方、鎌倉幕府の力は磐石になり、以後日本の社会は武家政治の時代に入ってゆきます。
この戦、「永久の乱」がその後の日本の歴史を決定付けたのでした。そんな大きな戦いが私たちの住んでいるこの地で行われていたのです。
木曽川左岸の散歩道を下っていきますと対岸、伊木山の少し下流に木立に覆われた小さい山が見えます。前渡のお不動さんです。
この山の中腹にこの戦で戦死した武士の五輪塔が60基ほど並んでいます。「この山の麓にはまだ、多くの五輪塔が埋っている」とお不動さんの住職に聞きました。
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