野球もなくなり暇をもてあそび出した俺はひたすら家に篭ってゲームばかりやっていた セガサターンを持っていたので18禁のゲームばかりやっていた だらだらと毎日を過ごしてる中1本の電話が鳴った ○○高校に練習に来ないかって言われてるんだけどお前どうする?と同じ野球部員からの電話だった 恐らく大会中に目立っていた人に声をかけていたんだと思う うちのチームからも数人呼ばれていたがみんな頭よかったのでそこに行く気はなかった 俺は推薦で高校に入れると思い行こうと思った しかし、練習参加する日にその高校まで行ったのだが練習参加せずにバックレた 一人でそこに行くのは心細かったし、なぜかコミュ障になっていたので行けなかった 結局参加せずに家に帰った 中学最後の夏休みはあっという間に過ぎ去った そして始業式の日制服を着ようと思った瞬間、異変を感じた なんと制服のズボンのボタンがしまらなくなっていたのである 今まで野球で消化されていたカロリーが丸々肉になっていたのである 夏休み中暇さえあれば072をして食って寝て繰り返した結果 なんと夏休み1ヶ月の間に10kgも太っていた さらにワイシャツも入らなくなっていた Tシャツの上に制服を着てズボンはボタンが締まらないのでベルトで抑えて学校に行くようになった それと夏休み中に全く勉強していなかったので受験の準備が全くできてなかった 元々成績は悪かったと思う 5教科合計で大体200~300ぐらいだった 夏休み明けてから毎月テストがあったが成績は悪くなっていった 今思うと中学のいた頃は勉強をした記憶があんまりない というか勉強の仕方を知らなかったのだ 成績は悪くなっていく一方でそのことよりも俺はさらに太りだした体型を気にし始めた しかし部活がなかったため運動することがなく徐々にまた太りだした 夏休み前は85kgぐらいだったが明ける頃には95kg 卒業する前には100kg目前だった気がする そして気づいたら腹の周りが青いミミズ腫れのようなもので覆っていた 肉割れである 病気なのかなと不安に感じながら日々だらだらと過ごしていた 冬になり受験シーズンになった 2月に私立2校 そして3月に公立1校を受験する日程だった 俺は私立1校だけ受けた 仙台育英高校の英進コースだ バカとヤンキーが多い教養には行きたくなかった しかし英進コース不合格で教養コースになった 最悪だった その瞬間自分の学力がみんなに知れ渡ったのだ それまで俺はそこそこ頭のいいキャラを出していたのだが低学力が一発で露呈した 恥ずかしかった そして公立高校をどこを受けるか迷っていた 仙台高校に行きたかったが英進落ちている時点で見込みなさそうだと思ったので もう少し偏差値が低い仙台商業高校にした 甲子園常連の育英や東北では野球は無理だと思っていたがそこそこの強豪校で野球をやりたかったからだ ここなら受かるだろうと思ったがなんと落ちた 受験の失敗で落ち込んでいる間もなく中学の卒業式の日になった 俺は第2ボタンを誰かに上げる準備はしていたのだが誰からも欲しいと言われず 悲しい卒業式になった でもクラスの女子と結構写真とかを撮っていたので嬉しかった 高校は仙台育英に行くことになった 4月になり高校生活が始まる 続く
中3のクラスは中1の時仲良かった人、小学校一緒だった人、同じ野球部の人もいたので なかなかいいクラスだった そして何より中2の頃気になる人が同じクラスになったので嬉しかった しかし、興味はあったが中々話かけることもできず、仲良くなることはなかった 春先に修学旅行があり東京に行った 同じグループの人は仲いい人ばかりだったので楽しかった 修学旅行が終わり間もなく中総体が近づいて毎年恒例の部活強化期間が始まった 中3に上がってからも練習試合や大会の成績はよくなく本大会も勝てることはないと思っていた 自分自身もスランプに陥ってた 4月の練習試合でバットを折ってしまったためそれから金属バットに変えた そして中総体が始まった それまでの成績が悪かったため俺は4番から5番に落とされた 今までにない大きい球場と観客 だけど俺は固くなることはなかった プレッシャー的なものはなかった それよりその舞台を楽しんでいたと思う 1回戦 途中まで0-2で負けていたが4回裏ノーアウト満塁で俺に回ってきた 「ここだ ここで決めるんだ」と心に決めて打席に立った そしてカウント1-1の3球目 甘い球が真ん中に入ってきた 俺はバットを軽く振り切った その大会までスランプが続いてた頃よく力んで凡打を繰り返していたから力まずスイングすることに心がけていた 元々力を入れなくても遠くに飛ぶからだ 打球はレフト方向に高く上がった 最初レフトフライだと思ったが全力疾走した そして2塁を回る頃異変に気づいた 前のランナーが止まっていた 審判が手をふっていた なんと打球はワンバウンドしてスタンドに入っていたエンタイトル同点タイムリーツーベースだった あの地区の大会であそこまで打球を飛ばしたのは俺だけだと思う 湧き上がる歓声たまらずガッツポーズをしてしまった 元々ガッツポーズはしない主義なのだが球場の雰囲気がそうさせてしまった そしてその打った瞬間のシーンが卒業アルバムで中総体のページででかでかと載っていた 勢いにのってその回大量得点を取って逆転して5回コールドで勝った 公式戦の勝利は久々だったので嬉しかった 俺は確か3打数2安打2打点だったと思う 2回戦 1回戦とは変わって投手戦になった その試合もチャンスに自分に回ってきてヒットを打った 打点はつかなかったがチャンスを広げてその回点が入った 俺は3打数1安打だった 1点差のゲームを勝利して次はいよいよ決勝だ うちの地区は出場校も少なくブロックも2つに分かれていて2回勝つと決勝戦だった これに勝てば県大会に出場でき7月も野球ができる 是が非でも勝ちたかったまだ野球を続けたかった 決勝戦 中総体は3日連続で試合が続くためハードスケジュールだった 他の選手には疲れが見えていた 俺ももちろん疲れていたと思う 元々弱小校で大会で勝ち進むことも初めてだったのでプレッシャーみたいなものもあったと思う しかし、ここまできたら勝って県大会に行きたかった 試合が始まると圧倒的に押されながらゲームが進んだ 今まで打たれなかったボールも打たれていった 決勝で当たった相手は県大会常連校で中々強豪だった 中盤、中々ヒットが出ない中で打席が回ってきた ノーアウトかワンアウトランナーなしだったと思う 甘いボールが来たので振りぬいた 右方向に大きい打球が飛んだ外野の間を抜けて3塁打になった 点差は4点あったがこの流れをつかみたかった 満塁になったが結局1点しかそのチャンスで取れなかった 3塁にいた俺は内野ゴロの間にホームを踏んだ しかしそれがその試合唯一の得点だった 結局試合に負けて中学野球最後の日になった 俺は3打数1安打だった 試合が終わったらみんな落ち込んで泣いていた しかし俺は満足していた 大会直前まで大スランプだったが本大会では3試合ともヒットを打ったし1回戦、決勝で長打が出たからだ 十分目立てたし満足だった ただ調子がよかったのでもっと試合がしたかったって記憶はある 部活を引退して夏休みに入った 野球がなくなり全く運動せず食っちゃ寝を繰り返した俺が激太りする 続く
中学2年の頃は全盛期だといったが何がよかったのかはよく覚えてない でもとにかく楽しかった記憶だけが残っている 毎年5~6回学校をズル休みしていた俺が欠席0は中2の時だけだ クラスメイトは俗に言うイケてないメンバーばかりがそろったクラスだった 中1の時は俺自体はイケてなかったが周りにはいつもイケてるグループの人達と絡んでいた 小学校の時の親友はいたが中1の時別のクラスだったし、大分絡むことがなくなっていた それと小学校低学年の時に絶縁した友達もクラスにいた 最初はすごく気まずかったが次第に絡むようになりまた仲良しに戻った クラスが大人しい人たちが多かったためやたら自分は目立ってたと思う 目だってた分、教師にもよく怒られたが まぁ毎年教師によく目を付けられ怒られてはいた 俺のキャラが叱りやすかったのかもしれない 学校生活っていかに目立てるかをクラスの人達と競い合ってたって記憶がある だからライバルも特にいなかったし結構目立てた気がする 中1の頃は個性が強く目立つ人が多かったのでなかなか一人が目立つのは難しかった だから一番目立てた中2が楽しかったのかもしれない 中1の時に同じクラスだった人はあんまりいなかったため 最初は結構ぼっちだったが小学校一緒の人達もいたしすぐ周囲と溶け込めた それからは友達がどんどん増えて楽しかった ある日突然、前期学級委員が転校することになった 後釜は誰がやるんだろうと思っていたら周りのみんなからお前しかいないと推薦された 俺は正直そうゆうのに興味なかったし、だるいだけだと思ったのでやりたくはなかった しかし人から推薦されるようなことは初めてだったので立候補することになった 立候補した人はもう一人いてクラス内選挙になった そして結果は圧倒的支持率で俺になった それからは学級委員の仕事と部活を両立しながら日々過ごし春先には2泊3日の野外活動があった その出発前挨拶を任され無難にこなした 野活は楽しかった 中2の頃も中1と同様男子女子ともよく話しをしていた ただ中2の頃のほうが扱いはよかったかもしれない そして中総体が終わり3年生が引退して自分達の代になった それからはより部活が楽しくなった 中2からは顧問の先生が変わったため選手起用が変わり 年功序列で守備重視のものになったため3年生が引退するまで試合に出れる日は1年の頃より減った 3年生が引退して俺達の代でキャッチャーが誰もいなかったため俺がやることになった このときは自ら希望したと思う なぜなら確実に試合に出るためだ 正直顧問が変わってからというもの先生との確執があったのだ よく先生をバカにしていた記憶がある 野球経験もない元々サッカーの顧問をしていた教師だったからだ 自分達の代から俺がノックを打つことになった 中2の時のチーム成績は本当に悪かったと思う 練習試合でも中々勝てなかったし秋の大会は1回戦で負けてた気がする ただ俺自身はヒットを積み重ねていて個人成績は悪くなかったと思う ちなみに打順はずっと4番だった 顧問もやる気がなかったのか練習試合を組むことがあまりなかった 正月前になるとクラスの女子から住所を聞かれることが多かった 年賀状を送るためだったと思う アドレス帳をよくもらって書いていた 中1の頃はそうゆうことがなかったのでうれしかった 正月になると人生で一番多く年賀状をもらった 2月のバレンタインデーでも手作りチョコを4~5個もらった 義理ではあったが1年の頃は0だったのでうれしかった そして春になり中学3年生になった 俺はクラス替えはしたくなかった 始めは最悪だと思っていたこのクラスがいつの間にか最高だと思っていたからだ だけど中3も中2に劣らないくらい楽しかった 修学旅行、中総体、受験、中学最後の1年が始まる 続く
夏も過ぎ去り秋になった 相変わらずの毎日を過ごす中、同じ班の女子のことが好きになった その子とはあんまり話した記憶がないけど気づいたら好きになっていた しかもなんと同じマンションに住んでることが後々わかった しかし、前回のこともあってかもう二度と気持ちを出すことはなかった 周りにも悟られないようにした 結局その子と仲良くなることはなかった それ以降中学で誰かを好きになることも自分の気持ちを出すこともなくなった ちょうどその時期、体育の時間中に怪我をする 走り高跳びの授業でマットに着地するときに指を下敷きにしてしまった その時激痛が走った ものすごい腫れていて熱持っていた これは骨折したなって思った 小学2年の時に骨折した経験があるが骨折するとすぐわかる 打撲とはまるで違う激痛があるからだ そのまま近くの病院に連れてってもらい、診察結果はやはり骨折だった 左親指の骨折だった それまでは072を左手でしていたが右手を使うようになった そして部活を1ヶ月ぐらい休んだ 1ヶ月も絶つと指も完治して部活に出るようになった しかし冬の練習は基礎トレが多かったし、好きじゃなかったので度々部活をサボって家でゲームをしていた それから何事もなく春にはなり、中学2年生になった クラス替えだ どうゆうクラスになるんだろうと思いながら発表を心待ちにしていた 発表を見た瞬間終わったと思った 1年の時に仲良かった友達が全部バラバラになり、そして女子を見ても好きだった子とも離れ離れになってしまった かわいい子もいそうになかった しかし、その1年間が人生のピークになるとその時は思いもしなかった 続く
小学校までは私服だったが中学生から制服になり、友達もそのまま市立の中学に行く人が多かったので中学時代は日々楽しかった 小学校は3クラス途中から2クラスになったけど中学に上がると4クラスになった 中学1年の時のクラスは3~4割ぐらいが出身校が一緒の人だったのでぼっちになることはなかった 教科ごとに教師が変わり体育も女子とやらなくなったり別の小学校の知らない人も多かったので中学は色々新鮮だった 中学に上がる前は野球はもうやめようと思っていた でも思いのほか周りの友達も野球部に入る人が多かったので自分も入ることにした 日々生活を送っていく中でとあるクラスの女子のことが好きになる その子とはよく喋ったり、ふざけあったりしていつも仲良かった そうしてる内に気がついたら好きになっていたのだ 小学校の時はそこまで好きな人はいなかったから多分初恋だと思う 意識するようになってからは格好つけるようになった それまでは櫛とかで髪を整いていなかったのだが髪形を気にするようになった そして痩せようと思い始めたのだ 元々太っていることはコンプレックスがあって悩んではいたけどダイエットする気にはならなかった しかし、好きになってからというと家に帰ってから運動するようになった 春の遠足みたいなものに行った時の集合写真にいるその子を見ながら腹筋したりしていた だが食うことは中々やめれず痩せることはなかった 中1の夏に友達と花火をすることになった そのメンバーに好きな子もいた 周りの友達には俺がその子のことが好きなのがバレていたので告白しろってそそのかされた 俺は自分の気持ちを伝えるのが嫌だった 自分に自信はなかったし、もしふられて気まずくなったら仲良くできなくなるって思ったからだ 俺は結局告白できなかったが友達が俺が好きだってことをその子に伝えた そして 「中嶋~お前無理だって!ドンマイ!」 そう友達に言われた その日の夜、俺は枕を噛んで声を殺して泣いた それ以降、その子と気まずくなり距離を取るようになった でも好きな気持ちがまだあったので腕時計のガラスを反射させて授業中その子のことをよく見ていた 部活は3年生が引退してようやく自分達も練習に参加できるようになり 試合も出れるようになった ようやく少年野球の監督の呪縛から逃れられたので俺のポジションは元々の希望の外野になった 主にライトを守っていた 小学校6年生から木のバットを使っていたけど中学でも木のバットを使っていた 手になじむし使いやすかった 1年の時の顧問の先生が年功序列意識があまりなかったので よく試合で使ってもらっていた 9月の新人戦もスタメンで6番ライトで出場した 1回戦で負けたがその試合ヒットを2本ぐらい打った記憶がある 部活も充実してきて失恋の痛みが消えかかったいたある日、またとあるクラスの女子のことが好きになる 続く
最初は確かヘルニアと診断された 腰を壊して病院通いの生活が始まる 毎朝病院で牽引?してもらってから学校に行くようになる 歩いてても辛いし座ってても辛かった 何より体を動かすこと好きな俺にとってが不自由になるのが辛かった 1~2ヶ月ぐらい試合を欠場する 病院を変えて電気治療と整体していくうちに徐々に腰の調子はよくなった 腰の負担がかからないようにポジションがキャッチャーからファーストそしてレフトに変わっていった 打順は3番固定になった 6年生の年の個人成績は40試合中で打率.367 本塁打2 打点42という結果だった ちなみに仙台の少年野球は5イニングしかない 優勝はなかったけど準優勝5~6回 リーグ戦は後期準優勝だった 怪我をしたり辛いことが多くて中学生に上がる前には野球はやめようと思っていた 小学6年の3学期 その時期やたら勃起するようになっていて毎日ジャージで通っていた俺は前かがみで生活することが多かった そして事件が起こる オヤジ用のビデオを何気なく見ていたら邦画だったと思う その中で濡れ場シーンが突然始まる それを見ていたら急におしっこが行きたくなりトイレにいったら なんと白い液体が出ていた 精通である 性に対する知識がほぼ0だった俺には衝撃的な出来事だった 最初膿が出たと思い焦っていた 家に図鑑があって人間の体のことを調べてようやく理解した それまで女は尻から尿をしてそこから子供が生まれると思っていたが 図鑑で調べてようやくマンの存在を知るようになる そしてその日から072生活がはじめる 性の覚醒である 細かいこと書くと引かれそうなので割愛しよう 父親は年々家に帰ってこなくなった オヤジが嫌いな俺にとってそれは嬉しかった 無事小学校を卒業して中学生になりそして初恋をする 続く
問題なく学校生活が続いて 小学校4年生の時に友達に誘われて野球を始める 元々運動は好きで草野球、ドッジボール、サッカーなどは放課後、休み時間によくやっていた 肥満体系ではあったが運動神経は人並以上あったと思う 野球を始めて性格は大きく変わっていく それまでは人見知りで内向的な性格だったがそこから明朗活発な性格になった 最初は練習も嫌いで先輩や後輩や同級生との付き合いが面倒くさかったけど それも苦にならなくなった リアルで人間関係に苦しんだことはあまりない 人に恵まれていたかもしれない 始めた時は全然うまくなかったし、周りに期待もされていなかった 転機が訪れる 小学校5年生の時知り合いのおじさんに毎週毎週バッティングセンターに連れて行ってもらった 野球はそれまであんまり好きではなかったけど段々ボールが当たるようになって 遠くにボールが飛ぶと喜びみたいなのを感じ始めた 段々とバッティングセンスを開花させはじめた 打撃を開花させていくうちに周囲の期待は集まり始めた それが嬉しかった それと同時に怒られることも増え、ミスをしたら監督から殴られたりするようになった 小学校5年生の時は下位打線を打っていた俺も6年生に上がる頃には3、4番を打つようになった バッティングは楽しかったでも守備は嫌いだった なぜかというとキャッチャーをやらされていたからだ 他のポジションに着くのは許されなかった それまではサード、セカンドを守っていた 6年生から本格的にキャッチャーをやらされた 本当はファーストやりたかった 試合を積み重ねていく中である試合中に大怪我をする 自分が一塁に出塁して盗塁のサインが出た 不意に牽制されてヘッドスライディングで帰塁した際にその衝撃で腰を痛めた 今までにない痛みが全身を走った その回の攻撃は凌いだけど守備についたときプレイするのはもう無理だと思って欠場した それまではそうゆうことなかったから驚かれた しかし、もうまともに立つことも出来ないし歩けもしなかった その怪我以降、腰痛に常に悩まされるようになる 続く
オヤジが嫌いな理由は細かいことはよく覚えていない とにかく怖かった それしかなかった 何かとしたらよく怒鳴られていた 顔を殴られることはなかったけどゲンコツをよくもらった 話す時は人の目を見ろとよく怒られてたけど 父親の顔と声が怖かった それがトラウマなのかわからないけど人の目を見て話すことが困難になった とにかく威圧感の塊のような人で子供の頃の俺にとっては絶対恐怖の存在だった 母親のことは子供の頃はまだ好きだったと思う けど父親の言いなりで父親が家にいるときは味方にはなってくれなかった 兄弟のいない自分にとって両親共に攻められたら居場所がなくなるような感じが辛かった 家のことがほぼ全てな子供の頃にとって逃げ場所がなかったのが辛かった 父親が週末しかいないことが唯一の救いだったのかもしれない 昔から友達は少なくなかったと思う でも一人で家でゲームしたり、仲いい友達と2人きりで遊ぶのが好きだった 大勢で遊ぶのはあまり好きじゃなかった 独占欲が強かったのかもしれない 相変わらず家では気が小さく泣き虫だったが小学校に入って成長していく内に人前で泣くのを我慢するようになる 自分の弱い部分を人に見せたくなかったからだ 続く
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