ドゥルーズ『意味の論理学』の注釈と研究
著 者:鹿野祐嗣
出版社:岩波書店
ISBN13:978-4-00-061392-7

ドゥルーズにおける「パッチワーク」と
その差分を読むということ

近藤和敬 / 鹿児島大学法文学部准教授・哲学・現代思想
週刊読書人2020年7月3日号(3346号)


ドゥルーズの本は、様々な読者をひきつける妙な魅力がある一方で、実際腰を据えて読もうとするとなかなか厄介でもある。厄介である理由の一つには、彼の議論が、大半のドゥルーズの読者は読むことがないであろう哲学史研究や精神分析、さらには文学や科学といった多様な文脈のテキストをかなり自由に(鹿野氏の表現を借りれば)「パッチワーク」しているからだ。しかもこれはドゥルーズの欠点でもあり同時に長所でもあるのだが、その「パッチワーク」は大概において、元のテキストよりも面白く、かつ細部において(多くの場合断りなしに)絶妙にずらされている。このパッチワークとその絶妙なずらしが二重にドゥルーズのテキストを読みにくくしていることは間違いない。第一に参照元のテキストを知らない読者には説明なしに使われるフレーズの意味を追い切れず、第二に参照元のテキストを知っているものにとってはそれとドゥルーズのパッチワークとのずれに戸惑うことになるからだ。これに対する研究者の取りうる唯一の対処法は、ドゥルーズの大筋における哲学的意図を明確に示したうえで、その意図にそって、ずらしの前後の差分を解析すること、つまり元のテキストの含意とそれに対して施されたドゥルーズによるずらしと、そのずらしに含まれたドゥルーズの含意を一つ一つ解きほぐしていくというものしかないだろう。
 
鹿野氏のこの大著は、この困難で忍耐を要する大仕事を、特に『意味の論理学』というドゥルーズの数ある著作のなかでももっとも難解で知られるテキストについてやってのけた。まずは快挙であるといわなければならない。本書は、序論のあと全三章と結論という構成をとっている。序論において鹿野氏は『意味の論理学』の前年に出版された『差異と反復』の読解を通して、「永久革命としての永遠回帰」という六八年前後の時期のドゥルーズ哲学の根本的意図を明示し、とくにその政治的性格に強調点を置く。そして第一章では『意味の論理学』を通底する「意味」の理論を、ドゥルーズが参照元としている初期分析哲学、中世哲学研究、ストア派研究を一つ一つ取り上げながら明らかにしていく。第二章では、ドゥルーズが言及する精神分析家のメラニー・クラインの議論を主に参照しながら、ドゥルーズの「動的発生」と呼ばれる重要な議論の詳細を明らかにする。最後に第三章では、しばしば問題になるラカンからのドゥルーズの影響とドゥルーズによるそのずらしの内実が解明され、さらにアルベール・ロトマンやジルベール・シモンドンにおける「問い」と「問題」の議論からのずらしが解明される。個人的には、第一章のユベール・エリーの『複合体によって意味されるもの』という未だ日本の研究ではほとんど触れられていない中世哲学史研究にしてドゥルーズが好んで参照する著作について詳細に検討した箇所と、これもまた日本ではあまり多くの研究がないがドゥルーズが好んで参照するヴィクトール・ゴールトシュミットの『ストア派の体系と時間の観念』、そしてピエール=マクシム・シュールの『支配するものと可能的なもの』での議論と、ドゥルーズ自身がそこからもってくるずらしの差分を解析してみせた箇所が印象深かった。このような研究のスタイルは、今後さらに一般的なものとなるのだろうことが伺われる。
 
ところで、鹿野氏自身が学的研究ということに重きを置いているのだから次のように言うことも許されるだろうか。鹿野氏のおかげで、『意味の論理学』において(それだけでなく『差異と反復』においても)ドゥルーズが何を言わんとしていたのかは大変よくわかった。そうであるからこそ言えるのではあるが、しかしそのドゥルーズの哲学的意図は、鹿野氏自身が指摘しているように(本書の「結論」五九七-八頁)、未完のままなのではないか。そしてこのことは、「非意志的意志」による「永久革命の永遠回帰」を論じる『差異と反復』においてすらも当てはまるのではないか。前者の未完さは、鹿野氏が指摘するように「人間の精神分析に依拠して構築することにより、あらゆる領野を貫く普遍性をもたなければならない永遠回帰の存在論の中で、人間以外の存在者の位置づけが曖昧にならざるをえない」(五九七頁)ことにある(もちろんこの記述のあとに、それでも『意味の論理学』に価値がある理由が付け加えられるが、ここでは言及しない)。後者の未完さは、結局のところ「永久革命の永遠回帰」を駆動する「賽子一擲」による「特異点の割り振りなおし」と結びつく「非意志的意志」が、人間の意識化された「意志」とは異なるとされながらも、なおやはり「意志」と呼ばれ続け、革命を求める政治的主体のようなものをその背後に透けて見せてしまっているところにある(言うまでもないが政治的であることが間違っているのではない)。いずれにせよ問題は、まさにドゥルーズがカントを批判したように、超越論的なものを立ち上げるに際して経験的なものからなにごとかを借りてきてしまっているときのそのドゥルーズの所作にあるのではないか。鹿野氏は本書の冒頭からこの問いに気が付いていたようにみえる。しかしこの問いそのものを探求する道は今回の著書では封殺し、それが問いであることを示すためだけに、あえて禁欲的に外堀を埋める作業に徹したようにもみえる。しかしもし仮に、鹿野氏がこの問いをダイレクトに打ち立て、その探求においてその鋭い批判精神をドゥルーズ自身にたいしてもまた向けるなら、きっと素晴らしい著作が生まれるかもしれない。本書において明示された問いにたいして鹿野氏自身がこれからどのように向き合っていくのか、今後の動向を楽しみにしたい。(こんどう・かずのり=鹿児島大学法文学部准教授・哲学・現代思想)
 
★しかの・ゆうじ=早稲田大学総合人文科学研究センター招聘研究員。本書が初の著作。一九八八年生。