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26 「アルス」
アルス・グレイラットにとって、アイシャは特別な存在だった。
物心ついた時にはもうそばにいて、どんな時でも離れず、アルスの面倒を見てくれていた。
言ってみれば、四人目の母のような存在と言えるかもしれない。
三人の母はアルスに様々なことを教えてくれた。
シルフィは知識と、友人の作り方を。
ロキシーは知恵と、学習の仕方を。
エリスは剣術と、誰かを守るということを。
アイシャもまた、いろんなことを教えてくれた。
しかしどちらかというと、母の教えについて、アルスがよく理解できないことを、経験させてくれる、という感じだった。
母とは、やはり違う。
なら、姉の方が近いだろうか。
アルスには二人の姉がいる。
ルーシーは、賢い姉だ。
母の教えをよく守り、学校にも真面目に通い、アルスに対してお姉さんぶった態度で、勉強しろ運動しろと命令してくる。
ララは怠惰な姉だ。
母の教えをよく破り、学校はよくサボり、アルスに対しては対等の友人のように悪巧みを提案してくる。ララの提案に乗って怒られたことは、一度や二度ではない。
アイシャもまた、アルスに命令したり、何かを提案することはある。
しかし、どちらかというと、アルスのやりたいことを明確化してくれる、という感じだった。
二人の姉が、自分が良く見られたかったり、自分が楽しいから言うのに対して、ちょっと違う。
だが、本当の姉であるルーシーやララとは、やはり違う。
母とも姉とも違う、よくわからない存在。
それが、アイシャだった。
アイシャは頼めばなんでもやってくれた。
アルスがどんなわがままを言っても、しょうがないなあ、と言いながら、それを叶えてくれた。
時に厳しくすることもあったが、理不尽なことでアルスを叱ったことはない。
アルスが悲しんでいると、そっと抱きしめてくれた。
そうして、これからどうすればいいのかを教えてくれた。
アルスはどれだけ悲しい気持ちでも、アイシャの豊満な胸に顔を埋めると、悲しい気持ちなどすぐに吹っ飛んでしまった。
まだ小さい頃は、構われすぎてうっとおしいなと思う事はあった。
けど、アイシャは常に正しかった。
アルスが反発して、アイシャの言いつけと違うことをしても、ほぼ全て失敗した。
結局最後にはアイシャがやってきて、こう言うのだ「ほらね、わかったでしょ?」。
アルスはその度に口を尖らせて頷いた。
十歳を過ぎる頃には、アルスは自分はこのままアイシャに守られ、言うことを聞きながら生きていくんだろうと、そう思っていた。
それは、一種の洗脳だったかもしれない。
アイシャの教育は、アルスから思考することを奪い、アイシャの言うとおりにすれば全てうまくいくという認識を植え付けていた。
ただ、当時のアルスには、それが悪い事だとは、これっぽっちも思っていなかった。
さて、アルスが十歳の誕生日を迎えると、家族からいろんなものをもらった。
その中の一つに剣があった。
真剣だ。
赤ママことエリスは「これで大切な人を守りなさい」とアルスに言った。
その時、アルスが思い浮かべたのは、アイシャの顔だった。
思い浮かべただけではなく、反射的にアイシャの方を見てしまった。
アイシャは当然のようにアルスを見ており、目が合うとニパッと笑った。
アルスはなんだか恥ずかしくなって、視線を逸らしてしまった。
アルスがアイシャへの恋を自覚したのは、その時だったかもしれない。
でも、その時は口には出さなかった。
なんだか気恥しかったからだ。
あるいは、姉であるララが子供っぽかったことや、同じぐらいの年齢のクライブがルーシーに対し、ほのかな恋心をもちつつも具体的な成果を上げていなかったのも起因しているだろう。
自分にとって、そういうのはまだ先。
そんな風に思っていたのかもしれない。
それが、そんなに先のことではないと感じたのは、ある日のこと。
風呂でのことだ。
グレイラット家では、風呂は誰かと一緒に入るもの、というルールがあった。
普段、アルスはアイシャと一緒に入る。
だが、月に何日か、アイシャはアルスと一緒に風呂に入ってくれない時期がある。
そんな日は三人のママの内の誰かか、あるいは姉や弟といっしょに入るのが常だ。
だが、その日は珍しく、父と入ることとなった。
父はアルスにとって、遠い存在だった。
家にいることが少ないのもあるが、みんなが父を尊敬していたからだ。
ママたちはもちろん、アルスの身近にいる大人たちも。
例えば、龍神オルステッドや、北神カールマン三世、学校の教頭先生、校長先生。
アルスの目から見ても「凄い人たち」が、ルーデウスを悪くいう所など、見たことがない。
それから、父はアルスがなにか悪いことをしても、決して叱ることはなかった。
笑いながら「次は気をつけるんだよ」というだけだ。
以前、父の書斎で遊んでいて、飾ってある人形を落とし、壊してしまったことがある。
父が、親友であるザノバからもらったという、大事な人形だ。
当然アルスは怒られると思った。
実際、白ママにはがみがみと怒られたし、赤ママにはお尻を叩かれたし、青ママにはすまし顔でお説教された。
だから当然、父にも、と。
アルスはそれを覚悟して、父にごめんなさいと言った。
だが父は怒らなかった。
「よく正直に言えたね。偉いよ。次からは気をつけなさい」と言って、アルスの頭を撫でただけだ。
拍子抜けだった。
姉であるルーシーは、父のそういう態度に対し、「私たちは期待されてないから」と言った。
身近にいても遠く感じるほどに遠すぎる父は、才能のない子供たちに、なんの期待もしていないのだ、と。
それを聞いて、アルスはなるほどと思うと同時に、萎縮しまったのを憶えている。
ルーシーは父に認めてもらえるように頑張っているようだが、アルスには出来なかった。
そんな父でも、風呂に入るとリラックスしているようだった。
風呂のへりに頭を載せ、仰向けになって体を広げ「うぁー、癒される」などと言った。
こんな父の姿はなかなか見れない。
もちろん、家の中でもリラックスしていることは多いが、アルスの目には、それでもしっかりして見えることが多かった。
そのせいか、アルスはまじまじと父を見てしまった。
すると父は視線に気づいたのか、気まずそうに体を起こし、風呂の端で湯に浸かるアルスと目を合わせた。
「こほん、アルスは、もう頭は一人で洗えるか?」
「……はい、洗えます。体も洗えます。当たり前です」
父の前では、自然と敬語になった。
「ああ、そっか、もう十歳過ぎたもんなあ、大きくなるのは早いなぁ」
父はそう言って、ゆるい笑みを浮かべた。
「剣術は中級ですが、もうすぐ上級の認可をもらえます。魔術はまだ初級だけど、無詠唱は出来るようになりました」
「そうかそうか、勉強や運動は大事だけど、頑張りすぎないようにな。頑張りすぎて体や心を壊したら、なんの意味もない」
それを聞いて、アルスは思った。
やはり父は自分たちには期待していない。
父は自分の年の頃には、すでに水魔術を聖級、剣術を中級まで取得していた。
それに比べると、自分たちは遅い。
やはり、期待されないのだ。
そう考えると、アルスは悲しい気持ちになった。
「でも、そっか、もう十歳か」
「あの、十歳がなにか?」
「いやなアルス。こないだ、アスラ王国に行ったんだけど、アリエル陛下がな、お前と娘を婚約させよう、なんて言いだしたんだ」
「婚約……?」
「ああ、アスラ王国の貴族じゃ、十歳を過ぎたらそんな話も出てくるんだよなぁ」
父はアルスをまじまじと見て、うんうんと頷いた。
「きっとこの先、そんな話も多くなるぞ」
「そう、なんですか?」
「お前はエリスに似て顔がいいからな。きっとモテモテだ」
それを聞いて、アルスは反射的に思った。
嫌だな、と。
「ああ、でもアルス。釘を刺しておくけど、モテるからって、女の子を弄んじゃだめだぞ。遊び半分で女の子を泣かせたら、パパも怒るからな」
「……はい」
父が怒る所はまったく想像できなかった。
だが、あることを自覚できた。
自分にとって、誰かとそういう関係になるのは、そう先のことではないのだ、と。
そして、もしそういう関係になるなら誰がいいか……。
と考えた時に思い浮かんだのは、やはりアイシャの顔であった。
アイシャに告白をしたのは、それから一年もしないうちであった。
だが、その時はわかっていなかった。
今までずっとアイシャに守られ続けていたアルスには、わかっていなかった。
アイシャの言うことに従っていればいいと思っていたアルスには、
エリスの言う、「大切な人を守りなさい」という言葉が、結びついていなかった。
自分がアイシャを守るのだ、ということが。
---
自分がアイシャを守らなければならない。
そのことを実感したのは、家族会議の席で、エリスが激高した時だった。
それまで、アルスにとってアイシャとは、完全無欠の存在だった。
なにかをやらせれば完璧にこなす。
滅多に失敗はしないし、失敗したとしても、その後のフォローは完璧。
助ける必要のない存在。守る必要のない存在。
それがアルスにとってのアイシャという人物だ。
だが、家族会議では、そのアイシャが追い詰められた。
アルスには追い詰められているということすらわからなかったが、
エリスに殴られ、「守れと教えたのに!」と叫ばれた瞬間、ようやく気付いた。
アイシャでも追い詰められる時があるのだ、と。
そこで、ようやく気づいた。
アイシャも一人の人間である、と。
賢く、抜け目が無いが、完全無欠ではなく、時には失敗に失敗を重ねてしまう時もあるのだ、と。
それは滅多にないことかもしれない。
アルスより、その機会はずっと少ないかもしれない。
でも、その時はくるのだ。
そして、そのアイシャを守るということはどういう事か。
アイシャが追い詰められた時に前に飛び出して、己の全能力を使って、失敗の脅威を遠ざける。
己の身を盾にしてでも。命に代えてでも、尻拭いをする。
それが、アイシャを守るということなのだ。
そして、それこそが今までアイシャが、自分に対してやってくれていたことなのだ。
アルスは理解した。
今まで自分は守られていた。
そして決意した。
今度は自分がアイシャを守る番だ。
洗脳が解けた瞬間だった。
だが、アルスはまだ少年だった。
経験も知識も、ほとんど持っていなかった。
あるいはアルスがもっと賢ければ、もっと年齢を重ねていれば、
家族会議が終わり、アイシャが「家を出て二人で暮らそう、駆け落ちしよう」と提案した時、止めることが出来たかもしれない。
アイシャ姉、今度は俺がちゃんと守るから、俺もちゃんと話すから、もう一度パパと話そう。
もしくは、俺が成人するまで待っていて、ちゃんと迎えにくるから。
そんな風に言えたかもしれない。
しかしこの時、アルスの心中にあったのは、三つの教えだ。
一つはエリスに教わったこと。
『大切な人を守りなさい』
それからアイシャに教わったこと。
『やりたいことがあるなら、まずそれをやるべきだ。困難であるなら、その方法を探すべきだ』
そして、かつて聞いた昔話の結末。
『愛するもの同士は、決して離れてはいけない。離れれば不幸になってしまうから』
三つの教えから、アルスはこう考えた。
(アイシャ姉がそれをやりたいのなら、あくまでアイシャ姉の好きにさせよう。そしてアイシャが失敗を重ねて窮地に陥った時、助けてやろう、守ってやろう)
思考が若干エリスに似ていたのは、彼女の息子だからだろう。
ともあれアルスはそうして、駆け落ちの提案に頷いた。
そこからはアイシャの指示に従いつつ、神経を張り巡らせた。
アイシャのすぐ後ろに立ち、いつでも剣を抜けるように構えた。
道中で魔物や野盗に襲われれば、率先して前に出て戦った。
いつかのように、恐怖に足がすくむということはなかった。
物心ついた頃から叩き込まれた剣術は、魔物にも、野盗にも通用した。
昼間はアイシャの用意してくれた仕事に従事した。
アルスはまだ小さかったが、剣術も魔術もできたため、出来る仕事はたくさんあった。
今まで学んだことを十二分に発揮すれば、仕事はこなすことができた。
アイシャがそういう仕事を選んでくれたのだろう。
アルスは仕事をしながら、剣術を、魔術を磨いた。
仕事の合間に体を鍛え、剣を振り、苦手だった無詠唱魔術の練習をした。
訓練と実戦の繰り返しは、アルスが経験を積むのに最適だった。
あるいは、アイシャがそうなるよう、配慮してくれたのだろう。
夜はアイシャを抱いた。
当然だ。それがやりたいことでもあったのだから。
パパもママもいない生活に、ほんの少しだけ不安はあった。
だが、後悔はなかった。
やるべきことをやっているという充実感があったからだ。
なにより、アイシャが笑顔なのがよかった。
そして、ほんの少しの不安も、ある日、消えた。
駆け落ちから半年ほどの時間が流れ、ある変化が発覚した日、消えた。
不安が消えて、覚悟ができた。
でも、アイシャはその変化に笑顔が消え、不安そうな顔をして焦燥感を顕にするようになった。
お兄ちゃんに見つかっちゃう、見つかったらどうなるかわからない、と。
対照的にアルスは覚悟を固めていった。
自分が守ってやらないと、と。
自信があったわけではなかった。
半年ほどで、自分はそこらの奴より強いという確信を持てていたが、誰よりも、とは思っていなかった。
父は当然として、赤ママにも、白ママにも、あるいは青ママにも勝てないのはわかっていた。
だとしても、もし父やママたちが来て、自分たちを引き離したり、アイシャの不安通りに危害を加えようとしたら、その時は自分が戦う。
決してアイシャの所には通さない。
例え刺し違えてでも、アイシャを守る。
自然とそう考えた。
父はそうしてきたと聞いているし、赤ママからもそうしろと教わった。
曖昧だった「教え」が、はっきりと形になった瞬間だった。
アルスは覚悟を決め、その時はきた。
--- ルーデウス ---
アイシャとアルスが見つかったのはミリス大陸だった。
ミリス神聖国の端、川の途中にある小さな村だ。
そこにある小さな家に、アイシャとアルスは住んでいるらしい。
情報を見つけてきたのは、ロキシーだった。
いや、正確には、冒険者か。
ミリスで活動する冒険者が、ある依頼で立ち寄った村にて、アイシャとアルスを発見したのだ。
冒険者ギルドには、アイシャとアルスの捜索依頼が出ていたため、情報はルード傭兵団へ。
しかし、ルード傭兵団へと渡った情報は、アイシャが事前に根回しをしていたため、握りつぶされた。
でも、そこでは終わらない。
ロキシーは探しにいくのを俺に止められたが、
しかし内緒で転移魔法陣を使い、各地で情報収集をしていたのだ。
冒険者ギルドには守秘義務があるため、情報収集の依頼は、本来なら依頼者にしか情報をわたさない。
だが、ミリスの冒険者ギルドでは、ロキシーの古い友人が職員として働いていた。
そのため、ロキシーは情報の内容と、情報が傭兵団に握りつぶされたことを知ることができた。
ロキシーは情報の裏を取るべく、村に急行。
遠目からアイシャとアルスを目視で確認。
ひとまずそこでの接触は避け、ロキシーが何日も帰ってこなくてオロオロし始めた俺に報告してくれた……。
というわけだ。
そして、俺もその村へとやってきた。
シルフィとロキシー、エリスを引き連れて。
リーリャも行くと言ったが、ひとまず、今回は留守番してもらった。
まず、俺がアイシャと話をすべきだと思ったからだ。
その村は長閑だが、何も無い村だった。
聞いた話だと、木こりギルドが中心となって運営している村だそうだ。
木材輸送の中継地点で、川の上流から流れてくる木材を受け取り、大きな町へと運ぶ業務に携わる商人に受け渡す、という業務が中心。
その他には畜産と畑が、生きていくのに最低限必要な程度行われている。
森が少し近くにあるものの、魔物の被害はそう多くはなく、冒険者ギルドへの依頼も少ない。
上流の伐採作業が終われば村も自然と消滅してしまうため、名前すらない。
当然、地図にも載っていない。
そこに人が住んでいることすら、ほとんどの人間は知らない。
そんな村の片隅に、二人は住んでいた。
恐らく中古だろう、小さな一軒家。
家の横には小さな畑と、小さな鶏小屋。
そして、小さな花壇があった。
俺は、その家の前に立った。
すぐに中に入り、アイシャと話をしたかった。
しかし、家には入れなかった。
一人の小さな門番がいたからだ。
アルスだ。
彼は真剣を持ち、意思の強い目で、俺を睨んできた。
「……」
殺意の篭った、強い瞳だ。
自分の子供に、こんな目で見られたことなど、今まで無かった。
一瞬で泣きそうになり、回れ右して帰りたくなった。
もちろん、帰るつもりはないのだが……。
「アルス」
「……パパ」
久しぶりに見たアルスは、随分と大人びて見えた。
服装のせいだろうか。
冒険者のような革鎧に剣、全体的に薄汚れている。
そして、家に居た時にはなかった、野生味のようなものがあった。
彼とも、話をしなければいけない。
「アルス……お前は、これでよかったのか?」
「これでって、何ですか?」
「アイシャとの関係、駆け落ち、今の状況……後悔していないのか?」
「はい。覚悟していました」
アルスははっきりと頷いた。
そこに迷いは、一切存在していなかった。
思った以上に強い意思を感じる。
なぁなぁでアイシャにくっついていたわけではない。
そう感じさせるものだ。
「その態度を、あの日に見せて欲しかった」
「はい。そうすべきでした」
「俺もお前に、ちゃんと聞くべきだった」
「あの日は、答えられなかったと思います」
はっきりとした答え。
この一年で変わったと言いたいのだろうか。
「このまま、アイシャと一緒に暮らしていくつもりなのか?」
「そのつもりです。俺はアイシャ姉が好きです。ずっと面倒見てもらって、助けられ、育てられてきました。もちろんパパやママにも感謝もしていますけど、でもアイシャ姉には、それ以上にお世話になってきました。そのアイシャ姉が俺と一緒になりたいって言うなら、俺がアイシャ姉を守って生きていきます」
やはり、迷いは一切無い。
あくまでアイシャ主体な所が少し心配ではあるが……。
でも、この態度を、この言葉を、あの日に言ってくれれば、結末も違うものになっていただろう。
まあ、俺が反対したのはまったく別の所にあったから、結局は駆け落ちしていたかもしれないが……。
少なくとも、エリスがアルスを殴ることはなかったろう。
いや、この一年が、彼にこう言わせる基盤を作ってくれたのかもしれない。
アイシャと二人で、家にいるより厳しい環境に身を置いたのがよかったのかもしれない。
でも、まだやはり小さく見える。
世の中をよく知らないからそんな事を言っているんじゃ、とも思える。
現実の見えない小さな子供が、自分の力を過信して息巻いているようにも見えてしまう。
「出来ると思っているのか?」
「出来ます」
「俺は、まだお前には無理だと思う」
正直にそう言うと、アルスは口をへの字に結んで、俺を睨んできた。
「一年前とは、違います」
そう言って、家の中には通さない、アイシャと引き離されるのはごめんだとばかりに、仁王立ちとなった。
さて、どうするか。
ひとまず、口は立派になったと思うが、中身は伴っているのだろうか。
「……その言葉が本当かどうか、私が試してあげるわ」
そう思った所で、俺の前に出たのは、エリスだった。
どうやら、彼女も問答だけではダメだと思ったようだ。
俺が頷くと、彼女は腰の剣を抜き、アルスに向かって構えた。
彼女の全身から立ち上る殺気は本物だった。
アルスの顔から、みるみるうちに血の気が引いていくのがわかる。
顔だけじゃない、足も、全身も震えだした。
だが、顔面蒼白になりながらも、彼は逃げ出さなかった。
「守れるの?」
エリスはただ一言、そう聞いた。
「アイシャ姉は、俺が守ります」
アルスはもう一度、そう答えた。
はっきりと。
「……!」
次の瞬間、エリスが動いた。
すさまじい速度で抜刀しつつ、アルスに斬りかかったのだ。
俺では反応しきれなかっただろう速度とタイミング。
だが、アルスは反応した。
エリスの剣を受け止め、しかし受け止めきれず、地面へと転がった。
アルスは、転がりつつも剣を振るい、エリスの足首を狙った。
エリスの足首から、パッと血が飛ぶ。
エリスはそれで止まらない。
傷ついた足でグッと踏み込み、地表でバランスを崩しているアルスに、叩き下ろすように剣を振り下ろした。
エリスの足元で、肉の斬れる音がした。
みねうちの音ではなかった。
パッと血しぶきが舞い、エリスの足元に血が広がった。
赤い血しぶきが俺に顔にまで届いた。
取り返しの付かない音、取り返しのつかない光景。
アルスが永遠に失われてしまった。
その事実に、俺は喉が震えるのを感じた。
だが、そうではなかった。
次の瞬間、エリスの股をくぐるように、何かが飛び出してきた。
アルスだ。
彼は肩口から血を流しつつも、歯をむき出しにしてエリスをにらみ、その衰えぬ闘志を叩きつけていた。
「ガアアァァ!」
エリスが攻める。
足首から流れる血など、関係ないと言わんばかりに。
「があああぁぁ!」
アルスも攻める。
肩口の傷は深く、服を真っ赤に染めているが、痛みなど無いと言わんばかりに。
エリスの方が斬撃は早く、そして重い。
彼女が剣を振るい、アルスがそれを受ける度に、彼は体ごと持って行かれそうなほどの衝撃を受け、大きくたたらを踏む。
時には大きく吹き飛ばされ、転がり、小さな傷を作り、蹴り飛ばされ、柄で殴られ、あっという間に満身創痍になっていく。
だが、倒れない。
ほんのわずか、ギリギリの所で踏みとどまって、体勢を整え、エリスへと向かっていく。
何度も、何度も。
力量は圧倒的で、アルスはすでに満身創痍だ。
最初の交差での足首への一撃以降、彼はエリスに一太刀すらも浴びせられていない。
アルスの行動は完全に押さえ込まれている。
それでもアルスは倒れない。
エリスは詰めの甘い剣士ではない。
倒しきれないのは、彼が息子だからか?
殺さないように、手加減しているのか?
それも少しはあるかもしれない。
でも、それだけではない。
すでにアルスは、目を覆いたくなるほどの傷を負っている。
アルスとてわかるだろう。エリスには勝てない。
それでもなお、アルスは倒れない。
負けを認めない。
俺にはわかる。
そうしなければいけないからだ。
「……ぐっ!」
キンと音を立てて、アルスの手から剣が飛んだ。
剣はくるくると宙を舞い、俺の足元に落ちた。
瞬間、ぞっとした。
剣だけではなかった。
剣柄には、アルスの手がくっついていた。
その手は、胴体から離れてなお、剣を固く握りしめていた。
「……っ!」
止めたい衝動に駆られる。
しかし、アルスが諦めていないのは傍から見てもわかった。
彼は片腕を抑えながらも、なおエリスに向かっていこうと、腰を落とした前傾姿勢で構えていた。
エリスはそれを見て、剣を捨てた。
徒手になり、アルスと向かい合う。
「うがあああ!」
アルスが雄叫びと共にエリスに突進した。
もはや策も何もない、力任せの突進。
対し、エリスは冷静だった。
その頭にカウンター気味に拳を打ち込み、仰向けに倒し、そして馬乗りになった。
両膝でアルスの腕を抑え、マウントを取る。
あとは、俺も良く知っている光景だった。
「があああ!」
アルスは抵抗もできずに殴られ、しかしそれでも諦めずに雄叫びを上げた。
エリスは殴った。
何発も拳を振り下ろした。
鈍い音が、何度も響く。
だが、次第にその拳から、力が失われていく。
彼女だって、嫌なのだ。
息子をこんな風に殴るのは。
「……ッ!」
唐突に、エリスの顔が爆発し、後方に吹っ飛んだ。
エリスは受け身を取り、即座に起き上がるも、前髪が焦げ、顔に火傷ができていた。
アルスが立ち上がる。
顔をぼこぼこに晴らし、片腕を抑え、足をガクガクと震わせながら、立ち上がる。
近くに落ちていたエリスの剣を拾い、構えようとして、力が入りきらず、剣先が地面に落ちた。
剣を引きずるように持ち、何度も膝をつきながら、体を引きずるように移動していく。
向かう先はエリスの方ではない。
逃げるのか?
違う。
向かった先は、家の前だった。
彼は扉の前に移動すると、両膝をついて、剣を持ち上げようとして、やはり力が入りきらず、剣先が地面を抉った。
もう、戦えるような状態ではない。
だというのに、前髪の間から覗く瞳だけは爛々と輝き、エリスを、そして俺たちを睨みつけてきた。
「……」
もういいだろう。
そんな言葉が出てきそうになり、飲み込んだ。
エリスがやると言ったのだ。
任せよう。
最後まで見よう。
「それで、どうするつもりなの?」
エリスは構えを解いて腕を組み、見下ろすような姿勢で、そう聞いた。
アルスは、悔しそうな表情でエリスを見上げて、歯噛みした。
「死んでも……ここを、通さない……!」
「そう……流石、ルーデウスの息子ね」
エリスは、クッと顎を上げて叫んだ。
「でも、それじゃ守り切れないわ!」
「……わかってる」
「でも、今のあなたじゃ、守ることは出来ても、守り切ることはできないわ!」
「……わかってる!」
「じゃあ……!」
エリスはまたムッとした表情になった。
その表情のまま、こちらをむいた。
口元をへの字に結んで、腕を組んでの仁王立ち。
でも、あれはきっと、困っている顔だ。
自分の言いたいことが伝わっていない感触に、何を言えばいいのかわからなくなったのかもしれない。
俺がそう判断したと同時に、ロキシーが前に出た。
彼女はアルスの前まで歩いて行くと、しゃがみ、目線を高さを合わせ、言った。
「あなたがすべきだったのは、命に代えてもアイシャを守ることですか?」
「そう……そうだ!」
「勝ち目のない相手に挑んで、力及ばずに死んで、残されたアイシャはどうなると思いますか?」
「……でも、じゃあ、どうすればいいんだよ!」
「ルディは、土下座をしました」
唐突に言われ、俺は体を硬直させた。
「かつて龍神オルステッド様と戦い、魔導鎧も腕も失い、敗北する寸前、どうか家族だけは助けてくださいと、頭を地面にこすりつけて懇願し、それが叶わないとなると、噛み付きました。あの、オルステッド様に」
「……う、嘘だ。そんなの。パパとオルステッド様は、あんなに仲がいいのに」
「昔はそうでもなかったんです」
アルスが俺を見る。
俺はアルスを見て、こくりと頷いた。
息子に土下座の話を聞かれるのはちょっと恥ずかしいが。
しかし、本当のことだ。
「あなたは、どうしますか? このままエリスと戦って死にますか? 死んだあとのことは、どうでもいいですか? あなたが死んだ後、アイシャがどうなっても、本当にいいんですか?」
「……」
詰問口調だが、その声音は優しいものだった。
アルスはロキシーと俺と、そしてエリスを順繰りに見ていき……。
やがて、アルスの手から剣が落ちた。
膝の上から落ちた剣は地面に落ちると、カツンと乾いた音を立てて転がった。
同時に、アルスの目から、ボロボロと涙が落ちた。
それは、力不足を理解しての涙か。
それとも、別の涙か……。
そして、アルスの体から、ふっと力が抜けた。
前のめりに倒れてくる体を、ロキシーが受け止めた。
力尽きて、気絶したのだろう。
彼の足元には、血だまりがあった。
ぼこぼこに顔を腫らし、血まみれで倒れた息子を見ても、俺の心中に不安はなかった。
何故か、誇らしい気持ちがあった。
確かに、アルスは、まだ未熟だ。
まだ弱い。
考え方だって幼い。
戦って、死んでもいい、なんて考えるのも、おかしくはない。
確かに一年前よりは大人になったとは思うが、まだまだ学ぶことの方が多いだろう。
でも、この世界でエリスとタイマンを張って勝てる奴が、一体何人いようか。
利き腕を失い、エリスにマウントを取られて殴られて、心折れずに戦い続けようとする者が、何人いようか。
俺には、そこまでするアルスの気持ちがわかってしまった。
アルスは今、俺がオルステッドに挑んだ時と同じ気持ちで、この場に立っているのだろう。
最後まで、死んでも、アイシャを守ろうとしていた。
確かにその方法や行動は間違っていたかもしれない。
でも心構えだけで言うなら、きっとあの時の自分と同じだ。
そう考えるだけで、心の底から湧き上がってくるものがあった。
今すぐアルスを抱き起こして、ほめてやりたかった。
よくぞ戦い抜いたと褒めてやりたかった。
おかしな話だ。
本当なら、駆け落ちして、色んな人に迷惑を掛けたこととかを、叱らなきゃいけないことはたくさんあるはずなのに……。
アルスはもう、小さな子供ではない。
独り立ちするにはまだまだ間違いだらけだろうけど、ちゃんと成長している。
そう思うと、なんだか嬉しい気持ちになる。
やっぱり俺は、甘いのだろうな。
「……シルフィ。この場は任せても?」
「アルス君には、何も言わないの?」
アルスはいいだろう。
彼がどうしたいのか、聞くことができた。
彼の覚悟も、見ることができた。
彼は力量と決意を示してくれた。
あとはロキシーが言ったことが全てだ。
俺も異論は無い。
アイシャとアルスの関係については生理的に受け付けない感じはするけど、それはアルスにぶつけるべきではない。
その他に言うべきことはたくさんあるが、後でたっぷりするとしよう。
ここに来た理由は、アルスの成長を確かめるためだけではない。
アイシャと話をしにきたのだ。
「まず、アイシャと話したいんだ。二人っきりで」
「……そっか。わかった。任せて」
シルフィは俺から王級治癒魔術のスクロールを受け取ると、アルスの斬れた腕を回収、三人の元へとが駆け寄っていった。
エリスの方を見ると、こちらの方を見ていた。
目配せをすると、はやく行きなさいとばかりに、家の方に顎で指図された。
ロキシーもまた、俺と目が合うと、頷いてくれた。
俺は三人に頷きを返すと、家の中へと入った。
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