「保育園はそんなに儲かるのか。自分も儲けたい」
吉文氏とはどのような人物なのだろうか。志布志市出身の吉文氏は4人兄弟の次男。地元の高校を卒業後、陸上自衛隊に入隊。鹿児島の国分駐屯地に配属され、20歳で高校の同級生だったA子さんと結婚した。1971年に長男、73年に長女、76年に二女を授かる。
吉文氏の転機になったのは、A子さんの父が病で急死し、A子さんの両親が経営していたスーパーマーケットを、自衛隊を退職して継いだことだった。
「スーパーの経営を始めると、彼は20代後半で地元の青年会議所の理事長となった。街の飲み屋へ頻繁に足を運ぶようになり、そこで保育園を経営している資産家と出会った。その資産家がゴルフや飲み屋などで豪遊する姿を見て、『保育園はそんなに儲かって遊んで暮らせるのか。自分も儲けたい』と興奮気味に話していたのを覚えています。教育者として何の経験もなかったが、その『儲けたい』という動機で始めたのが保育園経営でした。
そして保育園を始めるために、スーパーを売却することになった。私はスーパー経営を継ぐために自衛隊を除隊させてしまったという彼への負い目をずっと抱えていた。私の母は当時健在でしたが『家族の暮らしが良くなるのなら』と賛同して、スーパーを2400万円ほどで売却した。それでも足りない保育園の建設費用は、母が所有していた山や畑を売って支払った。いずれも両親の大切な資産でしたが、保育園の経営を『ゆくゆくは自分の子供たちが引き継ぐのだから』と納得しようと思っていました」(A子さん)
1981年、吉文氏は鹿児島県内に最初の保育園を設立。84年には保育園とは別に幼稚園を設立し、94年、04年と保育園を新たに開設して増やし、少子化時代のなか、吉文氏の保育園経営は拡大していった。
吉文氏の体罰の持論
一方、吉文氏の家庭内DVは妻のA子さんだけにとどまらず、自らの子供たちにまで及んでいったという。A子さんは「自分を守るのが精一杯で、徐々に子供のことまで頭が回らなくなっていってしまった」と、今も後悔の念に苛まれている。
吉文氏は著作の中で、体罰について次のように持論を説明している。
〈自信を持って、堂々と子供を叱ってください。ときには体罰も必要です。もちろん、9割は口でいえばわかること。それでもわからなかったら、体罰も辞さない覚悟で子供に向かい合って欲しいということです。ただし、体罰をしていいのは幼年期だけ。人間として経験値の低いその時期は言葉で理解できないこともあるのです〉(『天才は10歳までにつくられる』より)
取材班は、吉文氏の実子である長女に複数回接触し、取材意図を説明。「保育園が少しでもよくなるなら」と語り始めた吉文氏の子供への体罰は、教育とは呼べない理不尽なものだった。