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2013年9月23日 (月)

翔鶴号遭難事故について

文芸春秋2013年10月号に学習院大学のヨット翔鶴号の遭難事故に関するエッセイが載っていましたので紹介します。また翔鶴号遭難については横山晃さんの「海で生き残る条件」のなかでも触れていますのでこれも併せてご紹介します。ヨットライフを楽しむにあたってもっとも基本的な心構えを的確に表現していただいていると思います。

 

文芸春秋201310月号

「潮っ気にあふれた若者たちの魂よ」

西郎(ジャーナリスト)

若い時に遭遇した親しい仲間の死は、記憶からいつまでも消えず、折々心の裡に起ち昇ってくる。七十の坂を超えた知人がそう語る。知人が遭遇した仲間の死は、東京オリンピックの年の春、三浦半島突端の毘沙門浜沖での学習院大ヨット部の遭難だった。

昭和三十九年春分の日の昼前、横浜から二十代の同大関係者五名が乗り込み出港した翔鶴号は油壷に向かった。しかし夜半になっても到着せず荒天のなか連絡を絶った。すわ、遭難か、と翌日から海上保安庁が大捜索陣を繰出し、自衛隊は海底捜索に魚雷艇まで出動させた。地元漁民も休漁し挙って捜索に協力した。

その五人のなかに麻生太郎(副総理、財務・金融担当大臣)の実弟・次郎{二十)がいた。マスコミは次郎を吉田茂元首相の孫として大々的に取上げ、「悪天候を突いた無謀な帆走の悲劇」と批判を含ませ報道した。弟と一つ半違いの麻生は学習院を卒業し米国留学中だた。クレー射撃でオリンピックに出た腕前のスポーツマンとして知られるが、在学中ヨット部だったと知る人は少ない。

後に靖国神社の宮司に就いてA級戦犯を合配した松平永芳の息子も同乗していた。数年前、知人から『孤鶴のさけぴ』という小冊子を渡された。松平が嗣子の死を悼み綴った私家本だ。ヨット部OBが事故の模様を実録小説にした原稿もあった。

昨秋、知人に案内され海難現場を訪れた。当時を知る九十七歳の矍鑠とした漁師が海岸の岩場に立ち語った。「麻生太郎さんは何度頼んでもここに来てくれないんだ」。

学習院出身の三島由紀夫は二十歳の時につ下の妹を喪ったが、自決の前年、「昭和二十年に妹が死んだとき以来泣いたことはない」と語っている。じつは麻生事務所に遭難事故の取材を申し入れたのだが、断られた。半世紀経っても、肉親の死について聞かれるのは辛いのだろう。

この遭難事故について取材を進めると、突然子弟を失う不幸に見舞われた遺族に纏わる人間模様の綾が見えてきた。

先に触れた松平は戦前旧帝国海軍軍人だったが、他にもニ人その子弟が同乗していた。一人は戦艦「大和」艦長、大野竹二海軍少将の息子で、その祖父は伊集院信管を開発した伊集院五郎海軍大将だ。この鋭敏な信管が下瀬火薬の威力を存分に発揮させた。帝国海軍が日本海海戦でロシアのパルチック艦隊を破り、日露戦争を勝利に導くために果たした役割は大きい。

もう一人は海箪機関学校教官の市村忠逸郎の息子で、松平は機関学校で市村に機械熱力学を習った師弟の間柄だ。

後にこの遭難に着想を得て『海からの声』を書いた石原慎太郎は、捜索初日安否を気遣い、横浜の海上保安本部に駆けつけていた。遭難の二年前の初島レースも荒天に見舞われ、参加四十三艇中完走は九艇で、十一名もの死者が出た。石原のコンテッサ号は棄権したが、優勝は翔鶴号だった。その時のクルーが遭難時の艇長だった。

事故原因と思われる艇の欠陥が見つかったとき、遺族はそれを封印してしまった。松平の手記によれば死んだものは還らない。そしてまた騒ぎを起こしたら御霊はいつまでも安んじられない、と。

事故後、旧海軍大将の山梨勝之進元学習院院長は訓示を垂れた。英国のネルソン提督がスペイン・フランス連合艦隊を打破したことを引合いに、備えあれば憂いなし、敵を知り己を知れば百戦危うからず、と。山梨は条約派だったため、艦隊派から疎まれ、早々と予備投にまわされた。だが昭和天皇の信頼篤く、今上陛下の学習院入学にあわせ院長を拝命している。

翔鶴は修理後、山梨により、名を「神州」 と改められた。日本人の誇りを謳ったこの言葉には「潮っ気(海のうえで何ごとにも怯まない強い精神力)にあふれた遭難した若者たちの魂よ、永遠に不滅であれ」との願いが籠められていた。

 

以下は横山晃さんの「海で生き残る条件」から翔鶴号遭難に関する部分の抜粋です。

 けれどその正体は,1965年の「翔鶴」が、沈没現場の三浦半島南端の毘沙門漁港の港口付近で発見され、引き揚げられて、精密調査が進むにつれて、次のように解明されたのである。

①船体もマストも損傷が無くて、フネは大きなウネリと共に暗礁の上に乗り、ウネリが去って谷になった時に、キールを空中へ突き上げられた形で横転以上の大ヒールとなり、ハッチから海水が乱入して沈没し、海底へ斜めに滑り込んだ。

②フネが数秒間で沈没した時に、乗組の全員はデッキ上にいた様子で、バラバラに転落して、その場で溺死していた。

③艇内にライフジャケットがあるのに、1人も着用していない。しかも1人は、長い長いロープを体に縛り、水泳する服装だった(3月の海水は冷たく、しかも闇夜なのに)。また、1人だけ,現場から数キロ遠方の葉山寄りで遺体が発見された。

④メインセールは、ブームエンド金具がメインシートと共に、もぎ取られ、帆走に役立たない状態だった(バック・ステイにも、キズ跡があった)。ジブとスピンのハリヤードは、すべてマスト上へ逃げ失せ、ジブを上げられない状態だった。エンジンはフライホイールに航海日誌を巻き込んでストップし、再始動困難な状態だった。すなわち、フネの航行能力は、総て「お手上げ」の状態で、従って操舵しても、方向制御は不可能だった。

⑤「それなら、クルー全員は、何もやる事がなかったわけだ。」

「だからこそ、ライフジャケットを着てないのはおかしい。」

「それよりも、メインもジブも、エンジンまで、全部ダメになるような、おかしな事件とは、いったい何だろう?」

「その、長いロープを体に付けた人は水泳の達人だったはずだ。しかも泳ぐ身支度までして、至近距離の毘沙門漁港まで泳がなかったのは、おかしい。」

⑥その時に「おかしい事などないよ」と言ったのは私だった。

「事件の発端は落水!! 落水したのは、数キロ葉山寄りで発見された彼だ。」

「暗闇の海へ飛び込んで、助けに掛かったのは、長いロープの水泳達人だ。」

「たぶん彼は、海中で落水者に絡み付かれて、二重遭難になるのを恐れた。だからロープを身に付け〈オレが叫んだら、ロープをたぐって引き寄せてくれ〉と言って飛び込んだ。」

「それからは、このロープに引かれるようにして、フネを伴走させるのが大変だった。だから、ワイルド・ジャイプでブームエンドがバック・ステイに引っ掛かって、もぎ取られた。」

「あわてて、暗闇の中でエンジンの始動を焦るうちに、航海日誌を巻き込んで、どうにもならなくなった。」

「ますます焦って、ジブ帆走を試みるうちに、ハリヤードを皆、マスト上へ逃がしてしまった。」 「これですべてお手上げ、しかも水泳の達人はクタクタに疲れてるし、落水者は見失って打つ手も無く、全員気が抜ける。その時フネは、ウネリと共に暗礁に乗り上げ、次の瞬間に横転。しかもウネリが去って、キールは空中へ突き上げられる。全員はライフラインをつかんで、フネが起き直るのを待った。けれど海水が多量になだれ込んだ船体は、起き直る事もなく、海底へ滑り込んだ。」

……というシナリオに載せれば、すべての物証が、納得できるのではなかろうか?

⑦「ところで、シナリオの何処にも艇長が登場しないのは、なぜだ……」と誰かが言った。

「それだ!! この事件のミステリーは、それなのだ!! ……もしも艇長が采配を振っていたら、こんな事件にならなかったはずだ。おそらく、……艇長は最初からいなかったと思うよ!!」と私。

この時に、一同の背筋には、冷水が流れるような戦慄が走った。

なぜなら、一同の胸中には次の2つの連想があったに違いない。そして、2年以上も謎だったアリ地獄の正体を、ついに見てしまったのだから…・・・。

その2つの連想とは、

「リーダーのいない集団が、こんなにも、もろく崩壊して行くものだと、今まで誰が予想しただろうか?」

「たぶん、1962年の早風号もミヤ号も、艇上の終幕は大同小異だったに違いない。」

想えば1960年代の大学は「止めてくれるな、オッカさん」の東大を筆頭に、全国ほとんどの大学に学園紛争が起こった時期で、学生達は学校当局と文部省という支配体制に反抗した。その学生達には、「学生の自治」という理想があって、旧来のリーダーをすべて排除するのが理想だったのかも知れない。

それゆえ「船長がいないフネ」は、彼らの理想だったのかも知れない。

 

だからNORC安全委員長としての私は、NORC会員の大学ヨット部のすべてに呼びかけ、ヨット部のキャプテンとマネージャーを招集して、ヨット部運営の理想と現実を聞き出した。すると予悲通りに、彼らの部活動は、文部省や学校当局から独立した自活を理想とし、ほとんど理想に近い形で運営されているので、フネのオーナーは実在せず、従って艇長を任命する人はいなかった。

 

だから彼らは「ティラーを持つのがスキッパー、という事ですね。」とか 「先輩だとか、実力があるとか、スキッパーは自然に決まるわけですね。」

とか、全く漠然としていた。だから、フネが順調に走っている時は、艇上の秩序も順調で、それが平和だと信じられているようだった。そこで「翔鶴」の事故分析を話して

「そのような混乱の状況下でも、冷静に全員を指揮しうる艇長を、誰が、どうやって任命するのか?それぞれのヨット部で、結論を出して、知らせて欲しい」と要望した。

しかし、何処からも結論は出て来なかった。

そこで、何回も同様の集会を招集して「艇長任命」と「オーナー代行者の決定」の問題を、大学ヨット部の遭難防止のための、最優先の課題として、説得し続けた。

 

吊し上げを喰った安全委員長 

 

「外洋ヨットの安全対策について、ご高説を伺いたいので、○月○日○時、渋谷体協の○号室へご足労ください」という手紙が学生ヨット連盟から届いたのは、1968年の頃だった。

 

私は「来たな!!」と覚悟をきめて出向くと、それは意外に大きな部屋で、すでに数百人の学生が待ち受けていて、すぐ私を取り囲んで、艇長問題とオーナー問題についての詰問が始まった。

 

「艇長の任命などと、時代錯誤の封建主義を強制するのは、横山さん個人の考えなのか? それともNORCの体質なのか、間かせて欲しい」などなど、似たような詰問が次々に出て来たので、なるべく多くの質問や意見を、丁寧に聞いてから、払は大要つぎのような意見を述べた。

 

「順序立てて説明するから、落ちついて聞いて欲しい。日本の外洋ヨット界は1951年から活動を始めたが、1962年まで11年に、日本人のフネは1隻も遭難しなかった。それに比べて在日外人のヨットは、約10隻遭難し、それは1955年まで5年間に集中してから終わった。終わった理由は,大多数の外人ヨットマンが帰国して日本にいなくなったためと、少数の残留者が熟練して、日本人ヨット界のレベルに同化したためだ。

 

ところが1962年に早大と慶大のヨットが遭難して11人が死んだのは、諸君の記憶にも生々しいはずだ。それから1965年には学習院大のヨットで5人死んだ。それらは1950年代には無かった大事故だし、死亡者も異常に多い。

 

そのように1960年代の遭難は日本人に集中し、しかも大学生諸君に集中している。その上、日本中の外洋ヨット人口の中で、大学ヨット部員は510%に過ぎない。だから、もしも学生の遭難が、日本中の全遭難の510%に留まるならば、私は何もいう必要はない。ところが遭難件数からいっても死者の数からいっても、学生層が大部分を占めているのは特異な現象だし、偶然とは言い切れない何かが、そこにはあるに違いない。

 

私は大勢の学生ヨットマンと懇意だった。一緒のフネに乗ったし、一緒にレースも闘った。だから、君達が有能である事も、マジメである事も、良いセンスを持っている事も、よく知っているつもりだ。それなのに、良い仲間を次々に失った。だから、これ以上もう、1人も死なせたくないのだ。

 

だから私は何日も眠らずに〈なぜ遭難するのか?〉考えたけれど、分からないのだ。同じ日本人の中で、一般社会人のフネと君達のフネと、どこが、どう違うのか、教えて欲しいのは私の方なのだ。

 

もしも違う点があるならば〈艇長の決め方〉とくオーナーの在り方〉だけしか、私は思い付かなかった。艇長と船長は同じ意味なのだが、世界中に沢山の国があるだろう?けれど世界中の、どの国の船でも、船長は必ずいるし、その船長はオーナーが任命している。それは、議会政治の本家のイギリスでも、自由の国のアメリカでも、共産主義のソ連でも、船長を選挙制にした国は一国も無い。必ずオーナーが任命しているのだ。日本でも一般社会人のフネは諸外国と同じにやっている。

 

ところが大学ヨット部のフネだけは任命制でなくて〈皆が集まれば自然に決まる〉という、世界に例のない、ユニークな方法で決めている。……というよりも〈決めてない〉という方が当っているかも知れない。けれど私には〈それが悪い〉などと決めつけるつもりは全く無い。〈それが遭難の原因なのかどうか〉など全く判断できず、困っているのだ。だから私は、全く個人の意思でここに提案しているのだ。提案というよりも、頼んでいるのだ。試しに……〈試しに〉で良いから、世界中の常識と同じ事を、やって見て欲しいのだ。

 

それで、遭難が終われば、拾い物だし、終わらなければまた別の試みを探り、やる以外にない。

 

私は、私の提案が、無茶な当てずっぽうなのを百も承知だ。けれど、もうこれ以上君達の誰かが死ぬなんて、私には耐えられないから頼んでいるんだ。 --分かってくれるだろうか?--。」

 

その時、学生達の中から「横山さんの言う通りにやって見ようじやないか!!」という声が上がると、各所でガヤガヤと騒がしくなった。それは、「安全委員長は横暴だ」という説と、「試しにやる以外にないじゃないか」という、2説の議論が、学校それぞれに燃え上がったのである。

 

やがて、「あとは学生達だけで話し合いたいので、横山さんはご自由に、お引き取りください。」という事になった。

 

それ以来、学生遭難はプッツリ出なくなったし、学園紛争の嵐も納まって来て、70年代の紛争は高校に移り、結局は、中学校と家庭内の暴力傾向という形になって、現代につながるのである。

 

こうしためまぐるしい歴史の流れの中で、たった―駒の場面ではあったが、とんだピエロを演じる機会を持った事を、私は誇りに思っている。

 

 

 

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コメント

私は山岳遭難から始まり、ヨット遭難(Heavy wether seiling )で自然の怖さを学んだ、幾度か「これで死ぬか」と覚悟をした時もあった。 その都度、震えと共に力が湧いてきて今を生きている。 団塊初年度生まれ、体育会どっぷり。 平成になったとたんに学生が皆均等。先輩、後輩もなく等しい人間思想がまかり通り(丁度ドラマで「横浜なんたら」そつのないスマートボーイが流行り)汗をかいて部活をする武骨がバカにされる風潮がはびこり、先輩が無理を言って後輩をこきつかい、それ以上に面倒を見て教え、一体となった世代が一変したと感じている。 そんな時なのだろうか? 学生騒動で騒いでいた連中は多分そうした先輩後輩の機微を知らないのだろう? そこには日本人の「おもてなし」意識があった。 

投稿: 西木和彦 | 2019年3月12日 (火) 23時12分

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