記 憶 の 社 会 史
~全共闘運動とは何だったのか~
はじめに
今から30年以上も前、1968年から69年にかけてのわずかな期間ではあったが、全国的な規模で、大学紛争の嵐がとおり過ぎていった。その紛争のなかから、自然発生的に「全共闘」という大学当局や機動隊に対峙する学生の共闘集団がつくられた。
私はかねてから、戦後学生運動のなかで日本の政治・社会運動に光彩を放った「全共闘」とは何だったのか、という問題意識にとりつかれていた。その運動が、何によって展開したのか。行動様式、組織原理、その思想、背景とはどのようなものだったのか、ということである。また、政治党派(セクト)との関係はどのようなものであったのか。
しかし、全共闘を「新左翼」と呼んでいいのかどうかさえ分からなかった。
手さぐりのうちに次第に分かってきたのは、戦後、日本の資本主義が回復、高度化していくなか、飽和して充満した社会の空気が、それ自体の圧力によってはじけた現象ではなかったのか、ということだった。だが、その歴史的な根拠、地下水脈の源流と行き先はとなると、依然、分からないことが多かった。
はたして、左翼運動と呼んでいいものか。それも新左翼の系譜のなかに入れていいのか、というのが最大の難関だった。もし「新左翼」と呼ぶなら、日本のおける新左翼の歴史とともにスターリン批判(日本共産党批判を含む)まで遡らなければならず、その意味では反スターリン主義の運動の一環として分析しなければならない。しかし、少なくとも、全共闘のなかでは、いわゆる新左翼におけるほど、直接的には反スターリン主義の問題は意識にのぼらなかったのではないか。
そこで、もし、これらの設問に答えようとするならば、まず、自分の位置を見定めねばならない、とおもった。少なくとも、自分は左翼マルクス主義者ではない。まして、ロシア・マルクス主義や中国共産党の同伴者でもない。とするなら、一体、全共闘にとりつかれた自分とは、一体、何者だったのだろうという疑念が、頭の中をめぐっては消えていった。だが、自分は、この全共闘運動にわずかながらでも関わりをもった世代(1970年に大学入学)である。そして、よしあしは別として、党派政治には一切の関わりをもたなかった。
では、このノンセクト運動という全共闘の現象の本質のなかから首をだして、左翼的というものの全体をみわたしてみればいいのではないかとおもいいたったとき、セクトだった人からは視点がちがうといわれるかもしれないが、全共闘は、厳密にいうと、それ以前の全学連など、学生運動の左翼的、あるいは新左翼的な潮流とは全く容貌が異なるということに気づいた。
また、そうでなければ、ソ連邦が崩壊し、その「社会主義幻想」が瓦解した今、それに追随したような思想を、まともにとりあげるに値しないと考えた。
私の結論は、全共闘は、いわば、新左翼と同じではない、だからこそ左翼であった。もっといえば、(新)左翼よりも左翼的だった。私の立場はこれで言いつくされる、とおもえた。
新左翼と呼ばれるとき、その存在のイメージは、すぐ党派と結びつく上、その勢力には、必ず、スターリン主義など旧左翼の母斑がついてまわる。新左翼とよばれるからには、旧左翼(ソ連派・中共派)のビジョン、革命論の根底的な見直しをしなければならないにもかかわらず、それは不可避である。戦後の新・旧左翼は、どの党派であろうと、その例外は考えられないとおもう。スターリン主義の母斑をつけた左翼はすべて、1989年のベルリンの壁崩壊と91年のソ連邦崩壊とともに、歴史の記憶の影にうちすてられた、といってよい。
全共闘はもちろん、社会主義革命をめざしたものではなかった。そして、ノンセクト・セクトでもなかった。だから、当然のことながら新左翼でもない。とかく全共闘運動は、新左翼運動と重ねて論じられることが多いが、新左翼というセクト集団とは、厳密な一線を画するべきである。また、微細に辿っていくと、全共闘運動も一様ではない。日大全共闘と東大その他のそれとは明らかに闘いの質がちがっている。
たしかに、全共闘は、あらゆる戦後的権力、権威、そしてタブーを破るという‘60年安保以降の、私的な「身体性」を初発の原動力とした定義においては、左翼的であったにはちがいなかったが、その原点を純化した意味において、いわゆる戦後のいかなる党派の雛形にもすくいとられない、いわば「超左翼」であったというべきである。
なぜ、超左翼かというと、第一に全共闘は、一般学生をまきこんだその大衆性において、いかなる既成集団ともちがっていたこと、それにくわえ、ヘルメットとゲバ棒やバリケード・ストライキ、大衆団交などの行動様式が、斬新であったことである。思想的には大雑把にいって、直接民主主義とでもいうほかないものであったが、ただ、行動のラジカリズムとその組織のスタイルが、戦後民主主義の枠組みを大きくはみでていた。いわば、行動様式にしろ組織形態にしろ、従来の左翼的な常識を超えていた。ただ、直接行動のラジカリズムというその一点においては、まちがいなく、「ヘルメットと角材」が登場し、新左翼が「組織された暴力とプロレタリア国際主義の前進」とよんだ、1967年10月8日の羽田闘争のスタイルを継承していた。その意味において、新左翼が全共闘の発芽の土壌になったのは事実である。
私は、こういう視点をもって、新左翼との接点、背反、亀裂という観点から、戦後の学生左翼運動と全共闘運動の総体を辿りたいとかんがえている。
おそらく、全共闘が登場するためには、新左翼を含めた愚劣なハード・ソフトスターリン主義者が、歴史の舞台から退場しなければならなかった。そこで、新・旧左翼を含め、すべての左翼の歴史は終わったのである。それ以降、超左翼は出現していない。そのうえ、もしかしたら、全共闘運動が消滅したとき、日本の左翼運動は消滅したのかもしれない。それ以後、しばらくは飽きもせず、ハード・ソフトスターリン主義者の愚行が再演された。また、それ以上に日本の戦後という歴史的時間は急旋回をとげたのではないか、この点を確かめたいという意味において、全共闘運動とは、私にとって、後から気づかされたものとしての体験思想にほかならない。その際、私がとりだしたいのは、ベルリンの壁の崩壊によっても、ソ連邦の崩壊によっても、風化されない記憶である。
そして、このドキュメントが記憶の社会史と呼べるなら、大仰な検証でも回顧趣味でもない地点で、できるならば“善意の無機質”の方法とでもいうべきものを文体に含ませたかった。
1 左翼の変容=新しい左翼の登場
「新しい左翼」の登場にあたって「スターリン主義批判」はその合言葉だった。
現在に至るまでの日本の左翼運動の歴史において、日本共産党に代表される既成左翼と「新しい左翼」は亀裂をうみだし、スターリン主義批判をめぐってその対立を深めてきた。その激しい対立の源流は、第一にソ連のスターリン批判の衝撃に端を発し、1960年の安保闘争において頂点に達した「前衛神話」の崩壊という大転換点にさかのぼらなければならない。その本質を理解しようとすれば、スターリン主義からの脱皮と新たな革命理論の模索の諸潮流に詳細に立ち入ることが必要になってくる。それは、革命概念やイメージの決定的な変容の経路を辿ることを意味する。
1955年7月の日本共産党第六回全国協議会(六全協)での極左冒険主義自己批判および1956年2月のソ連共産党第20回大会のフルシチョフ報告におけるスターリン批判、それに伴うスターリン主義批判は、日本共産党(以下「日共」という。)によって牽引されてきた戦後日本の革命路線が、外側からのインパクトと内側からの批判によってゆるがされたという意味で画期的な事件であった。
特に、スターリン批判は当時のソ連共産党第一書記のフルシチョフが、過去30年余にわたってソ連共産党および国際共産主義運動の最高指導者として君臨してきたスターリンによる個人独裁、個人崇拝、大量粛清などに対する赤裸々な暴露と批判を契機にしたものであった。この権力の中枢からのスターリン批判を決定的なくぎりとして、スターリン主義という20世紀の妖怪から左翼運動が解き放たれなければならないときがやってきたのである。
このスターリン批判は死後3年を経て、レーニン以後の国際共産主義運動において絶対的権力をもってきたスターリンをこの玉座からひきずりおろしたという点で、世界史的な事件であった。これに呼応するかのように、56年6月ポーランド、10月ハンガリーにおいて民衆暴動が勃発し、ソ連軍が武力介入することによって、スターリン批判は東欧諸国に大きな波紋を広げていった。
一方、わが国の革命運動の歴史上においては、「新しい左翼」の登場につながるこの時期を解明するためには、「共産主義者同盟」のはたした役割をかんがえることなしにはできない。「新しい左翼」というものを、日共や日本社会党にたよらず、独自の社会主義革命を志向する政治集団あるいは潮流としてもちいる場合、やはり「共産主義者同盟」の結成とそれにより指導された1960年安保全学連の意義をまたなければならないのだ。その独自の生成-発展-解体のドラマのなかに、それは凝集されてあらわれている。
「新しい左翼」成立の母体となった日本の戦後学生運動は、当時、まだ米軍の占領下にあった1948年9月全日本学生自治会総連合(全学連)の結成によって、その幕をあけた。当時は、第二次大戦のあとはじまった戦後世界をめぐっての米ソ二大陣営間の対立が激化していた。ソ連は、1948年4月よりベルリン封鎖をおこない、東西の緊張はたかまっていた。中国では46年より国民党軍と人民解放軍との間に内戦が勃発していた。中国の内戦に対応して、アメリカの支配をすすめようと南朝鮮において大韓民国が成立した。また、それに対抗して、48年9月には朝鮮民主主義人民共和国が成立し、南北対立が決定的となった。49年10月には中華人民共和国が成立する。これに符牒をあわせるかのように、アメリカ政府の対日占領政策も転換しつつあった。マッカーサーの非武装・中立、民主化政策から、ソ連の「共産主義勢力拡張政策」が世界の危機をうみだしているとの認識を前提に、日本を政治的に安定化し、共産化をふせぐために、徐々に、再軍備や経済復興・経済安定に力点をおくことになった。こうして、米ソの冷戦構造のなかに、日本がくみこまれることになり、日本の政治・経済路線は転換をしいられることになった。アメリカの対日占領政策の転換とともに、1948年10月には、第二次吉田内閣が成立する。この内閣はGHQとアメリカ政府の支持をうけて、54年12月まで長期政権となった。このころの国民生活においては、ようやく食料事情は好転しはじめていた。生産回復もおしすすめられていたが、インフレが激しく、国民の政治批判は渦巻いていた。
創成期の学生運動は、全学連初代委員長の武井昭夫による「層としての学生運動論」にもとづいていた。この理論の核心は、社会的な層として存在している学生は、固有の先進的エネルギーをもち、そのエネルギーの源泉は、日本の社会構造が帝国主義的発展段階に到達しているとはいえ、アメリカの深い隷属下に根拠をもっていると規定した。そのために、「層としての学生」を、平和と民主主義をめざす闘いへと組織し、その先進的な役割をもって、国民階層との連携のもとに、階級闘争の一翼に位置づけていくことが可能であるとの考え方を示したことによる。しかし、こうした戦闘的な学生運動論は、日共中央の学生運動論とは、その根底から対立するものであった。全学連のこの方針は、地域人民闘争の枠組みをこえていたから、全学連の誕生は当初から、日共中央と軋轢をかかえていたのである。
日共の学生に対する指導方針は、プロレタリア一元論からする「学生は小ブルジョアのインテリ分子」という規定であり、「層としての学生運動」の独自性を否定するものであった。このように、戦前-戦後の日共型学生運動論は、学生運動がはたす固有の戦闘的役割を否定し、過少評価を与えてきた。その意味で「層としての学生運動」は、学生運動がはたすべき正当な役割を、はじめて理論化した点で画期的な意義をもった。やがて、この対立が、反レッド・パージ闘争の過程で表面化することになる。このとき、党中央の全学連に対する批判は、「全学連党的偏向」、「極左トロツキスト的偏向」というものであった。
ところで、50年1月6日、コミンフォルム機関誌は、論評「日本の情勢について」を発表した。このなかで、アメリカの対日占領政策が転換されることによって、日本の再工業化による復興を促進し、冷戦構造のなかでアメリカの極東戦略を分担させようとする政策を批判した。これをうけ、日共指導部にたいしては、「日本における外国帝国主義者の植民地化計画と日本反動の裏切的反人民的役割」に向けて闘うことをおこなわず、日本の人民をあやまった方向にみちびいているとした。さらに、日共の指導者野坂参三の「占領下平和革命論」を、アメリカ帝国主義賛美であると否定した。これを契機に、日共はコミンフォルム論評に対する所感を発表した徳田球一ら、党中央=所感派と、コミンフォルム批判にそった立場からソ連共産党を中心とする国際共産主義運動に忠実な勢力である反中央=国際派の両派にわかれ、内側からみても不可解な組織内部対立がおこる(50年分裂)。いまかんがえると、コミンフォルムの意向ひとつで、日共内部が右往左往する様子は滑稽だが、当時の情勢のなかでは、ソ連を支柱にした国際共産主義運動の威圧が、いかにひとびとの幻想にくるまれていたかがよくわかる。
この過程をつうじて、やがて党中央=所感派は、平和革命から反米(帝)闘争へ方向転換し、コミンフォルム批判以来、反帝闘争を主張する国際派を「極左冒険主義」と批判して、日常闘争をおこなってきた所感派が、武装闘争と軍事方針をふりかざすようになり、国際派を「右翼日和見主義」と非難しはじめた。逆に、これまで所感派を、「右翼日和見主義」となざしてきた国際派が、所感派を「極左冒険主義」とよぶにいたるという逆転現象がうまれた。この党内対立は、51年8月10日、コミンフォルム機関紙による所感派50年テーゼ草案(二段階-民族解放武装闘争、日共四全協決議)支持により、国際派の無条件屈服で終結し、全学連指導部における学生党員多数派グループであった国際派は、その指導権を所感派にあけわたすことになってしまう。
この間、50年6月6日、マッカーサーは、日共中央委員会の解散と24人の公職追放を指示した。これを機に、日本にもアメリカ本国と同様のレッド・パージの嵐がふき荒れ、これにより日共は地下非合法活動に潜行した。おりしも1950年6月25日、朝鮮半島で内戦(朝鮮戦争)が勃発した。北朝鮮軍が突如38度線を突破して韓国に侵攻し、韓国軍は敗走した。アメリカ政府は、6月27日、国連安保理事会に提案し、韓国を支援することを決議した。こうしてアメリカ軍を中心とする国連軍と、北朝鮮軍それに中国人民義勇軍の参戦により、本格的な国際紛争となっていった。米軍を中心とする16の国連軍派遣国の派遣人員は、ピーク時で50万人をこえ、53年7月の休戦協定調印までに使用された弾薬は、太平洋戦争で米軍が日本軍に対して使用した量を上回り、軍人、一般人を含め死者、行方不明者は500万人に達した。これに伴い、開戦後まもなく、8月10日、アメリカの要請により、日本でも7万5千人の警察予備隊を創設と、8千人の海上保安庁の増員が決められた。これが、日本再軍備の第一歩であった。警察予備隊はやがて、保安隊となり(52年)、54年7月には自衛隊が発足した。
朝鮮戦争開始とともに、レッド・パージは本格化していく。言論、マスコミにはじまって官庁、民間の全産業にまで1万数千人におよんだ。その間、レッド・パージにたいするはげしい抵抗を組織したのは全学連で、試験ボイコット、全国大学ストなどの反レッド・パージ闘争をくりひろげた。
朝鮮戦争は、敗戦後5年にして、日本経済に特需ブームを産み、巨大な利得をえて好景気をもたらし、急速な経済復興をなしとげつつあった。朝鮮戦争による特需は、物資としては、兵器、石炭、麻袋、自動車部品、毛布で、サービスでは建物の建設、自動車や機械の修理、荷役や倉庫、電信・電話などであった。また、敗戦によって需要を失っていた軍需工場が、息をふきかえした。これにより51年にはすでにGNPが戦前水準を上回っていた。一方、政治的には講和条約の交渉が進展していた。そして、1951年9月8日、サンフランシスコで、48か国との間で対日講和条約が調印され、連合国との戦争状態の終結が宣言された。日本は主権を回復し「独立」宣言をし、同日に日米安全保障条約も調印された。
所感派全学連は、こののち1955年7月の六全協まで、52年火炎ビン武装闘争、53年総点検運動、54年歌声運動と「血のメーデー事件」、山村工作隊、反基地闘争、帰郷運動、査問、テロ・リンチ事件等を経験しながら、右から左へゆれうごく極端な迷走をたどることになった。
やがて、ソ連指導部の交替にともなう“雪解け”ムードにみあって、極左軍事方針の転換をはじめた日共は、六全協(第六回全国協議会)で「大衆との結合」方針を打ち出し、大衆路線への全面転換をおこなった。所感派全学連もこれにより、55年9月の全学連第7回中央委員会方針により、自治会の役割を“学生の日常要求に答えるサービス機関”と位置づけたのである。トイレに石鹸を備えつけるというサービスを運動としたのもこの時期であった。
55年の11月には、左右社会党の統一と期を同じくして、民主党と自由党が保守合同して自由民主党となり、その後、日本の政治は、保守、革新の二次元に再編されていく(55年体制)のもこの時期である。ちょうどこのころ、巷では湘南の海、ヨット、アロハシャツなどのアイテムで表現される若者たちの風俗が、「太陽族」として時代の気分をとらえていた。石原慎太郎の『太陽の季節』が芥川賞を受賞したのは56年1月だった。この年、経済白書が「もはや戦後ではない」と書いたが、『太陽の季節』はそんな時代の明るい雰囲気をただよわせていた。
所感派全学連の日常サービス路線とは別に、反戦学生同盟に依拠した学生党員グループは、56年6月、全学連第9回大会を開催し、日常要求主義を全面否定し、平和擁護闘争を第一義に掲げ、再び、闘う全学連の再建となった。この再生をになうこととなった反戦学生同盟は、49年に「全国的に統一された行動綱領と組織をもった統一戦線組織」として結成された独自の学生組織であり、のち1958年5月、社会主義学生同盟(社学同)と改称される。
この再建全学連が最初に取り組んだのが、立川基地拡張に反対する砂川闘争である。政府が、56年10月1日~16日の第二次測量計画を発表し、全学連は、反対同盟支援の組織的取組みにのりだし、10月5日以降、連日3千人以上の学生を動員し、測量阻止のスクラムを組んだ。そのピーク時、雨の中で反対同盟、全学連学生、労組員らと2千人の警官隊が衝突し、反対派に重軽傷者1,200人、検挙13人をだした。反対派の頑強な抵抗と警備の政治問題化につれて、ついに政府側が折れ、鳩山内閣が測量中止を声明した。こうして第一次砂川闘争は勝利に終わり、全学連としては50年の反レッド・パージ闘争以来の勝利であった。
この砂川闘争の過程をつうじて、運動路線をめぐる対立が、日共の党内闘争として発展していく。この背景には、もちろんソ連共産党第20回大会でのスターリン批判と平和共存路線の提唱、ハンガリー事件など、国際共産主義運動上の諸事件をめぐって問われることとなった、現代マルクス主義そのものの根本的な再検討が介在していた。ソ連共産党はその過程で「平和共存路線」を提起し、それとともに、日共も、また、56年党章草案=民族独立民主革命論により平和共存路線へと大きく舵をきりつつあったのである。
1958年1月の東大細胞の機関誌『マルクス・レーニン主義』は、山口一理(佐伯秀光)の論文で、この日共路線を体系的かつ全面的に否定し、ロシア10月革命の教訓から忘れ去られた「世界革命」路線を復権させ、人民戦線戦術の没階級性を批判した。この論文を直接的な契機にして、東大細胞を中心とした学生党員グループは、党中央との公然たる党内闘争を開始し、1年後には「学連新党-共産主義者同盟結成」へとつきすすむことになったのである。
5月、全学連は第11回大会を開催し、「平和擁護闘争・反帝実力闘争路線」を確立した。これにたいして、日共中央を支持する全学連反主流派は「幅広い統一戦線」を主張して、実力闘争路線に対抗し、主流派と激しく対立した。
一方、日共中央は全学連大会終了の翌6月1日、大会代議員グループ会議を招集し、事態収拾にのりだしたが、これに反発する学生党員との対立が激化して、党中央と暴力的衝突にまでエスカレートし、学生党員グループは、党中央委員会弾劾決議をだした。この6.1事件以後、日共中央は、大量除名処分を出し、連日、“反トロツキスト・キャンペーン”を展開し、両者の対立はますますぬきさしならないものになった。
そして、全学連は、第11回大会に基づく闘争方針をもって、岸内閣がすすめていた反動的政策にたいして、9月勤評闘争、10.28、11.5警職法粉砕闘争を闘うなかで、別党コース、学連新党の結成を確認し、1958年12月、党中央との最終的な訣別を遂げる。すなわち、日共中央から袂を分かった共産主義者同盟(第一次ブント)の誕生である。ここに日本の左翼運動史は、「新しい左翼」の登場という新たな段階に立った。
共産主義者同盟を形成した学生党員グループは、57年ごろから活動していた日本における最初のトロツキズム運動である日本革命的共産主義者同盟グループをつうじて、トロツキズムの洗礼を受けながら、独自にスターリン主義批判を展開していた。だから、既成前衛党からの訣別する過程において、最大公約数的な立場としては、ソ連共産党内の左翼反対派=トロツキズムの立場からスターリン主義批判を行っていた。スターリンの一国社会主義論に対するトロツキーの世界革命論、二段階革命論に対する一段階革命論、永続革命論などのトロツキーのテーゼは、マルクス・レーニン主義の復権を掲げて党建設をめざしたブントの基本的な立脚点だった。
この対立は、スターリン批判をきっかけに、60年代に表面化したソ連共産党と中国共産党の間の対立を、ある意味で先取りした性格をもつものであった。いわゆる中・ソ論争は、両者が互いに、ソ連を「社会帝国主義」、中国の毛沢東主義を「社会排外主義」と批判しあった。1960年にソ連が中国援助を一方的に停止したことにより、中ソ関係は急速に悪化した。日共の構造的改革派がソ連派のフルシチョフ型の論陣を張ったのにたいして、ブントは中共派がレーニン主義を教条主義的に護持する構えをとっていたのと、ある意味で似た論点で、世界革命戦略論上の対立の構図があったといえなくもない。ただし、当時のブントの立脚点は、すでに、中共派理論の水準をいくつかの点でぬきんでていた。
中・ソ対立の背後には、当時の国際共産主義運動の複雑な歴史抗争が深くからんでいた。もはや、この時代には、ロシア革命後の1919年に、レーニンがつくった第三インターナショナル(コミンテルン)の革命路線では、第二次大戦後の「国家独占資本主義」の世界体制にたいして、有効な対抗方針をだすことができなくなっていたのである。つまり、コミンテルンの革命コースは「帝国主義戦争を内乱へ」というスローガンに代表される方針をとったものだが、帝国主義戦争という資本主義体制のカタストロフに乗じて、その混乱を、内乱に転化するというテーゼが、現実性を失っていたのである。
いわば、大戦後、圧倒的な優位に立ったアメリカを中心にした世界市場の統一と一元的な反共体制の確立という事態が、帝国主義相互間の戦争という命題をつきくずしてしまったのである。戦後しばらくの間は、米ソ間戦争の危機感が極めて高く、米ソ戦争がまじかに迫っているという現実的な脅威があり、コミンフォルム(コミンテルンの解散後1947年に結成)が志向した平和擁護闘争は、「帝国主義戦争を内乱へ」というスローガンが変形した求心力をもちえた。しかし、米ソ間戦争の現実性が薄れていくにつれて、帝国主義戦争を前提としたコミンテルン型の革命コースはもはや時代にそぐわなくなってきたのである。しかも、現代資本主義そのものが、マルクスやエンゲルスそしてレーニンの予測をはるかに超えるたしかな変貌を遂げていた。
マルクスの生きた時代の「自由競争」、レーニンの時代の「帝国主義」から「国家独占資本主義」へと変遷をとげ、独占的巨大企業の市場操作によって、市場経済の法則がもはや古典的な形態では貫徹できない事態をまねいていた。しかも、各経営体と国家とが癒着する機構が成立するとともに、国家が資本の総過程に介入して、それを規制する構造を形成しつつあった。この資本主義の枠内においては、擬似的であれ、資本の無政府性が解消され、かつての恐慌が抑制されるばかりか、労働組合の組織的規制も掌中ににぎった独占資本のメカニズムは、勤労大衆の絶対的窮乏化や失業者群の傾向的増大、経済恐慌の周期的発生等々が、古典的な現象形態をとって存在しなくなったのだ。ここにおいて、コミンテルンの革命コースに対する根本的な再検討が要求されることになった。
この事態をまえにして、コミンテルン型革命路線が、現代資本主義の諸条件のもとではそのまま採用されないということを明確な形で自覚した部分から、構造的改革派・ソ連派が登場する。彼らの思惑は、先進資本主義国においては、古典的な暴力革命は不可能であり、また、不必要であるとの認識の上にたっていた。先進資本主義諸国における暴力革命はそれの誘発する反革命干渉戦争のエスカレートにより全面戦争に帰結し、それが世界核戦争にいたることにもつながりかねない。
そして「平和共存」を続けるうちに、米ソ間の力関係が逆転する。なぜなら、ソ連圏が共産主義への方向を加速度的に発展しつつあり、両体制間の優劣がはっきりしてくることが想定されるので、その結果、日常的に推進しておいた「構造改革」を基盤にして、もはや反革命反乱と干渉を予防しつつ、平和的に革命を遂行しうるというのである。この構造改革路線とは、資本主義体制の内部に“準社会主義的な構造”を確立することに積極的な意味づけをおこない、日常的改良闘争を通じて現代資本主義が大量に産みだした中間諸層との同盟をはかっていくという構想であった。また、常備軍の中立化、人民政府による掌握と改編など、プロレタリア独裁の概念の曖昧化とも重なって、もはやレーニン主義的な労農兵ソヴェトは想定されることはなかった。
彼らがよりどころとするのは、ソ連社会の加速度的発展によって、やがては両体制間のバランスが逆転する予測であり、そのソ連の共産主義が、大衆の圧倒的部分の支持をとらえて「平和移行」への条件が成熟していくものと期待された。これらの主張が、第二インターの系譜につらなる社会改良主義かどうかの歴史的判断は、ソ連という「プロレタリア国家」の誕生を、歴史の枠組みの中に組み入れるかどうかで、大きく異なってきた。ともかく、日共の構改派が期待したのは、ソ連=進歩(平和)勢力という護符であったのはまちがいない。
しかしながら、彼らのいだいた進歩への期待や予測にてらして、はたしてソ連社会は地上の楽園なのか?共産主義への方向性をもって、正常に発展しつつある社会なのか?ここでは、この第一前提が問われなければならなかった。その結論次第では、スターリン批判によってもたらされた「平和共存路線」は、ハード・スターリニズムからソフト・スターリニズムへの衣替えにすぎない、との疑惑がついてまわるからだ。
一方、このようなソ連派にたいして、レーニン・コミンテルンの理論側から、頑固に従来の革命路線を継承しようとする反動がうまれた。1960年4月、中ソ論争の口火をきった中共の論文『レーニン主義万歳』は、レーニン主義の護持を高々と掲げた。毛沢東の革命路線もコミンテルン型革命の変種にすぎないもので、「帝国主義戦争を内乱へ」、ソヴェトの建設という構想を例にあげるまでもなく、コミンテルン綱領の線にそって展開されていた。毛沢東は農村解放区から都市にせめのぼる方式をとったことなど、必ずしもレーニンの教条主義べったりではないが、その後進国革命の路線は、コミンテルンの植民地解放闘争の意義づけを極端な形で前面におしだしたものといえる。世界革命の総路線のうえからいっても基本的な世界認識は、レーニン・コミンテルン方針にもとづいていた。これをもって、構改派・ソ連派に古典的命題を突きつけて、彼らを「修正主義」と論難したのである。
この毛沢東主義=ハード・スターリニズムにも、当然のことながらアポリアがあった。その路線は後進諸国においては、一定の現実性があるかもしれないが、後進国が解放されたとしても、そのことによって、先進資本主義国の体制に決定的な打撃をあたえることができる構造が果たしてあるのか、という問題だった。先進資本主義諸国においては、農村解放区を拡延していって都市を包囲するという戦略は、およそ現実性をもたない。その意味からいっても、中共派は、構改・ソ連派の議会主義、改良主義、日和見主義にたいして、レーニン主義の命題を教条主義的に対置するのみであって、現代世界の歴史的現実をトータルに分析しているとはいえず、資本主義世界の変貌に眼を覆い、ひたすら教条を復唱しつつ、理論を空洞化させることに拍車をかけた。
世界のマルクス主義運動が、中・ソ対立を頂点として分裂抗争に陥っていたのは、このように資本主義世界の現状分析や、それにもとづく革命路線の迷走に原因をもっていた。これらのハード、ソフト・スターリニズムの問題を無視できないのは、のちに全共闘運動の崩壊後、新左翼各党派の中でむしかえされる歴史の悲喜劇を体験しなければならなかったからだ。しかし、当時の情勢の中で大切なのは、少なくともこれら旧左翼のように、スターリン主義の残滓をひきずった革命路線によっていたのでは「社会主義革命」の完遂は不可能であるという事実認識であった。ここにおいて新しい革命路線が要請されていた。そして、この歴史的要請に応えるものそれが「新しい左翼」でなければならなかった。
これらの国際的な運動の背景において、わが国のブントが、一段階革命論や世界革命論を主張したのは、単にレーニンやトロツキーなど、ロシア革命の指導者を模倣したものではない。彼ら学生独自の戦後日本の現状認識と経済的政治分析にうらうちされていた。
そして、彼らの理論が、世界的な水準に達していたことを証明していた。それは、理論の分岐点が、高度経済部門と中小企業等遅れたといわれる部門の関係をどう関係づけるかによって産まれた。資本主義生産過程における一国経済の規模においては、生産性の高い部門が低い部門を牽引していくのは自明であり、低い部門は高い部門に吸収されるか、より生産性を高めることによってか、高い水準を維持しようと回転する。いずれにしても、資本の運動は、高い生産性の部門を軸にして再生産しようとする。これを、歴史の時間性のなかに置きなおしてみると、一国内の先進国と後進国の生産性の差異自体が、先進国の基準にそって変化していくことであり、決して、逆はありえない。経済的領域においては、水は、必ず、高いところから低いところに流れる、これに例外はない。だから、資本主義の法則性にしたがうなら、経済的効率、生産性の高いところを基準において、歴史はみなおされなければならないのだ。俗にいう日本型生産の二重構造の強調は、生産性の高いものと低いものが、メダルの表裏であることを見落とした結果であり、メダルの裏面は、より生産性の高い経済効率に従属するものであり、牽引されていく。この点については、漠然とした予感めいたものであったかもしれないが、歴史、経済に対する感受性の問題であり、戦前世代を中心とする党派との分岐は明瞭であった。
時代は急速に変貌しつつあり、この原理的認識は、よりあからさまに証明されつつあった。
1950年代後半のこの時期は、戦後日本経済の急速な回復期であり、のちの高度成長経済の基盤がつくられた。1955年に発足した経済企画庁は、「経済自立五か年計画」を立案した。この年から57年にかけての大型景気は、有史以来の好景気ということから、「神武景気」と呼ばれ、第一次の造船ブームをつくった。この好景気は、「なべ底不況」をはさんで「岩戸景気」(1959~61)につづき、設備投資競争の時代になっていく。民間設備投資のおもな対象は、鉄鋼、石油化学、自動車など、新鋭重化学工業であった。特に、鉄鋼とともに重化学工業化の中心をになったのは、家電、自動車など耐久消費財だった。これらの量産体制の確立は輸出における重化学工業の比重を高めたほか、大量の労働力の集積など、社会構造の変化をともなった。そして、メーカーの直販をつうじて流通革命の一翼をにない、国民の消費革命の引き金にもかかわっていく。また、エネルギー革命も一方で進んでいた。1955年から60年の間に、石炭の供給構成比は49%から42%へ下降し、石油は20%から38%に上昇していた。
高度成長の開始とともに、労働力需要が急増していた。新鋭重化学工業にもとめられていたのは半熟練の若年労働力であった。高度成長は若年層を中心とする大量の労働力を大都市に集め、東京都で20%、大阪府で19%の人口膨張となった。また、企業の管理部門の拡大と大都市集中は、大都市のホワイトカラー層を拡大した。消費革命の先駆者的役割をになうことになるのも、これら大企業のホワイトカラーであった。彼らは「三種の神器」といわれたテレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫など家電製品を中心とする消費者意識を急速にもちはじめていた。家電製品のなかで人気の一番高かったのはテレビである。1953年にNHKと日本テレビが本放送を開始した。それからテレビが急速に普及し、普及率が50%をこえるのは60年であった。ちょうど、59年に皇太子の結婚というイベントを控えていることもあった。その一方で、映画は58年にピークを迎え、テレビの台頭とともに衰退していくさきがけともなった。職場の変化とともに労務管理制度が生まれたのもこの時期である。国民の所得は年々増大し、実質消費水準は25%も上昇した。食生活では肉、牛乳のほかパン、めん類などの副食費が伸びた。インスタントラーメンが発売され爆発的人気をはくしたのは1958年であった。
彼ら戦後世代のブントの活動家の頭の中では、スターリン批判からはじまった反スターリン主義運動と一口にいっても、さまざまな思惑がいりまじっていたのは確かである。その中心にはもちろん、トロツキーを中心とするソ連の左翼反対派の立場からのもの、ロシア革命当初のレーニンの思想の帰れと原則的立場を主張するもの、あるいはソ連が社会主義国ではなく官僚的な国家資本主義国家にすぎないとする立場や、コミンテルンなど国際共産主義運動に批判的な立場などを含め、イデオロギー的、組織論的にも錯綜していた、といえる。従って、新しい左翼として反スターリン主義を共通項として掲げるといっても、正確には革命イメージの変容の中身は、おそらく統一したまとまりをもつものではなかった。だが、少なくとも俗にいわれるように、ブントはトロツキー教条主義ではなかった。旧左翼のスターリン主義を払拭するためにトロツキズムを利用したといってもよい。だからこそ、雑多なイメージが噴流となって新しい左翼運動の疾走を煽ったのである。
しかも、なんといっても、かれらの政治理論上の社会的ビジョンには、旧左翼にはない斬新さがあった。当面の敵として据えた国家独占資本主義にたいしては、戦前、戦争期、戦後を通じて、一貫して独占資本の高度化、国家権力化の過程としてとらえ、意識的に現代日本の独占資本の国家権力化の段階を分析していた。それによると、現在、広汎に農業その他中小企業などの残存物として資本主義以前的な生産関係が残っているのは、独占資本にとって必然の前提(補完物)とみなす現状分析をしており、近代と非近代が複雑にからみあった日本的な二重構造が相補的になりたっていることを分析の基本においていた。だから、封建的社会関係を残したまま、帝国主義国となる後進資本主義国においても、トロツキーのいうように「プロレタリア革命」以外に、いかなる社会的矛盾の解決もありえないという結論をみちびきだすことができた。そして、この現状分析からは、現在の政治状況に対しても独自の着想がひきだされる。
たとえば、日米安全保障条約にしても、その改定交渉は日本の独占資本主義体制がその発展の過程で、米国独占体制につきつけた独立化の要求によってはじめられたもので、その妥協点は、双方の独占資本の冷静な利害の均衡にもとめられるべきものあるとした。だから、この安保改定によって、日本の政治的・経済的な従属が深まったなどという見解は、単にドグマにすぎないとされる。そして、安保条約の問題を、日本資本主義発展の内在的論理と市場争奪戦における国際ブルジョアジー間の協定の交叉する地点の問題として理解し、「わが国の従属か独立か」、「戦争か平和か」の問題と結びつけるような発想を厳しく退けている。彼らには、政治権力と社会構成と生産様式とを有機的な環として直線で結ぶ直接性がみられるだけに、ただ国家意志だけをぬきだしてきて、「安保条約改悪のもくろみをはらむアメリカ=岸体制」などと強調している旧左翼の連中よりも、はるかに正当な現状把握がおこなわれていた。
このような若い世代の斬新なビジョンを生んだ背景としては、彼ら戦後に育った世代が、訓詁学的なマルクス主義解釈から、あたうかぎり自由な発想で現実社会を洞察していたことと併せ、何よりも、戦争をとおして国家とか国家意志などが、精神的な規制力として、その思想形成の中に傷を刻みこんでいなかったことがあげられる。ここには、国家的な規制力や民族的な封鎖性を解かれ、高度化した戦後の独占社会の中で、アトム化してばらばらに切り離された個的な意志によって、自己形成を遂げたものだけにみられる独自の大衆社会把握の方法がみられた。時代は、次第に膨張する大衆社会を招き寄せていたのだ。
こうして、若いブントは、学生運動の左翼的展開を直接的に極限志向することで、これに桎梏となってきた日共中央との全面的な党派闘争を決意することによって、学連新党の結成に踏みきった。この経緯が、同じ新しい左翼的立場といっても、イデオロギー的な党づくりをめざしてきた「革命的共産主義者同盟」との合流を峻拒した根拠であった。だから、共産同がめざしたものは、直截に「闘うための党」であり、党とは現実の階級闘争をもっとも極限的に貫徹するための組織であった。
共産主義者同盟(ブント)が結成されたのは、1958年12月10日、当時、50数名の学生党員を中心に結成された。メンバーの中心は、共産党員で東大生だった書記長の島成郎、事務局長の生田浩二、青木昌彦、佐伯秀光、陶山健一らである。
そして、結成されたブントがはじめて担うことになるのが、‘60年安保闘争である。この闘争によって、分断と離反の意味が試された。理論、実践において、すべての旧態依然とした党派のみでなく、党派それ自体、そしてもしかしたら自らとさえ袂を分かった。
2 ‘60年安保闘争
日米安全保障条約(旧条約)は、1951年9月、サンフランシスコにおいて対日講和条約と同時に調印されたもので、アメリカの対日防衛義務を明記しないままに、日本にアメリカの軍事基地を許容する内容を含むものであり、アメリカ主導の性質を濃厚に帯びるものであった。この旧条約を改定しようとしたのが、日本の保守陣営であった。なぜなら、旧条約を不平等条約とみなして、日米の関係を片務的なものからより双務化し、また、日本の対米従属の性格を払拭し、自主性をより高めようとするところに、主眼がおかれたからである。だから、保守陣営はこの旧条約にたいして不満をいだいていた。事実、1955年、鳩山内閣のとき、すでに重光外相がアメリカへ行って、相互防衛条約におきかえたいと提案している。また、1957年6年に岸首相(1957年2月岸内閣成立)は訪米し、アイゼンハワー大統領と会談した。安保条約改定の要望をうちだしたが、アメリカ側に時期尚早と拒否され、その後、58年藤山-ダレス会談などの交渉を積み重ねながら、日本の自主性を回復しようと工作していた。
安保改定は、防衛構想において日本の主体性を回復しようとする意図であった。それは、ある意味で、アメリカの望んでいることでもあった。アメリカは日本が自由陣営の防衛責任を負担することを、条約改定の条件ととらえていたからである。
これにたいし、革新陣営(ブント、全学連を除く)は、旧条約における日本の自主性の欠如に不満をもったというよりも、アメリカの対ソ戦略に日本が組みこまれることによる平和の脅威をいちばんに懸念した。その心配の背景には、ソ連を平和勢力とみなし、アメリカを戦争勢力とみなすという親社会主義的な信仰が、革新党派にはあったからである。
だから、この新日米安保条約は、アメリカの極東軍事戦略へ日本の参画をすすめる策動と映り、実質的な日米軍事同盟であり、日本の防衛義務強化の名目で、自衛隊の核武装や海外派兵が不可避に行われることをおそれた。それが、戦前、戦中の軍国主義へ回帰する反動的な企てであるとの理由で、革新陣営は反対運動を起こした。
この安保闘争の基軸になったのは、59年3月、総評を中心に、原水協、護憲連合、日中友好協会、社会党など13団体を幹事団体とし、134の実行団体が加盟した「日米安保条約改定阻止国民会議」であった。その時、日共は幹事団体のオブザーバーとなった。
全学連の主導権を握ったブントと全学連は、国民会議結成と同時に、青年学生共闘会議の一員として加盟、59年6月25日の国民会議第3次統一行動以降、全組織を挙げて取り組み、実力闘争の主役となった。
1959年の11.27第8次安保改定阻止統一行動のときには、炭労、合化労連の24時間ストを中心に、全国650か所で300万人の参加をみたが、この日、ブントを指導部とする2千人の全学連の部隊は、国民会議が運動方針としていた国会請願の枠をつきやぶり、5千人を超える機動隊の壁を突破して国会構内に突入し、国会構内での抗議集会を実現させた。この国会突入事件で、社会党、総評などの国民会議指導部は動揺し、腰が引け、全学連に統一を乱さぬよう圧力をかけたため、全学連の再度の国会突入デモは実現せず、60年に入っての第2次の高揚期まで、安保闘争は、一時、沈滞した。
1960年1月19日、1年3か月におよぶ外交交渉の結果、ワシントンで新日米安全保障条約が調印された。その批准をめぐり、主に安保特別委員会の場で、政府・与党と野党とのあいだに激しい論戦が闘わされた。それから6月23日の批准にいたる5か月の間、安保反対の運動は、日本の運動史上稀な広さと高まりをみせた。その間、新条約をめぐり、在日米軍の対外行動に関する日米間の「事前協議」がはたしてどこまで実質的なものか、それは日本の同意を必要とするのかどうか、あるいは「極東条項」について極東の範囲はどこかというような、ある意味ではベールを一枚かぶせたかのような、曖昧で空疎なやりとりが国会で、マスコミで、あるいは集会で展開された。それは在日米軍の装備の重要な変更や戦闘作戦行動などについては、事前に協議するという取りきめに関する問題であった。
しかし、これらの葛藤劇の収斂するところ、‘60年安保闘争が、さまざまな意味で、戦後体制の終焉を意味していた点をどう理解すべきであったかにかかっていることは明白であった。安保問題が集中的にあぶりだしていたのは、ひとつには「戦後は終わった」というすでに経済生活の領域で確認されていた事実を、政治の領域でどう認識するかという点にあったからである。「戦後は終わった」というスローガンは、1956年の経済白書を飾った一句であったが、すでに昭和30年に主要な指標で、戦前の水準を上回っており、戦前期のピークさえ突破していた。たとえば、国民所得は、ふたたび、昭和9年から11年の水準を抜いていた。この事実を政治認識にどう理解するか、で分岐点があらわれた。もうひとつは、アメリカという強大国との間の軍事条約という性格からきていたのはまちがいない。これらがあわさって、安保闘争の密度を決定した。
だが、密度より前に規模のことに触れなければならない。なぜ、安保闘争が広大な大衆の裾野をもち、ここまで未曾有の規模に広がったのかということである。
安保改定阻止国民会議の代表的な主張をみるかぎりにおいて、安保闘争の規模拡大に対して決定的に作用したのは、「民主主義の危機」という叫びであった。5月19日午後10時24分、安保特別委員会で強行採決がおこなわれ、衆院本会議で質疑、討論の過程を省いたまま、新条約の承認が強行された。しかも、院外団を導入してまでして、強引な議事運営がなされたのである。これを契機に、安保闘争の争点は、「議会制民主主義」の問題に推移したかにみえた。それからの1か月というもの、いわば安保改定そのものの問題とずれながら、「民主主義擁護」の波紋がひろがっていったのである。これをももっともわかりやすい表現であらわしたのが、竹内好の「民主か独裁か」という簡明なスローガンの投げかけであった。いわゆる5.19事件は、「民主主義の危機」として宣伝され、特に、戦前の経験がある年配者たちは、東条内閣で閣僚をつとめ、戦後はA級戦犯で追放された岸信介の経歴とともに、その危険性を過去の強権政治と重ね合わせ、戦前への回帰の出現ととらえたのである。反安保のキャンペーンは、これに鼓舞されて一挙に高みへとのぼりつめた。その過程で、安保問題そのものが忘れ去られたかのような狂騒となった。民主対独裁あるいは進歩対反動という戦後思想の意識下にねむっていた対立軸が一挙に噴出したのである。
ここには、明らかに、戦前世代が、戦争体験をくぐりぬける過程で生じた負い目や、戦後意識の中に占めるアメリカに対する複雑なコンプレックスが、相乗的に作用した。なぜなら、明らかに、革新陣営には、戦後の危機、崩壊の予感をひめていたが、その戦後の出現が、自らの出自にまつわる忌まわしい戦前、戦中の体験と地続きであること、また、それをもたらしたのが、安保闘争の標的であるアメリカであるというジレンマの中で、いやがうえにも、それを意識の上にのぼせることになった。それらが増幅して、必要以上に戦後的なものに、防御の姿勢をとらせた。そして、それが安保反対というより、戦後思想の保守を声高に叫ぶことに作用した。それは安保反対に参加した個々人の内面においては、確かに、無意識下に抑えられてきた屈折した反米ナショナリズムをめぐる祭典であったにちがいなかった。彼らにとって、敗戦と戦後とは錯綜した意識の葛藤の期間であり、それゆえに、いわば頭の中だけの、架空の対立軸を必要としたのである。しかし、ある意味では、この心的葛藤が、短期間に大衆の膨大なエネルギーを引き出したといえる
これにたいして、ブントや全学連は、戦後世代によって牽引されていたため、戦争を影のように背負う必要もなかった。戦前国家やアメリカにたいして、何のうしろめたさを感じることもなかったのだ。彼らには、心的葛藤を背負う膨大な大衆のエネルギーを背景の土壌にして、戦後思想に何を咲かせ、そこに何をつけくわえるかが課題であった。もちろん、ブント全学連の指導層には、50年代を通じて、日共の学生党員であったとき、国際派、所感派の分派坑争や、六全協の方向転換に対するショックをせおった過去もあれば、その後、党中央との軋轢の中、学連新党を自前でつくってきたという背景が、目指す社会主義の色合いとともに、行動方針の中にも微妙な屈折をもたらしていたのは事実である。
それにしても、‘60年安保闘争の大衆的な高揚は、この国のひとつの明確な指標をしるすものとなった。何の指標であるか。
何より、闘わざる既成左翼の実像と、闘う左翼の誕生を大衆の前に公然化させたことである。59年11月27日の国会構内突入闘争以降、既成左翼の陣営からは「トロツキストの挑発にのるな」といったキャンペーンがはられた。彼らが無意識に体現していたのは、大衆の戦闘的なエネルギーの圧殺と、旧秩序の回復でしかなかった。既成左翼がおそれたのは、何よりも爆発した大衆の戦闘的エネルギーが、みずからの指導の範囲をこえるものとなり、議会主義路線の枠をはみだすことへのおそれであり、そのことによって自己の日和見的体質の暴露をおこなったのである。
‘60年安保闘争は、出発したばかりの「新しい左翼」の運動にとって、最初のそして最大の試練であった。しかし、’60年安保闘争を主導しえたのはブントであるが、そのブントは若い組織であった。ブントは全学連主流派として主導権を握り、60年安保闘争を唯一、大衆的に指導した。当時の学生運動を支えていたのは、「先駆性論」であった。「先駆性論」とは、いわば学生運動が、先駆的に反体制を切り開き、しかるのちにこれに後続する運動が展開されるという理念である。安保闘争でブント全学連が身をもって、闘いの先駆をなしたのはその典型であった。
全学連の指導した主な闘争は次のとおりである。
・ 60/1/16 全学連岸首相渡米阻止で羽田空港ロビーに座り込み、大量逮捕
・ 60/4/26 全学連主流派国会正門デモ、バリケードを突破して警官隊と激突
・ 60/5/19 衆議院安保特別委員会、新安保強行採決
・ 60/5/20 衆議院討論なしで新安保可決、全学連主流派8,000名国会デモ、首
相官邸に300名突入
・ 60/6/15 全学連主流派、国会南通用門より構内突入、東大生樺美智子虐殺
・ 60/6/17 全学連国会周辺で徹夜座り込み、安保条約自然成立
みずからも全学連とともに安保闘争に参画した吉本隆明は、既成左翼「前衛神話」の崩壊を次のように書きとめている。
《15日(6月)夜、その尖端を国会南門の構内において、国会をとりかこんだ渦は、あきらかにあたらしいインターナショナリズムの渦であった。それはなによりもたたかいの主体を人民としてのじぶん自身と、その連帯としての大衆のなかにおき、それを疎外している国家権力の国家意志(安保条約)にたいしてたたかうインターナショナリズムの姿勢につらぬかれていた。首相官邸のまえをとおり坂の下へながれてゆく渦は、社会主義国家圏という奇妙なハンチュウをもうけ、そのようごのためには弱小人民の国家権力にたいするたたかいを勝手に規定し、また人民の利益と無関係にそれを金科玉条として固執する変態的なナショナリズムの亡霊を背負ったものたちに嚮導されていた。それはコミンターン式の窓口革命主義の崩壊する最後のすがたを象徴するものにほかならなかった。かれらはいかなるたたかいにおいても、たたかいを阻止し、ひたすら大衆が自分たちの指導をこえてたたかわないことを望み、ひたすらたたかいの現場から遠ざかろうとする姿勢につらぬかれていたのである。》 『擬制の終焉』 吉本隆明著
公然と国民共闘会議の枠をやぶって激しく展開された全学連の大衆行動と、それにたいする一切の既成前衛の裏切り的な言動、そして、その指導性の喪失の完膚なきまでの自己暴露がおこなわれた。彼らをのりこえて前進せんとする大衆の凝集されたエネルギーの爆発にたいして、ただただ「トロツキストの挑発にのるな」を連発するにすぎなかった日共という自称「前衛」神話の崩壊が、誰の目にもあきらかになった。日共の姿勢は「敵は強大、味方は劣勢」という長期低姿勢論であり、「民族独立民主革命」を夢想し、めざすべきは「民族民主統一戦線」の実現であり、そしてなによりも、党勢の拡大であった。安保闘争は、この第一義的課題に従属されるべきであった。このため、彼らは徹底したスケジュール闘争主義、合法主義に徹した。彼らが、唯一、強い闘いを主張したのは、6月10日のハガチー事件であった。アメリカ主敵論を戦略とする彼らにとって、アイゼンハワーの訪日に反対する闘争は、ハガチー報道官来日にむけた排外主義のたたかいに集約された。これら安保闘争の期間をつうじて、その只中での闘争形態に関する日共の日和見主義、議会主義、反米民族主義などの欺瞞的な理念をのりこえ、戦闘的な学生、労働者は闘いの輪を幾重にもひろげた。
三井三池の闘争とともに、戦後史を画するような大闘争において、安保闘争の主力をになったブントや全学連は、三つの力が合力を混淆したところに特徴があった。それは安保改定を推進した保守陣営の力であり、もう一つは国民会議といわれた共産党や社会党などの革新陣営の力であった。さらにブントや全学連などの新しい左翼の力である。そして、これらそれぞれの国家的戦略を次のように区別していた。保守陣営も革新陣営も、アメリカ、ソ連の戦後世界支配という枠組みは、絶対的で動かないものであるという認識は、共通の基盤であった。これらにたいして、ブントや全学連は、安保改定をつうじて、日本の大衆のほとんどの期待を裏切って、日本資本主義が復活するにつれて、「帝国主義的な復活」をとげるものととらえていた。したがって、安保改定に反対するのは、日本の帝国主義的な復活を阻止することであった。これは、ある意味では日本の保守陣営が、アメリカとの関係を改善しながら、体制の強化を図ることを、擬似帝国主義的な復活と見なしていたことと同じといえる。しかし、ブントや全学連の理念には、戦後のアメリカ、ソ連の二国支配を、理念的に支える世界観や世界像を否定しようとする意図があった。アメリカはもちろん、ソ連は社会主義ではない、という認識を核になって、旧左翼が理念の常識にしていた世界観や世界像を否定していたのである。いわば、世界が米、ソの支配という絶対枠で成立しているということを否定したのである。
ブントや全学連の主張が、そのラジカルな行動とともに大衆に支持されたのは、米、ソのどちらかに加担するのではなく、どちらの戦争も嫌だという、敗戦国の国民としてのナショナルな意識を、広範な形で、はじめて大衆の歴史の表面に登場させたからである。だから、1960年以降に「新左翼」が戦後の世界観や世界像を否定し、独自の世界観を求める場所を占めることができたのも、この‘60年安保の大衆の声が、背景の圧力としてあったからである。この闘争の経験が、「世界史的」に自立した運動の1ページを飾った歴史的経験として蓄積され、のちの全共闘の大衆的基盤にも受け継がれていったのである。
国会周辺は、連日、抗議の渦で埋められた。そして6月19日の「自然承認」をまえにして、東大生の樺美智子が警官隊の暴力によって虐殺される。こうした激しい反対行動のなかで岸内閣は退陣し、アイゼンハワー大統領の訪日は中止された。こうして‘60年安保闘争は沈静化していく。安保闘争は、運動参加者のなかに、強い挫折感と敗北感を残したまま、安保はすでに過去のものになりつつあった。
同じ時期、この安保闘争と連動するように、日本最大の炭鉱であった福岡の三井三池炭鉱において戦後最大で最後の労働争議がおこった。というのは、三池闘争がはじまる数年前から「エネルギー革命」により、中小の炭鉱が閉鎖されていっていたからである。三池闘争は石炭産業の衰退にもとづく合理化にからみ、1959年1月、三井鉱山当局が労働組合にたいし、6,000人におよぶ希望退職をもとめた第一次合理化案をきっかけにおこった。同年4月6日には、第一次合理化協定が締結され、今後首切りをしないことが確約されたが、8月、経営者側は職場活動家をふくむ4,580人の希望退職の第二次合理化案を提示してきた。組合はこれを拒否した。結局、会社側は12月、1,214人の指名解雇をおこなうが、組合は解雇通告を一括返上する。これにたいして、翌1960年1月25日、会社側が全山のロックアウトを通告したことによって、労使間が正面から対立状態となった。それに組合側が、無期限ストライキをもって応えたことによって、本格的な闘争に突入する。
マルクス主義者向坂逸郎の影響のつよい組合側は、政治主義的なスローガン「総資本と総労働」の対決を叫び、日経連をバックとする会社側にたいし、自由化政策の推進による各産業の合理化政策と全面対立した。警察力、暴力団をバックに、組合の切り崩しをはかる一方で、懐柔策を講じた会社側の攻勢により、組合委員から脱落者がでてきた。3月17日、これらのメンバーを中心に第二組合が生まれた。その割合は全組合員の4分の1にあたる3千6百人にのぼった。3月28日、第二組合が就労を強行しようとして、第一組合のピケ隊と衝突し、その際、暴力団が襲い、百余人の重軽傷者がでた。翌日には暴力団員が警察の検問を突破して、第一組合のピケ隊に襲いかかり、組合員久保清さんの刺殺事件もおこった。こうして、三池の労働者は、みずからの身を守るために暴力にたよらざるをえなくなった。
さらに、会社側は、第二組合側のホッパーによる石炭の搬出、船舶による資材の搬入を行ったが、組合側は中労委のあっせん案を拒否して、闘争態勢をくずさなかった。7月になると、会社側は、機帆船4隻で第二組合員を入坑させようとし、第一組合と衝突し、警官隊も含めた乱闘で、300人が負傷した。組合側は出炭再開をあせる会社側にたいして、三川鉱ホッパーをピケで固め、出炭を阻止した。これにたいし、会社側は、ピケの排除を内容とする仮処分を決定した。総評、炭労側は、全国から2万人の組合員を動員して仮処分の実力阻止をはかった。警察側も1万人を動員して執行の支援にそなえた。
ここにいたって、安保の成立で岸内閣が退陣した後の池田内閣は、三池対策の急務を説く財界の要請をうけて、収拾工作にのりだし、労組側にピケの撤去と、中労委のあっせん案に応じることを勧告するとともに、この平和的解決に難色をしめす三井鉱山側を説得した。政府のこの措置に、展望がつかめないでいた総評側も、中労委への解決一任を拒むことはできなかった。8月10日、中労委あっせん案が示されたが、その内容は指名解雇を認めるものだった。11月1日、総評、炭労ともに受諾を決め、ついに三池争議は収拾にむかった。
この間、最高時には1日1万人以上の警官隊が動員され、3月から12月にかけての警官動員数は延べ74万人といわれ、安保闘争ピーク時の43万人をはるかに上回るものであった。これにたいし、総評など組合側は、全国から延べ37万人を動員したといわれた。三池闘争は戦後15年間の労働運動の総決算の意味をもっていた。いわば、後退しつつある流れの終末的な爆発でもあった。
一方、三池闘争と同じ時期、遠賀川流域の地方大手、大正炭鉱においても三池労組をのりこえる大正行動隊の闘いが生まれていた。この闘争を指導していた詩人の谷川雁は、三池闘争が、これまでの労働運動が日共や労働組合幹部などの「前衛」に指導され、その指導のもとに整然たる統制がなされていたことがのりこえられたことをみてとって、前衛党によって指導される様式と異なる形態を「定型の超克」と呼び、運動を組織した。しかも、単なる労働争議という次元にとどまるものではなく、詩的レトリックをつうじて、戦中の天皇制ファシズムのふところ奥深くからめとられていた、民衆の革命的エネルギーを噴出させるような日本型(アジア型)革命のイメージを重ねみていた。
《谷川雁の美しい革命は、一方では中国の「根拠地」を夢みつつ、他方で天皇制ファシズムの革命として現出した昭和の二・二六事件をもイメージとして重ねるものであった。「死刑場の雪の美しさ」という言葉は、雪の二・二六とそれによって死刑(銃殺刑)に処されていった青年将校を、明らかに連想させるだろう。谷川雁は、「飢えた農村を救え!」といって青年将校が蹶起した二・二六事件を、マルクス主義者や近代主義的な戦後民主主義者のように「反革命」といって、切り捨てたりはしなかった。青年将校たちの「大御心にまつ」という願望の革命は、天皇というカリスマが支配原理であるとともに革命原理であった、伝統にしばられた社会においてこそ生まれたのである。》
『谷川雁 革命伝説』 松本健一著
このため、彼が組織した大正行動隊の行動原理は、前衛党が指導するとか、民主主義を標榜する闘い方を大きく逸脱していた。これこそ、安保闘争において垣間見た「前衛神話」の崩壊と深く結びついていたものであった。しかし、谷川雁が描いたアジア型農本革命の夢はまもなく挫折する運命にあった。1960年代の高度経済成長によって生まれはじめていた大量消費型の大衆社会は「アジア的なコミューン」という幻想の喚起力を失わせてしまったのである。
それを追認するように、安保後、岸内閣のあとをうけた池田内閣のとった路線は、戦後の経済復興を徹底することであり、経済成長政策と呼ばれた新しい経済再生路線であった。池田内閣は国民所得を10年間で倍増するとした「所得倍増計画」をうちだし、高度成長計画に裏づけられたものとして宣伝された。これは政治の舞台を、安保、憲法から経済へ転換させることを意味した。だから、この高度成長を軸とする経済政策は、単なる経済政策であることをこえて、戦後日本の基本戦略にさえなった。「所得倍増計画」は、社会資本の充実、産業構造の高度化、貿易と国際経済協力の促進、人的能力の向上と科学技術の振興、二重構造の緩和と社会安定の確保の5つを柱としたものであった。これにより、高度成長経済は、年率7.2%の経済成長を達成し、この高い水準を維持することにほかならなかった。この計画は、民間の設備投資を誘発し、「投資が投資を呼ぶ」空前のブームをひきおこした。実質成長率も、60年13.3%、61年14.5%とはねあがっていった。
やがて、これは60年代以降をつうじて、日本社会を農村型社会から都市型社会に変え、人々の生活観や価値観を大きく変えることになった。また、戦後の左翼運動が目標としてきた貧困からの解放を、この経済政策は基本的に解決したことを意味した。これは、戦前の左翼運動が目標としてきた農地解放を、占領軍の農地改革が実現したことにも匹敵していた。
3 安保ブントの解体と再生
ブント全学連は、安保闘争の過程において消耗しつくし、解体した。60年7月4日から開かれた全学連第16回大会において、安保闘争の総括討論をしたが、この過程で解体してしまった。また、ブントは、7月30日の第5回同盟大会において、ブントの挫折は、広範な労働者層への影響力を十分に持つことができず、小ブルジョア急進主義的な側面を色濃く残しており、結果として既成指導部をのりこえることができなかったとして総括された。こうした総括をめぐって、ブントはいくつかの分派に分解して、全学連執行部も解体状態となった。各派はそれぞれ「革命の通達」派、「プロレタリア通信」派、「戦旗」派を名のった。この3分派のほかに、京都、大阪は独自に関西ブントとして残り、東京では中大と明大は独自にあり、後にこの2つの潮流が中心となって、ブントの再建がはかられていく。しかし、ほどなく「戦旗」派は「全学連の闘争は、単なる小ブル急進主義=自然発生主義で党のための闘いを欠落させる党組織論上の日和見主義であり、革共同全国委員会の批判をうけ入れるべきだ」として、革共同全国委員会に大部分が吸収されていった。
ブントの全学連書記局を中心としたメンバーがいた「プロレタリア通信」派も解散し、清水丈夫、北小路敏らの一部のグループが、革共同全国委員会に移行していった。また、「革命の通達」派も、のちに池田内閣打倒闘争のなかで破産した。革共同全国委員会の勢力は、‘60年安保闘争中は微々たるものであったが、安保闘争後の総括過程で、ブントの活動家の多くを吸収することによって、次第に大きな影響力をもちはじめた。そして、のちに革共同全国委員会が、中核派と革マル派に第3次分裂をおこしたとき、旧ブントの活動家の多くが中核派に移る。
その後の四分五裂といわれた学生運動の分裂の状況をつくりだしてきたのは、まさに安保闘争の政治的総括をめぐる理論的対立である。その余波は、61年の政暴法闘争、62年の憲法公聴会阻止闘争、大学管理法粉砕闘争にもつらなっていく。
それでは次第に勢力を拡大してきた革共同とはどういう組織なのか。日本革命的共産主義者同盟が結成されたのは1957年12月である。もともとこの組織は、第4インターナショナル日本支部準備会としての「日本トロツキスト連盟」と名のっていた。指導者として黒田寛一、大田竜、西京司、内田英世らがいた。1958年7月、大田竜らが外にでて9月に「日本トロツキスト同志会」を結成する。これが第1次分裂である。次に、1959年8月に西京司派と黒田寛一派が分裂する。西京司は「革共同関西派」を名のり、黒田寛一は「反帝・反スターリニズム」の戦略を基礎とし主柱とした「革共同全国委員会」をつくる。これが第2次分裂である。
この二度にわたる分裂について、黒田寛一はのちに、純粋トロツキストとトロツキズムとの距離をおいて、「トロツキー及びトロツキズムの長所と短所とをふるいわけ、それの現実的な適用をとおして現代的に展開させられてゆく創造的=革命的マルクス主義」として主体的に受けとめようとするものとの間の、実践的立場上の分裂であったと述べている。
革共同関西派と訣別した革共同全国委員会派は、綱領的立脚点として、「反帝反スターリニズム」をかかげた。世界革命戦略の中に、ソ連論をどのように組み入れて、それをどのような世界革命戦略として措定していくのかという世界革命綱領上の立場である。
《スターリニスト官僚打倒を通じて新しい革命党を結成し、これを実体的基礎としたプロレタリア世界革命を実現する。それゆえに、このたたかいは、反帝反スターリニズムであり、その根底的立脚点=革命的立脚点は革命的マルキシズムにある。》
『組織論序説』 黒田寛一著
革共同全国委員会を黒田寛一とともにつくりあげたのが、書記長となった本多延嘉である。革共同全国委員会は、安保闘争中はブントと共闘体制を組んだ。安保闘争の過程で、60年4月にはブントの社学同に対抗して、革共同は「日本マルクス主義学生同盟」という学生組織をつくり、次第に勢力を伸ばしていった。‘60年安保後、ブントが消耗し解体する一方で、活動家を革共同全国委員会が吸収して、革共同全国委員会は組織を拡大した。こうして革共同全国委員会の組織はふくれあがり、61年4月の全学連第27中委以降、全学連中執も掌握し、学生組織「マル学同」が全学連を支配する。そのマル学同全学連が61年4月、5月に最初に取り組んだ闘争が「政暴法」(政治的暴力行為防止法案)粉砕闘争であった。
1961年7月には、全学連第17回大会が、両国公会堂で行われることになっていた。マル学同の全学連におけるヘゲモニーは、書記局の中でのみ確立したものであったこともあって、大会の混乱が予想された。事実、東京と京都でははっきりした上部団体がないまま、旧ブント系活動家が学生運動をにぎっていた。この大会を前に、この旧ブント系活動家(社学同)と革共同関西派、さらに、新しく学生運動に登場していた「社青同」(社会主義青年同盟。日本社会党の青年組織)が、反マル学同で結束し、全学連大会をひっくりかえそうとしていた。この三派が寄り集まり作戦を立てたのが、飯田橋の「つるや旅館」であったことから、この三派連合は「つるや連合」と呼ばれた。
一方、共産党系の学生自治会も、「全自連」という組織をつくって、全学連に大量の代議員をおくりこみ、再び、全学連を日共の指導下におこうとしていた。これにたいし、マル学同は「全自連」を会場に入れないようにし、他の党派にたいしては、議長を自分たちの中から出して、強引な議事進行でおしきっていく作戦をとった。
「つるや連合」は、早朝から会場を占拠した。そこへやってきたマル学同との間に乱闘がおこったが、その際、マル学同側は、材木屋から角材を買ってきて、突撃した。これが、角材が登場したはじめての事件であり、セクト間の暴力による内ゲバのはじまりである。この角材によるゲバルトを指揮したのが、ブントからマル学同に移行した清水丈夫全学連書記長である。この角材を使った抗争の代償は大きかった。のちに、内ゲバと呼ばれるセクト間の対立の解決方法をエスカレートさせたからである。政治集団間の対立に組織的な暴力的手段がもちこまれるようになった最初のケースであった。
こうして全学連第17回大会は、革共同全国委員会=マル学同の単独大会となって、バラバラのまま終了した。この日の衝突によって、全学連という組織が、党派的な全学連に分解していく端緒になった。マル学同は、正当な全学連は自分たちであると主張したが、反マル学同グループはのちに「三派系全学連」をつくり、日共系は「民青全学連」をつくって、ともに正当性を主張しあうことになる。
この分裂と混乱の中で、旧ブント系の活動家は、有名無実化した社学同の再建をめざして活動をはじめ、61年8月、東大、早大、明大、中大などの活動家が「社学同東京委員会」を再建、機関紙「希望」を創刊した。12月には社学同再建準備委員会の名称で「SECT�6」が創刊された。62年4月には、社学同再建を軸に、社学同、社青同、構造改革派(日共内の一部の学生活動家が、61年の同党第8回大会を機に、離党してつくったもの)による反マル学同三派連合もつくられた。
この時期、革共同全国委員会は、他党派が全国組織をつくれないなか、唯一、「革命的左翼」を自称していた。そして、1962年7月の参議院選挙に「反帝国主義、反スターリン主義の反戦闘争」というスローガンをたてて、黒田寛一が全国区から出馬する。しかし、集めた票数は2万3千票にすぎなかった。この間、マル学同は他党派を解体して、マル学同に吸収してしまおうと、他党派解体路線を突っ走っていく。
その後、革共同全国委員会は、1962年、中核派と革マル派に分裂する。これが第3次分裂と呼ばれる。1962年9月に開かれた第3回革共同全国委員会総会にはじまり、63年4月の「革共同全国委員会・革マル派」の結成宣言で分裂が決着する。こうして、革共同は革マル派(黒田寛一派)と中核派(本多延嘉派)に分かれた経緯がある。のちの両派の凄惨な内ゲバの始まりは、もともと同一組織が分裂したという近親憎悪に似た構図に起源があった。
1962年には、政暴法闘争から改憲、日韓条約、大管法反対闘争へと移っていく。
62年には東京都の人口が1千万人を突破し、世界ではじめての1千万人都市になったと発表があった。過密化とともに、東京の空はスモッグで環境問題化しつつあった。テレビの受信契約数も1千万台をこえ、テレビ普及率は48.5%であった。その電波にのって力道山のプロレスや、植木等らのクレージーキャッツが活躍、「スーダラ節」が大流行していた。夜の盛り場ではドドンパのリズムとともに、ツイストが流行っていた。マリリン・モンローが睡眠薬自殺したのも62年8月だった。
この時期、政府が全国各地で憲法公聴会を開いたことにたいし、これを改憲の動きとみて、62年9月を中心に、公聴会阻止闘争が展開された。また、この年5月、池田内閣が当時の大学管理制度の再検討を言明したことから、大学管理法案(大管法)阻止闘争のデモ、集会が盛りあがった。そして、大管法闘争で1962年11月30日に社学同、社青同のヘゲモニーで、「東大銀杏並木6千名集会」があった。この集会には、マル学同も参加したが、この統一行動をめぐってマル学同内部で党内論争があった。こうして、革共同全国委員会の両派の対立は決定的になり、黒田寛一が党内分派を作って政治局を批判し、それがとおらぬと見ると、別組織を作って外に出る形になった(63年4月)。こうして、革共同は革命党の建設を優先すると主張する革マル派と、大衆闘争を重視する中核派に分裂し、その学生組織であるマル学同も両派に分かれる。そして、全学連は64年末まで革マル派の独占時代となる。
革共同両派の対立の主要な論拠は、次のようになる。
黒田寛一は、第3次分裂は革共同に流入してきたブント主義者の一部が、大衆運動主義=労働運動主義的偏向を移植し、発芽した結果としてもたらされたものとみなしている。 黒田によれば、革共同第3次分裂の根底にある内部理論闘争の論点は、�@運動づくりと党組織づくりの関係�A組織戦術上の相違�B統一行動のとり方�C地区党組織建設の問題�D党組織の官僚主義の問題である。要約すれば次のようなことになる。
《大衆運動を熱心にやっていこうとする中核派に対して、革マル派は、大衆運動主義、肉体派運動主義、ズブズブ統一行動主義、没理論的であるとし、大衆運動を現象的に左翼的に展開しても、革命党は建設できない。革命党建設をどう実現するかの組織論的反省がない、と批判し、革命党としての主体性を欠如した大衆追随主義であるとした。
これに対して中核派は、革マル派のいう“主体性”は、大衆蔑視の上に立つ小ブル的主体性で、大衆運動をさぼるための党建設第一主義、統一行動を拒否するセクト主義、口先だけで理論をふりまわす非実践的空論主義、権威主義的理論物神崇拝、反帝・反スタの呪文をくりかえす神秘主義、要するに、大衆運動が発展するのをこわがる日和見主義と批判した。》 『中核VS革マル』 立花隆著
一方、革共同の分裂とならんで、64年2月には、社学同が「岩田世界資本主義論」を掲げた岩田弘をイデオローグとするマルクス主義戦線派(マル線派)と、マルクス・レーニン主義派(ML派)と独立派、関西派に分裂するなど、セクトの分化は一層進んだ。この時期に、のちの1970年安保闘争を担う「5流14派」のセクトが全部で出そろっている。概して、ブント系(社学同グループ)は、組織的には不安定であるが、それだけ風とおしがよく開かれた組織的伝統をもつというのが一般的であった。それにひきかえ、日共や革共同のようにイデオロギー的な求心力をもてばもつほど、かえって外界から閉じられていく傾向がみられた。
この時期、各党派が混乱と混迷のなかで、諸グループに細分化され、再編成されていく過程は、共通した現状認識や世界認識の土壌ができなかったことに原因があった。新左翼と呼ばれるようになるグループは、旧来の左翼の世界観やコミンテルン的な世界像を否定する根拠を模索していた。それは、ロシアや中国の革命以降の左翼的な歴史的常識を批判し、覆そうとしたのである。日共や革共同など類似の分派とは別の系譜の、左翼的な世界観や世界像を形成しようとしたことを意味した。それは、アメリカでもなく、ソ連でもない、ヨーロッパでもない、言葉の真の意味での真制の「左翼」をめざすことであったが、それが何を端緒にしてよいのか、どこから手をつけてよいかわからなかったのである。いい意味で、共通の世界認識が壊れつつあるのはよく理解できた。しかし、この時代にふさわしい世界認識というと、とても困難なことにみえた。ここにこそ、当時の新左翼の細分化された状況の根拠があった。
中核派はマル学同全学連からおわれ、共闘の相手を社学同、社青同解放派、構改派(日共離脱グループ)にもとめ、「連合四派」とよばれるようになる。ことあるごとに、革マル派と連合四派は対立した。なお、この時期、日共=民主青年同盟は平民学連を経て、64年12月に民青系全学連を再建し、革マル派全学連についで、2つ目の全学連の登場となった。
1964年は、東京オリンピックで日本中が沸きかえっていた。10月1日、東京、大阪間を3時間10分でむすぶ最高時速200キロの東海道新幹線の開通とともに、東京の街はオリンピックを機会に以前より小綺麗になっていた。64年10月10日、第18回オリンピック東京大会は、アジアで初の開催となった。参加94か国、参加選手5,541人であった。開会式のテレビ視聴率は85%にのぼった。オリンピックで、日本は堂々とした戦後復興ぶりを世界に示した。1963年と64年は、全体的に学生運動の模索の時期であり、運動は退潮期であったが、世界では63年の11月にアメリカのケネディ大統領が暗殺され、64年にはソ連のフルシチョフ首相が解任されていた。同じ年インドのネール首相も他界していた。
65年にはいり、ようやく日韓条約阻止闘争や学園紛争をきっかけに、運動がもりあがりつつあった。
4 運動の滑走期
60年代の高度成長経済を支えたのは、ひとつには財政政策であった。相対的に軍事費が低い水準におさえられたことにたいして、道路、港湾、工業用地、鉄道、空港など産業基盤の整備にまわされた。この時期はコンビナート造成を中心とした拠点開発方式による地域開発政策が積極的におこなわれた。地域開発とともに高速輸送網の整備も行われた。1965年に開通した名神高速道路をはじめ、東京オリンピックにあわせて64年に東海道新幹線が開通した。この東京オリンピックには、1兆円の予算が新幹線、地下鉄、高速道路などの建設につかわれた。「オリンピック景気」は24か月続いた。
日本は50年代からIMF・GATTに加盟していたが、産業保護のため輸入制限措置をとってきた。しかし、池田内閣は64年、円の交換可能通貨化を行い、開放経済体制となった。これにより自由貿易体制により、先進資本主義国間の貿易が拡大したことがあげられる。このためには世界市場の有利な条件のもとで、途上国から原材料など一次産品を廉価で手に入れることができたことが前提になっていた。また、同年には経済協力開発機構(OECD)にも加盟し、日本は先進資本主義国として国際的立場を築くことになった。さらに、67年には資本取引自由化方針が決められ、資本の自由化もすすむことになる。こうした貿易の自由化にあわせるように、大型産業の合併がおこなわれ産業界の合理化がすすんだことも国際競争力を強め、輸出の増加を可能にした。
IMF・GATT体制は、世界が経済的な相互依存の方向へすすんでいく原則になった。自由、無差別の原則にもとづき、公正な市場競争をとおして貿易の拡大を図ろうとしたものであった。ここで、日本はみずからの商品を、差別的制限をうけることなく、世界各地に輸出することができた。輸入については、資金さえあればなんでも買えることになった。その結果、明治以来もっとも自由な世界が、目の前にひらけることになった。
また、この時期は、耐久消費財の普及や合成素材の開発、オートメーション化など技術革新の波も加勢した。あわせて、戦後の農地改革など国内市場の拡大や高水準の労働力の確保、さらにドッジ・ライン以降の経済再建、朝鮮特需、ベトナム特需など、政治経済的な要因も経済を加速するように作用して、高度成長経済は展開していった。
高度成長のもとで労働力は相対的に不足していた。労働組合の賃上げ闘争も、有利に展開していた。その一方で消費者物価は、毎年6%以上の割合で上昇をつづけていた。また、住宅、交通、公害などの都市問題も、大きな問題になりつつあった。
64年11月には高度成長のひずみ是正のために、「経済開発とバランスのとれた社会開発」をかかげた佐藤内閣が誕生した。佐藤内閣は、日韓国交正常化、沖縄返還を政策の基軸にすえた。このあと、佐藤内閣は在任期間7年8か月という最長記録をつくる。
65年から学生運動は高揚期に向かいはじめる。‘60年安保闘争の後、後退の続いていた日本の学生運動は、1970年に向かって大きく陣形がととのっていく局面にはいっていた。ひとつは、日韓会談阻止闘争からベトナム反戦闘争へ、そして1970年の反安保闘争という流れであり、もうひとつは学園紛争から全共闘運動へという流れであった。
日韓国交正常化の機運は、ベトナムへの軍事介入をエスカレートさせていたアメリカが韓国への経済援助の肩がわりを日本にもとめると同時に、日本側も韓国への経済進出をねらっていた背景に基づいて行われようとしていた。65年1月、韓国はアメリカの要請にこたえて南ベトナムへの派兵をきめていた。韓国国内では過去の植民地支配を検証し、反省することがないまま行われる会談に、学生らの反対運動が高まっていた。佐藤内閣は「両国間に不幸な時期があったことを遺憾とする」という言葉をのべたのみで、65年6月、日韓基本条約の調印を強行した。
日韓条約に対する新左翼の位置づけは、日本資本主義が帝国主義的な復活をとげ、帝国主義間の市場をめぐる抗争がはじまったとして、その第一歩を、韓国の再植民地化としてもとめているとした。これが、当時の新左翼の日韓条約に関する位置づけであった。
一方、学園闘争の幕を切って落としたのは、65年1月からおこった慶応大の授業料値上げ反対闘争であった。学生会館の管理運営をめぐる闘争で、中大の学生によってはじめてのバリケード・ストライキ、大学封鎖闘争もおこなわれた。この中大の学生によって展開された大学封鎖闘争は、すぐに他大学に波及していった。また、66年1月から3月にかけて横浜国大で、学部の学芸学部の学部名変更に反対する紛争がおこり、学生がキャンパスを封鎖、教職員を排除して、学生の自主管理を約1か月余にわたって強行した。この自主管理下のキャンパスでは、学生自治会が編成した自主カリキュラムによる学習が進められるという画期的なものとなった。その他、長崎大=学館問題、同志社大=学館・寮開放、山形大=自衛隊説明会中止・寮問題、東京農大=新寮建設問題、近畿大=総長選問題、群馬大=学館問題、東北大=移転反対問題、高崎経済大=不正入学・私学化反対、都留文科大=新校舎落成式反対などさまざまな問題をとらえて、闘争が展開された。その数、実に全国で65校に及んだ。
そういうなか、特に、65年12月からはじまった早大の学費値上げ反対・学生会館管理運営反対闘争は、約5か月にわたって展開され、66年1月下旬には、全学ストライキに突入し、連日、約5千人の学生が抗議集会を開いた。その際の大学本部占拠にたいして機動隊が導入され、203名もの大量逮捕者をだすにいたった。さらに、大学側は、40数人の処分を強行する。学生側の運動は長期化するなかで、ついに敗北するが、大浜信泉総長を退陣においこむ大規模な展開をみせた。この長期間の闘争は、反日共系各派が共闘会議を結成して推進したもので、150日間もの全学ストライキ闘争は、学園紛争に対する社会的関心をあつめた。
こうして学園紛争とよばれる一連の運動は、多彩な内容をもちながら、広がりと深まりをみせていた。大学占拠や学園封鎖は、かつての学生運動ではみられなかったもので、このラジカルな戦術は学生たち自身にとっても画期的であった。
学園紛争は、個別的にはさまざまな要求によっていた。学費値上げ反対もあれば、学生会館の管理運営の要求、大学寮の自治、学部の名称変更問題や移転問題など千差万別であった。これは、資本主義の変貌とともに大学のあり方が変わったことにその原因があった。大学の大衆化といってもよいし、知識や文化のあり方の変化といってもよかった。この現象の基本にあるのは、大学知識人はどこへいこうとしているのか、大学の社会的な役割は何か、学生はどういう存在かが問われていた。資本主義の変貌は、学生の社会意識、大学と社会の関係意識を変えつつあった。それは自己の知識あるいは学問の意味や、動機の変化であり、学生はこれに深い不安感をもちつつあったのだ。伝統的な価値観が、地殻変動をおこしていることを潜在的に感じていたのである。ただ、資本主義のなかで、大学がどのように変化し、どこへ向かおうとしているのかという肝心の部分については、だれも指摘できなかった。これはのちの全共闘運動において、よりラジカルなかたちで問われる課題であった。
社学同は64年にマル戦派、ML派、独立派、それに関西派に4分解していたが、東京社学同は、65年3月、ML派の一部と独立派の統一による社学同統一派をつくる。統一派に参加しなかったML派の一部は毛沢東主義への傾斜を深めるなかで、68年、ML同盟=学生解放戦線を結成することになる。そして、7月、社学同再建全国大会において第二次ブント構想のもとに関西ブントと社学同統一派の合同がおこなわれ、共産同統一委員会が結成された。
65年11月には、日本テレビに「11PM」が登場し、たちまち人気番組になっていた。テレビの世界で性の問題を、それほど違和感なくはばひろくあつかったものだった。若者の性風俗が変化しつつあることを予感させた。前年の64年5月には『平凡パンチ』が創刊され、翌年66年には『週刊プレイボーイ』が創刊されている。どちらの週刊誌ともヌード写真や車、ファッションなどの話題をとりいれ、若者たちの新しいライフスタイルを盛りこんだ編集方針がうけ、「11PM」とともに、若者の風俗革命におおきな役割をはたした。「メデッアはマッサージである」といったのはマクルーハン理論であるが、テレビや週刊誌によって毎週ごとにうけとめられる新しい情報の波は、若者たちにメディアの受容感覚をひろげる作用をもたらし、新しい価値観や生活感覚の拡散と浸透をもたらしていった。すでに、50年代末にはテレビ時代が到来し、テレビを中心にしてマスコミの再編成がすすんでいた。旧来の週刊誌とはことなる新しいタイプの週刊誌がつぎつぎに産まれ、いつのまにか週刊少年漫画雑誌が台頭してきていた。大学生がマンガを読む時代になっていた。
慶大、横浜国大、早大と続いた65年からの闘争は、結果的には大学当局に深刻なダメージを与えはしたものの、学生の要求は実現せず敗北に終わった。これらの闘争のなかで生じた対立は、資本主義の変貌のなかで、戦後の民主主義的な感覚を成熟させてきた学生たちと、教授会あるいは大学当局の形式的な民主主義との感覚的なすれちがいをあぶりだした。いわば、大学における権力的な存在感への無意識的な反発の開始であった。一見、味方のようにふるまっていた大学当局は、学生たちにとって、形式的には民主主義的で進歩的であっても、実質的には少しも民主的ではなかった。だから、それにたいする無意識的反発であり、大学という共同体に亀裂がはいり、次第にその間隙が広がっていく予感をひめたものだった。それはいわば、全共闘運動に流れていく地下水脈のようなものだった。
ほとんどの大学で学生側が敗北するなか、中大では学生会館の管理運営をめぐる問題から、処分撤回闘争もふくめ、全中闘が再び大学封鎖をおこない勝利した。また、67年末からはじまった中央大の学費値上げ反対闘争は、3度目の大学封鎖闘争に突入し、社学同の指導によって、最終的に大学側に白紙撤回を認めさせ、学生側が勝利をかちとった(68/2/16中大学費値上げ闘争、白紙撤回で勝利)。
1965年の日韓会談反対闘争から、1960年代後半のベトナム反戦闘争への流れが形成されはじめるのが、1966年だった。南ベトナムではアメリカの軍事介入が強まり、アメリカは北ベトナムへの北爆を強化していた。
南ベトナムで南ベトナム解放民族戦線いわゆるベトコンが結成されたのは1960年であった。アメリカの傀儡政権である南ベトナム政権は、63年11月、ゴ・ジン・ジェム政権がクーデタで倒れ、65年6月にグエン・カオ・キ政権を擁立した。64年8月、アメリカの駆逐艦が、トンキン湾で北ベトナムの魚雷艇から攻撃をうけたとして、その報復爆撃を北ベトナムの海軍基地におこなった。アメリカが本格的な北爆を開始するのは、65年の2月からであった。アメリカは、最初、南ベトナム政府軍の顧問団として、ベトコンにたいする戦闘を展開していたが、北ベトナムにたいしても、直接的な攻撃をはじめた。さらに、アメリカは南ベトナムに、地上軍を増派して戦争を拡大させていった。のちに戦局が激しくなると、米軍はナパーム弾でジャングルを焼きつくし、枯葉作戦が展開されるようになる。
アメリカではベトナムからの撤退を要求する反戦運動が盛んになっていた。1965年4月、ワシントンで1万人の反戦デモが行われ、「ベトナム即時停戦、米軍撤退」が叫ばれ、それから各地で反戦デモは拡大していく。また、ベトナム反戦と並んで、人種差別に反発する黒人の暴動も発生した。これにたいし、日本政府は、アメリカのこの戦争を支持し、ベトナム戦争のために在日米軍基地の使用を認めていた。国際的な反戦機運のなか、最大の補給基地である日本においても、大衆的な反戦運動は当然高まりつつあった。市民運動・文化団体の連合体として組織された「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)は、1965年の4月から活動していた。
同じ頃、北ベトナムを支援する中国では、ベトナム戦争への危機感から、毛沢東によりはじめられた文化大革命がおこり、66年5月にはじまったこの文化大革命は、6月にはプロレタリア文化大革命として提唱されていた。
66年の6月、ビートルズが来日した。東京武道館での公演が、若者たちを熱狂させていた。また、このころ、「花はどこへいった」など、アメリカのフォークソングの人気が高まり、ボブ・ディランやジョーン・バエズなどが、大学生の間でブームとなっていた。9月にはサルトル、ボーボワールが来日している。
このころから「連合四派」のちの「三派連合」が、革マル派を圧倒し、学生運動の主導権をにぎり、運動の水位が高まっていた。運動の高揚期には、革マル派には人気が集まらなくなっていた。高揚期がはじまったというのは、第一に、各私立大学で学費値上げ問題がおこり、学生の運動への関心が高まったこと、第二に、ベトナム反戦の世界的高揚のなか、国際・国内情勢の変化をとらえて、政治課題が浮上して大衆的政治運動がはじまったこと、第三に、「連合四派」から構改派がぬけおちた三派が、65年7月に「三派都学連」、66年12月17日から「三派全学連」を結成し、学生運動を再編成したからである。
また、66年9月には分裂、抗争をつづけてきたブントは、社学同統一派とマル戦派が合体し、「第二次ブント」が結成されていた。安保闘争の敗北による解体から6年の歳月がたっていた。三派全学連は、中核派とブントの学生組織である社学同、社青同解放派によって結成されたものであり、1960年代後半の学生運動を牽引することになる。この三派全学連の構成組織の一つである社青同解放派は、社青同のラジカルな部分が、65年3月に結成したもので、その政治組織として「革労協」(革命的労働者協会)(67年10月)、学生組織として「反帝学評」(67年12月)も産まれた。
66年12月、三派全学連は、明治大学で再建大会を開いたが、その時、党派はそれぞれの色のヘルメットを着用した。これが学生運動で、ヘルメットが着用された最初である。
安保闘争敗北後の混乱と停滞は、政治党派の分裂と再編をくりかえしてきたが、第3の全学連といわれたこの「三派全学連」の結成以降、反戦青年委員会の登場とともに、確実に60年代後半へ向けた新たな局面を切りひらいていくものとなった。
5 羽田闘争の飛躍
1965年3月には、戦後最高の500億円の負債をかかえて、山陽特殊鋼が倒産した。好況だった日本経済も、65年には一時的に不況におちいった。この年のGNP実質成長率は5.1%と60年代前半の平均成長率11.7%と比較して、大幅に落ちこんでしまった。しかし、政府はすぐに、戦後初めての赤字国債を発行し、財政主導により不況をきりぬけた。その後、60年代をつうじて重工業製品の輸出主導により、日本経済は第二次の高度成長をつづける。特に、自動車は、65年の19万台から、70年には108万台と飛躍的に増大した。1966年から70年にかけてGNP実質成長率は、年平均11.5%と推移し、「いざなぎ景気」と呼ばれる超大型景気をもたらした。新三種の神器としてカラーテレビ、カー、クーラーという言葉がでてくるのも、この時期だった。そして、68年には、GNPが西ドイツをぬいて、自由圏でアメリカに次ぐ第二位となり、経済的地歩が飛躍的に向上することになる。
一方、1967年は、ベトナムでの南ベトナム解放民族戦線とアメリカ軍との戦闘が、一層、泥沼化していた。アメリカの国防省は、ベトナム参戦のアメリカ兵が朝鮮戦争の最盛期をこえ、47万3千人と発表していた。それでもアメリカは、ベトナムが共産化すれば、アジア全体も将棋倒しのように共産化するという、いわゆる「ドミノ理論」を強調した。2月の初めには、アメリカ軍はベトナムで枯れ葉作戦を開始し、4月にはニューヨークで40万人のベトナム反戦デモがあった。アメリカではベトナム戦争への徴兵拒否や脱走兵が激増していた。戦争に反対して抗議の焼身自殺をするベトナムの僧侶がでていた。日本でも由比忠之助が、首相官邸前で首相の沖縄にたいする態度と、アメリカの北爆に抗議して焼身自殺した。一見、日本は平和にみえながら、次第に、ベトナムの影が濃くなってきていた。ベトナム傷病兵は、ベトナムから横田基地へ運ばれ、さらにヘリコプターで横浜の根岸や相模原の医療センターに運ばれていた。付近の住民は、昼夜ひっきりなしのヘリコプターの騒音をうけ、戦争の実感を深めていた。
新しい戦闘的組織として誕生した三派全学連は、砂川基地拡張阻止闘争でその戦いの第一歩をしるした。砂川現地での5.28総決起集会は、地元反対同盟に三派全学連・反戦青年委員会約3千人のグループと、3万人の日共グループ、そして250人の革マル派全学連の分裂集会となった。三派全学連、反戦青年委員会の部隊は、激しいジグザグデモで、機動隊と基地ゲート前で衝突するなどした。7.9闘争では、降りしきる雨の中、基地ゲート前に座り込んだ3千人の全学連、反戦青年委員会に対する機動隊の規制行動で、労働者数人を含む46人が逮捕され、250人が負傷した。
‘60年安保闘争から7年目を迎えた67年の6.15記念集会は、ブントが全電通会館、中核派が九段会館など6党派の分裂開催となった。このことは、’60年安保闘争が各党派にとって出発点を再確認するうえでいかに重いものであったかをしめすとともに、それをそれぞれ独自に総括して、新しい道を模索しながらきりひらこうと意志していたことを物語っていた。三派全学連は、7月12日から3日間、法政大学などに全国44大学、85自治会の1500人の学生を集めて大会をひらき、‘70年闘争の基本方針を討議した。
1967年の時点で、日本の新左翼運動は、ベトナム戦争の激化によるベトナム戦争参戦国化への傾斜があり、一方、ベトナム反戦闘争の高揚と、ベトナムにおける民族解放闘争の進展のなかで、そうした運動にどのように連帯していくのかという問いが突きつけられていたのである。参戦国化をさらに深める佐藤首相のベトナム訪問を許すのか、また、それをどのように阻止するのかが問われていた。
そして、1967年10月8日、学生運動史上、‘60年安保闘争につぐ、衝撃的な戦闘が再び展開された。これは’60年安保闘争後の虚脱状態から、学生戦線がようやくぬけだしたことを意味するが、これまでの闘争とまったく質を異にしたターニング・ポイントをつくったのがこの羽田闘争であった。この闘争はベトナム反戦闘争に、新しい風穴をあけた。
佐藤首相は、67年の夏から秋にかけて、韓国、台湾、東南アジア諸国を歴訪し、10月8日のベトナム訪問を、その最後の仕上げとして打ちあげていた。その日、午前10時25分羽田発の日航特別機で、南ベトナムなどへ第2次東南アジア・太平洋諸国訪問の旅に出発しようとする佐藤首相にたいし、三派全学連など各派は、これを実力で阻止する構えをみせた。この67年10月8日の佐藤首相訪ベトナム阻止羽田闘争(第一次羽田闘争)を皮切りに、「激動の7か月」と呼ばれる大衆運動の盛り上がりがみられることになる。
当時、新聞記者であった高木正幸(『全学連と全共闘』)の言葉をかりて、羽田闘争を再現してみると次のようになる。
当日早朝、まず前夜から中央大に泊りこんでいた社学同、解放派系の学生900人が、全員「ヘルメットと角材」で武装、国電御茶ノ水駅から羽田へ向かった。午前8時、京浜急行大森海岸駅で下車した部隊は、柵を乗り越えて鈴ヶ森ランプへ進撃、学生が角材で武装してくることを知らなかった機動隊は、不意打ちをくらって混乱して敗走、部隊は空港へと向かった。そして、穴守橋付近で、萩中公園からデモしてきた反戦青年委員会グループと合流、同橋を固める機動隊と衝突して角材、投石でぶつかってゆき、これにたいし、機動隊は激しい放水で防戦した。穴守橋下流の稲荷橋では、早大からきた400人の革マル派が、機動隊と衝突をくりかえした。両橋上で警察の警備車が炎上する煙が、遠くからみえるほど高くあがった。
一方、法政大学に結集した千人の中核派は、萩中公園で総決起集会ののち、直線道路を突進してきたが、弁天橋から迎えうった200人の警官隊を、勢いのまま完全に圧倒して四散させ、弁天橋を固める警官隊と対峙していた。角材と投石で進んでくる学生たちを阻止し、放水車で追いかえそうとする警官隊、その激しい放水で川の中へたたき落とされる学生も多数いた。
その間、10時半すぎ、佐藤首相の乗った特別機は、羽田空港を飛びたった。学生たちの攻撃に、1台の警備車の警官がキーを残したまま逃げ、学生がその車に乗り込んでバックして、他の警備車を押しのけようと突進させた。その周辺で乱闘していた学生や警官が、危険を避けて、川の中に自分から飛びこんで難を逃れる。学生の乗った警備車は、前進しては速度をつけてバックし、他の警備車や放水車にぶつかっていく。その運転席に、ものすごい放水車からの水があふれた。運転席の学生がマイクで叫ぶ。「こちらは全学連主流派。すべての学友は、この車に続いて空港の中へ進撃してください。」この声に、周囲のビルの上や道に群がった野次馬の間から拍手があがった。
そのあと、一瞬、橋上の学生と警官隊の乱闘がやんだ。「誰か死んだ」の声が、野次馬の間にもひろがった。午前11時25分、京大生・山崎博昭の死亡であった。
この死にたいし、警察側は、学生の運転する警備車が轢いたとした。しかし、学生、弁護側は、死因は警棒でなぐりつけられたためで、警備車にひかれたものではない、と解剖所見などをもとに反論した。山崎の死の疑問は、現在にいたるまで解明されていないが、‘60年安保闘争の樺美智子に次ぐ、政治闘争史上二人目の犠牲者であった。山崎の死は、樺美智子とおなじく、反権力闘争における歴史的な犠牲であった。両者とも、権力側は、衝突の中での偶発的な死と主張するが、権力側の反権力闘争にたいする弾圧がうんだ犠牲者であることはまちがいない。この山崎の死で、学生と警官隊の衝突は、一時静まり、正午すぎ、萩中公園で開かれた抗議集会は、1分間の黙祷を捧げたのち「インターナショナル」を合唱、ふたたび空港突入をはかって、警官隊と衝突した。しかし、警官隊の力のまえに、ついに全学連の学生は後退し、萩中公園に集まって解散した。この間の衝突で、山崎の死のほか、重軽傷者600人以上、逮捕者58人が出た。
この「第一次羽田闘争」には、構改派の学生300人も、社会文化会館に泊り込んだのち、現地へむかって闘争に参加したが、日共系全学連は組織として参加せず、日共がこの日、多摩湖畔でひらいた「赤旗まつり」に参加していた。
また、羽田闘争をまえに、すでに中核派と、社学同、社青同解放派などの、反中核派グループとの間にあったあつれきが闘争後に表面化し、山崎の追悼葬をめぐって「山崎虐殺抗議のカンパニア国民葬」を主張する中核派と、「戦う人民葬」をとなえる反中核派グループとの対立がおこった。その混乱の中で、「10.17虐殺抗議、山崎君追悼中央葬」が、日比谷野外音楽堂で、全学連、反戦青年委員会の6千人を集めて開催された。
この10.8闘争は、何よりも学生たちが、「ヘルメットと角材」で武装したことが、みえない大衆意識の間隙のなかに、新しい時空を開いた。この「ヘルメットと角材」は、ちょうど学園紛争におけるバリケード・ストライキに匹敵する価値をもった。しかも、「ヘルメットと角材」は、党派が政治的に決定したわけではなく、自然発生的に産まれたものだった。「ヘルメットと角材」の象徴したものは何だったのか。バリケードと同じように、角材による武装は、自然発生的に起こった。党派が政治技術的に考えたものでも、戦略的に考えたものでもない。誰かが思いつきのように語り、それをやってみたにすぎないのである。後ではまことしやかに、党派の戦略や思想から出てきたと言うものがでてきたが、それは明らかに違うのである。この角材による武装は、盛り上がりを欠いていたベトナム反戦闘争に、新たな息吹を持ち込んだ。日韓会談阻止闘争からベトナム反戦へという1960年代後半の流れは、飛躍の場所をここで得たのである。
この第一次羽田闘争につづいて、67年11月12日、「第二次羽田-佐藤首相訪米阻止闘争」がおこる。三派全学連3千人が、羽田空港近くの大鳥居、羽田産業道路付近で、機動隊と衝突、羽田付近に到着した反中核派連合は、丸太をかかえた「決死隊」を先頭に、機動隊の阻止線を突破、激突をくりかえした。革マル派も、東粕谷中学校に結集、穴守橋へと向かったが、機動隊のサンドイッチ規制で、平和島までひきかえした。さらに、反戦青年委員会主催の決起集会も、日比谷野外音楽堂に5千人を集めて行われた。
この「ヘルメットと角材」を登場させた二次にわたる羽田闘争は、‘60年安保闘争の消滅のあと、日韓会談阻止闘争から少しずつ回復にむかっていたこれまでの日本の新左翼運動をより活性化させた意味で、歴史的に特筆される。と同時に、学生、新左翼運動が既成の左翼運動をのりこえ、独自の地歩を固めたという意味でも、さらに、運動を大きく急旋回させるスタートラインにたったという点でも重要であった。その第一は、’60年安保闘争のように、社会党、共産党などの統一戦線の一翼として突出した闘争ではなく、三派全学連を中心として、反戦青年委員会、べ平連など、新しい左翼潮流が表面に出、とくに、組織的に行動したのは学生だけであり、学生戦線が既成左翼、労働者戦線と一線を画して、独自の“行動左翼”の道を歩みだしたことである。
その一方で、党派間の対立は、羽田闘争の評価をめぐって、数多くの論争を産みだし、新たな党派の再編と分岐を準備する前段になった。中核派、社学同、ML派は、街頭実力闘争を評価し、「組織された暴力とプロレタリア国際主義の前進」(社学同)と総括し、「武装することによって7ヶ月の激動を勝利的に展開し、70年安保闘争を切りひらいた」(中核派)などと総括した。一方、革マル派、構改諸派は「街頭実力武装闘争は小ブル急進主義」とし、組織的力量を蓄えていくことの方が重要であると主張した。また、社青同解放派は「いったん持ったゲバ棒を二度と手放そうとしないのは誤りである。問題は街頭のエネルギーを生産点に還流し、労働者と結合していくことが重要」と総括した。
ここでブント・社学同が主張した「プロレタリア国際主義」というのは、ベトナム戦争での革命戦争を、プロレタリア解放運動として位置づけ、それに連帯するという意味をもっていた。これは、当時、中国がベトナム戦争を、民族解放戦争であると同時に、世界革命の一環である革命戦争とみなしていたことに遠因がある。中共によれば、第三世界の民族解放を軸にした戦争は、同時に革命戦争としてあるとみなしていた。「プロレタリア国際主義」はここに根拠をおいていたのである。ただし、この言葉は、マルクス主義公認の理念を公式的に使用していただけであって、その分だけ、先進国の革命との関係づけを、現実意識として定着させることを忘れさせるように作用したといえる。言葉だけはインターナショナリズムに共鳴するようないいまわしになっているが、事実は、ベトナムと世界を全体として切り結んで認識できる理念につうじる可能性があったとはとうていおもえない。これは、ベトナム反戦運動の位置づけに関わる大切な問題であったが、そのことに触れられないまま、これらの政治党派はとおり過ぎていった。
また、「組織された暴力」はブントのもう一つの合言葉だった。これは、高木の次の評価と同じ意味で、「革命的暴力」を自らのものとしたと述べていることに関係してくる。
《石や角材といった闘争の“武器”がはじめて最初から用意されて登場し、暴力革命における武装と軍事の問題を、理論から実践に移したことである。それまでも米原潜寄港阻止闘争や砂川闘争などで、石や旗ザオが警官隊との衝突の際、用いられたことはあったが、それは追いつめられての抵抗の手段としてであり、権力への攻撃の武器としてあらかじめ用意されたのは、この羽田闘争がはじめてであった。》『全学連と全共闘』高木正幸著
ここで用いられている「革命的暴力」や「暴力革命」の実践の趣旨とは、レーニンのいう「暴力装置としての国家」に対抗し、それを粉砕する大衆の側の暴力(武装)闘争という意味あいで使用されている。ブントも同じように「角材による武装」を、革命的な暴力の萌芽と認識していた。しかし、この点においても、「ヘルメットと角材」のもつ意味を、はきちがえていた。なぜなら、機動隊の武装が、羽田闘争から投石よけのプラスチックの面つきヘルメットやジュラルミンの大ダテ、のっぺらぼうの装甲車などに変化したことをあげつらっても、国家権力の本質を射抜いたとはいえないのと同じ意味で、「ヘルメットと角材」をもって、大衆の政治的権力に関わる「革命的暴力」とか、「人民の武装」と同列にはあつかえない性質のものであったからだ。これは、ただ、大衆意識の変化に応じて、その政治的表現の質が、一次元変わったというだけであり、国家権力の暴力装置に、直接、拮抗する意味での「革命的暴力」たりえないことははっきりしていた。当時の学生が、それをどの程度まで意識化していたかは別としても、‘60年のブントや全学連の急進的な運動と一括して、1967年の行動を「革命的暴力」として認識し、レーニンやボリシェビキの真似をして、「暴力」を物神化することは、ほんとうは誤りだった。こういう意味づけをする限り、スターリン主義の残滓から自由になれない。せっかく切りひらいた自らの行動的ラジカリズムの先進性にたいして、旧態依然としたスターリン主義色の泥をぬって、反古にしてしまうからである。
この時点において、「革命的暴力」という言葉の誤りは二重にある。ひとつは政治的表現の変化を、ロシア革命時の情勢と対応させて、アナクロニズムの言葉を借りて説明したこと、そして、もうひとつは、国家という敵を、暴力機関としてのみ短絡してとらえ、ほんとうの敵は何かという問題を、「ヘルメットと角材」による暴露という矮小化したレベルに短絡しておとしめ、考えることをやめてしまったことである。角材による武装を、実体的な意味での「暴力」と誤解した者が、あとあと「武装」や「軍事」を言いだしたとき、自らの言葉が、スターリンの亡霊に乱反射し、あげく、しっぺがえしをくう責任を負うことになるのは自明であった。正確にいえば、学生は、「革命的暴力」などではなく、当面の敵がよく分からない焦燥感のなかで、手探りのなか、国家に抵触する距離感をはかるため、直接的な手段として、「ヘルメットと角材」という、新しい大衆的な政治表現を選んだのである。だから、言葉の真の意味では、「暴力」などではなかった。だからこそ、これは学生の無意識を体現していたのであって、政治党派の方針としてもたらされたのではなく、むしろ自然発生的に産みだされたものである。
しかし、ともかく、二次にわたる羽田闘争をつうじて、1968年から1970年に向けて、斬新でラジカルな行動によって、新しい時空の突破口は開かれ、運動は高揚していくことになった。10.8羽田闘争に始まる「ヘルメットにゲバ棒」というゲバルト路線は、その後の運動の中で定着し、1960年以降のデモの形態を変えた。この闘争形態は、1960年代後半に向け恒常化していく。そして、この闘争が、‘60年安保闘争の体現した行動的ラジカリズムの伝統の延長線上に展開されたものであることはまちがいなかった。
6 佐世保・成田・王子・沖縄闘争
続く68年も政治的激動からはじまった。
羽田闘争に続く歴史的な闘争が、佐世保での「米原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争」であった。政府は1967年12月2日の閣議で、アメリカ第七機動艦隊の旗艦原子力空母エンタープライズの日本寄港を了承した。このエンタープライズは、加圧水式原子炉八基を推進力とし、戦闘機など70~100機を搭載する、7万5千7百トンの核攻撃ができる巨大原子力空母だった。反対行動の激化を考慮し、当初、予定していた横須賀を避け、佐世保を寄港地に決定した。寄港阻止闘争は佐世保寄港の1968年1月17日を焦点に、「暴力学生」と喧伝されていた全学連各派を中心とし、反戦青年委員会、労組、市民団体など広範な規模で、展開されることになっていた。その佐世保での現地闘争前の1月15日、現地に向かうため、法政大を出発した中核派の約2百人が、飯田橋駅に向かう途中、機動隊に阻止され、131人が公務執行妨害、凶器準備集合罪などで逮捕された。翌16日には、博多駅でも乗客整理名目で出動した機動隊が“私物検査”に抵抗した学生を逮捕するという事態がおこり、「予防検挙」「過剰警備」として問題になった。
1月17日、九州大学を出発して佐世保駅に着いた三派系全学連の部隊約800人は、角材とヘルメットで武装し、ホームからただちに駅裏側へでて、米軍基地につながる引き込み線沿いに、米軍基地へ通じる平瀬橋へ直行し、橋上を機動隊の放水装甲車がバリケードをつくり、近づいた学生たちに猛烈な放水を浴びせ、催涙ガス弾をつぎつぎに打ってきた。警察が撃ち込む催涙ガス弾は、立ち込めるほどやわなものではなく、放水も水圧が強いだけでなく、特殊なガス液で、触れると水膨れができた。あたりは催涙ガスの臭いがたちこめて、息苦しいほどになった。その後、学生部隊の後方から機動隊が襲い、学生たちを追い散らす、警棒の雨を降らせる、逮捕する。機動隊の実力行使は、逃げる学生ばかりでなく、新聞記者、市民の前で、溝に落ちた学生を集団的に警棒で乱打した。この状況はテレビと新聞報道で広く知れわたった。この機動隊の過剰警備に、市民から非難の声が巻きおこった。警察は記者会見で、過剰警備を謝罪した。この日、機動隊が使った催涙ガス液は、かけられると火膨れになって、アメリカ軍がベトナムで使っている毒ガスではないかと、のちに国会で問題になった。
1月18日、社会党、総評系の「原子力艦隊寄港阻止全国委」と日共系の「安保破棄諸要求貫徹中央実行委」共催の5万人集会が、市営球場で開かれた。日共側は日共系全学連学生などで出入口にスクラムを組み、三派全学連学生の入場を阻もうとしたが、反戦青年委員会の拍手に迎えられて入場し、一角に陣取った。集会後、三派全学連は、社共などの本隊を抜いて、デモの先頭に躍りでて、再度、基地への突入をめざして、機動隊が固める佐世保橋に突進した。学生側は、投石や竹ザオで機動隊の壁を破ろうとしたが、警官隊は催涙ガス入りの放水、さらにガス弾でこれを撃退しようとして、激突が繰りかえされた。
そのとき、その場にさしかかった社共のデモ隊は、予定したコースを変更、現場を避けて行進したが、三方から機動隊が規制に乗りだしたとき、反戦青年委員会の労組員などがデモ隊から離れて、学生部隊のうしろにつき、援護する態勢をとった。結局、機動隊の実力行使に散らされる結果とはなったが、これによって、前日のような機動隊の暴力をある程度防ぐこととなり、負傷者数も前日の百数十人にたいし、二十数人に減った。さらに、周辺にいた市民などの群集も、学生部隊に暴力をふるう機動隊を非難し、あるいは積極的な抗議行動にでた。
エンタープライズは、19日午前11時すぎに原子力駆逐艦トラクストンを従えて、佐世保港に入港し、ベトナム戦争の勝利を確信したアメリカ政府と日本政府の同盟の堅固さを誇った。この日も三派全学連は、機動隊と佐世保橋で衝突し、23日のエンプラの出港まで連日、闘争が続けられた。
エンタープライズは、1月21日、アメリカ軍の戦略爆撃機B52が水爆4個日とともにグリーンランド沖で墜落したという報を受けて、急遽、ベトナム沖ではなく、日本海に出動した。その日、北朝鮮が、アメリカの情報収集艦「プエブロ号」を拿捕したからである。日米同盟の強化にたいして危機感を抱く中国と北朝鮮の攻勢も予想されていた。ときあたかも、「文化大革命」のさなかにあった中華人民共和国政府は、1月28日に、「プエブロ号」拿捕を支持すると声明を出した。同日、ソ連の「プラウダ」も、日本の対米政策を非難した。また、モスクワ放送は、ワルシャワ条約加盟国は宣言のなかで、北ベトナムが要請すれば、義勇軍を派遣する用意があると発表した。日本政府がこれらの国々の反応に敏感に反応したことは予想された。
この間、東京でも17日に、日比谷野音で三派全学連、革マル派、反戦青年委など13団体共催の総決起集会が開かれ、約1万人が参加した。21日まで集会は続き、その間、外務省への突入、首相官邸、米大使館へのデモ、横須賀基地での機動隊との衝突など、佐世保の現地同様、反対闘争が繰りひろげられた。エンプラをめぐる佐世保の激闘の1週間は、阻止闘争参加者延べ6万4,700人、うち三派全学連など学生約4千人、負傷者519人、うち学生229人、逮捕者69人うち学生が64人であった。佐世保闘争は、全学連学生が孤立して闘った67年の羽田闘争にくらべ、労組や市民との連帯、共闘の上に闘われたという点で注目されるものであった。
1968年1月30日、ベトナムでは「テト(旧正月)攻勢」が始まった。北ベトナム正規軍と南ベトナム解放民族戦線は、サイゴンのアメリカ大使館、大統領官邸、タンソンニュット空軍基地、南ベトナム政府国軍統合参謀本部、国軍司令部、放送局、ビエンホア空軍基地、ロンビン米軍基地など、首都サイゴンを含む40の都市を同時に攻撃した。このうち、サイゴンのアメリカ大使館へは、解放戦線「C10」大隊の20人の特攻隊が押し入り、6時間にわたって占拠した。しかし、テト攻勢は勝利だったわけではない。軍事的には、アメリカは踏みとどまり、強烈な反撃が開始された。古都フエでの激戦は、2月24日まで続き、北ベトナム軍と解放戦線はフエを放棄した。
羽田闘争、佐世保エンプラ闘争は、次に、千葉県三里塚に閣議決定した成田・新東京国際空港反対闘争へとつながっていく。
同新空港は、当初65年11月に「富里」に内定していたが、地元住民の反対によってくずれ、66年7月「三里塚」が、突然、閣議決定された。三里塚の地元住民には、事前に何ら打診もないままであり、閣議決定と同時に、地元の約千戸、3千人の農民・住民によって、「三里塚・芝山連合新東京国際空港反対同盟」が結成された。
68年2月26日、反対同盟と三派全学連共闘の初の集会である「三里塚空港実力粉砕・砂川基地拡張阻止2・26現地総決起集会」が、成田市営グランドで開かれた。この集会には、中核派を中心とする三派全学連600人、反戦青年委員会300人が、千人の反対同盟員とともに集まり、デモ行進を行い、空港公団分室を攻撃した。その際、学生部隊に襲いかかって、警棒でなぐりつける機動隊員をとめようとした戸村一作反対同盟委員長が、機動隊員にヘルメットをとられて、頭を警棒で乱打され、重傷を負うという事件がおこった。
3月10日、再び成田市営グランドで開かれた総決起集会には、反対同盟の千人をはじめ、三派全学連、反戦青年委員会、べ平連など、計5千人が参加、約千人の負傷者、185人の逮捕者がでるという機動隊との激突となった。集会はさらに3月21日にも開かれ、この3日間のデモで実に約1,700人が負傷した。
注目すべきは、これらの闘争をつうじて、それまで農民を支援、共闘してきた日共、社会党など既成革新組織への訣別の転機になったことである。成田闘争は、はじめ日共、社会党によって支えられ指導されてきた。しかし、反対同盟に、三派全学連や反戦青年委員会など、「過激派」キャンペーンがはられていた新左翼勢力が集まるにつれ、日共は例によって、「トロツキスト」批判を展開して、反対同盟の戦列から離れ、社会党もいつのまにか「条件派」に鞍替えし、地元代議士が千葉県知事と「紳士協定」を結び、農民に条件派への参加をすすめるなど、闘争から脱落したのである。
次に、東京北区王子での「米軍病院反対闘争」があった。
この王子に開設されようとしたアメリカ陸軍病院に対する反対運動は、一連の基地闘争、反戦運動の中で、特に注目される。同病院は、ベトナム戦争の激化の中で、埼玉県朝霞基地の米軍病院だけでは、負傷者の収容が不十分となったため、王子キャンプ内に、新たな病院を開設しようとしたものだった。地元では、すでに計画の噂が流れていたその1年以上前から、反対運動が続けられていたが、68年2月27日、王子・柳田公園で開かれた反戦青年委員会主催の総決起集会を皮切りに、地域ぐるみの闘争に、新左翼勢力が積極的に加わり、闘争を激化させた。このころ、南ベトナムのソンミ村で、アメリカ軍が村民を大虐殺するという事件が起こり、世界に衝撃を与えていた。これはアメリカ軍による「パシフィケーション・プログラム」(平定計画)にもとづくもので、村ひとつひとつ掃討して、解放戦線側の拠点をしらみつぶしにするというものであった。ベトナム戦争の硝煙と血しぶきは、ここ日本でも身近に感じられるようになっていた。アメリカ軍は「テト攻勢」以後、強烈な反撃を始めたが、その弾薬などの軍需品を調達するための最大の後方基地は日本だった。それだけにアメリカ軍への反感は、一般市民にまで急速に広がっていった。
3月3日には中核派、社学同、ML派、解放派、第四インターなど各派に、反戦青年委員会の計1,800人が集会、デモを行い、機動隊との衝突で50人が逮捕された。3月8日、各派の千数百人が滝野川付近で機動隊と衝突、158人が逮捕される。同夜開かれた東京護憲連合主催の都民集会に合流した反戦青年委員会など2千人が、ゲート前に座り込みをした。3月28日には各派の千人がキャンプ周辺をデモ、うち中核派の約50人がキャンプ内に突入した。各所で続いた機動隊との衝突では、市民も機動隊に投石するというエスカレートぶりをみせた。この闘争では、地元住民が学生や労働者を支援して自然発生的に共闘の輪ができた。地区の住民にとっても、米軍の野戦病院の開設には反対だった。学生たちの激しい行動が、市民や住民たちの共感や行動をよびおこし、それがうねりとなっていく時期だった。闘争は波状攻撃のように続き、住民も支援のため歩道を埋めつくした。学生や反戦青年委員会の労働者の闘争は、市民や住民らの闘いをよびおこしていた。
2月20日から4月15日まで、学生部隊、反戦青年委員会、それに市民による機動隊との激しい衝突事件は9回にわたり、計1,500人以上の負傷者が出た。佐世保エンプラ闘争で出現した市民のたちあがり以上の、「闘う市民」の登場が、この一連の王子闘争の特徴であった。3月21日には都議会が、移転反対決議を出した。美濃部東京都知事は、事態の打開を図るため、米軍に野戦病院の移転を要請、政府も東京多摩への移転を検討せざるをえなくなり、反対闘争は成果をおさめた。
1968年から1969年にかけて、世界は沸騰し、運動は上昇気流のなかにあった。学生たちの生の声を発するのは、体全体を包み揺さぶるような生存感覚であった。その中心にあったのはなんといっても、ベトナム戦争である。南ベトナム解放民族戦線は、「テト攻勢」につづき、2月18日に第二波、3月4日に第三波の攻勢を全土で続けた。1月半ば以降、北ベトナム軍は、アメリカ海兵隊と、南ベトナム政府軍レンジャー部隊6千人のたてこもる、非武装地帯南のラオス国境の重要基地ケサンを包囲した。この解放戦線側の攻勢にたいして、アメリカ軍も反撃した。1月21日から3月31日までの間に、ケサン基地周辺だけで、アメリカ軍は、延べ3万機、14万トンの爆弾を投下した。これは、第二次世界大戦の全期間中に、日本全土に落とされた爆弾の量の8割にのぼった。
ベトナム反戦闘争は、日本だけではなかった。3月3日にはロンドンで3千人、4日はブリュッセルで2万人、17日にはロンドンで1万数千人、ニュルンベルグで3千人、23日にはニューヨークで3千人、パリでは5千人以上、西ベルリンで8百人、ローマで1千人のデモが行われた。17日のロンドンの集会では、8千人がアメリカ大使館へデモを行って、警官隊と負傷者百余名を出す流血の事態となった。逮捕者は300人に達した。
羽田、佐世保、三里塚、王子と一連の反対闘争後の、68年「4・28沖縄デー闘争」も歴史的事件として注目されなければならない。この闘争では、中核派、ブントに破防法(破壊活動防止法)が適用され、当日の実行行為に関係なく、中核派、ブント両派の5人の幹部が事前逮捕された。この闘争にたいし、中核派、ブント、ML派、第四インター、社労同の5党派が、「総決起せよ」との共同声明をだし、これに共労党、統社同、反帝学評、さらに東大、日大、中央大、教育大などの各全共闘が加わって「29団体共同声明」をだした。
「4・28」当日、東京には全国から2万人の学生、労働者が集まり、都心でデモを展開した。中核派の2千人を中心とする武装部隊が、東京駅を占拠、枕木に放火するなどして、機動隊と衝突、数時間にわたって新幹線、国電などをストップさせた。全共闘、べ平連などノンセクト部隊数千人も、群集をまじえて銀座でデモ、その一部は交番を襲い、敷石をはがして機動隊に投げるなど、衝突を繰りかえした。ブントは、世田谷区の佐藤栄作宅を火炎ビンで襲うなどした。
沖縄では、日本への復帰運動が高まりつつあった。1967年11月に、アメリカを訪問した佐藤首相は、共同声明を発表するが、その中では沖縄返還の時期を明示していなかった。この日米共同声明にたいして、激しい抗議行動が展開されたが、この時、ベトナム反戦のなかで、沖縄問題の位置づけが問われていた。そして、新左翼は各党派とも、ベトナム反戦にたいする位置づけと同様、沖縄問題の難しさを感じていた。日共や社会党などは、沖縄の祖国復帰・奪還ということで方針がすっきり決まっていた。これにたいして、新左翼の方針は各派とも、いま一つはっきりしなかった。それは、沖縄がアメリカの軍政下から本土復帰するのは、ある面で沖縄にとって解放かもしれない。しかし、それで沖縄問題が解決されるということにたいして、釈然としないものが残った。沖縄復帰なのか、それとも沖縄自立なのか、そうでないとすれば、何を目的とするのか。結局、沖縄問題を明瞭に目的意識化することができなかった。
これはベトナム革命や中国文化大革命にたいする見方と同じような曖昧さと通じていた。なぜなら、これは、新左翼が担っていた社会主義のインターナショナリズムと抵触してしまうからである。ロシア革命や中国革命が、決して「社会主義革命」とはみなされないとしていた立場から、沖縄に集約して現れたナショナリズム(近代民族国家形成)の理念は、新左翼の理念として、とうてい認めることはできなかったのである。「沖縄の祖国復帰」ということに疑問を抱いたのは、南ベトナム解放民族戦線の闘いや、中国文化大革命をナショナリズムの発現として、認めるのと同様な意味で、それを社会主義革命のインターナショナルな表現とは認めることはできないことと関連していた。
つまり、沖縄の問題を「祖国復帰」への志向としてみなしてしまえば、ベトナムの問題や中国の文化大革命と同様の「左翼ナショナリズム」に陥ってしまうことに、日共などの左翼民族主義を拒否する立場から、戸惑いを感じていたのである。‘60年安保闘争以降をつうじて、日本のアメリカ従属論を「左翼排外主義」として否定した「自立した革命」の課題が、真制の「社会主義革命」だと設定したなかで、沖縄はどうあるべきか、日本と沖縄の関係はどうあるべきかが問われていたのである。しかし、その場合の「社会主義革命」は、いまだ観念的なままであった。運動は、それを切開する現実的な思想がほしかったのである。
7 東大闘争
三派全学連を中心とする67年以降のベトナム戦争をめぐる一連の反戦闘争をへて、学生運動は68年から69年にかけて全共闘による大学闘争、大衆的学生運動の昂揚期をむかえる。
68年、69年の全国的な大学闘争のまえには、授業料値上げ反対や、学生会館自主管理要求、あるいは処分撤回要求といった前段階的な個別闘争が、いくつかの大学でおこっていた。64年の慶応大学学費値上げ反対闘争、65年の早大学費・学館闘争、66年の明大学費値上げ反対闘争、中央大学での学費値上げ・学館闘争、法政大の処分撤回闘争、立正大の学友会費凍結反対闘争などがそれである。これらの、いわば個別闘争が、佐世保、砂川、成田闘争など、街頭実力闘争のエネルギーをまともに受けて、全国的な大学闘争-全共闘運動へと開花、進化していったのである。
学園闘争は政治運動というより社会運動であり、相互に刺激をあたえつつ展開していた。これらふたつの闘争は、1960年の安保闘争をいろいろな意味で引き継ぐものであった。その一つは行動するラジカリズムということである。‘60年安保闘争にあらわれた急進的な行動は、「ヘルメットと角材」、「バリケード」と変わったが、それはその発展形態といってよかった。また、政治党派、政治運動と学園闘争との関係の難しさは、当初からあった。しかし、大きな闘争となりはじめていた大学闘争を、政治党派の側は、ほとんど理解していなかったのではないか。そもそものはじめから、政治党派は、大学闘争を政治的視界からしかみようとしなかった。自分たちの政治世界にひきよせて考えようとした。大学闘争は社会運動であって、いわゆる政治運動ではない。高度資本主義が展開するなかで、学生の存在様式が変化しつつあること、その危機感のあらわれとしての反抗意識が、その基盤にあった。古典的な大学像や知識人像にとどまっていた政治党派からは、その意味を理解することができなかった。だから、日大闘争や東大闘争がノンセクト・ラジカルにになわれる必然性をもっていた。
同じ時期、フランスでは、五月に学生がカルチェ・ラタンにバリケードをつくって、警官隊と対峙していた。3月に始まったソルボンヌ大学のナンテール分校の学生改革要求の大学占拠闘争は、ナチス以来のソルボンヌ大学封鎖となった。これに抗議する学生は、警官との衝突をくりかえし、カルチェ・ラタンにバリケードを築いた。この要塞化したバリケードをめぐる学生と警官との衝突は激しいものとなった。これに抗議する学生と労働者の運動は、反ドゴールのゼネストにまで発展した。これは6月まで続いたが、結局、ドゴールが鎮圧した。「五月革命」は、ドゴールの「非常大権」をちらつかせた軍隊のパリ周辺への配置によって、6月末の総選挙の結果、大統領派の圧倒的勝利によって収束させられた。
一方、アメリカでは、ベトナム反戦を主張するSDS(民主主義社会のための学生連合)の学生が、コロンビア大学で大学占拠闘争をはじめた。これは《いちご白書》として報告され有名になったが、これを契機に、全米に学園闘争が広がっていった。大学封鎖闘争が世界的な現象になっていたのだ。また、アメリカでは、60年代のはじめから黒人の公民権運動が発展し、65年の投票権法などで差別制度を撤廃させていた。さらに、黒人運動は学生運動、ベトナム反戦運動、女性解放運動などと連動して、アメリカ社会に大きなインパクトをあたえていた。そんな中、1968年4月4日、マーチン・ルーサー・キング牧師が、テネシー州メンフィスのモーテルのバルコニーで暗殺された。享年39歳だった。1964年、ノーベル平和賞受賞し、アメリカ黒人解放運動の穏健派指導者だった彼が、射殺され、犯人が逃走したという報は、全米をめぐり、各地で黒人暴動が起こった。そのちょうど2か月後、6月5日に、ロバート・ケネディ上院議員が、ロスアンゼルスのホテルで暗殺された。民主党大統領候補指名に向けて、カリフォルニア州予備選挙に勝利した直後の事件だった。
68年の1月19日には、東京医科歯科大学で、「登録医制度反対」を掲げて、全学無期限ストライキに入った。
東大闘争の発端は、医学部の闘争からはじまった。東大医学部自治会と42青医連(四十二年度卒業の青年医師連合)が、医学部教授会および病院側にたいし、インターン制にかわる登録医制度反対の意思表示をもとめて、68年1月29日から、医学部が無期限ストにはいったのが闘争のきっかけであった。
この医学部の闘いは、それ自体長い闘いの歴史をもっていた。それは、終戦後、インターン制度を導入した時点からはじまっていた。インターン制度は、卒業生が、国家試験を通った者は、まず、インターンとして1年間は医局で働くことを義務づけられていた。これは、医師でも学生でもない中途半端な身分であり、「無給医局員」とも呼ばれて、働くことを強制されて、正規の給与は支払われない身分だった。「研修医」とは呼ばれていたものの、病院での実地の研修が行われるわけでもなく、深夜や休日の緊急の当直医として下働きに使われた。つまり、医療に対する貧弱な国家資本の投下をおぎなう若年無給医療労働力の合法的確保として、国家と医療機関から位置づけられていたのである。このインターン制度が、教育の名による古い徒弟制度の慣習を利用した病院の、労働収奪の対象となっていたのである。これにたいして、卒業医師たちは、「青年医師連合」を組織し、67年4月から、医局研修を「青医連」による自主カリキュラムで行うようになり、抵抗を示した。東大医学部と付属病院側、政府厚生省は、統制を乱し始めた青年医師の動きに危機感をもった。
そこで、これら青年医師を管理するために、インターン制度に代わるものとして登場したのが「登録医制度」である。卒後2年間の研修を義務づけるという「医師法一部改正案」が、67年、国会に提出された。これは、当局側が、医師の研修を正規に終えたと認めた者を「登録医」とし、国家試験を通っただけの医師とは、分断、差別する制度だった。医学生たちは、管理体制を強めるだけで、これまでのインターン制度の矛盾を、何ひとつ解決されないままの「登録医制度」に反対した。かつてのインターン制度と同質の、医療の営利化・合理化の体系内での、若年医師収奪制度にほかならず、学生は、階層分断策の一環でもあると位置づけていた。学生は、そういう矛盾の再生産でしかない医師法改悪にたいする明白な態度決定をせまったが、医学部長、病院長をはじめとして登録医制度の推進に狂奔し、教授層の独善的、強権的立場が保証される医局講座制の枠組みにおける特権的立場に固執する道をえらんだ。東大医学部医学科が、無期限ストライキを決定した1月27日の全学学生大会は、5世代(医学部1年生から4年生までと卒業生の42青医連)全体が参加したものであり、票数は賛成229人、反対28人、保留28人、棄権1だった。これは、圧倒的多数の医学生、研修生が、無期限ストライキに訴えても、国家試験を受けられなくても、この制度反対をつらぬく意思表示だった。全学闘争委員会(全学闘)が結成され、無期限ストライキに突入するとともに、2百人がピケをはって、四年生の卒業試験を中止させた。2月5日には、41青年医師連合(昭和四十一年卒業の青年医師)がストライキを始めた。
東大闘争の発端が、医学部の闘争であったことは象徴的であった。本来、医学部は、医学という近代的な専門知識や技術にたずさわっているが、そこでの人間関係、あるいは権力関係は非民主的であった。インターン制度や、医局制度としてそれは体現されていたのかもしれないが、医学部のかかえた構造的な矛盾であった。そして、この医学部の構造的な矛盾は、そのまま教授会の大学支配構造の矛盾でもあった。専門的な知識を有する集団や人間関係の閉じられた構造、あるいは非民主的な構造への闘いは、東大の歴史的な構造との闘いになっていった。
登録医制やインターン制など医学部研究教育の改革問題については、すでにいくつかの大学医学部で紛争がおこっていたが、東大医学部でも、この卒業研修実施をめぐって、医学部教授会・病院側と、学生自治会・青医連側が対立し、医学生たちの要望への回答が、68年2月19日、春見医局員にたいする学生・研修生の監禁、暴行事件とみなされた事態にたいし、3月11日、医学部教授会が、退学4人を含む17人の学生、研修生の処分であった。この処分が、医学部全体の闘争の発火点となった。この学生の処分には、その場にいなかった者が含まれていたことが分かり、学生側の姿勢をさらにエスカレートさせた。
医学部教授会の上申による3月11日の東大評議会の処分決定に抗議して、12日の評議会にも押しかけ評議員を徹夜でかんずめにするという事態もおこり、その日のうちに学生は、医学部図書館をバリケードで占拠した。26日、医学部学生のストライキ闘争に賛同した学生有志で、「医闘争支援全東大共闘連絡会議」が結成され、3月28日の卒業式を阻止することを決めた。3月27日から当日の28日朝まで、学生は安田講堂前に座り込み、このため、大学当局は卒業式を中止した。4月12日の入学式には、大学当局がピケを張り、入学式を強行した。4月15日には、昭和四十年(1965)に「インターン制度の完全廃止」を求めて闘ったが切り崩された40青医連がスト権を確立し、43までの各青医連と、医学部医学科の学生四世代、あわせて八世代がストライキに入った。卒業式、入学式闘争を経て、東大全学の有志学生の支援連絡会議はできたが、全学の自治会への拡大はできなかった。それは、日共系の自治会中央委員会と七者協の、医学部闘争への敵対が影響していた。彼らは、卒業式阻止闘争を行うことは、機動隊の導入を招くから反対という理屈をとっていた。5月10日、政府は登録医制度を実質化する「医師法一部改正案」を参議院本会議で可決し、学生たちの運動を、徹底的に叩き潰すことを画策した。大学当局が居直りを続ける限り、学生たちの運動にも焦りの色が見え始めた。
こうして、6月15日、医学部全学闘争委員会(全闘委)の30人が、安田講堂を封鎖した。これによって、同講堂内事務局がマヒ状態におちいった大学側は、6月17日未明、機動隊を導入して、占拠学生を排除した。この時点で、大河内学長以下東大の知識人は、「学問の自由」も「真理探究の場」の幻想も、みずから吹き飛ばした。その日の午前中に、念を入れ、大河内総長は、「機動隊導入に関する大学告示」を出した。そのあと、体調不良のため入院した。その告示には、大学はおよそ力をもって問題の解決をするところでない。暴状にたいしてやむなく、国家の最大の暴力装置である警察力に懇願して、封鎖を解除して大学の正常化を図ったという趣旨であった。当事、東大闘争に参加していた島泰三は、ここで示された大河内総長の「暴力」を、「東大型知識人」の典型例として、その性格類型を次のように指摘している。
《大河内総長は、「東大型知識人」の典型だった。彼らは権力の階段を昇って行くことに血道をあげながら、それが腕力以上の暴力を含めた「力」を得るためであり、かつその「力」を発揮するためだとは意識しないために、助教授、助手、大学院生、学生、職員などの目下を切り捨て、それらの人格を無視しても「力」を振るったとは感じない性格になっていた。この東大の学者権力者の非人間的な性格類型は、その総長告示に続いて出された医学部長の告示にもはっきりと表れている。》 『安田講堂1968-1969』 島泰三著
この機動隊導入が、医学部以外の学生にひそんでいた大学批判の火に油をそそいだ。6月17日の昼前には、機動隊導入を聞いてかけつけてきた学生や大学院生によって、安田講堂の前で、自然に集会が始まった。たちまち300人を越える抗議集会になり、その日のうちに、大学院生が「全学闘争連合」(全闘連)を結成し、代表に理系大学院生の山本義隆がなった。この日は、一日中騒然として、各各部とも自然休講になった。昼過ぎには3千人規模の集会とデモが行われた。翌日には、各学部で学生大会が開かれ、続々とストライキが決定された。
6月20日、法学部を除く9学部が1日ストライキを行い、全学総決起集会には7千人の学生が集まった。同日の教養学部の学生投票では、賛成3,270、反対1,301、保留46でストライキを可決した。この日の全学集会の代表団は、「総長断交」を要求したが、翌日、大河内総長は、大衆団交の拒否を回答した。6月26日、文学部学生大会で無期限ストライキが決まった。同日、豊川行平医学部長は、記者会見で、「処分撤回はしない。他学部の学生と会う気はない」と述べた。27日には、経済学部大学院と「新聞研」研究生自治会も無期限ストライキに入った。
大学当局は、事態収拾のため、6月28日、大河内総長と学生代表との「総長会見」を安田講堂で行った。定員3千人の安田講堂はいっぱいになり、総長の言葉は、学生たちのヤジ、怒号で途切れたが、総長に話をさせなかったわけではない。「大衆団交」を求める学生側との話しあいがつかず、ついに、大河内総長がドクターストップによって、学生のヤジの中で退場、ものわかれに終わった。大河内執行部は、ただ、その無能、無策ぶりを万人の前にさらしたにすぎなかった。学生たちの怒りは、その日のうちに「安田講堂封鎖実行委員会」が結成された。6月29日には、各学部で学生大会が開かれ、工、法、教育学部が1日ストを決め、農学部と理学部では学生の一部が授業放棄をした。経済学部と教養学部代議員大会では、無期限ストライキが提案されたが、否決された。7月1日、薬学部は賛成76票、反対31票で無期限ストライキ権を確立した。翌2日、経済学部と理学部の学生大会では無期限ストライキが否決された。日共系学生が無期限ストライキを過激な戦術として否定したからである。
学生たちは、自らの意見の発露を、どこに求めるか迷っていた。7月1日の夜、安田講堂再占拠方針をめぐって、学生たちは議論した。夏休みが近づいていた。闘争の自然消滅を危惧する意見もあった。また、学生大会のストライキ決議、安田講堂封鎖決議を待つ意見もあった。しかし、大学当局に封鎖戦術を突きつけて、闘争拠点を確保する必要があるとの意見が大勢を占めた。「ここがロードスだ、さあ跳んでみろ!」
7月2日、学生側は、安田講堂を再び占拠した。安田講堂の前では、講堂占拠に抗議する日共系学生との対峙があった。7月3日、工学部の学生大会は、安田講堂封鎖支持を決議した。同日、教養学部代議員大会で無期限ストライキ案が可決された。また、法学部は、「安田講堂封鎖反対、大衆団交要求」の48時間ストを始めた。7月5日の教養学部全学投票の結果、賛成2,632票、反対1,904票、保留333票で、無期限ストライキを決定した。安田講堂のまわりには「テント村」ができた。彼らは「ノンポリ」を自称して、講堂占拠には参加できないが、占拠は支持するという姿勢を示していた。
そして、学生は、大衆団交、機動隊導入自己批判の7項目要求を表明した。
7月5日に、「東大闘争全学共闘会議」(東大全共闘)が結成され、23日には、全共闘を支持する全学助手共闘も結成された。こうして、日大に続いて、全く新しい運動体が出現したのだ。東大全共闘は、各学部の代表者や各党派の代表の集まりだった。それぞれの党派のうるさい主張をまとめる役割を大学院生組織の「全学闘争連合(全闘連)」が担い、議長として理学系大学院の山本義隆が選ばれた。
7月15日、安田講堂で開かれた代表者会議で、東大全共闘の7項目要求がまとめられた。�@医学部不当処分白紙撤回!�A機動隊導入を自己批判し、声明を撤回せよ!�B青医連を公認し、当局との協約団体として認めよ!�C文学部不当処分撤回!�D一切の捜査協力(証人、証拠等を拒否せよ!�E1月29日よりの全学の事態に関する一切の処分を行うな!�F以上を大衆団交の場において文書をもって確約し、責任者は責任をとって辞職せよ!
いわゆるこの7項目要求なるものは、単に学生の自治権拡大の要求のみにとどまるものではなかった。それは、国家独占資本主義体制にたいする先鋭な挑戦であり、体制内大学でしかない大学に対する徹底的な「異議申し立て」であった。そして、そのような大学を管理する立場にある教育者、研究者にたいして、「現在において学問、研究とは何か、知識人とは何か」という問いかけをつきつけることによって、彼らの権威主義に埋没した自己欺瞞的な意識の根底的な変革を迫ることであった。具体的には「産学協同路線」の名のもとにすすめられてきた大学の産業資本への従属構造などの形でしめされているような、現体制への協力を一切拒絶することであり、体制協力を保障する国大協の自主規制路線を否定することであった。
自主規制路線といっても、国家が「大学の自治」(実は「教授会の自治」)を保障するみかえりとして、あらゆる大学問題を、権力自身が容認する範囲内で、大学みずからの手で自主的に規制することを求めたものである。それゆえ、これは、当然、国大協が幻想的に考えているような権力の介入を拒むための自主性のある路線ではなく、現に大学において貫徹されている権力側の要請を守るために、権力から強制された非自主的な路線でしかなかった。
安田講堂の占拠は、東大生によるバリケード闘争の始まりだった。ただのストライキとバリケード封鎖は全く違っていた。大学当局にたいする自己権力を誇示するという意味でも、また、自分たち自身の手で、自分たちのための教育を行おうとした点でも異なっていたのである。8月、東大全共闘の学生たちは、泊り込み体制を作って、まわりのテント村とともに夏休み中の砦を維持した。
東大当局は8月10日に告示を出した。学生が集まりにくい時期だから、闘争の焦点になっている処分問題にけりをつけて、9月の新学期とともに、学生の強硬な姿勢は、なし崩しにくずれるだろうとの見通しがあった。そこで、被処分者の取り消しという形をとって、学生をなだめようとした。機動隊の導入については、責任の矛先をかえて、学生の自粛と暴力行為の抑止をお説教していた。大河内総長は、医学部の無期限ストライキがなぜおこったのか、学生は何に対して怒りをぶつけているのか、少なくとも文面からは、知らないかのようなそぶりをみせていた。学生にたいして、面と向かって話し合い、まともに向き合わない姿勢は、以前と全く変わらなかった。ただ、自己保身と、それを保証する正常な(教育?)環境をつくることのみが目的だった。医学部では、この告示を受けて、学部長、付属病院長が交替した。小林新医学部長は、総長名で告示を、医学部学生宅に郵送し、対話とストライキ終結を呼びかけ、事態解決のための提案を行った。また、機動隊導入についての、今後の慎重な姿勢などを訴えたが、告示郵送というやり方がかえって学生側の反発をあおった。
しかし、8月22日午後4時、医学部当局のこの提案を受けて、医学部学生118人がストライキ終結宣言を貼り出した。このストライキ破りを待っていたように、24日には、医学部当局は、9月に異例の卒業試験を行うと掲示した。対象は、春に受験していたものを除く医学部4年生109人だった。28日にはさらに、9人がストライキ終結宣言をした。28日、安田講堂で総決起集会を開いていた東大全共闘は、小林新医学部長が記者会見をしているということで、団交を要求したが、拒否したので、彼らは、午後5時から医学部本館を封鎖した。医学部本館の封鎖は誰にとっても衝撃だった。そのためか、小林新医学部長が、夜の7時すぎになって、学生との話し合いに応じるといいだした。翌日、午前零時10分まで続いた話し合いは、結局、もの別れに終わったが、翌日、灘尾弘吉文部大臣が介入した。「武装した大勢の学生が医学部長をつるしあげたのは暴行、脅迫とも言ってよい」。(『安田講堂1968-1969』島泰三著)
夏休みが明け、9月3日、駒場での東大全共闘の全学総決起集会には、千人あまりの学生たちが集まり、7日の教養学部代議員大会には、6千人の学生が登校した。教養学部では学生10人に1人の代議員が選ばれるが、総数852人のうち、432人が集まり、ストライキ中止提案を含む全提案が否決されて、無期限ストライキが続行されることになった。
9月11日、教養学部基礎科学科(147人)も無期限ストライキに入り、16日には教養学部長との団交決裂ののち、駒場全共闘の手で、教養学部の事務が封鎖された。翌日、日共系部隊がこの封鎖を一時解除したが、全共闘側が再封鎖した。18日の教養学部代議員大会では、日共系議長はリコールされ、全共闘系学生が議長になった。しかし、全提案は否決された。無期限ストライキは全学に拡がった。9月19日工学部、27日経済学部、28教育学部、10月2日理学部、3日薬学部と農学部、10月12日には法学部が無期限ストライキに入り、すでにストライキにはいっていた医学部、文学部と併せて、東大の全10学部が無期限ストライキに入った。10月17日には全学総決起集会を駒場で開催して3千人を集めた。
大学院の学生も、9月21日に都市工学大学院が、10月2日、基礎医学・社会医学若手研究者の会(56人)が無期限ストライキを始めた。10月8日、精神神経科医局は、医局の解散決議をした。医局制度が、研究、医療と人事を束ねる教授専制支配の根源だったからである。10月12日、東大医学部と病院の青年たちは、「全医学部共闘会議」を結成し、若手医師を含む組織が誕生した。翌日、22の診療科の教授、助教授からなる「医学部臨床教授会」は、「青医連」を認める方向を打ち出した。
当時、全国で51大学が紛争中だった。東洋大では9月7日から校舎占拠が始まっていたが、9月30日には理事長が退任した。同日、京大医学部では、87人全員に卒業を認定し、闘争を終結させていた。東京医科歯科大学では10月4日に全学大会で、1月19日以来のストライキを解除するとともに、5月末からの病院外来の封鎖も解除した。逆に、10月1日には、使途不明金問題による学長、理事の総退陣に伴って、神奈川大学で学園紛争が勃発し、同日、東京外国語大学が無期限ストライキに入った。10月17日、東京都教育委員長は、高校生の政治活動の禁止の通達を出した。(『安田講堂1968-1969』島泰三著)
10.21国際反戦デーには、東大全共闘も3千人の総決起集会を開いた。
10月31日、アメリカ大統領ジョンソンは、北爆を全面的に停止すると発表した。それはベトナム戦争の終結がまじかであり、力をもってしては、ベトナムを屈服させることができないことを知ったアメリカの世界戦略の転換点であった。日本で反戦運動を闘っている学生、労働者が、全共闘運動を含め、勝利のかすかな予感を感じた瞬間であった。
11月1日、大河内総長はじめ、全学部長、評議員が、紛争の責任をとって辞任、加藤一郎法学部教授を総長代行とする新執行部が発足した。そして、医学部学生の処分撤回が決定された。大河内総長の辞任の声明には、教師と学生との間に、人間的な信頼関係が欠けていたとして、医学部教授会、教官を批判するような文面があったが、自分自身に対する責任の所在は、何ら明らかにされていなかった。いってみれば、日本の官僚機構の典型的な逃げ口上であり、およそ学者として、学生を指導する立場の人間の言葉とは、ほどとおかった。そして、「大学の自治」を盾にとって、学生の側の自重を垂れている。学生から見ると、どうも勘所がちがっていたから、当然、納得しなかった。
11月3日、経済学部の大学院生が、学部長室と研究室を封鎖し、4日には、文学部ストライキ実行委員会が、林健太郎文学部長と無期限団交をはじめ、1週間にわたって監禁状態におかれるという事件もあった。8日には駒場で団交が決裂し、全共闘は教職員会館を封鎖した。9日、東大全共闘の機関紙『進撃』が創刊され、日共は「大学闘争テーゼ」を発表した。東大全共闘は10日工学部7号館、11日駒場の第一研究室と第二本館を封鎖し、同日、農学部グランドでの全学教官集会を解散させてしまった。12日、東大全共闘は、日共系学生行動隊と全学封鎖方針をめぐって正面衝突する。10月の間に日共系学生組織の凋落は決定的なものになった。党の方針として日共系学生が過激化するのをくいとめようとしたのである。日共は団交からの撤退を指示されたのだ。11月12日午後4時すぎ、安田講堂内で東大全共闘の総決起集会が(1,500人)行われた。集会後、総合図書館前に繰り出した。そこには宮崎学らが指揮する“あかつき部隊”500人が待ちかまえていた。午後8時45分頃、ぶつかり合いが始まった。はじめ日共系の黄色のヘルメットの集団が、角材で殴りかかってくる全共闘諸派連合の攻撃を受け止めていた。ところが、指揮官の笛がなり、“あかつき部隊”の黄色いヘルメットは、一斉に細い棒を振り上げて全共闘部隊に襲いかかった。樫の木刀である。伸びきった態勢の全共闘部隊の最前線はたちまち総崩れになった。実に見事な反撃だった。
同日、理学部の学生大会が開催されていた。日共系も全共闘系も提案が通らなかった。午前1時すぎになって、全共闘方針を否定する「全学バリケード封鎖反対決議」が可決された(賛成134、反対60、保留21、棄権4)。14日には法学部で「全学封鎖阻止決議」が通った(賛成371、反対126)。全学封鎖戦術は全共闘にとって不利な風向きになってきた。連日、『赤旗』には、「団結の力によって、学園民主化を妨害するトロツキスト暴力集団の暴挙を粉砕し、かれらの狂暴な暴力を学園から一掃することこそ東大闘争の真の解決の保障である」といったキャンペーンが流された。政府は介入の姿勢をみせた。
11月16日には、文部省が、東大、東京教育大、東京外語大、日大に、「授業を再開せよ」との通達を出した。全共闘は、18日に全都総決起集会、22日に日大全共闘が総力をあげて結集する「日大・東大闘争勝利全国総決起集会」を予定し、この力を背景に、全学バリケード封鎖を実行することを宣言した。自治会の決議は、闘う学生の個々の意思まで規制することはできない。これにたいして日共系学生は「全学封鎖断固阻止」を掲げ、全面対決になった。11月18日、安田講堂前は、全共闘の全都総決起集会と「公開予備折衝」に集まった8千人の人並みで埋まった。午後2時10分前、3人の教授を引き連れて、加藤代行が安田講堂に現れた。加藤代行はとうとうと巧みな弁舌を披露し、全共闘側は少したじろいだ。加藤代行は学生の要求した7項目の要求を、上から黙殺しようとした。「俺の話しを聞け」という態度を示し、学生をみくびっていたのだ。「帰れ、帰れ」のシュプレヒコールの中を加藤代行は午後7時20分退場した。加藤代行にとっては、全共闘の学生と対話したという名分がほしかっただけなのだ。
本郷の各学部では次々に学生大会が開かれ、全学バリケード封鎖否決が続いた。こういうなか、11.22「日大・東大闘争勝利全国総決起集会」当日がきた。全国動員である。午後2時頃から、全共闘系は安田講堂前に集結し、日大からの終結をまって4時から決起集会を開いた。安田講堂の広場から、銀杏並木と正門前には数千人の全共闘系の学生でうずめられた。日共系は教育学部前に5千人を集めていた。安田講堂前の広場は、赤、白、青、緑、黒、銀色のヘルメットで埋めつくされ、その周囲に報道、一般学生が隙間なく立ち並んでいた。その数は5千人を軽く超えた。講堂正門は、各派と各大学の旗が立ち並び、それを背景に、幹部が次々にマイクを握って大声でアジテーションをしていた。ここに集まった学生すべてが、ひとつの大学の到着を待っていた。東大全共闘の一人がマイクで叫んだ。日大全共闘の学生3千人が、機動隊の弾圧をはねのけて、正門前に到着したのである。どよめきがおこった。日大全共闘のために、正面の席があけられた。神田三崎町の日大経済学部バリケードを出発した無届のデモの日大全共闘3千人は、2千人の機動隊の壁を破り、銀、黒、赤、青、白と色とりどりのヘルメットで、東大正面に入場してきた。秋田明大日大全共闘議長は、この日の演壇に姿を現し、数万の学生たちの前で演説をした。午後8時全共闘の集会が終わって、学内デモが始まったが、日共系部隊との衝突は回避された。東大構内の外では4千人の機動隊が待機しており、できなかったのである。そのため、夜遅くまで7千人の学生が東大構内にとどまっていた。こうして、東大全共闘は日大全共闘と合流した。しかし、連帯の持続の方法を見失っていた。
12月2日、加藤代行は、「紛争解決案」なるものを、学内に配布した。9日、文部省大学問題委員会は、「年末までに授業再開の見通しがつかない大学では入試の中止もやむを得ない」と東大、東京教育大、東京外語大を恫喝した。学生たちにとって、卒業中止、留年が目前に迫っており、切実さも増して、学生大会が立て続けに開催された。東大構内は、さまざまな色のヘルメットをかぶり、ゲバ棒を手にした全国から集まった学生たちの乱闘で明け暮れていた。東大生は、全員参加の会議を開いて、無期限ストライキを解除するか、封鎖を拡大するか、代表団を出して東大当局と交渉するか繰り返して討議して、結論をだそうとしていた。いわば、民主主義のルールを守ろうとした。
1969年の入試が迫っていたる医学部と教養学部では、全共闘の方針を覆すため、日共系学生は全国動員をかけ、医学部学生大会と教養学部代議員大会を強引に開こうとした。これが暴力の激突を招いた。12月6日、社青同解放派と革マル派との間に、流血の内ゲバがあった。これから駒場では、日共系学生ばかりでなく二重の内ゲバ状態が現出した。11日、ストライキを中止するための代議員大会の開催要求を、今村自治会委員長がはねつけたため、代議員大会を強行しようとする日共系学生と、ストライキ解除派学生は、委員長がたてこもる第八本館のバリケードを攻撃した。東大全共闘は、革マル派、解放派を含んで、全力でこれに抵抗し、乱闘騒ぎになり入院した者が18人もの惨事になった。この乱闘の中で、13日午後5時頃、教養学部代議員大会は、全学集会のための代表を選出したとした。これは代議員大会を、日共系部隊の公然たる暴力のなかで実現した会議決定を「民主的」と呼ぶような流れをつくりだしたからである。同じ手法は医学部でも使われた。(『安田講堂1968-1969』島泰三著)
法学部の学生大会は25日に開かれ、ストライキ解除提案が431票を集め、無期限ストライキの解除が決まった。日共系の無期限ストライキ継続提案を支持してきた学生たちがストライキ破りに転じたからである。医学部も24日、日共系学生のヘゲモニーで学生大会が開かれ、スト解除が決まった。経済学部は26日、ストライキ実行委員会自身がストライキ解除を提案し、266票を集めて、可決された。教養学科では27日の学生大会で無期限ストライキが解除された。こうして、年末、次々に、ストライキは解除されていった。ストライキが越年したのは、教育学部、農学部、工学部、薬学部、文学部、理学部だけだった。
日大では、新大学定款が文部省に認可されて、来年の入学試験ができることになった。だが、東大では、入試実施をめぐって最終の局面に入っており、学生は、決戦が近いことを感じていた。安田講堂の防衛隊の問題がでてきつつあった。青医連は今井澄がなり、学部の守備隊長は、理学部のストライキ実行委員長の島泰三に決まった。そして、各学部で防衛隊のメンバーが決まっていった。
バリケード封鎖で越年した大学は、全国で15校だった。東大、日大、東京教育大、東京外語大、電通大、中央大、明学大、青学大、芝浦工大、山梨大、富山大、大阪大、神戸大、関西学院大、長崎大だった。
1月9日、「東大闘争・日大闘争勝利全都総決起集会」に都内9大学の全共闘と、各派3千人が集合した。日共系学生も3千人を動員して、教育学部と理学部の建物にたてこもった。これにたいして、全共闘は、教育学部と経済学部に攻撃をしかけ、日共系学生を追い詰めた。激烈な乱闘になった。加藤総長代行は、午後8時16分に「第一に経済学部で危険な状態にある学生の救出、第二に教育学部で包囲されている学生の救出、およびそれに伴う必要な措置をとるため、警察力の出動を要請する」旨を、警察当局に伝えた。これによって、全共闘系の学生のみが51名逮捕された。日共系学生の窮地を救い、学生同士の内ゲバを抑止したことによって、加藤代行は自己の権力者としての優位を示した。
加藤代行、教授会の態度は、いわば「権力者」のそれであった。そして、少なくとも彼らは「教育者」ともいえなかった。硬直した研究教育体系が、いかに「教育」の一点においても、非生産的であるかは明らかであるにもかかわらず、物心両面で、みずからの特権的地位を温存するよりほかなかった。それでは、彼らは「科学者」であったか。彼らにとって「科学」とは、単なる経験の蓄積にほかならず、地位、身分によって分配されるべき私的財産であり、自らの虚栄や利害関係にゆだねられるものであった。
「真理探究の場」、「理性の府」であるべき大学において、いかに「真理」が葬られ、「理性」がふみにじられたか。しかし、彼らは、みずからが専門にしている分野での諸矛盾を率直にとらえる精神的構造を失っていた。彼らは、現体系のなかで、自分の地位をおびやかす危機を回避することに使命をみいだしているのみであった。
90年にわたって築かれてきた、特権的な地位に由来する悪しき権威主義と保身主義が、本来は「理性の府」であるべき大学構成員たちの精神の深部にまで食いこみ、彼らがこぞって大学を「権威と保身の府」にしてしまっていたのだ。
学生は教授会の権威主義、権力主義の社会的機能、その基本的姿勢を問題にした。教授会は学生の問題提起をまじめにうけとめることなく、自らの利害と偏見にのみ固執することによって、学生の提起した問題と、展開した運動に敵対してきた。みずからの存在が、制度的にも、精神的にも弾劾され、否定されるべきものであることをあきらかにしたのは、彼ら自身であった。
彼らは、学生の提起している問題について、一度として一緒に論じあおうとはしなかった。学生の前から逃亡し、暗闇の中から、「告示」や「談話」によって恫喝をくりかえし、かつ、「東大ナショナリズム」とでもいうべき一般学生の薄暗い打算や、日共系学生の反トロツキスト・キャンペーンさえ利用し、また、一般学生の最も利己的部分に手をのばし、甘言をもって懐柔し、一部、強硬派学生にたいしては「授業・卒試再開強行」、「留年」、「処分」等々あらゆる手段を用いて、切りくずし弾圧することしかしなかった。この卑劣な行為こそが、「教育者」、「科学者」としての資格を疑わせ、「人間」としての資格さえも疑わせるにいたったのである。
一方で、学生たちは、現在の日本の社会の基本的構造に立ち向かっていたのであるが、この実践における苦しみを担いきっていくため、自らの精神の真面目さと強靭さをもとめていた。彼らが教授会の個々人に問うていたのもそれなのである。みずからのうちに多くの歪んだものを鬱積させ、語るべきことを語らず、なすべきことをなさず、自らの没社会性を保証されつつ、忍耐の末の栄光を夢見ての沈黙、その平和こそが、東京大学の秩序であったのではないか。
個々人の闘いへの参加は、一個の人間として、さまざまな欺瞞を打ちこわし、大学における「人間」の復権、そして全社会的な「人間」の復権のための大学の機能と、自己の責任を深く問いつめ、実践するところに自己の「主体性」があるはずであった。
そういう眼から東京大学が果たしてきた歴史的役割をみた場合、どうであったか。東大闘争は、体制の中における「被害者」たちの闘いではない。「東京帝国主義大学解体」を叫ぶとき、それはみずからの物心両面における社会的特権の否定であり、その特権の上に展開される学問、研究、教育のなかの歪みの体系の否定であり、特権と抑圧の上になりたつ全社会機構の否定であった。いままで自明であるかのようにうけとめていた「学生」としての自分、「助手」としての自分、「研究者」としての自分、「教育者」としての自分の存在基盤と、その社会的機能を根底から問いなおしてみること、そこに、東大闘争の一つの思想的な問題提起があった。この自己変革を、現実的基盤のうえに根づかせることが可能かどうかが、教官にも問われていた。
東大闘争とは、「大学の自治」「学問・研究の自由」の名のもとに、営々と続いている東京大学の制度的・精神的腐朽を、根底的に告発する闘いであった。大学の共同幻想の中に貫徹している国家権力、教授会権力を摘発し、それを屈従と沈黙によって支えているすべての研究者や医師たちを告発し、「学生」や「院生」の共同幻想を、個々人の精神構造の実体にまで分解し、自分自身をも解体しつくすことを要求したのである。そのとき、自分自身のうちにも倒すべき何かがあり、東大闘争は外に対する闘いであると同時に、内に対する闘いでもあり、まさにその「内なる闘い」の徹底化こそが、外への闘いをラジカルにかつ執拗に支えることになった。批判の矢は自分自身にもはねかえってきた。
否定され粉砕されるべきものは、自分自身ではないのか。いままで、あるいは無意識的であったにせよ、悪しき権威主義とエリート主義のなかに安易に埋没し、東京大学の負の役割を告発せず、エゴイズムの上に眠り込んでいたのは自分自身ではなかったのか。このような自分を「自己否定」するところから闘争は展開していった。さらに闘争をおし進めていく主体にたいしては、闘争の過程において、たえざる自己批判、自己否定を要請した。
また、東大闘争は、多くの「進歩的知識人」の欺瞞性を暴露した。東大内における自称、他称の「進歩的文化人」のほとんどすべては、この闘争へのかかわりあいにおいて、自己破産を次々と暴露していった。東大における「民主的教官」や「話のわかる教官」たちが、東大闘争の局面において、いかなる言動をとってきたか。また、行うべきときに行わなかったか。自分の学問上の見解と、自己の現実の生き方、私的な形での発言と公的な場での言動を器用に分離させ、それを精神の自己分裂として、自己のうちなる痛みとして感じることのない鈍感さに、学生たちは失望した。自己の現実的保身が脅かされない限りにおいてのみ、進歩的言辞を弄する彼らの精神的姿勢を、日本的インテリゲンチャの一般的な姿として免罪することはできなかったのだ。
彼ら進歩的知識人たちとちがって、学生たちにとって、「真理」とはその実現を求める現実的な力であった。東大闘争を担ったものにとって、「語る」とは「行う」ことであった。「かくあるべし」と自ら方針をだすことは、自らそれを遂行する主体となるということであった。語るべきときに語らず、行動すべきときに行動しえないみずからの限界は、屈辱であり恥辱であった。学内で沈黙を守りつづけた進歩的知識人は、東京大学という特権的存在のなかに首元まで浸りきり、それに気づいていながら、自己責任において、何も告発せず、沈黙することによって、かえってそれを守りぬいた。
学生たちにとって、彼らの精神は荒廃しつくし、回復不能におちいっているかに映った。彼らは、学生たちを機動隊に売り渡して平然としている。学生たちは「教育者」である彼らに不信を抱いているのみならず、「人間として」の彼らにも、徹底的な不信感をいだいている。全共闘の運動が、一貫して自己批判なるものを要求してきたことも、このことと無関係ではない。そこでは、知識人としての自己否定も追及されていたのである。つねに自己に対して「ノン」を叫び続けること、これは全共闘の運動をになう個々の主体に厳しく要請されることであると同時に、彼らが外に向かっても徹底的に追及していかなければならぬことである。この意味で、全共闘の運動は、極度に倫理的・思想的色彩をおびていたといえる。個々の運動の参加者は、もはや具体的な紛争解決としては、終わることのない究極の勝利に向けての闘いをになうことになった。
東大闘争を闘っている者の「主体性」も「自己否定」も世界の現実的矛盾の諸関係を認識し、アクティブに展開させ顕在化させていくそのダイナミズムのなかに、自己発展の道を見いだしていくものとして位置づけられている。その意味では、東大闘争は、今後も永遠に終わることのない絶えざる発展の途上にあるはずだった。
この側面が理解されぬ限り、彼らがなぜ執拗に教授会に「自己批判」を迫るのかがわからず、学生たちによる一方的な吊るし上げなどという、一方的なでっちあげの意見が横行する。特に、その存在そのものを問われた東大内部の知識人たちは、この倫理的側面を深刻に受けとめなくてはならなかった。
日共・民青は、全共闘が弾劾し打倒すべきものたちと手をつなぐことによって、形式民主主義をつうじて、全共闘の闘いを圧殺する機能をはたした。しかも、彼らは東大闘争にたいして敵対してきた最も反動的部分と、形式民主主義において結合しうる論理をついに示しえなかった。東大闘争の量的、質的前進に恐怖した国家の、「入試中止→大学当局の管理能力喪失の証明→政府の大学への全面介入」の恫喝に狼狽し、「学生大衆の卒業の権利を守り」、「受験生の入学の権利を守り」、「大学の自治を守り」、「大学の社会的使命を果たす」ために、闘争収拾に狂奔した。そのことによって、逆に、東大へのまさに国家の暴力装置の大量導入を許し、政府の全面介入の口実を与えたのである。
以上のように東大闘争をみていくと、東大の共同幻想性が、いかに高みに押し上げられていたかがよく分かる。「学問の自治」や「学問・研究の自由」が、あたかも書物の高さと同じぐらいの高みに、重ねられていたのだ。そして、この呪縛は、自らの特権意識やエリート意識、自己保身と区別できないぐらいに、もたれあっていたのである。これが、後に述べる日大闘争と全く違う様相をもたらした原因であった。日大には、資本の論理が、保守的な建学精神を加担させることによって、ラジカルに貫通し、学生の意識を切迫させ、ほとんど窒息する寸前で、私学資本と直接的な対峙となる爆発的な闘争の展開となった。
しかし、東大においては、教授会のヌエ的な幻想のベールにつつまれて、闘争はいうならば迂回し、韜晦しているようにしか、展開しなかった。その第一が、闘争主体の意識変革のプロセスを不可欠としたことであり、敵としての教授会の個々人にたいしても、倫理的(生き方の問題)あるいは思想的問題意識をぶつけることになった理由である。
高橋和巳は『わが解体』の中で、京都大学で、教授会と学生の間で板ばさみになり、そのあげく、自壊していく良心的教官の内面を描いているが、思想闘争レベルで対応したいと願っているこの助教授には、大学教授会の傲慢の背景が次のように映った。
《大学の自治や学問の自由というものが、身銭をきって購われたわけではない一つの特権であることの痛切な自覚を欠いた大学関係者の独善的な言動、つまりは社会を形成する各単位団体の自治と自由の確立運動との連繋志向をもたないひとりよがりな自己主張は、権力者の意向如何よりもさきに、庶民感情のアンビバレンツな構造に頭うちすることも充分考えられるのである。一部の政治家がどう動くかが問題なのではない。むしろ、じっと大学に目を注いでいる市民の目が、かつての過剰な敬意から、いまや侮蔑のそれにかわりつつあることが問題であり、それをさせているのが誰かということが問題なのである》
『わが解体』 高橋和巳著
これは大学の自治や学問の自由が、それ自体としてなりたっているのではない点では正しい。しかし、作者は、市民大衆へのコンプレックスから、敬意や侮蔑に反応する度合いだけ、自治や自由が幻想でしかないことから、無意識に自由ではなかった。そして、これを、自分(たち)の特権意識をどうふりほどくかの問題に、すりかえてしまっている。いわば、大学の自治や自由は、現実の社会で人々が大学に託す夢が変形されて、大学の自治や自由に理念化されてあらわれているにすぎない。だから、その夢や願望を膨らませれば膨らますほど、理念は高みに押し上げられる。逆に、夢が消えたとき、その理念も消えてしまうものだ。その大学幻想のメカニズムさえわかっており、しかも、現実社会には学問の自由もなければ、思想の自由も奪われていることが前提になっていることが理解されていれば、さしあたり学問の自由や自治に関わる大学の問題は、充分であった。
しかしながら、『わが解体』の作者は、自治や自由の幻想から無意識に自由でない分だけ、過剰な倫理感でがんじがらめになり、生真面目な韜晦の果てに、みずから解体を余儀なくされたのである。これは助教授がそうであったと同質に、「自己否定」を連呼して教授会をラジカルに詰問する全共闘の学生の側にも同じことがいえた。
大学の自治や学問の自由に裏づけられた社会的特権との結びつきを解体できるのは、思想の身の丈の問題においてしかなく、決して自己内倫理の問題ではない。だから、ある面、東大全共闘は精神運動をしているような錯覚をおこしていたともとれる。日大闘争のように、敵は体育会・応援団の暴力ではなく、自己内面をほりさげ、自らの学問、研究の欺瞞性をつきつめることが、闘争の第一目標になった。良心的学生、教員にとって苦悩、内的葛藤の永続的な解決をもとめて闘いをさらに展開する必要があった。しかし、この展開は、敵を資本主義体制における倫理的課題にセットしている限り、どこまでいっても決して終わることはない闘争である。思想的にのみ、ある面で意味をもつが、これを倫理において問い詰めようとする場合、必ず、運動の壁にぶちあたる運命にあった。
事実、その円環を脱しようとするならば、政治党派のスローガンのように「全国学園闘争、労働者・人民の階級闘争の拠点構築」とか「資本の論理からの大学の解放」とか闘争目標の拡遠化をまぬがれない。そして、東大闘争は全国の学園闘争あるいは政治党派の闘争の象徴として焦点化していった。
年内の紛争解決のみとおしが立たず、ついに加藤代行は坂田文相と会い、12月29日、69年度の東大入試の中止を決定した。
ところで、加藤代行と坂田文相との入試中止決定には、1月15日までに事態収拾の場合は再協議という条件が付されていた。スト解除による正常化をして入試を実施したい大学側は、事態収拾を急ぎ、1月10日、東京青山の秩父宮ラグビー場で、全学集会を開き、その後、医、文、薬の三学部を除く7学部から選ばれた学生代表団と「確認書」をかわし署名した。これによって、医、文を除く8学部ではスト解除したが、全共闘は、この7学部代表団は、日共系学生を中心とするものとして参加を拒否、安田講堂の封鎖解除強行にそなえて、防衛体制を固めた。翌日、駒場寮の屋上で行われた教養学部の代議員大会では、ストライキ解除提案が491票で可決されたとされる。このストライキ解除決議は、駒場の全学生の投票での確認が必要であり、1月15日の開票によって、有効投票数3,775、うち賛成3,178、反対329、保留249、白表19という結果になった。
一方、政府、自民党側も、この7学部代表団との「確認書」については、日共系学生ペースの学生への大幅譲歩として、反発をみせた。「正しい解決」なるものをお題目のように唱えていた加藤執行部は、もはやそのような解決にたいする一片の道理さえなく、「入試中止=東大閉鎖」論におびえ、一部の学生のエゴイズムを巧みにあおり、やみくもに闘争を収拾せんとしたのである。その間、一貫してみられたのは「東大ナショナリズム」という醜悪なエゴイズムだけだった。
1月15日、安田講堂前に3千5百人の学生、青年労働者が集まって、「東大闘争勝利・全国学園闘争勝利労学総決起集会」が開かれた。この日、機動隊が導入されるという噂があって、法学部研究室、工学部列品館、法文二号館、医学部図書館、安田講堂のバリケードが強化され、全共闘の部隊は資材と食糧を運び込んだ。当局の掲示により、日共系学生は学外から退去した。機動隊が入ることが分かっている東大構内に日共の部隊がとどまるわけがなかった。このころ、山本義隆東大全共闘議長に逮捕状が出た。16日、午後1時に加藤代行らは警察へ出向き、警視庁に機動隊の出動要請をした。17日には安田講堂のなかにあふれていた全共闘系の学生もめっきり減った。いままでいっしょに闘ってきた学生たちもいつのまにか姿を消した秀才が多かった。東大全共闘は5千と称していたのに、安田講堂の守備隊は百に足らなかった。もっとも、医学部図書館と法文二号館は医学部と文学部の部隊が入り、教養学部では、第八本館を全共闘駒場部隊が防衛していたので、安田講堂はそれ以外の学部で防衛しなければならなかった。また、その後の闘争指導のため学外に出る者も必要だった。安田講堂に、学外からの支援学生が続々と到着するなかで、東大全共闘の学生たちの数は減っていった。最後の日に安田講堂に入ってきた東大の学部学生は約40人だった。(『安田講堂1968-1969』島泰三著)
8 日大闘争
東大闘争とともに、全国大学闘争の拠点とされる日大闘争には、長いきっかけと底流があった。学生が闘争にたちあがった直接のきっかけは、68年1月26日に発覚した理工学部小野竹之助教授の5千万円の、裏口入学斡旋謝礼金の着服事件と、東京国税局が同年2月からの調査によってあきらかになった大学の20億円に上る使途不明金であった。さらに、5月には10億円余の不明金があることが分かり、日大の経理には30億円以上の源泉脱税があると発表された。使途不明金の内容は、大半は研究費、研修費などの名目で教職員に支給されたヤミ給与であったが、その他学生対策費、組合対策費や政治家などへの対外渉外費といったもの含まれており、大企業なみの経理内容であった。国税局の脱税調査のさなかの3月26日、経済学部の富沢広会計課長が突然失踪し、3月28日には、理工学部の渡辺はる子会計課徴収主任が、自宅で自殺するという事件もおこる。これらの相次ぐ不正、不祥事件が、学生の疑惑と怒りをまねいたのである。
そして、その疑惑、怒りを全学的な憤激に高めた底流として、古田重二良会頭のもと、営利第一主義を方針として掲げ、そのためには、手段をえらばない教育不在、学生不在、学問・研究不在の私学資本の体質があった。時の総理大臣佐藤栄作を後ろ盾にする古田会頭の牛耳る日大は、高度成長期のこの時代、日本経済同様、急激な膨張を続け、その予算は、1959年度の36億7千万円から、68年度の3百億5千万円と、10年間で10倍近くになっていた。つまり、大学という教育の場所を利潤追求の場にかえ、マスプロ教育を推し進めるとともに、そのためには、学生に自治を与えず、自由を求める学生が決起するや、古田の私兵暴力集団(体育会、応援団)を使っておさえこむ、学内暴力管理体制にたいする長い鬱積した不満があった。学生数10万人の日本一のマンモス大学といわれる膨大な学生数に比較して、教授陣容や、教育施設の貧弱さはいうにおよばず、日大の校舎にはキャンパスといったものがなく、学生が集会を開こうにもひらけない、その上、教室などで会合をひらくことなどはもとより、ビラ、掲示などもすべて検閲制で、表現、言論、集会の自由が全くない状態に学生は閉じ込められていた。
自治会といっても、「学生会」とは名ばかりで、学生が選んだ代表により構成されているものではなく、当局の御用機関であり、形式的な自治権を与えられているにすぎなかった。もし、その自治会活動を逸脱するものがあれば、直ちに大学側と癒着した右翼、体育会学生の暴力的介入が行われる。だから、運動は御用自治会と闘うことからはじめなければならなかった。
東大闘争が、教授会との闘争であったのにくらべ、日大闘争は、理事会や大学評議会の大学支配という伝統的な大学の構造と闘うという性格があった。日大は理事会の支配力が強く、教授会も理事と癒着しており、「大学の自治」という幻想は、もともと存在していなかった。学生に対する支配も古典的であって、そこでは学生運動も、学内的には存在することがむつかしかった。これにたいして、東大では、教授会の自治=大学の自治という幻想が流通していた。どちらも閉鎖的であったが、大学の権力的な構造が違っていたのである。
この使途不明金問題などをきっかけに、学生の闘いは、近代的な体質そのものの深い、資本の根本にたいして、大学の民主化を求める闘いとなって噴出した。
1968年の5月に入って、各学科あるいはクラス、サークル単位で開かれはじめた学生たちの討論会が、次第に学部単位の抗議集会へとたかまり、5月23日には、神田三崎町の経済学部一号館前に集まった2千人の学生が、“偉大なる2百メートルデモ”と呼んだ日大生としては初めてのデモをおこなった。5月24日、経済学部では800名の学生集会に、右翼、体育会系学生が殴りこみ、集会を妨害しようとすると同時に、校舎入口のシャッターを下ろしてロックアウトした。これにたいし、大学側に対する学生の姿勢は高まる一方であった。
全学的な闘争の高揚を恐れた大学本部は、経済学部に告示をだし、秋田明大以下15人を処分した。処分の理由は4回の無届集会とデモ行進であった。
5月25日には、当局学生課と体育系右翼の暴力のなか、自然発生的にぞくぞくと学生が集まり、3千人の抗議集会となった。そして、神田三崎町の白山通りいっぱいを埋めて、デモをおこなった。これは、全日大生に大きな影響をあたえた。それは絶対に突きくずすことができないとおもわれていた強権的学生支配と、そこにつちかわれていた学生間の相互不信と無気力を一気にふきとばすほど、強烈な出来事だった。日大においては、無届で集会を開き、まして旗をかざして、デモを行うことは、死を覚悟しての行為だといってもいいすぎではなかった。これを契機に、学生の意識は流動しはじめた。それは、「ついにやったか」という感激であり、入学して以来、味わいつづけてきた、あまりに大きくて抵抗できぬ、得体のしれないものへの不満を解決できるのではないかという希望であった。そこには、学生同士の真の連帯の萌芽があった。
古田会頭は「日大こそは全国大学のなかで唯一学生運動のない大学である」ことを最大の誇りにしてきた。その裏には、「学生心得」とそれを保証する体育会=暴力部隊による学生の自治活動の圧殺があった。高い学費と学生の増員による莫大な収入、それを古田がおもうように動かして、彼の独裁体制の維持をはかってきた。このような古田体制の下で、学生は反抗を避け、学内での不自由を学外での行動によってまぎらわすという生活を強いられてきた。しかし、学生は反抗をあきらめていたわけではなかった。当局の弾圧にたいし、あらゆる手段で闘ってきた。にもかかわらず、その闘いが、古田体制内での合法的枠を突破しえないために、敗北を強いられてきた。そして、「おとなしい日大生」という形容をぬぐいさることができなかった。これを突破することが、長い間学生たちには課せられてきた。
ここには、大学当局の弾圧と抑圧のもとで、ひとりひとりの日大生が、不満と怒りを蓄積していたという背景の土壌があった。不動の鉄壁のように見えた日大反動体制の支配にたいして、過去の屈辱的敗北をのりこえた大胆不敵な“200メートルデモ”の反抗と、5月25日の抗議集会が、全日大生に異常な衝撃をあたえ、大学当局の支配に耐え苦しんでいた全学友の圧倒的支持を獲得し、風穴をあけたのである。“200メートルデモ”を突破口に、使途不明金問題にたいする追求を、現実に行動をもってあらわしたのである。その後の抗議集会、デモは、古田に対する追及であったとともに、これまでの圧迫にたいする総反撃であった。「われわれ」は「子羊」から脱皮し、古田体制に対する叛逆を開始したのである。
5月27日、経済、文理、法学、芸術、商学、農学、理工、歯学の各学部学生有志5千余名にのぼる「全学総決起集会」がひらかれ、全理事総退陣、経理の全面公開、集会の自由、不当処分白紙撤回など4つのスローガンを決め、「古田体制打倒」のシュプレヒコールのなかで、全学闘争をきりひらき、日大の根底的民主化を全面的に勝利するまで、断固闘う組織、日本大学全学共闘会議=日大全共闘(議長・秋田明大(経済学部))が結成された。日大の学生たちは、これが命をかけた闘いになることを覚悟した。大学当局の攻勢姿勢が、はじめから強硬だったからである。
5月28日、全共闘総決起集会に、6千余人の学友が結集して開かれた。それから各学部闘争委員会が結成される。しかし、5月30日古田会頭を初めとする理事者は、全共闘とは一切話し合わない方針をうちだした。
5月31日に全共闘が要求していた理事者との大衆団交にたいして、当局は、臨時休講、ロックアウトで、これに対抗した。大学当局は、正門を閉め、体育会系学生がピケをはった。また、右翼団体であり、古田の私兵である日本大学「学生会議」の車が、文理学部の集会に突っ込み、体育系右翼学生が、牛乳ビンや角材をもって殴りこみ、30余人を負傷させた。そのうち3人は、内臓損傷、腎臓出血などで病院に運ばれた。これに抗議する7千人の学友は、構内をデモ行進して、大衆団交集会を開催した。
6月4日、再び、大衆団交が予定されていた。この日、学生の意識は、闘争のなかで明確に敵が誰かを知り、その爆発的怒りは、闘争の新しい局面、「大学本部を包囲し、古田会頭をひきずりだし、大衆団交を成功させる」ことを原動力として動きだしていた。それにたいして、大学当局は、またもや大衆団交を拒否した。「全学総決起集会」が開催され、日大本部前において1万人を結集し、11日の大衆団交を要求した。
6月6日、全学共闘会議活動者会議が開かれた。この会議において、この闘争は、日大を根底的に変革する闘いであり、ストライキ闘争を含めた長期の闘いを決意しなければならないことが確認された。一方、古田会頭は理事会を開き、全共闘との話し合いは一切拒否することを決定した。
6月10日、大学本部は、学生の団交要求に応じないばかりか、機動隊をも含めた弾圧を11日に行うことを決定した。
6月11日、経済学部で開かれた集会には、学生課や右翼グループが、校舎から学生を排除するため建物を封鎖した。その際、中にいた右翼暴力団は、突然、牛乳ビン、コーラのビンを投げつけ、木刀をふりかざして殴りかかってきた。学生は無防備であった額を割られ、くるぶしの肉をえぐられる者が続出した。血だらけになってうずくまる学生で、あたりは地獄絵図と化した。全共闘は、態勢を立てなおすため、大学本部へデモ行進した。デモがはじまるや、3、4階に陣取った体育会学生は、ガラス瓶を投げつけ、数多の学生に裂傷を負わせた。秋田全共闘議長は、断固たる決意のもとに、暴力団の手から学園をうばいかえし、民主化闘争を前進させようと“ストライキ宣言”を発表した。急いで用意したヘルメットをかぶった先進的学生を先頭に、再び、経済学部前に向かった。とってかえした学生の頭上に、4階から10キロの鉄製のゴミ箱が投げ落とされ、デモ隊の真ん中に落ち、2名の学生が重症を負い、さらに、次つぎと椅子、机、酒ビン、ロッカーが落とされ、2、3階からは、消火液、催涙ガスがかけられた。学友は、暴力団が築いたバリケードをこえ、中に入ったが、学生課職員、右翼暴力団によって、日本刀、チェーン、スキーストック、ゴルフクラブ、木刀、鉄パイプといったあらゆる凶器をつかっての暴力で、おいだされた。
午後5時頃、大学本部の要請で、機動隊が導入されたが、たてこもる右翼暴力団を排除しないばかりか、その暴力行動を傍観し、あげくに、怒りの声を発する学生に罵声をあびせ、抗議する学生に殴る蹴るの暴行をはたらきはじめた。この事態を目前でみて、集まった学生は、警察機動隊が、右翼暴力団を守り、古田理事会を守る、まさに国家権力の暴力装置であることを知ったのである。学生が隊列を組み、整然と学内に入る権利を主張し、デモに移ると、突然、機動隊は、その隊列にジュラルミンの楯をふりかざしておそいかかり、それを払おうとした学生5名を逮捕したのである。そればかりか、抗議して座り込んだ300余の学生を足蹴にし、ゴボウ抜きにして蹴倒し、さらに、付近の学生たちをこづきまわして、全ての学友を追い払ったのである。この日、学生の被害は、入院した者40余名、全治2週間ほどのもの60余名、軽症者全てを含めると、実に2百人以上に達したのである。
これがきっかけとなり、経済学部から機動隊に追われた学生は、法学部第三校舎を占拠し、右翼暴力団と機動隊の襲撃にそなえるため、急いで武装バリケードを構築した。ここに、日大はじまって以来のストライキ闘争が、右翼と官憲の暴力的弾圧の中ではじまった。そして、他大学でもみられない“最強のバリケード”がうまれた。
こうして学生は古田体制にたちむかっていくためには、合法的枠内では何もできないことを確認した。闘いにたいする破壊活動は、あらゆる形で展開される。これにうちかつためには、正義の暴力が必要であった。闘いの質的発展を、大胆に提起するときである。バリケード・ストライキは、今までの闘争の総括であり、新たなる闘いの開始でもある。6月11日の闘いをつうじて、敵の暴力にたいしては、自らを武装する必要を確認し、ヘルメットをかぶりゲバ棒をにぎった。
6月12日、前日、右翼が占拠していた経済学部本館も占拠し、バリケードで封鎖した。
6月14日には、経済学部ではバリケードの中で、初の自主講座が開かれた(三上治講師「大学の自治と学生の役割」)。これは校舎から暴力団をおいだし、日大の反動教育を放逐し、学生の手による授業を闘いとり、学生にたいする古田体制の教育を拒否する闘争が、バリケードに守られながら、着実に進みだしたことを意味していた。
6月15日には、文理学部総会で無期限ストが決議され、学園を右翼暴力団から守るための1、2号館バリケード武装ストに入り、直ちにバリケードを構築し、300人余りが籠城した。
バリケード武装ストライキの戦術は、自治会すら形骸化した大学自治のなかで、学生が合法組織での活動では決して大衆運動をつくれないこと、運動は学友と直接結びついた直接民主主義によってのみ展開するという結論からみちびきだされたものであった。また、古田理事会のもとからうまれた全ての組織を破壊し、全ての学友を教育内容において、制度的に切り離すこと、すべての学友を、既成の学生組織から切りはなすこと、つまり敵の体制にたいして、自分たちのバリケード内の体制を対置することによって、学友を団結させ、敵の体制を破壊するものとしてバリケードはあった。腐敗堕落した古田反動教育から学生みずからの手による、学園の自主管理によって、学生の手に奪い返し、真の学園を構築する闘いであることこそ、バリケード・ストライキに賭けた思想的表現であった。
日大にはいろいろなタイプのバリケードがあった。日大生は思い思いのバリケードを築いて、自分たちの闘争を守っていた。入り口には机が天井まで積み上げられて、その間に曲がりくねった通路が作られている。バリケードなしには闘いが守れないほどに、大学当局と私兵体育会系学生、右翼「日大学生会議」の攻撃は、頻繁で執拗であり、脅威だった。バリケードの外へ一歩出ると、右翼や体育会に襲われる危険があったので、共同で炊事をしてささやかな食事を作る「食糧隊」や女子専用の部屋もあった。バリケードの中にはビラ、印刷用謄写版、角材、石塊、ヘルメットがあった。学生たちは床に直に敷いた布団か毛布の上で眠った。日大のバリケードの中では、トランペットを吹き鳴らし、ギターを弾いて、フォークソングを歌う学生がいた。バリケードの中では、酒もマージャンもなかった。闘争がはじまるまでは、雀荘に入り浸っていた学生たちも、ここでは全く違っていた。日大のバリケードは、数次に渡る右翼や体育会の襲撃によって、どんどん強化された。「われわれはバリケードを打ち固め、決意を固めねばならない」。
6月17日、文理学部バリケードで自主カリキュラムを創り、自主講座を開くことを確認した。
6月18日、商学部でもストライキに突入し、本館を占拠しバリケードを構築した。
6月19日、本部封鎖が行われ、芸術学部もバリケード・ストに突入した。続いて6月22日、農獣医学部もストライキに入った。また、文理三島校舎もストライキに入った。
こうして、6学部がストに入り、バリケードを築いて、校舎を占拠、学生たちがなかに立てこもった。彼らにとって、バリケードは闘いの前進の象徴であった。このスト突入は、三度にわたって、大衆団交を拒絶された学生の古田理事会への本格的な闘争開始宣言であったと同時に、今までのどちらかというと、受動的な闘いから徹底的な攻撃への反転であった。
しかし、大学側は、依然、大衆団交には応じようとせず、そればかりか6月24日には記者会見で、19項目の機構改革案なるものを発表した。理事会で、顧問制など特別の身分・職制の廃止、体育会の改革、経理公開などの刷新案を提示したが、これは全共闘の学生にとっては、自らの責任と理事会の教育方針の破綻を、機構の問題に転嫁するもので、古田支配体制の利潤追求第一主義教育方針と、反動と暗黒の恐怖体制の確立を隠蔽するものと受けとめられた。これは「全理事の総退陣」と「大衆団交」を要求する学生側の姿勢とのあいだのへただりは大きく、学生を沈静化させる効果がなかった。
その間、理事者側は、約束した団交にかんする予備折衝を一方的にとり消した。学生が執拗に要求する大衆団交は、学園において学生と理事者は同等の立場であり、学園の教育方針など、根本的変革についてとりきめるときは、全学生と全理事者が直接的に話しあうことが原則であるとの認識にたったものであった。6月24日、医学部を除くすべての学部がストライキに入った。
6月25日、全共闘は法学部1号館で、6千人の大衆団交拒否抗議集会をひらいた。大衆団交に応じないばかりか、全理事退陣が学生の要求であるにもかかわらず居すわり、なおかつ、闘争を終息させようとする古田理事会にたいして、抗議のデモンストレーションを貫徹し、1号館をバリケード封鎖した。
一方、全共闘に対抗して既成の学生会組織がでっちあげた6学部自治会は、全学総決起集会をひらき、国会、文部省に請願デモを行っていた。これは全共闘の闘争に反対し、学生にたいして、分裂と分断の企てであるとみなされた。
7月4日、文理学部では、文闘委主催の学生大会が開かれた。その後の全学総決起集会には、11学部すべて総数1万人の学生が集まり、デモ行進を行い、神田周辺を埋めつくした。ジグザグデモ、フランスデモと大衆的なデモを貫徹した。
ようやく、7月20日に予備折衝がもたれた。その予備折衝において、8月4日、大衆団交を行うことで誓約書をかわした。その後、経済学部のデモ隊が校舎にひきかえそうとしたとき、第一方面機動隊が突然介入し、それに抗議する学生21名が、不当にも検挙された。この不当検挙にたいする抗議行動をおこし、300余人のデモ隊が神田署に向かいシュプレヒコールを行ったところ、またも、機動隊が襲いかかり65人の検挙者がでるにいたった。この不当弾圧による検束者は86人、重軽傷者は50余人にのぼった。
ところが、古田会頭は、予備折衝において全共闘と確約したにもかかわらず、8月4日の大衆団交の約束を、一方的に無期延期にしたことが、学生の怒りをさらに高めた。
このころから、学生の意識も次第に変化してきた。《大学における危機、矛盾の根底的解決は学園民主主義の次元での改良闘争ではその糸口が見出せず資本主義社会そのものに対する正面からの闘いにいどまなければならない。》(文理学部情宣紙『変革のパトス』より)というような主張において、古田体制を打倒し、日大の根底的変革をかちとることは、日本における反動的文教政策の重要な一角を切りくずすことであるとの認識が、他大学の学園闘争との連帯、あるいは日大闘争が全国化して注目をうけるにつれて、次第に色濃くあらわれてきた。日大当局の危機は同時に、国家教育行政体制の基軸大学の危機であり、動揺である。そして、基軸大学の決定的動揺は、全国の大学行政に波及するはずだ。「日大に続け」は、たしかに弾圧にうちひしがれている各大学の合言葉として存在していた。だからこそ、右翼や体育会のみではなく、国家権力はわれわれにたいしてあらゆる弾圧やおどしをかけるし、それは個別「古田理事」がどうこうという次元をこえた問題である、との認識をふまえていた。
8月25日、法学部1号館で、夏季闘争最後の全学総決起集会がひらかれた。古田理事会は、夏休み期間中の運動の自然消滅をもくろんでいたが、この間、スト貫徹によって策動を粉砕して闘いぬいた3千余人の学友が、闘争の連帯と確信をもって結集した。
要求項目として�@全理事の総退陣�A検閲制度の廃止�B経理の全面公開�C集会の自由を認めよ�D不当処分白紙撤回のスローガンをかかげた。しかし、同じ日、大学当局の手で商学部のバリケードが解除された。
そして、夏休み明けの9月4日、大学側は、東京地裁が認めたバリケードを非合法とする「占有排除仮処分」によって、500人の機動隊が、経、法、本部学部のバリケード封鎖を解除し、132人全員が逮捕されるが、スト破壊抗議集会には3千人が結集した。抗議集会は、「古田理事会は学園を国家権力に売りわたした」、「われわれ学生の力で国家権力の手から学園を解放しよう」と、怒りのシュプレヒコールに包まれ、デモ行進に移り、校舎内にいた職員と右翼学生を追い出した。このとき、機動隊員1人が重症を負い、のちに死亡した。この時から、日大全共闘の闘いは、国家権力との直接対峙となり、秋田議長は全国に指名手配される。
9月4日から12日に至る経済、法学部奪還の闘争は、6日35名、7日129名、12日154名総計318名に及ぶ検束者をだしながらも、全共闘に結集した2万余の学友が、白山通りを中心に三崎町一体を埋めつくす、実力闘争として貫徹され、12日、経済、法学部は、紙吹雪の舞う歓喜の中で奪還された。19日には、医学部もストを決定して、日大11学部すべてがストライキに入った。
ついに、9月21日、古田会頭は、「大学の定款を改正した後に全理事が総退陣する」と発表した。24日、日大全共闘は、法学部一号館前の2千人の集会のあと、午後7時、大学本部を再封鎖し、27日には郡山市の工学部校舎も再封鎖した。9月29日、日大バリケード解除の際に、学生が落とした石塊を受けた警官が死亡したと伝えられた。
この学生側の勢いに、ついに大学側は、学生との大衆団交要求に応じ、日大緊急理事会が開かれ、9月30日午後3時、両国講堂で、学生側が要求した「大衆団交」が開かれることになった。
その日、両国講堂には、3万5千人の学生が集まり、古田重二良会頭以下の全理事を壇上にすえて、大衆団交が開かれた。団交は、翌日の午前3時まで約12時間続けられ、全理事が、6月11日の弾圧、8月4日の大衆団交破棄、9月4日の仮処分執行、機動隊導入への自己批判書を読み上げて署名捺印した。また、大学側は、学生に全面屈服する形で、検閲制度の廃止、思想、集会、表現の自由の承認、指導委員会制・顧問制の廃止、本部体育会の解散、学生会館の設立、ヤミ給与問題の全容解明、経理の全面公開、全理事の即時退陣、大衆団交の継続を理事の総退陣を前提として、10月3日開催するなどの確認書に全理事が署名した。両国講堂は、学生たちの拍手と大歓声にわき、紙吹雪が舞った。古田体制打倒をめざした、全共闘側の大勝利であった。
ところが、翌日の10月1日、佐藤首相が閣僚懇談会で、この大衆団交について、集団暴力はゆるせない、「大学問題を政治問題としてとりあげる」と発言、これを機に、大学側は居直り、10月3日の大衆団交での確認書も白紙撤回して、全理事がそのまま居座った。そして、理事会側が攻勢に出るという反転現象がおこっていた。学生側にたいする政治や警察の権力をむきだしにしての、大弾圧がはじまる。すでに大学闘争は、日大や東大だけの問題でなくなっていた。学生たちは、日本政府の権力中枢と深く抵触していたのである。
10月5日、秋田明大全共闘議長ら全共闘幹部8人に逮捕状がだされた。10月に入ると日大当局の動員する右翼、体育会の学生の数は、これまでの数十人から200人になった。彼らは、10月8日、習志野市津田沼の日大生産工学部に放火し、14日には郡山市の工学部のバリケードを火炎ビンで攻撃し、11月4日には獣医学部を攻撃した。11月8日、日大芸術学部のバリケードを、暴力団“関東軍”に率いられた体育会系学生400人が襲撃した。このとき、バリケードの中には、約40人の日大芸術学部闘争委員会(芸斗委)のメンバーしかいなかった。“関東軍”は、全員が黒のヘルメット、マスクをつけ、日本刀、樫の木刀、熊手、鉄棒、ライフル銃で武装していた。彼らは、次々にバリケードを破って、一階、二階と全共闘を追い詰め、午前2時には屋上に通じるバリケードだけになった。あとひとつになったということで、ここで“関東軍”は気をぬいた。学生の応援がくるはずがないと踏んでいた。ところが、明け方になると、急報を受けた日大全共闘の行動隊200名が、朝一番の電車にのってやってきた。こうして体育会系の学生は、日大全共闘に全員、捕らえられ、自己批判をさせられた。この事件で、芸斗委側も重傷者4名が入院した。日大全共闘は職業右翼に率いられたこの攻撃を撃退したあと、神田三崎町で全学抗議集会を開いた。この襲撃事件にたいして、警視庁は千五百人の機動隊を動員し、芸術学部バリケードを攻撃し、芸斗委46名を全員逮捕した。だが、日大全共闘は、同じ日、午後4時にはバリケードを再建していた。これほどの大弾圧の下、学生は粘り強さを発揮した。分断工作と暴力的弾圧、逮捕攻撃をはね返し、幾度、機動隊を導入しても、バリケードを作り直し抵抗を試みた。
しかし、全共闘の組織弱体化のすきをついて、大学側は機動隊の力で次々とバリケードを解除しはじめた。
物理的に圧倒的に強大な機動隊の力のまえに、学生たちがたちむかえるはずがなかった。敗北感と消耗のなかで、学生たちの自壊作用があらわれはじめ、全共闘の基盤であった学生大衆が、次第に戦列からこぼれはじめた。秋田議長が、闘争半年後の69年3月、東京都内の潜伏先で逮捕されるなど、多くの全共闘活動家が逮捕された。大衆団交によって、大学側を全面屈服まで追い込み、大学闘争に金字塔をきずいた日大闘争も、権力の力のまえについに、力尽きつつあった。
日大闘争をになった学生の平均的な像を想定してみる。ごくはじめの3月、4月頃には、30億の使途不明金の問題が発覚していたが、一部の政治党派の学生などを除いて、何がおこっているか、正確には把握できない状況であった。まだ、多くの学生は、無関心をよそおっていた。学生は確かに受験体制で傷ついていたが、高校生の当時は、その傷を理解するための時間が絶対的に不足していた。政治にはまったく関心がなく、受験のことで頭がいっぱいであった。そして、幾分の不満感と充実感を経由して、大学に入ったことがその受験体制から解放されるということであった。大学にはいってすぐは、急激な虚脱感がおそった。その反動のように、解放感とともに、「自分はいままで何をしていたのか」という漠とした何ものかにたいする不満感がないまぜになって、高校生活とはちがう学園生活と、新しい自分を求めていた。一方で、これはこころの叫びみたいなもので、人に伝えるのはむつかしいとも自覚する。だが、求めるに価するものは、容易にはみあたらなかった。いまの自分を満たすには、こころを燃焼させるものがむしょうにほしかった。ともすれば倦怠感がおそった。それが、大学生活になれるにつれて、クラス討論やアジ演説をつうじてまわりが、次第に騒々しくなっていくことに気づいていく。マスコミをとおして、ほかの大学では、激しい学園紛争のニュースが伝わってくる。だが、ほかの大学では、ごく当たり前におこなわれていたアジ演説や立看板が、日大には全くなかった。反日共系と日共系学生の区別もよく分からないが、せめて、日大にも他大学並みの学生の自己表現があってよいのではないか。それにしても、まわりの人間は、あくまでもおとなしく飼いならされた子羊のようではないか。何も心の迷いや不安はないのか。しかし、学園闘争を中心になっておこなっている学生の言動は、それとは少しちがっていた。次第に彼らに羨望し、触発されて、最初のデモ行進に参加した。2回、3回と参加しているうちに、参画しているという自己確認のなかで、運動が次第にもりあがっていく高揚感に心が一体になっていくのを感じるようになる。少しばかりの連帯感と、自己をみつけだせそうな予感がいっしょになって、集会、デモをするごとに喜びがあり、ビラを読むことに意義をみいだし、それを身体で表現することが幸福だった。こうして、運動への個々人の参画と、次第に運動の輪がひろがっていく初期の段階は、政治的イデオロギーのはいらない、ごくノンポリ的な学園民主化闘争であった。そういう意味では、このごく一般的な学生を多くまきこんだという点で、日大の運動の特殊性というものがあったのかもしれないし、また、それが日大闘争の強みにもなった。
日大闘争の当時、教師をしていた赤塚行雄は、学生のタイプについて、思想や理念保持の度合いと、大学にたいする一体性の度合いから、学究型、知識人型、左翼活動家型、ヒッピー型、学園生活享楽型、専門技術志向型などに腑分けして、その政治的志向性や出身階層などを分析している。そして、当時、潜在的な疎外感や不満感をもっていた学生が多かったから、左翼活動家型が2~3人いれば、すぐに発火するという状況であったと述べている。だから、闘争は、左翼活動家のみでなく、学究型、知識人型、ヒッピー型、学園生活享楽型等を問わず、「慣例墨守型」をのぞいて、すべての学生が戦線に加わったとしている。ヒッピー型活動家は、デモの新しいやり方を考えたり、学園生活享楽活動家は、「バリ祭」(バリケード内でのクリスマスパーティやゴーゴーパーティ)などを企画し、闘争そのものを楽しみ、学究型活動家はバリケード内で自主講座をひらくといった具合である。こうして左翼活動家のほかに、さまざまのタイプの参加者がユニークな活動をしたからこそ、闘争は今までにない個々人の内面に活気をうみ、多くの学生をひきつけた。そして、それをつらぬくものは、「闘争」のなかに「遊び」や「情念」を復活させうながした。彼らは、ほんとうに「マルクスなんか知らないよ」にふさわしい活動家だった。赤塚がいうところの学生のタイプが、1人の人間のなかにひめられた潜在的可能性をさすものであるとすれば、多くの学生が可能性として雑居して、闘争をもりあげた点でおおむね正しい。
それにしても、日大闘争の中では、東大のような「大学の自治」とか「研究の自由」といった幻想はもともとなかった。あらゆる人間的な欲求や希望をふみにじられた地点から闘いを展開しなければならなかった。しかし、それが、次第に、バリケードによってもたらされた大学がせおっている普遍的な意味に近づくにつれて、自分が長い受験競争から解放され、人間として自分自身をみつけだしたいとおもって入学した大学で、そして、本来、いちばん人間性の豊かであるべき大学が、将来、企業の歯車として吸いとられていくのを先取りするかのように、学生を人間としてあつかうどころか商品としてあつかい、社会に送りだしていく。そのなかで感じたどうしようもない「やるせなさ」や不満感、憤りに火をつけた、それが闘いの基本にあった。だから、今にしておもえば、「あたりまえ」であるべきことが、当時の学生にしてみれば「やるせなさ」に映ったのだ。単に、保守的な大学の管理体制とか、古田会頭や理事の脱税問題だからというのではなく、もっと根本的には60年代を象徴する資本主義社会における、大学の機能やあり方、もっといえば企業化に、直接、抵触した運動であった。
9 全共闘運動の意識と行動
60年代の大衆の社会・政治意識は、空前の高度成長経済にささえられていた。1950年代の後半からはじまり、60年代をつうじて日本経済は、爆発的な高度成長を実現した。60年代の実質経済成長率は年平均11.0%に達した。これは欧米のそれに比べても驚異的な数字であった。高度経済成長は、まず、重化学工業の伸張であり、流通部門の拡大が動因になった。重化学工業部門は50年代の鉄鋼業にかわり、自動車、石油化学工業が比重を高めた。自動車の生産台数は、60年の48万台から70年の694万台に延びた。また、石油化学工業では、太平洋ベルト地帯から、瀬戸内沿岸にかけてコンビナートが造成され、プラスチック、合成繊維の生産高が急増した。さらに60年代後半には、鉄鋼業の巨大な設備投資が行われ、生産量が世界全体の17%に達した。
一方で、高度成長経済は、産業構造の変化をもたらした。産業別就業者数の推移をみると、第一次産業は60年の32.6%から19.3%、第二次産業が29.2%から34.1%、これに比べ第三次産業の推移が大きく、38.2%から46.5%になっている。第三次産業の中心である商業部門では、卸売、小売ともに、この10年間で販売額を6倍以上に伸ばした。これは、家電や自動車産業による直接的流通支配、チェーンストア経営の普及、スーパーマーケットの拡大が注目される。アメリカで産まれた商業技術は、日本に「流通革命」をもたらした。ダイエーなど、大手スーパーの店舗数が飛躍的に伸び、そして売上高も70年には1兆円を超えた。百貨店も再編成をへて、大企業グループ化し、分散的な小売市場が全国市場化していった。
産業構造の変化は、激しい労働力移動もうみだした。特に、東京圏、阪神圏、中京圏など市部人口は、この10年間で38%から50%に膨張している。東京、大阪、横浜など都市部の人口をみると、60%は60年以降の転入者であることになる。その一方で、山陰、九州、四国では過疎が進行した。この人口の大都市集中により、就業者構成における雇用者比に反映されている。年間100万人にのぼる割合で増加したことになる。さらに、労働市場における変貌の要因として上げられるのは、女性労働者の増大である。1960年から1970年の非農林業女性雇用者は385万人増加した。特に、家庭の主婦の労働力化は、20%から41%に急激に増加した。それとあわせ、パートタイマー化も、60年代に定着している。以上のような社会的変化に伴い、日本の階層構成も推移した。ブルーカラーはこの10年間に1.3%増にとどまったが、ホワイトカラーは急増し、70年には、労働力人口の4分の1をこえた。50年代の増加がブルーカラーを中心としたものであったのと対照的であった。
高度成長期をつうじて家族の構成も核家族化が一層すすんでいた。「家つき・カーつき、ババー抜き」という言葉が、流行しはじめたのが66年のことであった。核家族化とともに、女性の意識の変化をはかる象徴になった。都市に集中した若い核家族は、生産と消費が分離される二重生活をするようになった。住居では消費機能だけをになうことになり、そのなかにインスタント食品、冷凍食品、使い捨ての消耗品がはいりこみ、冷蔵庫、洗濯機、掃除機などの電化が、いっせいにすすんだ。消費の社会的依存が高まり、消費支出が増大した。消費支出の増加は、消費者物価をうわまわる賃金の上昇がささえた。1960年から70年の10年間で、勤労者世帯の実支出は2.6倍となり、支出構成では食料費の割合が低下し、耐久消費財や教養娯楽、交際費などの支出が増加した。また、若者にとっては、余暇関連支出が急膨張した。所得の増加、労働時間の短縮によりレジャー産業は、ボーリング、ゴルフ、スキー、旅行の大衆化と、欲望の肥大化をもたらした。マイカー時代が到来し、自動車、カラーテレビ、ルームクーラーが新しいステイタス・シンボルとなった。
このような大衆消費生活の拡大は、ひとびとの意識を「マイホーム型」にしつつあった。私生活意識が「マイホーム」にむすびつき、片や企業社会では、「モーレツ社員」を産みだした。「マイホーム」を維持するため、企業内エネルギーを投入し、それによって企業は生産性を拡大し、そこで生まれた製品が市場のなかで、さらに人々の「マイホーム」の欲望をかきたてるという私生活意識の循環が定着したのが60年代であった。ここにおいては、私生活意識、「マイホーム」意識という「消費は美徳」意識が、すべてに優先する動因になっている。この構造のなかでは、消費生活の向上、「ゆたかさ」、「世間並み」の生活という実感が、意識の基準になり、その結果、それは「中流意識」の拡大とむすびついていた。1970年の時点で、みずからを中流とおもっている人は、すでに90%に達していた。
しかし、私生活中心意識は、企業や組合への帰属意識を、希薄にすることに作用した。政治意識の上においても「支持なし政党」層を増加させた。また、会社志向の意識を減退させ、疎外感を抱かせ「モーレツ社員」像を否定していく力にもつながった。仕事は、単に、消費生活をおこなうための手段でしかないという意識は、職場の現実の競争社会の行動にともなう疎外感との間で、ギャップをひろげていった。それが現実と意識の間の疎外感として、次第に感じられるようになったのである。
高度成長経済のなかで、先進資本主義国の人々は、次第に中産階級化していた。これはダニエル・ベルが、1960年に『イデオロギーの終焉』のなかで予言していたことの具体化であった。経済的に豊かになり、生活水準が高まってくるにつれて、古典的なマルクス主義がかんがえるような、プロレタリア階級とブルジョア階級のイデオロギー的な対立の構図は次第に色褪せていった。しかし、ダニエル・ベルがいうように、イデオロギーの消滅が、対立の構図そのものを失わせたということはいえなかった。社会的な意識のあり方は確かに変わったが、旧来の左翼的な古典的な図式のなかではみえない意識の変化がきわだってきたのである。
60年代の社会意識の推移をみてくると、確かなのは「変貌するという時間」が残った。高度成長社会は、変貌する時間の別名であった。人々の内面をとおりすぎる時間意識のみが、心に刻印をつけた。物質生活が豊かになること自体が、意識化されるのみでなく、物質化の上昇過程が意識にのぼった。その意識が、現実生活と自己意識のあいだに自己矛盾をもたらした。これは社会全般を覆う強迫観念にも似た「無意識」であって、学生もそれから自由ではなかった。
日大闘争や東大闘争などの運動に共通しているのは、大学のなかで学生が、その存在に強い危機感や疎外感を抱いていることの意思表示であった。そして、まだ、大学という幻想も知識人という幻想も流通していたが、それがもはやその内実を失っているだけでなく、自分たちにはよそよそしい借りものでしかないことを、学生たちがよく知っていたのである。学生は、大学と私生活に二重に引き裂かれた内面をもっていた。
こういう自己矛盾は、おそらく60年代という時代の特質から産まれたものである。学生たちの親の世代は、戦後の十数年、戦争の荒廃の中から立ちあがろうとし、社会とじぶんの生活を復興しようという目標をもって生きていた時代であった。子供たちの世代は、いわゆる第二次大戦がおわったころの‘ベビーブーム’の世代である。彼らが赤ん坊の頃は、父親たちが復員のときの兵隊靴をはいて買出しにいき、ようやく仕事にもありつき、大いに働いた。それだけに、この時期の大衆には、少なくとも希望と達成感も、また、具体的に感じられていた。おかげで子供の世代には、日常生活は生理的な脅威から解放されることになった。少なくとも鋭角的な不幸は、目に見えて身辺から遠ざかり、苦痛のかたちがよりとらえにくいものに変わったといえる。
こうした生活上の変化と並行して、社会問題や政治的な紛争のありかも、次第に質を変えてきた。それまでの衣食住にまつわる苦痛の時代には、それにたいする人々の闘いの構造もまた、明快な言葉で表現できるような性質をもっていた。しかし、ここへきて、要求の対象は、具体的なものではなくなり、反抗の相手も、特定の名を負った「主義」ではなくなっていった。それにともない、対立の断面は広がると同時に、複雑なものになっていった。「敵」の存在が多面化し、拡散していくとともに、闘争のかけ声も、敵の所在がわからないような「反体制」という曖昧なものに変質せざるをえなかったのである。
また、この時代は、政治的な世界を支配していた明快な構図が壊れた時代でもあった。東西の冷戦対立がなくなるとともに、イデオロギーの持つ呪縛力が半減したといえる。イデオロギーは、本来、人間の感情を組織する魔力を持っていたはずである。人間の複雑で、曖昧な気分を強引に整理して、図式的で明快な感情のかたちに置き換える働きをもっていた。イデオロギーの枠組みの中では、個人的な不安とか、シラケといった心の陰影は、問題にならず、怒りや悲しみ、憎悪や希望といった激しい感情だけが汲み上げられることになる。
したがって、1960年代の政治党派のそれを含めた「イデオロギーの終焉」は、元来、イデオロギーで抑圧されていた、私的で複雑で、とりとめのない気分、輪郭と方向をもたない「気分」や「感情」がいっせいに頭をもたげることになった。おりしも時代は「フィーリング」という言葉で代表され、「水平思考」といった流行語をもうみだして、非論理的、没構造的なものの価値を再発見していた。大学闘争は、いわばこのとりとめのない「気分」や「感情」を疎外感として吸収し、膨らませていった。
いわば、この時代は、大衆が飢えや貧困から解放されると同時に、時間の急速な変貌とともに、大衆社会が除々に肥大化していくにつれて、うまれてきた不安、抑鬱感などの非定型な「気分」をかこつことになり、それが大学という場で学生層に、集中的に充満してきたといえる。いわば、「自己感情」が、急速な社会変化に追いつけなくなったのである。そのため、「感情」と「自己感情」のズレが生まれ、「身体感覚」の違和感として、外界にたいしては、意識的に「自己意識」と「意識」の齟齬を生じたのである。考えていることと、実際にやっていることの相違の異和も、そこからくるもどかしさや不安も、実は、「意識」と「自己意識」の異和の表現にすぎない。しかし、ほんとうのその原因は、社会全体の変貌の時間感覚が加速することによって、「感情」と「自己感情」が合致しないことで、「身体性」の不自由感を抱え込むことになり、不安定な「気分」を生むことになったのであり、すべて「無意識」領域からくるものであった。しかも、それが、従来からの運動にない特色を与えるとともに、運動になりえたということが、慣習化した運動と決定的に異なっていたのである。だから、それが、全共闘運動を、それまでの学生運動とあり方と決定的に変えたといえる。
60年代半ばまでの学園闘争は、まだ、授業料問題を中心とした伝統型に限られていた。これが1965年にはいるとまもなく、中央大学の学生会館の運営問題や、横浜国立大学におけるカリキュラムをめぐる紛争に代表されるように、授業料という量的なものを対象にする問題から、にわかに教育の場の「質の構造」そのものを問い、「学生の管理」の問題、ひいては知的な状況そのものを対象にするものに変わってきた。これは、学生個々の「気分」や「感性」というものの所在を考えることなしには、想定できない断面である。そして、もっといえば、ほんとうは授業・カリキュラムの内容など、どうでもよかったのである。
全共闘運動の社会的基盤とでもいうべきものにふれて、三上治は、次のように述べている。
《高度資本主義という段階は私的利害の優位意識を深化させ、伝統的な資本制社会の意識を変える。1960年からその伝統的な様式の変化がはっきりとしてきたのである。…中略…これが人々に浸透するとき、その意識は現実に流通する意識(価値観や規範)との矛盾をかきたてる。なぜなら滅私奉公型の社会意識とは肌が合わないからである。そこから現実に流通する意識(価値観)への異議申し立ては発生する。…中略…この時期、学生運動が消え行く虹のように光彩をはなったのは、この私的利害優先の意識を学生層が集中的に体現したからである。…中略…しかし、この自由の実現は一種の自己喪失のようにも現象する。なぜなら解体の結果、新しい社会的意識や文化的意識が形成されるのではないからである。この自由と自己喪失という矛盾した意識を進展させるのが高度化する資本主義下での意識の現象である。このことは危機感として現象するのであり、それを学生は層として体現したのである。この危機感は古い社会的・文化的意識への異議申し立てとしてあらわれた。》 『1960年代論�』 三上治著
だから、東大闘争から「自己否定」という言葉がでてきたが、これは自己が伝統的な基盤として受けついできた閉鎖的な知識の歴史的な基盤への「異議申し立て」であり、教授という存在は、知識の伝統的な姿を映す鏡だったのである。
つまり、大学という場の権力(権威)関係、その構造的な閉鎖性に対する叛逆・反発であり、社会的な権力をめぐる闘争であった。社会的な権力の構造、その非民主的な性格への闘いだった。その対象が、日大においては理事会であり、東大においては教授会という違いはあったが、それが政治権力とは相対的に、独自な存在である社会権力の性格をめぐる闘いであった。だから、本来、労働運動や市民運動と同質の性格を持つものであり、その連携を追及すべきものであった。
だが、三上は、それは少しも実をむすばなかった、というコメントをつけくわえている。それは、当時、全共闘運動が何と闘い、何をめざしているのか言葉として、生きたイメージで提起できなかったことによると、三上は結論づけている。しかし、生きたイメージあるいは言葉にできなかったのには、理由がある。三上は資本主義の高度化による私的利害優先主義ということによって一括りにしているが、実際は、この時代は、かつて抑圧されてきたか生理的欲求の陰になっていたとりとめのない「気分」や「感情」、いうなれば「身体的言語」が、社会の表層に現われてきた時期にあたっている。それが大学闘争の原動力になり、教授会や理事会など、既成の大学権力とぶつかったのである。おそらく、教授会や知識人の欺瞞性は、この学生がもつ内発的かつ原初的な「気分」により初めて、俎上にのぼせることができたといえる。その意味で、大学闘争は「身体的言語」を放散し、解放した。だからこそ、そのとりとめなさを、既成の言葉にすることや方向づけることがむつかしかったのである。あえて図式化すれば、管理(権力)社会と「身体感覚」としての原初性との対立といえた。
だからこそ、全共闘運動は、社会権力としての大学への異議申し立てであったが、同時に一種の文化における革命であった。それは資本主義が高度化する過程が、学生の「気分」をとおして、古い知識や文化の形態を否定し、新しいものをうみだす現象の一つだったのだ。文化の新しい動きとはサブ・カルチャーのメインロード化であるが、それへの移行過程としての、従来のアカデミズムの否定であった。大学と政治の関係ではなく、大学と社会や文化との関係における、大学の閉鎖性が否定された。つまり、アカデミズムという「知」、あるいは既成の「文化」が否定された。以後、大学は、知的生活のトップランナーという地位を急激に失って、大衆化の一途を辿っている。
東大闘争も日大闘争も、脱イデオロギーの性格をもっていた。当初は、セクトの介入も少なく、政治的性格をほとんどもっていなかった。日大闘争ひいては全国を席捲した全国学園闘争-全共闘運動の蜂起は、どのような階級闘争とも、いずれもから無縁な、未開の聖域で発生したというべきである。いかなる革命的思想や運動の伝統からも切断されていたとともに、その点において、あらゆる亡霊や幻影からも自由であった、そのような地点からの学生叛乱の様相を色濃くもっていたのである。そして、そのことの故に、全共闘運動は、党派に指導された運動をこえて、大衆性を獲得していくことにもなったし、ノンセクト・ラジカルに担われることにもなったのである。
叛乱の当事者たちの「身体感覚」は、それ自体のもっている組織の原理を否定しはじめた。学生運動にたいする日共の指導力は、60年安保闘争によって決定的に瓦解した。と同時に、全学連そのものの統一的な指導力も低下し、学生運動はさまざまなセクトに分裂して、瓦解してしまっていた。さらに、こうしたセクトとは無関係に、全共闘として組織なき組織の誕生にもつながっていった。1950年代の闘争が、労働組合運動や日共の指導する政治運動に代表されるように、主として組織による闘争であったのにたいし、‘60年安保闘争における「前衛神話」の崩壊を経由して、ひとまわりしたこの時代のそれは、かたちをもたない群集の叛乱の結集であったといえる。
言葉の真の意味において、これがソフト、ハードを問わずスターリニズムから遥か遠くからはじまった「超左翼」と呼ばれるものの正体であった。もっといえば、当時、イデオロギーとしてのマルクス主義というものは、急激に求心力をなくしていた。だから、これら学生を中心とした文化的でない、文化革命の本質をとらえることはできなかったのだ。しかし、この「消え行く虹のように光彩をはなった」ものこそ左翼というものである。また、最後の左翼というものであったのかもしれない。
10 ‘68.10.21国際反戦デー
日大闘争も東大闘争も政治党派から一定の距離をとり、独自性を確保していた。これが全共闘運動の発展したひとつの要因といってよかった。一方、これらの全共闘運動と同時に、各党派、学生戦線は分裂をくりかえしており、内ゲバの萌芽がはやくも表面化していた。68年6月15日の日比谷野外音楽堂で行われた「ベトナム反戦青年学生総決起集会」で、中核派と革マル・解放派連合との乱闘事件がおこるが、これを機に全国反戦は、完全に分裂し、66年12月に結成された中核派、社学同、社青同解放派による三派全学連も実質的に瓦解した。68年7月の三派系全学連大会を機に、中核派は“中核派全学連”(秋山勝行委員長)として独立し、反中核派連合(社学同、ML派、社青同解放派、第四インター)は“反帝全学連”(藤本敏夫委員長)を発足させた。
そののち、全学連は、“反帝全学連”内部での社学同と解放派の対立も表面化して、解放派は69年7月独自の全学連を結成し、民青系、中核派、革マル派、解放派の4つの全学連時代に入る。
共産同=社学同内部においても、民族解放闘争の評価と革命戦略をめぐる分岐が表面化し、68年3月、共産同第7回大会において、旧統一委員会派(独立派と関西ブント)と岩田帝国主義論に依拠するマル戦派が分裂し、その後はじまった同盟の分裂の序幕となった。この最初の分裂の引き金になったのが、岩田帝国主義論のもつ「待機主義的傾向」にたいする批判であり、反マル戦派は、「攻撃型階級闘争論」を対置した。そのなかで、1917年、ロシア革命以後の現代史を“帝国主義時代から社会主義時代へ向かう過渡期”と規定した。すなわち、現代世界史の特徴は、ロシア革命、中国革命の勝利=労働者国家群の成立によって、人民、国民、民族をして、分断から結合へとむかわせることを可能にし、人民は自らを「世界プロレタリアート」へ転化させつつある。国際共産主義運動は、この「世界プロレタリアート」の登場によって、守勢から攻勢へと転じ、いまや、帝国主義支配の時代から社会主義へと向かう歴史的過渡の時代にはいっている、という現状分析であり、この歴史認識に基づいた革命戦略論を、当時、“過渡期世界論”と呼んだ。
マル戦派は、こののち「共産同労働者革命派」を結成するが、やがて「労働者共産主義委員会」(怒濤派)、「レーニン主義協議会」(前衛派)に三分解する。構改=共青派でもブントの分裂と同じくして、分解・再編があり、中核派においても小野田襄二の脱党問題、社青同解放派においても「滝口・東大派=疎外革命派」と「65年日韓解放派=行動左派」の分裂・再編がみられた。こうしたさまざまな混乱と分裂再編劇を内包しながらも、大衆的高揚は持続し、10.21国際反戦デーの爆発的な闘いが行われた。
68年の“10.21国際反戦デー闘争”に向けて、もりあがっていく口火をきったのが、10.8新宿闘争である。新宿では、アメリカのタンク輸送車が貨物車と衝突する事故があった。これを契機にして、国労は順法闘争を展開していた。学生たちは10.8の羽田闘争の1周年を新宿闘争として展開した。各派全学連やべ平連などの3千数百人が、米軍燃料タンク車を阻止するために、新宿駅に集結、同駅を占拠した。警察側は、ガス弾などでこれを追い払おうとし150人を逮捕したが、このため列車、電車計23本が運休、153本に遅れがでた。この学生の行動には、膨大な群集も参加して、10.21の反戦闘争に向けてもりあがる契機となった。政府側は、10月9日、学生デモに対する警察の対応が手ぬるいとして、首相官邸で緊急治安会議をひらき、法務省、警察庁などと対策を協議、「騒乱罪」適用を警察側に強く要請した。
10.21国際反戦デー闘争は、社会党、総評系が、45都道府県334ヶ所に18万2千人、共産党系が5道府県8ヶ所に2千4百人、社共共闘が17道府県49ヶ所に4万9千4百人と全国的に集会、デモが展開された。全学連各派は45都道府県151ヶ所で5万5千百人が集会、デモをおこない、61大学、111自治会が、バリケード封鎖やストライキ、授業放棄を行った。
その中心になった東京での闘争は、三派は、それぞれ分裂した行動になった。ブント・社学同系による防衛庁攻撃、革マル、構改、解放派系による国会闘争、中核、ML派(社学同ML派の後の組織で毛沢東派)、第四インター系による新宿闘争と、同時多発的に展開された。これは三派全学連が、7月に分裂して、各派独自の闘争の位置づけを反映したものであった。ブントは、国際反戦デー闘争を、日本の軍事・外交路線攻撃の焦点にし、これにたいして解放、革マル、構改は反戦・反政府闘争、中核、ML、第四インターなどはベトナム反戦のための米軍タンク輸送車実力阻止と、それぞれスローガン、攻撃目標を異にしたためである。
この日、社学同統一派の学生、労働者約千人は、中央大に集結したのち、総評・中立労連の集会場である明治公園で、角材、丸太で完全武装して、青山通りをデモ、5時過ぎ、防衛庁の正門と東門から同庁内に突入を図った。反戦青年委員会の8百人もこれに続くが、催涙ガスと放水で警官隊が応戦し、さらに約1時間の激突の末、警察側がおこなった一斉検挙で214人が逮捕された。
一方、解放派の学生、反戦青年委の九百人は、早大から国会に向かい、百人が夜8時20分ごろ国会に突入、55人が逮捕され、アメリカ大使館突入をめざした部隊も55人の逮捕者をだした。革マルと構改派の2千8百人は、東大で集会を開いたのち、国会へ向かったが、午後7時ごろ麹町署周辺で警官隊と衝突、50人が逮捕された。その後、各派とも新宿駅のデモに合流した。
10.21闘争最大の激戦地であった新宿駅の騒乱の中心となったのは、中核派、ML派、第四インターの部隊だったが、この三派の1,500人は、正午過ぎに明大に集まった後、午後3時すぎ御茶の水駅前広場で決起集会をひらき、5時すぎ電車で代々木駅下車、隊列を整えて、石をポケットにつめこみながら、線路づたいに新宿駅にむかって駆けだした。デモ隊は午後8時ごろには、国会、防衛庁、アメリカ大使館などへ突入をはかった部隊と合流して、4千数百人となり、新宿駅東口駅前に集まった群衆約2万人を巻きこんで、新宿駅を占拠、包囲する形となった。学生部隊は、駅舎、電車、信号機などを破壊、駅前では警備車を横倒しにして放火、さらに南口階段付近にも放火した。
新宿駅構内への乱入部隊は最高時には2千数百人となり、規制にお手上げとなった警視庁は、22日午前零時15分、「騒乱罪」の適用を指令、一斉検挙に踏みきった。この事件で769人が逮捕され、その後、騒乱罪の指揮容疑で、中核派全学連の秋山勝行委員長ら幹部が逮捕された。
この新宿騒乱事件は、学生部隊が“起爆剤”となって自然発生的に、大衆的な街頭武装闘争へと発展したものであった。こうして激動の1968年は暮れた。
11 全共闘運動の敗北と総括
1969年は東大安田講堂の攻防によってあけた。69年1月4日加藤代行「非常事態」を宣言した。
1月18日大学側の要請を受け、8千5百人の機動隊が東大構内に入り、安田講堂など
4つの建物にたてこもる全共闘学生を機動隊が排除した。安田講堂内には、各セクトから選ばれた約5百人が籠城していた。東大全共闘の主力は、その後の闘争の継続に備えて、学外にでた。機動隊の実力行使にたいして、安田城に立てこもる学生側は、火炎ビン、石、机、椅子などを投下して応戦、機動隊の放水、催涙ガスなどとの激しい攻防が続いた。
《自分一個の判断で闘いに立った学生たちには、そういう庇護も予算も何もなかったが、死ぬ覚悟はできていた。そうでなければ、結局は自分一個の責任で自分の一生にかかわる闘争の場に出て、国家権力の暴力装置(といっても自衛隊が出るほどではないので、その一部分にすぎないが)に立ち向かうことはできなかった。》
『安田講堂1968-1969』 島泰三著
しかし、講堂周辺のバリケード、ついで、講堂内の一階、二階と順次、封鎖が解除され、ついに35時間後の19日夜、機動隊が制圧、3百人以上が逮捕され、攻防戦は終わった。
東大安田講堂攻防戦等の学生側の負傷は、火傷109人、打撲87人、裂傷65人、骨折8人、眼球損傷19人だった。(『安田講堂1968-1969』島泰三著)
それでも、加藤代行は負傷者が少なく、当初の目的を達成したとコメントした。これが闘争収拾者のいきついたはての姿であった。機動隊導入による安田講堂の封鎖解除は、学生たちがいうように、いかに大学当局が権力と一体化しているかをまざまざと証明した。この期に及んでも、当局は、相変わらず幻想的な大学共同体論を提示し、「できれば機動隊を導入したくなかったが、暴力的分子のためやむをえなかった」とうそぶき、自らの責任を隠蔽し、事態のあらゆる責任を全共闘運動になすりつけるという居直りをみせたのである。権力の利益のために、権力そのものをもちいて、学生たちの正当な要求をにぎりつぶしたのだ。
当局による徹底した弾圧は、全共闘の現状認識の正当性を、白日のもとにさらすとともに、大学にかんするいっさいの幻想を破壊した。大学側の一貫した秩序の論理は、単に、東大を守りぬくことによって、自己保身のための体制を守ることでしかなかった。ここにいたって、大学に流通する「学問の自治」を中心とした「幻想の共同性」は、完全に崩壊したといわねばならない。このことが意味していたことは、1990年のソ連邦という左翼共産主義運動の崩壊に匹敵するぐらい重いものであった。
東大闘争は、国家権力の暴力装置と真正面から対決し、2日間にわたって死闘を演じた。
しかし、この闘いは、闘争圧殺→秩序回復→入試強行という大学側のプログラムに痛打を
浴びせたのみではなかった。全国学園闘争の天王山であり、第二、第三の東大闘争へと拡
大していく突破口であり、さらには全国で闘われていた学生、市民、労働者の闘争に衝撃
を与え、限りない激励となった。
「われわれの戦いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者のみなさん、われわれの戦
いは決して終わったのではなく、われわれにかわって戦う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を真に再開する日まで、この放送を中止します。」攻防戦の間中続いた籠城学生の“時計台放送”の最後の言葉であった。1月19日午後5時35分頃だった。
機動隊が安田講堂に集中しているあいだに、中央大学学生会館前で全都学生総決起集会
が開かれた。2千人の学生が集まり、東大に向けて出発し、神田-御茶ノ水地区では機動隊とぶつかり、解放区闘争が繰り広げられた。いたるところにバリケードがつくられ、交番焼き討ちなどがあったが、もはや東大構内に入ることはできなかった。
東大安田講堂攻防の際には、革マルは他のセクトとともに、全共闘のメンバーになって
いた。革マル派が守備することになっていたのは法文二号館だったが、機動隊導入の前日、革マル派は一斉に退去した。この事件が敵前逃亡として、革マル派と他のセクトとのあいだにとりかえしのつかない亀裂をうんだ。それまで、各地の学園闘争で革マル派も他のセクトといっしょに全共闘をつくっていたのだが、これ以降、革マル派は、全共闘から組織的に排除されるようになる。革マル派の黒田寛一は、学生が生死をかけてまで闘っているさなか、全共闘運動を「左翼急進主義」と規定して、その暴力や破壊を次のように批判していた。
《学園や経営などを少数精鋭主義的に「占拠」することを自己目的化するだけではなく、
バリケードによってつくられた箱庭的小空間を<コミューン>とか<解放区>とかとするにいたっては、本質上、子供の遊びとなんらえらぶところがない。それは、まさにコミューンのカリカチュアでしかない。…中略…そうした「占拠」によって偶然的な自由を獲得し持続することの直接的な延長戦上に、権威もなく権力も存在しない社会の創造を、政府が経済的有機体に解消された無政府的社会の出現を、夢想することは、明らかに、すでにプロレタリア階級闘争の歴史そのものによって破産を宣告された小ブルジョア社会主義の時代おくれの復活でしかなく、またアナルコ・サンディカリズムの轍をふむ以外のなにものでもありえない。》 『革命的マルクス主義とは何か?』 黒田寛一著
はたして、革命闘争の冷厳な論理に、冷たい論理を対峙させることを望むならそれでいい。だが、全共闘の運動は「革命的マルクス主義」の立場から見れば、「小ブルジョア社会主義」にしか見えないかもしれないが、そもそものはじめから、そのような社会主義をめざしたものなのかどうかという点については、意図的に黒田は知らないそぶりをしている。自分が知っている政治的知識や経験の範囲でしかものをみないのは、悪しき政治の特性だが、このような宗派政治には、いつまでたっても時代のなかで、何事が起こっているのかは分からない。いうまでもなく、時代おくれは黒田の方だった。論理は時代おくれになって破綻すれば、ただ冷たいだけである。
しかし、東大安田講堂攻防戦をへて、22日、加藤代行は声明をだした。「遺憾ながら
1月20日、政府の入試試験中止の決定によって、入学試験の実施は事実上不可能になった。これは諸君にとっても、大きな衝撃であったとおもう」。何が遺憾なのか、こんな事態になって、たかが一大学の入試をすることにどんな意味があるのか、誰がほんとうに衝撃を受けたのか、自らの学生と話し合い、説得する教育者としての当たり前のこともできず、学生にノンを突きつけられながら、政府が入試の中止を決めからといって、怒ってみせるポーズをとる。それより前に、多くの学生が負傷者を出し、逮捕、拘留され監獄に送り込まれ、長い裁判闘争を闘うことになること以上に、遺憾なことがあるのか。少しでも自らの責任を感じていたならば、こんな事務的なことは言わなかったはずだ。テレビの実況放送を見ていた多くの一般大衆は、「やはり東大の教官は人種がちがう」と思ったにちがいない。
全共闘運動-学園闘争の波は、全国の大学、高校、専門学校にまで波及した。バリケード・ストに突入する大学、高校はあとをたたなかった。1969年2月京大、東京水産大、京都府立医大、広島大がバリケード・ストに突入。翌3月には山形大、富山大、関西学院大、4月沖大、岡山大、島根大と際限なく続いた。年間では国立大学75校中68校が、公立大学34校中18校、また、私立大学270校中79校が、それぞれの闘争の戦列に加わったのである。この数字は、日本の大学数のほぼ半数に近い。4月17日、早大全共闘が早大本部を占拠した。
4月28日の沖縄闘争では、中核、ブントに「破防法」が適用された。学生1万人、反
戦労働者5千人が、あちこちで武装デモし、機動隊と衝突した。特に、銀座地区は、市街戦まがいの状況となる。この前夜、「破防法」が発動され、中核派の本多延嘉書記長、藤原慶久反戦世話人などが逮捕された。
ところで、この4.28沖縄デーは、街頭実力闘争の限界を露呈させるものになった。圧倒的な機動隊の武装攻撃、破防法攻撃の前に、全学連-反戦の部隊は、手痛い敗北を重ねることになった。この沖縄闘争を契機に、ブントは赤軍派が発生し、党派闘争に入っていくことになる。6月8日には、伊東でASPAC粉砕闘争が展開され、各セクト1万2千人が結集して伊東警察署などを襲撃した。その後の経過は以下のとおり。
6/15 反戦・反安保・沖縄闘争勝利統一集会 7~8 大学立法粉砕闘争 8/17~ 18 広島大学攻防戦 9/3 早大に機動隊導入第二学生会館で攻防戦 9/20~22 京大時計台闘争 |
日大-東大闘争を軸にして展開された68年の学園闘争-全共闘運動は、第一期から第二期へと移行し、戦線は全国に波及していった。
全国の大学で次々とくりひろげられた校舎のバリケード封鎖、ヘルメットにタオル・マスクの学生たちの群れ、大きな立看板の列、校舎にペンキで大きくかかれたスローガン、新芽の匂うキャンパスで、スピーカーから流れるアジテーションの声、それらが全国的に広がっていったのはこの年である。それまでの学生運動とは全く質の異なる学生の“叛乱”の様相はそれほど、その規模と広がりは大きく、その闘争の形態はさまざまであった。それは「ファッション」という言葉がふさわしいものでさえあった。その意味で、全共闘運動は、それまでの学生運動のように政治的というより、多分に精神的、思想的、文化的な闘争であった。
“叛乱”の規模の大きさ、その動きの複雑さからいって、各大学単位で、それぞれの問題をとらえて、同時多発的に勃発した60年代後期の大学闘争は、戦後の教育復興をめざした学生自治会の連合組織による1948年の全学連闘争、ブント全学連による国会突入の‘60年安保闘争とは、全く質の異なるものであり、学生が社会に与えた衝撃は、過去のこれらふたつの学生運動の高揚をはるかにしのぐ、最大規模のものであった。この大学闘争、全共闘運動は、それまでの学生運動の概念を完全にぬりかえる出来事であった。
この全共闘による全国的な大学闘争は、それまでの反日共系、日共系といった政治党派主体の学生運動とくらべ、非党派の学生大衆の蜂起という点においても特異であった。全共闘運動は、それまでの学生運動のように、党派や自治会といったものを核にせず、ノンセクト・ラジカルの学生のいわば、自然発生的な大衆戦闘組織であったということが、第一の特徴であり、それゆえに大衆的エネルギーをひきだしたといえる。
学生は、戦後、学生運動の核になってきた自治会にたいする信頼感を、次第にうしなっていた。多数決原理に基づく全員加盟の自治会組織と、その運営にみられる形式民主主義への反発が伏在していた。全員投票による形式民主主義にたいして、直接参加・直接行動による民主主義的組織の結成であった。全員加盟制の自治会が、基本闘争組織体とされてきた戦後日本の学生戦線においては、従来、大衆闘争を展開するためには、まず自治会の執行部を握り、正規の議決機関にかけて、多数決で議案をとおすことが、必須の要件とされてきた。大衆闘争は、自治会を基本組織として、その執行部の指導のもとにおこなうべきものであるという常識や、自治会民主主義のルールに絶対的に従うべきだという常識が支配的であり、したがって、突出した大衆闘争を組織化することは、執行部を掌握していないかぎり絶望的であった。事実、執行部を掌握していない自治会では、新左翼が相当の組織勢力をもっていても、独自の大衆闘争に突入できないという状況が続いてきた。
全共闘運動では、この地盤沈下した自治会に変わって、クラスやサークル闘争委員会が闘争の核として登場した。それが、新鮮な共同性を求める学生のエネルギーを結集して、全学的闘争組織-全共闘へと発展していったのである。党派や自治会など、既成の組織の理念や論理から逸脱した大衆の直接民主主義の行動組織である。実際の運動過程では、比較的少数の戦闘的集団が、まず突出した闘争(校舎占拠、バリケード・スト)をおこない、事後的に大衆を周囲に結集しつつ、運動の大衆化を実現するという“マッセン・スト”型の闘争戦術が日常化し、学園のゼネスト状態をつくりだしたのである。
とりわけ、多数決原理にもとづく、全員加盟制自治会組織と、その運営上にみられた形式民主主義の不毛性は、闘争が高揚するにつれて矛盾を露呈し、闘争の発展にとって桎梏とさえなっていた。全共闘運動が、戦後民主主義がもつ限界性を突き破って、大きな発展を示すことによって、その神話を突破したのである。こうして、全共闘運動は、全員投票による形骸化した民主主義にたいして、直接参加-直接行動による真制の民主主義を、自治会的団結にたいして、コミューン的団結を対置することによって、“ポツダム自治会”を大きくのりこえ、学生運動史上画期的な地平をきりひらいた。これは‘60年安保闘争において、「前衛神話」の崩壊をもたらしたものと、底部で深く共鳴していた。
学生大衆の自主的参加と、意識的結集によって組織された闘争委員会-全共闘の結成は、そのまま当時の学生運動の到達点を示しており、質的内容の豊かさを物語っていた。戦後、日本の学生運動は、全員加盟制自治会に体現されるように、学園改良闘争(日共型)や、新左翼による強力な政治指導の下で、普遍的任務を階級闘争の最先端においてになってきた「革命的」学生運動へと両極分解し、それが固定化していた。そのなかで、全共闘は、このような学生運動の、実体的かつ組織的な閉鎖性をのりこえ、発展させるものとして画期的な意味をもった。
このような闘争戦術の方式は、政治党派からは、既成の‘ポツダム型’組織をドラスチックに解体・再編し、大衆的な自己権力組織へと自己形成をとげるべきものとして、組織論的観点から“ソヴェト”へ結びつくものとして期待された。その意味で、全共闘は、政治党派からみても、従来の自治会組織かわるべき、現実的な展望と、ダイナミックなイメージを提供した。
また、全共闘運動の、さらに大きな特色は、それまでの学生運動がすすめてきた政治党派などの、何らかの勝利や獲得をめざす闘争方式よりも、闘争にかかわる個人の意識や行動に主体がおかれたという理念上の問題がある。それは、党派や指導部によって組織されたものではなく、参加者一人ひとりが、自らの決意と責任によって参画したという闘争形態と、必然的に結びつくもので、学生が絶えず自らの存在について問いかける中から出発したものであった。
「自己否定」あるいは「自己変革」という言葉が、このような考え方から、全共闘運動のなかで産まれた。全共闘運動が、きわめて主体的、思想的な運動であったとされるのはこのようなスタイルをとったためである。全共闘運動が、個々の大学の改良闘争、あるいは、共通の政治目標をこえたラジカルで広範な運動となったのは、それが提起した個々の闘争主体の内面をゆさぶる理念と経験を獲得したためである。
では、「全共闘運動とは何だったのか」という設問がなぜ起こったのか。また、なぜ、消滅してしまったのか、継承しているものはないのか等の答えにたどりつくには、さまざまな曲折がある。しかし、大切なことは、運動の指導的立場の人も含め、自分たちそれぞれが、どのような窓口からどのように総括をしたかということが第一義であった。それが、この闘争がもった意味は、その集合的な力(組織された力)がはたしたものより、行動した個々の内部にもたらした意識の変化であり、経験だったということであるということの意味である。
それがさらに、後の世代から見ると、残念ながら、このような運動が姿を消してしまって承継されなかったのはなぜか、という問題意識は当然でてくるはずである。60年代後半の学生を中心とする若者の闘争が、国家に対する「異議申し立て」として発生しつつも、言葉が現実に追いつけなかった点こそが、第一の敗因であるとの結論にもつながってくる。闘いの対象も、めざすものも従来型の運動とは変わっていた。全共闘運動は歴史的な無意識としてそれを体現していた。にもかかわらず、全共闘運動は、労働運動や市民運動との連携を追及すべきであったが、それは実を結ばなかった。それは全共闘運動が何と闘い、何をめざしているのか、言葉として提起できなかったことによるのではないか。言葉にできなかったことは、理念やイメージとしてそれを取り出せなかったことである。当時の学生たちの言葉は、それらに対応するイメージの豊かさを持ち合わせてはいなかったのか。また、変革の想像力を刺激する力もなかったのか。
これらの闘争を微細に遡っていくと、私(たち)が今いる場所からは、もっと別の見方もできるような気がしてならない。一般的な見方からすると、資本主義が高度化するにともない、「恣意的な自由の意識」や「私的利害の優先意識」が伝統的な社会意識とぶつかり、価値観が世代間の軋轢をひきおこしたことが、運動の原動力になったとの見方がとれる。それが、学生という自己の存在と激突し、自分たちの民主主義を直接的な方法でおしだしたというのだ。また、日大闘争も東大闘争も、大学という場での権力関係、その構造的な閉鎖性に対するものであり、それは優れて社会的な権力をめぐる闘争であった。社会的な権力の構造、その非民主的な性格への闘いだった。そして、そのような言葉にならない学生大衆の無意識の歴史観を方向づけることができなかったことが、悔やまれるような反省がでてきてもやむをえない。
しかし、結果的に、全共闘運動の「自己否定」という言葉の到達点は、「帝国主義大学解
体論」、「反大学論」など、より広いテーマとして拡散していくことになった。そして、私(たち)がみると、その拡散こそが、言葉を介入させる隙をあたえたと思える。東大安田講堂の攻防までと、それ以降は、全共闘の質が変化してきていたのだ。ある意味、闘争者は、運動自身を内省する瞬間をもった。象徴としての安田砦という幻想の砦である。少なくとも、社会的な機能としての「言葉」が、大学の「解体」という形を表現した。しかし、そうであってみても、もっと極端にいうと、ノンセクトも含めた膨大な個々の参加者の立場に下降してみたときに、闘争の始まりから、そういう「言葉」やイメージは存在しなかったのが、発火点ではなかったのか。だからこそ、闘争が開かれた闘争といいきれるのではないか。確かに個々の闘争者の記憶の底にあるのは、自分が自分に激突する瞬間と、それに開放感をもったはずである。個々人にあたったわけではないが、おそらく、そのような過程を経て、運動へのかかわりあいをもったものは多かったはずだ。そして、そのような多くの学生が、運動の裾野を広げた。その背景をつくったのはハードな運動のみではなかった。フォークソングやヒッピー、フーテン、フラワー・チルドレン、アングラといったカウンター・カルチャー、サブ・カルチャーが、若者たちの風俗をまきこみながら、運動の裾野をひろげていった。第二次のフォークソングブームがやってきて、アングラソング、プロテストソングが主流になっていた。69年2月頃から、新宿駅西口地下広場ではじまったフォークソングの輪は、6月頃には7千人の輪にひろがり、機動隊と衝突するまでになっていた。
背景を覆った全体の雰囲気として、当時の運動というものをふりかえるとき、同じ言葉の欠如といっても、運動の方向づけにおける欠如ではなく、当時の運動そのもののはじめから、本来、言葉の社会性への「欠如感」から出発していた。
これは言葉の理解になるが、内発性としての言葉と社会性の言葉のあいだには、微妙なズレがある。そのどちらにウェイトをかけるかによって、言葉のひろがりは、幅を制約される。内発性としては孤独な言葉のいとなみであるが、その孤独さは、人によって社会へ架橋される土台にもなる。全共闘運動においては、内発性としての孤独さが、社会性をもとうとしなかったため、逆説的にかえって社会性をもった。これは、いわば言葉の価値観の転倒であった。だから、誰かに訴えかけるものとしての表現ではなく、より内発的な動機が介在していた。これが、「気分」や「感情」が、言語として表出される限界表現の姿であった。一般的には全共闘時代は「政治の季節」という言葉をもって語られることが多いが、これは誤認でなければならない。実態としては「政治にとどかなかった」闘争なのではないか。だが、「大学解体論」や「反大学論」をいいだしたときから、限りなく政治的言語に近づくことになった。言葉が内省を経由して、社会性をもって充足しようとしたとき、運動は衰退していくことになった。「気分」や「感情」でよかったのに、意味づけをしたそのことが、かえって運動の幅をせばめてしまった。ほんとうをいえば、「自己否定」という言葉のなかに、その隘路があったのかもしれない。自分自身を表現できないもどかしさの感覚におされて、他者につうじる言葉を模索する過程でうまれた言葉に、無意識の欺瞞性があった。
いうなれば、高揚期の全共闘運動にとって、いわゆる言葉とは「解体の表現」としてのみあった。そういう文脈でみれば、あらゆる言葉に不信感をなげかけ、言葉を解体していた。逆説的であるが、言葉の欠如に言葉を与えたのが、全共闘運動だったというように。
少なくともノンセクト・ラジカルにとって、何にたいする欠如感かというと、自分に対する言葉として、あらゆる支配の廃絶と自由など、せっかちなユーピア思想が、運動の支えであった。学生たちが、現実とセクトに対置する言葉として知っていたのは、たとえば次のようなあまりに文学的な、「言葉」とはいえない「言葉」の断片のみであったはずだ。
《霊廟も愚劣である。元帥服も愚劣である。プラカードのあいだに掲げられている肖像写真も愚劣である。閲兵も愚劣である。それらの現象を支えている隠秘な階級支配の本質は愚劣である。すべてを、ピラミッドの階段にひきもどす過去から見るな。すべてを、上下関係のない宇宙空間へひきゆく未来から見よ。…中略…たとえそれが現在如何に激烈に思われようと、それらが未来から見て愚劣と看做されるものは、すべて、必ず変革されると、私は断言する。いま眼前にあるものは革命家の心のなかに棲みついていた権力への意志であり、革命の組織のなかに置かれた八十八の階段であるが故に、その転覆は容易ではない。だが、未来の歴史から出現してくる新しい世代は、支配と服従を巧みに温存して置こうとするあらゆるからくりを必ず受つけやしないのだ。》 『永久革命者の悲哀』 埴谷雄高
そこに、もちろん政治的認識がはいりこむ余地はなかった。まして、70年以降急速に運動がしぼんでいく展望などももちあわせていなかった。また、「大学解体論」や「反大学論」は、一般学生のはるか上空を通過するスローガンでしかなく、多くの学生に違和感がともなった。それは希薄感といってもいいし、もっと積極的には、運動の方向づけに拒否反応をもったはずである。なぜなら、それらの言葉は「身体的言語」ではなかったからだ。
これらの運動を方向づける言葉やイメージがなかったことや、そのあげく赤軍派に代表される毛沢東主義など既成の観念に足をすくわれたことを、全共闘運動の敗北(継続の失敗)の原因とみなしがちである。そして、セクトはそういう総括をした。しかし、少なくとも、当時のノンセクトの学生は、セクト同士、どうみてもスターリニズムのハード、ソフト版のつばぜりあいでしかない闘争のスローガンなんかに、興味はなかった。その意味では、全共闘は、本来的に「党派の論理」の彼岸にいた。また、参加した多くのものは、政治認識(セクト的世界認識)にも欠けていた。その当時、セクトは大枠でいうと3つの思想的・組織的系譜があるぐらいは知っていた。ブント系、革共同系、そして構改系である。だが、それらは、学生たちの「身体感覚」から発する言葉からは、どれもスターリニズムへの先祖がえりにしか映らなかった。だから、のちに赤軍派のハイジャックや連合赤軍事件など、毛沢東思想へ短絡するような闘争方針を提示しても、何の感慨も覚えなかったといってよい。
そういう多くの背景の土壌に立つと、微視的な関わり方としては、全共闘運動そのものの発生の根拠は、いわば「言葉をさがす」運動であったのではないか。いってみれば、個々人は「言葉さがし」のために、短期間にもかかわらず、膨大な時間とエネルギーを費やしたといえる。その点からすれば、確かに、学生たちの経験としても、反権力的(反政治的)な志向が、擬似的であったにしても、言葉をもったセクトへのアレルギーにもなった。さらに、大学の存在への直接的な拒絶となってあらわれたと納得できる。
そして、一番大事な視点は、運動そのものの方向づけは求めようがなかったし、なかったことがかえって、運動の原動力となった事実である。明確なあるいは明確すぎる言葉をあたえられていなかったからこそ、運動そのものが吸引力をもったのではないのか。
そして、もうひとつ敗因というべきものがあるとすれば、運動が終息にむかったあと、総括の言葉が、今まで何もなかったという言葉の欠如である。運動の只中では、言葉を失っていたからこそ、言葉をさがすため、社会的な権威や民主主義に反発した。大学の自治など眼中になく、民主主義的な意識は無意識にはあったかもしれないが、少なくとも無意識的には、高校の生徒会に似た形骸化した民主主義などにはまったくといってよいほど、幻想をもたなかった。
世代間の価値観の断絶というよりも、断絶そのものがおこるための大切な条件がなかった。その意味から、むしろ「身体性の反抗」という断定の方がよりしっくりくる。そういう「身体性」が、契機として、ベトナム戦争や基地、あるいは‘60年安保闘争以来の安保問題など、「反戦」を主な闘争課題としたそれまでの学生、新左翼運動と交叉し、68年から69年にかけ、全国的な爆発をみせたこの大衆的な全共闘運動、大学闘争にむすびついていった。
国内的状況においては、学費の慢性的値上げや、60年代の高度経済成長による中高級労働者の不足解消のための大学の大衆化がもたらしたマスプロ教育など、大学内の教育状況にたいする不満にくわえて、カリキュラム編成や、寮、学生会館の管理・運営の自治権問題などの学生管理体制強化にたいする反発が、各大学に潜在していた。それをとらえて、ベトナム戦争を中心とする反戦運動の堆積したエネルギーが触媒作用をはたした、と考えられる。
12 運動の転換期
まちがいなく、東大闘争における安田講堂攻防の敗北と、4月の沖縄闘争のあたりから1960年代の全共闘運動と反戦闘争は、次第に減退期にはいった。運動はぎりぎりの地点までおいつめられているとの認識が広まった。ただ、赤軍派を中心とするグループのみがちがっていた。彼らの政治言語は、革命的な高揚期にあり、それが権力に暴力的に押さえ込まれているからそうみえるだけで、それをうちやぶる暴力を組織できれば、高揚期は再現するとの認識に立っていた。「武装」を本格的な「軍事」へと飛躍させれば、運動は1970年に向かって、高揚期に転ずるであろうという希望的観測である。
9月5日には東京日比谷野外音楽堂に東大、日大、京大など全国178大学の全共闘と中核、社学同、学生解放戦線、学生インター、共学同、反帝学評、フロント、プロ学同の8党派学生組織の計2万6千人が集まり、「全国全共闘連合」の結成大会が開かれた。大会では、逮捕、拘留中の山本義隆東大全共闘議長が議長に、秋田明大日大全共闘議長が副議長に選ばれた。大会は、「70年安保粉砕、沖縄闘争勝利」などのスローガンを採択し、代々木公園までデモ行進した。しかし、この全国全共闘は、全国的な各大学全共闘の連帯組織として注目されたが、各大学全共闘の自然的な結集というより、大衆学生のエネルギーに着目した中核派など、新左翼8派のひきまわしによって結成されたもので、党派色が鮮明になるにつれ、次第に一般学生の離反がはじまってきた。
全国全共闘連合にたいする各セクトの位置づけを見ると、それがそのまま各セクトの全共闘論を反映しているが、各セクトとも全共闘を、日本階級闘争における政治課題をにないつつ、70年闘争を担う反帝統一戦線の一翼と位置づけるなど、その政治的組織強化をねらった我田引水なものばかりであった。各セクトとも、全共闘運動の地平へおりたち、その体験を包摂する思想をうみだしえなかった。各セクトとも、全共闘を政治的に利用しようとするばかりであった。これが当時の新左翼の限界であった。
また、大学臨時措置法の適用や、大学側の機動隊導入への原則撤廃による強制措置が、
大学内の一般学生の力を急速に弱めた。党派同士による内ゲバの激化も、学生大衆の学内運動からの離反に拍車をかけ、全共闘運動は急速に退潮し、実質的に解体、学生運動は再び、党派組織によって吸収、再編されていくこととなった。
ここで注目されるのは、9月5日の全国全共闘結成大会に、「赤軍派」の約百人が参加し、初めて大衆の前に姿をみせたことである。
赤軍派は、大学闘争が警察力に次々と終息させられた69年5月、ブントの中の関西を
中心とする武装闘争路線派が、それまでの大学闘争・街頭闘争の総括をへて、その軍事的限界をどのように再構築すべきかとの反省をふまえ、「早急に軍隊を組織し、銃や爆弾で武装蜂起せねばならぬ」として結成した。それまでの街頭闘争では、これ以後の闘いは「なし崩しファシズム」攻撃につぶされてしまうだけだと総括し、それまで依拠してきたブント主義を革命的敗北主義として、「前段階武装蜂起-世界革命戦争、世界党-世界赤軍-世界革命戦線」の新路線をうちだしたのである。その当初のメンバーは、京大、同志社大、立命館大などを中心とする活動家400人であった。
共産同赤軍派は、7月6日、明治大学和泉校舎における関東派との党派闘争(赤軍派望月上史死亡)をへて、8月末結成総会を開催する。9月3日に「戦争宣言」を軍事委員会名で発表し、自衛武装から攻撃的武装闘争の開始を宣言するとともに、「ブルジョアジー諸君」にたいして「公然と宣戦を布告」した。9月4日、日比谷野音で開かれた全国全共闘結成大会前日に、赤軍派は、都内葛飾公会堂で政治集会をひらいたのち、翌日の同大会にはじめて公然と姿をあらわした。その後、9月末、赤軍派は、武器奪取、対権力攻撃として「大阪戦争」、「東京戦争」の名のもとに交番襲撃、銃奪取などを展開し、10.21国際反戦デーには、最初の鉄パイプ爆弾を登場させ、新宿駅襲撃、中野坂上でのピースかん爆弾によるパトカー襲撃などをおこなった。そして、11月5日、首相官邸襲撃のための軍事訓練を目的として大菩薩峠に結集中、警察に察知され53人の大量逮捕をだした。
69年の「10.21国際反戦デー」闘争も東京を中心に一都14県、832ヶ所で計
50万人が参加する大集会が、社共、総評、新左翼各派などによってひらかれた。特に、首都制圧をめざした中核派など、新左翼各派の警官隊との衝突で、21ヶ所の交番が襲われ、1,222人という史上最高の逮捕者をだした。
激突の中心は、中核派800人がバリケードを築き、機動隊と火炎ビン、角材で2時間にわたって対峙した高田馬場駅付近と、ML派などが1万人の群集を交えて、火炎ビン、投石で機動隊と市街戦を展開した新宿であった。
一方、社学同、全共闘などの部隊300人は、両国、東日本橋などで、反帝学評、旧構改派グループは、東京駅八重洲口周辺で、革マル派は戸塚二丁目で、それぞれ交番を火炎ビンで襲撃し、投石で機動隊にたちむかうなど、各地で激闘がくりひろげられた。
東京ばかりでなく、北海道でも1万3千人のミサイル基地デモ、東北5百人、静岡4千人の市内デモ、名古屋での小牧基地反対闘争、大阪御堂筋での5千人のジグザクデモでの機動隊との衝突など、この日、全国で街頭実力闘争が展開された。
この後、70年代闘争へとはいっていくが、70年の日米安保条約改訂を前に、196
9年11月17日、佐藤首相以下の訪米団の出発を阻止しようとして、16日、17日の両日、東京で1,940人をはじめ、全国で2,156人という未曾有の逮捕者をだす、反対闘争がおこった。訪米前日の16日、代々木公園で開かれた社会党反安保実行委主催の「安保条約廃棄、沖縄即時無条件返還、佐藤首相訪米抗議集会」には、労・学・市民7万人が集まった。
そのあと、9千人の各派は、角材や火炎ビンで武装して、羽田をめざしていっせいに進撃、蒲田駅や羽田周辺で、火炎ビンと投石で機動隊と激突、蒲田署などの警察署や交番をおそって放火し、車を破壊するなどした。学生部隊は、そのまま蒲田、羽田周辺で佐藤訪米団出発の17日早朝から行動を開始し、機動隊の壁のまえに座り込みなどをおこない、約百人の逮捕者をだした。べ平連も16日、日比谷野音に1万5千人を集めて「首相訪米反対反戦市民連合集会」をひらいた。
未曾有の大衆的な学生運動の高揚をみせた全共闘運動は、権力側の弾圧をまえに、学生大衆が後退、急速に影をひそめていくが、69年の過程で、4.28沖縄デーや10.21国際反戦デー、11月の佐藤首相訪米阻止闘争などに、各大学の全共闘活動家がかかわっていく。
13 ‘70年安保闘争
‘70年安保闘争(決戦)は、当面する二つの主要な政治課題、すなわち「安保」と「沖縄」の闘いをもって、その幕があけられた。
69年11月、佐藤・ニクソン会談の際、沖縄返還協定の「核ぬき本土なみ」の日程がすすめられ、70年6月の日米安保条約自動改定の日も目前に迫りつつあった。「日米共同声明」と「72年沖縄返還」を焦点に、70年安保闘争が展開されつつあった。
年明け早々の1月、成田空港反対闘争集会、全国全共闘主催の「沖縄全軍労スト支援、日米共同声明粉砕、沖縄闘争勝利総決起集会」、あるいは全共闘、反戦青年委共催の「東大1月決戦1周年労農学大集会」などが開かれた。2月4日には、全共闘、反戦青年委共催の「沖縄全軍労連帯、日米共同声明粉砕、沖縄闘争勝利労学市民総決起集会」には1万8千人が集まり、明治公園から東京駅までデモ行進した。
この時期、新左翼諸党派は、大きくいうと三つの潮流に分けることができた。その第一は、全国全共闘-全国反戦を統合軸とする八党派共闘であり、第二は、共産同赤軍派、日共革命左派をはじめとして、のちにこの潮流に加わることになる共産同RG=赤報派などの諸派である。これらの諸派は武闘派の潮流のなかでも、「武装蜂起=世界革命戦争」、「武装遊撃戦」の主張のもとに、「蜂起=戦争派」の潮流を形成することになった。第三の潮流は、八派共闘=全国全共闘を「小ブル急進主義」と批判しつつ、大衆運動から前衛党建設への統合を主張し、反戦、反安保を軸として「小ブル急進主義=八派の解体」をその路線としていた革マル派である。
八派共闘の各派の路線は、それぞれ「日帝のアジア侵略を内乱に転化せよ」とする中核派、「人民戦争-人民総武装」をとなえたML派、「恒常的武装闘争」を主張する共産同、「反安保-反合理化-反産協」の革労協、「極東解放革命」の第四インターとさまざまに異なりつつも、安保-沖縄を軸に、入管、叛軍、部落解放、三里塚闘争などを展開していくが、やがて、沖縄闘争をめぐる路線上の差異をめぐって、分解していくことになった。
新左翼各派の沖縄闘争論は4つの傾向があった。第一は、中核派による「沖縄奪還論」、中核派は沖縄における基地の政治的・軍事的性格を「アジアにおける帝国主義の軍事的要塞」としつつ、そのことを不問にしての「返還」は、日米の両帝国主義が日米安保体制の要としての沖縄の基地を維持することをみないとし、社共の返還論と一線を画していた。
第二は、ML派による「沖縄解放=独立論」及び共労党による「永続的解放論」、第四インターによる「解放=自治論」、社労同による「自治権論」などである。
ML派の「独立=解放論」は、沖縄の歩んできた歴史的過程に考証しながら、琉球王朝→薩摩藩(島津)の属領→明治政府による琉球処分→日帝の植民地支配→米帝による軍事支配をへての、日帝の沖縄返還という変遷史から、沖縄人民の主権を維持する立場をうちだし、沖縄人民にたいする帝国主義的支配と干渉、帝国主義打倒の闘争を、沖縄人民と合流させることだとした。
第三は、第一、第二の傾向を批判する共産同、統社同、怒濤派、前衛派などの沖縄闘争論である。このうち、共産同戦旗派の主張は、日米共同声明路線に基づく沖縄返還は、「米帝の基地機能維持→自衛隊の補助的同居」として「日米共同反革命前線基地化阻止」とした。
第四の革マル派は、「沖縄施政権返還というブルジョア的解決」に反対するという立場であり、「返還」による一切の幻想に抗しつつ、その合意からもたらされる一切の現実と対決していかなければならないとして、「全軍労大量解雇=基地合理化反対闘争ならびに沖縄返還準備委託設置粉砕闘争を70年代安保闘争の突破口として位置づけ、その組織化」と主張し、「米核戦略に従属した沖縄の施政権返還反対!」と復帰運動ののりこえと、基地反合理化闘争の主張であった。
4.28沖縄デーには、沖縄現地で3万人をはじめ、全国45都道府県の449ヶ所に計20万人が、集会、デモを行い、新左翼各党派も83ヶ所で、統一行動をおこなったが、東京では全共闘、全国反戦、6月行動委員会(べ平連)共催の統一行動が、明治公園に5万人を集めて開催され、日比谷公園までデモ行進した。革マル派も、清水谷公園に千八百人を集めた。
沖縄闘争については、これ以降も翌71年9月25日、沖青委(沖縄青年委員会=中核派系)による「戦犯天皇決死糾弾、皇居突入闘争」、同11月14日~19日渋谷大暴動-日比谷大暴動としての沖縄闘争、72年「4.28沖縄デー」闘争と、その返還条約の発効前後まで、70年安保闘争とともに激しく展開された。
そういうなか、沖縄住民の根深い米軍への不満・反発を背景に、70年12月20日、沖縄コザ市において、米人が起こした交通事故について、米軍憲兵隊(MP)の一方的な事故処理をきっかけに、米軍にたいして住民が暴動をおこしたいわゆる「コザ暴動」が発生した。MPカーなど73台の車が群集に焼かれ、米兵、住民合わせ80数人が負傷し、住民20人が逮捕された。
米軍がカンボジアに侵攻した5月、愛知外相のアジア太平洋会議、ジャカルタ訪問の15日、日比谷野音で7千人の集会が開かれ、さらに同21日、全国全共闘の集会に3千人、同29日、全国全共闘、全国反戦主催の明治公園での総決起集会に1万2千人と、6月に向けて闘争を盛り上げていった。
6月14日、全国全共闘、全国県反戦代表者会議、6月行動委員会主催の代々木公園での共同行動集会に7万人と、60年安保闘争以来の参加者を集めたのをはじめ、10日間にわたって東京など各地で、集会、抗議行動が行われた。14、15日、各派が都内で開いた集会では、機動隊との衝突や交番への火炎ビン襲撃もおこった。
いよいよ自動延長の6月23日、国労、動労、全自労など27単産が時限ストや集会を開き、全国132大学がゼネストにはいった。東京の明治公園での全共闘、全国反戦主催の集会には4万数千人が集まり、デモに移り、警察署や交番に、火炎ビンや投石をおこない、機動隊と衝突、約5百人の逮捕者がでた。一方、社共両党は代々木公園に9万人、6月行動委員会は清水谷公園に2万人を集めて集会を開き、デモを行った。しかし、70年安保闘争は、全体としては「静かなもりあがり」と形容でき、比較的にカンパニア闘争の色彩がつよかった。
ときあたかも、「昭和元禄」の最後のお祭りさわぎのなかで、安保条約は自動延長された。3月15日から大阪の千里丘陵で「人類の進歩と調和」をテーマに、万国博覧会が開かれ、6か月間に延べ6,422万人の人出があった。自動延長された日、政府は、「安保体制こそが、平和と未曾有の経済的繁栄と国民生活の向上をもたらした」との声明をだした。
こういう時代状況への反発なのか、三島由紀夫は「人命尊重以上の理念を打ち出すことができない国家なんて、国家といえるか」と、平和と繁栄を慨嘆した。こう言って、70年11月25日、三島は、市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総督部で割腹自殺をとげた。三島はみずからが主宰する「楯の会」の隊長として森田必勝学生長、小賀隊員、小川隊員、古賀隊員の4人とともに、総監室を訪問し、益田兼利陸将に軍刀を切りつけて監禁した。正午ちょうどに、三島は「檄文」を総監室のバルコニーからつりさげて、集合させた自衛隊員をまえに、「自分といっしょに立つものはいないか!」と決起をうながす演説をした。その間、隊員からはヤジとののしりが続いた。その檄文の内容は、戦後の日本が経済的繁栄にうつつをぬかし、真の日本人の魂の空白状態をうみだしており、今や自衛隊にのみ、真の日本人の魂が残されているとした。自分は自衛隊がめざめさせ、名誉ある国軍とするため、命をすてようと決心した。自衛隊はいまこそ共に決起しよう、という文脈であった。
これは彼が夢みた自衛隊の幻を、現実の自衛隊に訴えているようなものであった。しかし、その政治的行為は、その脈絡を埋める媒介の認識をもたないかぎり、現実と夢は亀裂したままに終わらざるをえない。あとに残されたのは、割腹という死の儀礼という文学的行為のみであった。そして、総監室において、正座して短刀で左わき腹を突き刺し割腹した。森田学生長が介錯をした。介錯をおえた森田学生長は、三島のあとを追うように古賀隊員の介錯によって割腹した。
政治的にいえば、三島の宮廷革命的な発想は、戦後の大衆的な基盤をとうていもつことができないものであった。自衛隊にたいしてのはたらきかけは、左翼からであろうと右翼からであろうと、当時、不可能であった。まして、「日本の伝統と文化」の観点にたったそれは、大衆社会の変質を前にすでに色褪せていた。その点では、彼の政治的目線は宙吊りにされていたという感慨のみを残した。東大闘争の最中、「全共闘との対話集会」に出席し、「天皇と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐのに」と言った三島は、次のように語ったという。「東大問題は、戦後20年の日本知識人の虚栄に充ちたふしだらで怠惰な精神に、決着をつけた出来事だ、というのが私の考へである」。
文学的にいえば、三島の敗戦体験のくぐりぬけから出発して、戦後の時代幻想にたいする苛烈な自意識による反措定として、大きな意味をもっていた。そして、戦後意識にとっては忌み嫌われた「死」を死する思想として、自死をもってそれを完結させたわけである。いわば、それは死を演じる思想といってもよいが、最後の地点で、それを文学的行動として全うしたのである。こういう三島にたいして作者と作品の違いをふくめ、いくら批判しても意味をなさない。なぜなら、三島の行動は、すべて計算した上での行動であったからだ。その死さえも「仮死」といえるものであった。では、三島はどこで、文学的経路を踏み誤ったのか。いや、どこに意識化せざる領域があったのか。ひとつは、「死」を行動との対照で、「論じる」対象にしたときからだ。みずからの死さえも、対象とする疎外された二重の意識のありどころが、彼に論理的帰結として、ほんとうの死を選ばせたといえる。これは、おそらく、三島の戦争のくぐりぬけかたが、決定的に影響した。戦争中の「死」の観念が、三島をふりまわしたというよりも、敗戦の空白感が「死」のかたちをとって、その後の生涯を決定づけたといえる。まさに、戦後的作家であるゆえんである。戦後は、三島の死によって終わったといえた。さまざまな解釈のなか、のちの「連合赤軍事件」と同様、空漠とした余韻を残した。
14 運動の変質
全共闘運動、大学闘争の敗北は、学生運動がひとつのピリオドを打った点で重要である。その敗北のあとの混迷と模索が、武装や軍事に活路を見出そうとする「赤軍派」などの「武闘派」の出現をうながしたからである。また、混迷のなか、各党派は、“内ゲバ事件”をひきおこした。これらは、全共闘運動とは、趣旨と論理を全く異にするものの、自覚的には全共闘運動の敗北をふまえ、それを克服しようとして、闘争の新しい継承のなかからうみだされたという面において、全く無縁であるとはいえなかった。
東大、日大を頂点とする全共闘による大学闘争の敗北後、新左翼は急激に過激化、武装化への飛躍をみせるが、そのひとつが、赤軍派の登場である。赤軍派は結成2か月後の69年11月5日、軍事訓練中の大菩薩峠で53人の大量逮捕者を出し、大打撃をうけたが、70年に入り、蜂起をめざして1月16日、東京、2月7日、大阪でそれぞれ800人、1500人を集めて蜂起集会を開いた。東京の集会は「国際根拠地建設、70年前段階蜂起貫徹」と銘打ったが、その具体化として3月31日、9人のメンバーによる日航機よど号ハイジャックによる北朝鮮入りをおこなった。この「国際根拠地」論は、赤軍派が、前段階蜂起路線の挫折を総括し、その教訓から提起した理論であり、「労働者国家」内部に武装根拠地を建設し、そこからの軍事的・政治的支援のもとに、内戦への参戦を、世界革命戦争の水準に結合させようとするものであり、さらに「労働者国家」そのものも、世界革命に向けた根拠地国家へと再編されなければならないとするものであった。
1969年に出現した「蜂起-戦争派」のうちでは、何か「政治的言葉」の枠組みとでもいうべきものが決定的に崩れた。当時の運動のなかで、1969年を境に「軍事」や「武装」という言葉がひとりあるきし、赤軍派の台頭など、運動が変質しつつあった。
彼ら赤軍派は、60年安保闘争以来、固執してきた新左翼的な夢や理想を投げ棄てようとしているかに映った。だから、1960年以降、学生たちがめざしてきた運動や思想からみれば、赤軍派から連合赤軍にいたるプロセスは、テロリズムに変質した運動であり、大衆的な反権力闘争を志向してきたものとは、別の系譜に属したといえた。つまり、赤軍派など、武装を前面に主張し始めた人々の運動は、運動の飛躍ではなく、もともと別の系譜に属していたと断言できるのだ。それは、心情としてではなく、歴史認識において、明確に言える。
そもそも、赤軍派は、1969年当時の現状認識が根本的に違っていた。当時、ブントの指導者であった三上治は、全共闘運動が後退期にはいったとみていたのにたいし、赤軍派は、世界の革命運動との連帯に向けた高揚期と考えていたことに第一の読み違いがあった。だから、三上は後退期として「後ろ向きになりつつ前進する方法」という言葉で言いあらわしているように、実感に即して運動の方向性を定める言葉を与える方法を模索していた。その点からはじまって、赤軍派の言葉にたいして、三上は政治的な言葉の恐ろしさを喚起している。つまり、赤軍派は「軍事」や「武装」という言葉をもてあそんでいるうちにそういう運動形態にほんとうにはまり込んでいった。要するに、赤軍派を作った連中はなりゆきでそういうところへはまりこんでいったと結論づけている。いわば、「軍事」や「武装」をいっているうちに、《いつのまにか言葉と現実の距離や関係が見えなくなる過程があったのだ》と推察しているのだ。
この点については、政治的な言語であるかどうかを問わず、「言葉」そのものの理解になるが、三上は赤軍派にたいして、いわば、言葉の現実関係が忘れられたという見方をとっているようにみうけられる。
しかし、もしかしたら、当時の状況において、言葉が忘れられたからこそ、現実的であったのではないかという問題意識が、わたし(たち)には一方にある。
サブカルチャー、アンダーカルチャー等が氾濫し、言葉感覚の膨張が、人々の社会意識の上限と下限の幅の変質に裏づけられていた当時の状況のなかで、赤軍派のように、現実との対応関係を忘れた言葉となって流出した言葉の表出こそ、1970年代以降の世界を築いてきた原動力ではなかったのか。それこそが、戦後の変質を画する指標とでもいえる「私的感性・意志の拡散化」の始まりではなかったのか、というようにである。赤軍派の行動が、セクト間をきわただせたのは、第一に言葉として「軍事」を持ちこんだことであった。言葉は、このとき、ほとんど「身体的言語」の極北としてのみ、機能していた。言葉はよく理解できないからこそ、かえって社会性をもった。
もし、赤軍派の言葉のみに、一定の意味があるとすれば、マンガの世界と地続きであった「武装蜂起」や「世界同時革命」の言葉そのものではなかったのか。もし、仮定がなりたつとすれば、ハイジャックや連合赤軍事件を起こさなかったら、「言葉の拡散」しか残らなかったのではなかったのか。言葉の表出としての観点だけをとりあげるなら、言葉そのものが、現実となる予感が、すでに、赤軍派に体現されていたと考えてもいいのではないかと思うからである。
赤軍派の理念は陳腐であったが、「言葉」としては、いい線をいっていたのかもしれない。
15 軍事・武装闘争
赤軍派は、70年3月31日、日航機「よど号」をハイジャックし、日本で初めてのハイジャックを行うと同時に、政治闘争の武器として、機動隊へ爆弾をはじめて行使し、“連合赤軍事件”でこれまた政治闘争の武器としてはじめて銃を用い、国際的ゲリラ組織「日本赤軍」の母体ともなったことで、社会的に耳目をあつめた。
赤軍派は、70年に入り、3月31日、9人のメンバーが、日航機「よど号」のハイジャックにより、北朝鮮入りを敢行した。「フェニックス作戦」と名づけたこのハイジャックは、大菩薩峠の失敗の総括からうみだした「国際根拠地論」を具体化したものであった。つまり、理念的にはどんな陳腐な悲喜劇でも可能という意味で、革命のため「国際根拠地」をつくり、そこで軍事訓練をしたあと日本にもどり「武装蜂起」するという目標を信じて行われたのである。
高木正幸は『全学連と全共闘』のなかで、事件の詳細を次のように書いている。
事件は3月31日午前7時半すぎにおこった。富士山上空を飛行中の日本航空ボーイング727機「よど号」(乗員7人、乗客131人)に乗客としてのりこんだ赤軍派の9人が、日本刀とピストルで乗員・乗客をおどし、北朝鮮行きを機長に命じたのである。「よど号」は福岡空港に着陸して給油を要求。病人や婦人、子供など23人を降ろして、6時間半後の午後2時前に福岡空港を離陸、北朝鮮に向かうが、38度線付近から韓国空軍機に規制、誘導され、ソウル郊外の金浦空港に着陸する。韓国側は、北朝鮮兵の服装をつけ、ニセの歓迎プラカードをたてて出迎えなどするが、赤軍派に見破られる。
4月1日、東京から山村運輸政務次官ら政府関係者が到着して、赤軍派と交渉を開始する。3日午後3時すぎ、乗客全員が釈放され、山村政務次官が“身代わり”として機内にはいり、同機は北朝鮮の平壌(ピョンヤン)へ向かった。同7時20分、ピョンヤンに到着、赤軍派の9人は、そのまま北朝鮮側に収監され、3日半にわたったハイジャックは終わった。ハイジャックを行った赤軍派の9人は、赤軍派軍事委員長の田宮高麿(当時27歳)=大阪市大、小西隆祐(25歳)=東大、田中義三(21歳)=明大、安部公博(22歳)=関西大、吉田金太郎(20歳)=元工員、岡本武(21歳)=京大、若林盛亮(23歳)=同志社大、赤木志郎(22歳)=大阪市大、S(16歳)=高校生である。
リーダーの田宮高麿は、ハイジャックにあたって、次のような「出発宣言」を残していた。
《我々の大部分は、北朝鮮に行くことによって、それ自身を根拠地化するように最大限の努力を傾注すると同時に、現地で訓練を受け、優秀な軍人となって、如何なる困難があろうとも、日本海を渡り帰日し、前段階武装蜂起の戦闘に立つであろう……共産主義者同盟万歳!そして最後に確認しよう。我々は、“明日のジョー”である。》
上野昂志は『戦後再考』のなかで、赤軍派のハイジャックのような事件は、全共闘運動が退潮期にはいったあとの、より内面化した現象のことで、社会の表層に自分の主張をとおそうとすると、必然的にともなうマンガ的なパフォーマンスとしてとらえている。たしかに、「前段階武装蜂起」も、ハイジャックの行き先がキューバやベトナムであっても、北朝鮮とおなじように、彼らがいかに真剣であろうとも、意識と行動のズレにおいて、マンガ的としかいいようがなかった。そして、このズレのでてくるところを、全共闘的な意識の延長線上にとらえて次のように指摘している。
《それは「反米愛国」とか「世界同時革命」といったスローガンの問題ではない。そのベースにある「反」なり「革命」なりという観念に対する倫理的な思いこみの問題なのだ。つまり、革命や反体制をいうことは、たんなる「正しさ」の問題でなく、自分と世界の関係性の問題だったということである。その場合、世界を批判的に見ないのなら、問題はない。だが、批判があるなら、それを何らかの行動として表現するのは、人間として当然だろうというのが、そのもっとも素朴な論理である。その際、既成左翼の計量可能な手段としての行動を拒否するところから始めた彼らにとって、行動は存在を賭けてやるべきであって、結果のみ問うことは、みずからの実存をないがしろにすることでしかない。こうして、論理のサイクルは閉じられ、ひたすら内面化するのだが、その過程で、世界の客観的な具体性は廃棄されてゆく。にもかかわらず、彼らの意識においては、それこそが世界を獲得する唯一の道なのだ。》 『戦後再考』 上野昂志著
ここでいわれている内容には、「全共闘的」という運動の内面化なり、「倫理主義」ということが前提になっている。というのは、全共闘運動には、本来、運動にあるべき目的がなく、バリケード封鎖にしても、デモにしても、その行為そのものが自己目的化したというのである。全共闘にしても、要求すべきものが欠落していたというよりほかなく、要求が具体的によく分からなかった。だからこそ、ラジカリズムもそこから産まれた。目的・手段によって縛られて、計量化されて効果がはかられる、従来の社会運動からときはなたれて、運動の力学がその文脈を変革した。いわば、バリケードは、「意味」としての大学という空間を異化するオブジェとして、機能させたことに意味があった。そのことで、政治的システム自体を批判する運動であったと、記号論の立場にたって上野は言う。そして、にもかかわらず、そのことに意識的でなかった全共闘の学生たちは、「実存主義的」な疎外論をもって、自分たちの行動を説明した。ここから、実存を倫理的にかたがわりさせる傾向が不可避につきまとった。
そして、全共闘のそういう倫理性は、運動の後退局面に立たされたとき、その倫理性が無限に縮退していき、行動そのものの意識とのズレすら感じなくなり、赤軍派のような、あるいは、その後の内ゲバ、連合赤軍のたどったような、政治的隘路の悲喜劇を演じることになるとみなしている。
こういう記号論の立場にたいしては、わたし(たち)からは、世代の差、あるいは認識する場所の差とでもいうよりしかたがない。わたしなどからみると、全共闘とその後の赤軍派などの運動は、まるで質の異なったように見える。したがって、全共闘運動の内面性を延長していくと、赤軍派の運動に行き着くということは絶対ない。だから、赤軍派の行動の責任を、全共闘に求めるのは筋ちがいである。なぜなら、全共闘には、上野のいう政治「目的」ではなく、厳密にいえば、自分にあてはめるべき言葉そのものがなかったのだ。それにひきかえ、赤軍派などには「政治的言語」が明確な言葉としてあったからである。
しかし、全共闘には実存という言葉があったのではないか。行動そのものに賭けるためには、実存性の問われる余地があったのではないか。あるいは倫理的思い込みのレベルで個人の内面を追いつめるものがあったのではないか。上野は、行動への飛躍を前に、目的を明示せずオルグされる場面を想定して、実存的問いかけの例をあげている。しかし、全共闘運動にはオルグと呼べるものは、言葉の正確な意味ではなかった。もともと、運動の基盤というものが、学生のもっていた「気分」や「感情」としての「身体的言語」とでもいうよりほかないが、その分だけ柔軟で、その自然発生性に依拠しての行動そのものが、言葉であった。ただ、それが行動的無意識として集合的に表現されたことのみが、社会的言葉の意味に、唯一、囲いこまれていたといえるはずだ。したがって、全共闘学生を無機質の記号ゲームのなかに囲いこむのは上野の勝手だが、そういう手法で学生を理解しようとすることが、全共闘の依拠した「身体的言語」を窒息させることになり、かえって上野の無意識の「倫理性」を背後から照らしだしているといわざるをえない。
一方、赤軍派などに代表されるセクトについては、その理念上の責任を、既存のマルクス主義に負わせるべきである。ハード・マルクス主義のステロタイプ化されたもので、倫理にしばりをかけ、かれらは意識と行動のズレを埋めようとした。だが、彼らの意識と行動のズレは、マンガ的パフォーマンスとなったが、それは「世界の客観的な具体性は廃棄されて」いるからではなかった。彼らのもっていたマルクス主義の言葉が、倫理的であったことと、それにみあうように、社会的な意識の地殻変動とともに、上げ底化され、拡散化したからである。これが先に述べた戦後の変質を画する指標とでもいえる「私的感性・意志の拡散化」の始まりの証明であった。そういう意味において、上野がいうほど、ハイジャックをした赤軍派の連中も、まんざら大衆から孤立していたわけではなかった。ただ、大衆意識と交叉する角度が、90度ずれていただけである。
16 内ゲバの循環
学生運動、新左翼運動の失速感のなかで、“内ゲバ”の問題が深刻になりはじめた。特に、武装、軍事による状況の打開を考えている新左翼が、外にむける力をもちえなければ、そのエネルギーは屈折し、内ゲバとして内側に噴出する。そこでは、行動の荒廃と理念のゆきづまりを象徴するような事件があいつぐ。
この内ゲバは、‘60年安保ブント全学連結成時のブント系学生と日共系学生との対立のなかに、すでにその萌芽があった。さらに、68年、69年の全共闘-大学闘争の過程においても、全共闘系学生と日共系学生とが、大部隊どおしの乱闘をくりひろげ、流血の惨事をひきおこしたことなど、全共闘運動が、内ゲバを当然のこととした風潮に、起因と責任があるとの見方もある。東大闘争では、20数回の衝突で、実に千余人の学生が傷ついたといわれる。
さらに、この内ゲバを加速する要因となったのは、60年代、三派全学連や全共闘運動のなかで、明確になってきた革マル派と、他党派との確執がある。東大闘争時、安田講堂の“落城”時の革マル派が、機動隊との衝突を避けての“敵前逃亡”にくわえ、革マル派の「武装蜂起主義」、「極左的盲動」として中核派、ブントなどの「他党派解体宣言」を掲げた組織戦術に、他党派の反発が大きな要因になって、両者の対立は、70年代に入って急速に激化した。
そして、70年8月4日、革マル派の東京教育大生海老原俊夫(当時21歳)が、法政大学で中核派にリンチ殺人されるという事態になって、内ゲバは深刻な事態にはいっていく。中核派は、この海老原リンチ殺人事件について、一切、沈黙を守ったが、革マル派は8月6日、日比谷公会堂で開いた「国際反戦中央集会」を、海老原君追悼集会にきりかえ、「この集会を機に、中核派せん滅の戦いに入る」と宣言、8月14日には、中核派に変装した革マル派約30人が、法政大学にはいって、中核派学生十数人を襲撃、リンチを行った。この海老原リンチ事件は、85年までに80人を数える中核・解放派対革マル派の凄惨な内ゲバ戦争の最初の犠牲者であった。
その後、71年10月、同じく革マル派の美術学院生水山敏美が、横浜国大内で中核派に殺された事件で、革マル派が「中核派絶滅」宣言を行い、これにたいして中核派も、「無条件かつ全面的な宣戦布告、カクマルに対する全面的せん滅戦争」を宣言、両派の全面的なテロ戦争が開始された。
72年11月9日、更に、その後の熾烈な内ゲバ戦への大きな転機となった、革マル派による「川口リンチ殺人事件」がおこる。これは、東京・本郷の東大構内付属病院前に放置されている、パジャマ姿の若い男の死体が発見された事件だが、死体は、早大文学部二年生川口大三郎(当時20歳)と分かり、中核派シンパとみなした革マル派による、リンチ殺人であることが判明し、革マル派にたいする中核派など、他党派の内ゲバ軍事部隊の本格的な結成をうながす契機となった。
しかし、川口事件から2年8か月後の75年3月14日、中核派の理論的支柱であった本多延嘉書記長が、埼玉県川口市内のアパートで、就寝中を革マル派が襲われ、全身打撲で死亡する事件がおこった。革マル派は、この殺害にたいして、本多書記長殺害8日前の3月6日、東京渋谷区内の路上で、機関紙「解放」の発行責任者・難波力こと堀内利昭が中核派に殺された事件を、その理由としてあげた。この最高指導者の死亡によって、中核派の姿勢は一気にエスカレートし、「革マル派一人残らずの完全せん滅、復讐の全面戦争への突入」を宣言、事実、全力を挙げての、対革マル戦を敢行し、この年だけで15人もの革マル派活動家を殺害した。革マル派は「報復停止宣言」をだしたが、中核派の攻撃姿勢の火に油を注ぐかたちとなり、また、革マル派も「防衛的反撃」の姿勢をやめて、76年には、3人の中核派活動家を殺害した。いずれにしても、本多書記長殺害が、内ゲバ戦争の泥沼化を決定的にする要因となったことはまちがいない。
そして、1977年2月11日、革労協書記局長で、解放派筆頭総務委員・中原一こと笠原正義が、茨城県取手駅付近で、革マル派集団に襲われて死亡した。この最高幹部の死によって、それまで主導的立場にあった中核派をぬいて、解放派が、対革マル戦争の前面に躍りでる。4月15日、埼玉県浦和市内で革マル派4人の乗った車を襲い、なかに閉じこめたまま、ガソリンで焼殺するという過去最高の大量殺人を行ったのをはじめ、77年中に7人の革マル派活動家を殺害した。
革マル派は、中原一殺害後、中核、解放両派にたいする殺害を行っていないが、「権力の謀略」、「組織防衛のための反撃」を主張してきたなかで、中核派の本多延嘉、解放派の中原一と、両派の最高幹部を殺害したことが、両派の革マル派へのせん滅戦をぬきさしならないものにしたことは否めない。「反革命」規定に加えて、組織をかけた復讐の怨念が、対革マル派内ゲバ戦争をその後も継続させることになったのである。78年以降、内ゲバは中核、解放両派の革マル派への熾烈な復讐戦として、一方的に、革マル派の死者が増加するが、81年以降、次第にそれも減少の方向に向かってきた。それまでの死者の合計80人のうち中核派による革マル派の殺害43人、解放派の革マル派殺害22人、革マル派の中核、解放両派殺害14人、その他1人である。
1971年の沖縄返還闘争はゲリラ化した。
沖縄返還協定が東京で調印された1971年6月17日、その2日前から東京を中心にもりあがりをみせていた実力阻止闘争が、ピークに達した。明治公園で行われた中核派、第四インターを中心とするその集会で、赤軍派による鉄パイプ爆弾が、機動隊に向かって投げられ、隊員37人が負傷した。手製爆弾が、反権力闘争にはじめて使用されたもので“爆弾時代”への突破口となった。
6.17闘争は、全国43都道府県、296ヶ所で十数万人が参加して行われたが、東京では中核派、第四インターを中心とした1万人が明治公園に、反帝学評、フロント、ML派など反中核・沖共闘グループの1万人が宮下公園に集まって集会を開いた。両者とも、乗用車、材木、看板などで街頭バリケードや、線路上への座り込み、機動隊への火炎ビン攻撃などを展開したが、これにたいして、機動隊もガス銃などで応戦し、熾烈な攻防戦が展開された。
赤軍派による鉄パイプ爆弾は、集会終了後の午後8時50分ごろ、明治公園原宿口付近での機動隊との攻防戦のさなかに投げられたものである。この事件の容疑者として、赤軍派中央軍の少年(17歳)ら二人が、殺人未遂容疑などで逮捕されたが、証拠不十分で処分保留となった。6月15日からこの17日までの3日間の闘争での逮捕者は 1,061人にものぼった。
9月25日には、沖縄国会のヤマ場を前に、中核派らの沖縄青年委員会のメンバー4人が、皇居内、宮内庁にレンタカーで乗りつけ、発煙筒、火炎ビンを投げつける事件があった。沖縄国会開会の10月16日を中心に、東京など全国各地で、集会、デモが行われ、機動隊との衝突、交番への火炎ビン攻撃がおこった。11月10日、沖縄現地で、全軍労、県教組、官公労などによる、協定粉砕、批准阻止の空前といわれる島ぐるみのゼネストが行われたが、これに呼応して、本土でも、各地で集会、デモ、機動隊との衝突がおこった。
国会で強行採決のきざしがみえた11月14日、全国32都度府県、80ヶ所に、10万人が集まって、阻止闘争が展開された。この日、宮下公園での集会を禁止された中核派は「渋谷大暴動」を叫んで、渋谷に進撃、各所で機動隊と衝突した。200人の中核派部隊の火炎ビン攻撃をうけた渋谷署神山交番では、警備にあたっていた警官が、火炎ビンで火だるまになり、病院で死亡した。また、午後2時ごろには、国電池袋駅で、中核派の学生、労働者がもちこんだ火炎ビンが、満員の山手線電車内で炎上、乗客らが重軽傷を負い、火炎ビンを浴びた中核派反戦青年委の女教師が、病院で死亡した。深夜まで7時間にわたって渋谷駅や繁華街でのゲリラ戦が続き、この日の衝突で、313人が凶器準備集合罪などで逮捕された。
71年11月17日、沖縄返還協定は、衆議院沖縄特別委で強行採決された。これに反発した社会、共産両党と総評は、ストや集会、国会への請願デモを行ったが、新左翼各派は、19日、全国から1万8千人が集まり、日比谷公園などで集会、デモを行った。日比谷公園の各入り口に阻止戦をはって封鎖した警官隊にたいし、石、火炎ビンや丸太、竹ザオなどで攻撃、同夜、公園内のレストラン松本楼にも火がはなたれて全焼した。さらに、国電有楽町駅周辺から銀座一帯、大手町のオフィス街などで、火炎ビンを投げ、バリケードを築くなどのゲリラ戦が展開された。日比谷、丸の内周辺以外でも、各派によるバリケード市街戦が、都内各地で行われ、この日の逮捕者は1,886人となった。69年11月16、17日の佐藤首相訪米阻止闘争時の1,985人につぐ大量逮捕となった。
沖縄返還協定は、11月24日、衆議院本会議で強行採決され自然成立したが、11月10日、破防法違反容疑で、松尾真中核派全学連委員長が逮捕された。さらに、11月20日中核派の集会、デモに対し、全面的な禁止措置がとられた。
1971年は、世界の政治・経済にとって大きな意味をもった年であった。ひとつは、ドル・ショックが起こったことである。戦後、世界経済は、アメリカのドルを基準通貨として、IMF体制(国際通貨基金)によって維持されてきた。各国通貨は金と兌換性のあるドルとの比率が固定されていた。アメリカの豊富な金準備と国際収支の黒字によって、ドルによる世界経済の支配がおこなわれていたのである。ところが、アメリカの国際収支が赤字になり、ドルの海外流出がつづき、ドルの危機、国際通貨危機が深刻になった。
1971年8月15日、ニクソン大統領は、ドルと金との交換の一時停止、10%の輸入課徴金の実施、各国と通貨の為替レートの変更について話し合いをするというドル防衛策を発表した。これは、ドル・ショックとして、世界経済を直撃した。日本政府は、73年から変動相場制に移行した。ドル・ショックにより、ドル安・円高により輸出にブレーキがかかり、輸出関連の中小企業は大打撃をうけた。佐藤内閣は、円高による不況防止のために、建設国債を増発し、公共事業を拡大したが、不況にもかかわらず、インフレがすすみ失業が増えるという経済危機が進行した。
もうひとつの政治的激動は、1971年7月、米大統領補佐官のキッシンジャーが、極秘のうちに中国を訪問して、周恩来と会談したことである。翌72年2月には、ニクソン大統領が中国を訪問し、毛沢東主席、周恩来と会談し、中国はひとつであるという米中共同声明が発表されることになる。その間、71年9月には、中国招請・台湾追放決議による中国の国連加盟が実現していた。ここに戦後の世界体制が、政治と経済の両面で根底から崩れることになった。
17 連合赤軍事件
内ゲバが、党派の内部に向けた荒廃の極を物語っているとすれば、「連合赤軍」や日本赤軍のテルアビブ空港襲撃事件は、「武装」、「軍事」理念の荒廃の裏面を示している。大学闘争敗北後、組織の分裂、少数化にともなって、左翼武闘派が、さらに過激化の一途をたどるなかで、1969年、赤軍派の誕生と並行して、のちに赤軍派とともに、連合赤軍の母体となった「京浜安保共闘」が生まれる。
京浜安保共闘は、67年の日本共産党と中国共産党の対立の表面化によって、日共を除名、あるいは脱党した“親中国派”のメンバーや、社学同の片割れであるML派のメンバーが、「銃口から政権が生まれる」をスローガンに、毛沢東思想を背景として、川島豪を中心に結成した「日本共産党(革命左派)神奈川県委員会」の武装集団「人民革命軍」の公然組織として産まれたものである(69年4月結成)。京浜安保共闘の議長に、坂口弘がなり、「反米愛国」をスローガンにしていた。京浜安保共闘は、結成直後から過激な実力闘争を開始し、69年9月4日、愛知外相の訪ソ、訪米に反対して、坂口弘や吉野雅邦ら5人が海から羽田空港の滑走路に侵入、火炎ビンを投げた。また、岐阜県下の石切場から、ダイナマイト約100本を盗み、10月、11月には、これを使って厚木、立川、横田基地、横浜のアメリカ領事館などにたいする一連の爆破、同未遂事件をおこした。これによって、12月に川島は逮捕されている。
同じ時期、赤軍派は、9月4日、葛飾公会堂で旗揚げ集会を開いた。そして、9月末、赤軍派は、武器奪取、対権力攻撃として「大阪戦争」、「東京戦争」の名のもとに、交番襲撃、銃奪取などを展開し、10.21国際反戦デーには、最初の鉄パイプ爆弾を登場させた。また、70年3月31日、田宮高麿ら9人の赤軍派メンバーがハイジャックし、北朝鮮へ飛んだ。このため、国外脱出したり、逮捕されたりして、赤軍派の主要なメンバーはいなくなっていた。ただ、一時、赤軍派を離れていた森恒夫が、69年12月に赤軍派に復帰していた。
革命左派は、70年9月、組織をたてなおすため、指導部を変更し、永田洋子が常任委員長になった。そのころ、革命左派は、獄中にあった最高指導者の川島豪の奪還計画をたてており、銃を確保することを考えていた。1970年12月18日、地下組織に形をかえた「人民解放遊撃隊」の責任者である横浜国大生・柴野春彦(当時24歳)ら学生3人が、東京板橋区の志村署上赤塚交番を、鉛を詰込んだゴムホース、短刀などをもって襲撃し、警官からピストルの奪取をはかったが、柴野が警官に射殺されたほか、二人とも撃たれて重症を負った。
12月31日、赤軍派の森恒夫、坂東國男が、革命左派とはじめて接触した。この会合以降、両派の連携関係は次第に強まる。革命左派は、翌71年2月17日、栃木県真岡市の鉄砲店を襲って、銃と銃弾を奪った。実行犯は吉野雅邦ら6人であった。一方、森恒夫が指導しはじめていた赤軍派は、“M(マフィア)作戦”によって、2月から7月にかけ8件の郵便局、銀行などへの資金奪取作戦を行う。この両派が、71年7月「統一赤軍」を結成したのである。銃の革命左派と、資金の赤軍派の、まったく異質な組織同士の政治的野合であった。
親中国派で毛沢東思想を信奉する革命左派と、大衆運動を母体として育ってきた赤軍派とは、本来、理念的には合体することはありえなかった。しかし、この二つのグループが合体し、統一赤軍を形成していったのは、赤軍派が、武装闘争と軍事路線を提唱したとき、毛沢東思想へ転向していったことによっている。赤軍派は、1950年ごろの日本共産党の武装革命路線を評価するようになっていたが、大きな枠組みでいえば、毛沢東路線にシフト替えをしていったのである。そして、赤軍派も革命左派も、警察の弾圧強化と大衆的孤立感の中で協力関係を模索していたものとおもわれる。
革命左派は、山梨や神奈川、静岡の山岳ベースで、軍事訓練によって軍事組織の強化、新党結成へとすすんだが、その過程で、71年8月、メンバー2人(早岐やす子、向山茂徳)の脱走事件にたいし、警察への通報を恐れて“処刑”した(印旛沼事件)。これが、いわゆる「連合赤軍事件」の最初の犠牲者である。そして、「統一赤軍」は「連合赤軍」と改称し、新党結成を確認する。やがて赤軍派も、11月、南アルプスの新倉で山岳ベースを開始し、ここで12月3日、革命左派とはじめての共同軍事訓練を行う。その際、赤軍派の遠山美枝子は、指輪からはじまり、髪型、化粧の仕方、服装をめぐって、永田に追及され「総括」を要求されることになる。このときは殺人にはいたらなかったが、これがベース全体に「総括」という名の、リンチ殺人の雰囲気をつくりだした発端であった。
革命左派は、群馬の榛名山に山岳ベースを移しており、赤軍派も革命左派のベースに合流する。やがて、12月の終わり頃から、日常生活態度、活動経験等をめぐって、兵士の「総括」をうながす指導という名目で、陰惨な集団的暴力が日常化するようになった。‘人民裁判’の名のもとに、中央執行委員長の森恒夫と副委員長の永田洋子が判決をくだした。29日、森の命令で些細なことから、革命左派の尾崎充男が、全員から顔や腹を殴られ、鴨居に縛られて食事もあたえられないまま放置された。31日に尾崎が、寒さと飢えで死んでいるのが発見された。これにたいして、森は、共産主義化の地平をかちとるだけの強さがなかったから「敗北死」したのだとした。年が明けた72年の元旦、次の犠牲者がでる。赤軍派の進藤隆三郎が、暴力がふるわれて死にいたる。また、「総括」を要求され、戸外に縛りつけられていた小嶋和子が衰弱死する。また、おなじく加藤能敬も死亡する。このとき、森が依拠していたのは「革命戦士」にとって「精神の肉体の高次の結合」という言葉であった。こうして暴力的「総括」要求は、殴る、縛る、食事をあたえない、トイレにいかせないという形をとっていく。
そして、7日には遠山美枝子が、9日には行方正時が次の犠牲者になった。すでに6人もの犠牲者をだしたこのとき、森はこれまでの同志の死について、「どうしても回避することができなかった高次の矛盾」ととらえる。そして、18日、今度は、寺岡恒一が、革命左派内で永田、坂口にとってかわり、じぶんの地位をたかめようとしたことを理由に、‘死刑’を宣告される。これまでの6人は、総括できなかったための「敗北死」といわれたが、寺岡は反革命分子であり、組織の意志として殺害を意図していた。殺害方法はナイフやアイスピックで突き刺し、最後に首をしめられるという凄まじいものであった。おなじように赤軍派の山崎順にも「死刑」を宣告する。
20日には、金子みちよと大槻節子の追及をはじめた。ここで、1月28日、迦葉山に山岳ベースを移動することになった。迦葉山のベースで、山谷順一とともに、妊娠していた金子みちよと大槻節子が緊縛されて殺された。そして、次に、赤軍派きっての理論家山田孝を2月12日死亡させることになる。新党結成直後から72年2月にかけて、連合赤軍は同志12人を、反共産主義化などの名目で、集団リンチ、粛清をおこない殺したことになる。
森と永田はカンパ要請のため、一時上京した。その間、2人の“兵士”は脱走する。72年2月7日、榛名山の山岳アジトが発見されて1人が逮捕される。上京した森は、坂口と結婚していた永田と結婚を宣言する。榛名ベースは、すでに警察に発見されていた。残った連合赤軍メンバーは、このとき9人になっていた。そのうち4人は、軽井沢駅で逮捕された。森と永田は、メンバーと合流しようと軽井沢につくが、2月17日、妙義山付近で逮捕された。
残る坂口弘、坂東國男、吉野雅邦、少年2人の5人が、2月19日午後3時30分頃、長野県軽井沢町のレークニュータウンにある、河合楽器の保養所「浅間山荘」に、猟銃を発砲しながら乱入し、管理人夫人の牟田泰子さん(当時31歳)を人質にして籠城した。警察側は、放水、ガス銃、ライフル、ピストルなどで武装した、延べ12万2,700人が出動し、10日間にわたる銃撃戦ののち、2月28日、事件発生後218時間ぶりに人質の泰子さんを解放、坂口ら5人が逮捕された。この救出作戦中、警官2人が、連合赤軍側の銃弾をうけて死亡、27人の負傷者がでた。12人の仲間殺しという凄惨な事態を伴った連合赤軍事件は、一般大衆はもとより、新左翼各派にも大きなショックを与えた。
このあと、1972年5月30日、イスラエルのテルアビブ郊外のロッド国際空港で、3人の赤軍と名のる日本の若者が、自動小銃を乱射して手榴弾を投げつけ、なんの罪もない26人を殺害し、72人に重軽傷を負わせるという事件(テルアビブ空港襲撃事件)をおこした。彼らは、パレスチナゲリラ、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)の指示のもとに決行したという。奥平剛士、安田安之、岡本公三の3人であった。生き残った岡本公三は、裁判のなかで「オリオンの星になろうとおもった」と陳述した。多くの知識人は、戦前のロマンチシズムにかたむいた、「命の安い日本人」のマイナスの遺産の典型をみせつけられた気がした。
これら赤軍派、連合赤軍事件、内ゲバなど「軍事」、「武装」に重点を移した運動の結末は、全共闘運動が「身体感覚」で表現したメカニズムを、既存のマルクス主義の「言葉」の世界にもちこみ、言葉の転倒をあえて「現在」という資本主義の彼方にむけて、投げ出してみせるという悲劇を演じた。彼ら事件の当事者は、資本主義の「現在」が、どの方向に向かって進んでいるかが、分からなくなったのだ。これらの事件は、未知の資本主義の「現在」というものの逆立ちした象徴であった。ここでは、言葉にたいする「現在」の問題性のうち最も切実なのは、社会との接合面の問題でもなければ、他者に対するコミニュケーションの確実性の問題でもない。言葉がみずから、根拠を喪失し、自己にたいする関係づけをもてないからである。だが、こういう言葉の架空性については、概観としてだけなら、大衆の「私的感性・意志の拡散化」を正確に先取りしていたとおもわれる。
戦後、敗戦を境にして、社会意識として国家意識統合のシンボルを喪失したことにより、戦後のナショナリズムは拡散していった。その後、ほぼ10年を周期にして、戦後の社会意識は変質してゆく。敗戦に伴う国家意識統合軸の解体は、昭和30年代まで、拡散を拡大していったあと、‘60年安保闘争前後の収縮期を通過して深化、経済復興が軌道に乗ったことをつうじて、更に、「私的意識・感性」の収縮を重ねていった。それから、本格的な高度成長経済の滑走期を迎え、昭和40年を境にして、社会意識の質的な転換を意義づけることになる。この過程の意味こそ、戦後世界の中で、真に変質と名づけられる意義をもった。これは全社会的に拡大された消費活動、生産・流通の膨化、公的意志よりも私的利害をより重視する「私生活中心主義」が定着した時期である。その後、この傾向は昭和50年代まで続き、大衆消費社会の爛熟期の意識変容を決定的に刻印づけることになる。
そして、エレクトロニクス・カルチャー、テレ・カルチャー、サブ・カルチャ-の大きな浸透力によってもたらされた「現在」は、その事件の大衆的意味を、ほとんど自明のものにしたといえる。つまり、言葉に表出される意味を、無化するとともに、その「私的感性・意志」は、独自性としての積極性を失い、同時に、言葉の先行性をゆるしてしまい、包摂された「自己」を、鏡に映して言葉をとらえられない「ゲ-ム言語」におちいってしまったのだ。これは言葉の絶対的な背離である。なぜなら、私的感性が先行して初めて、自己言語が成立するにもかかわらず、ここでは、私的感性の対象としてのみ意味をもっていた「現実」が言葉に包摂されているため、自己言語はメタ言語としてしか機能していないからである。
つまり、現実-私-言葉の環が、メビゥスの輪のように閉じられ、言葉-私-現実と双方向に流れることで、「私」の言葉の独自性は不必要になっているのである。だから、「私」は現実に面してというより、「現実」になった言葉によって、言葉にたいして不要な格闘を強いられているのだ。ここにおいて、現実にたいして、絶えず追いかけられているという衝迫感は、言葉に対する被虐感と等価である。ただ、どちらが、その当体であるのかを確認すべき「私」が不在のため、不分明なだけによけいに煽られることになるだけである。これは全共闘運動が当面した課題が、大衆消費社会のなかで変形し、拡大再生産された姿であった。
あとがき
全共闘の歴史をとりあげるために、その地下水脈をたどって、‘60年安保闘争前後まで遡り辿ってみた。新左翼のそれと混在して、分かりにくいかもしれないが、そういう60年代の原風景もあったにしろ、截然と全共闘と新左翼の歴史は袂を別れなければならない。
また、俗に言われているように、全共闘の敗北過程とともに現われた、一部の活動家の内ゲバと武装闘争の歴史と、その凄惨な結末にひきのばして見てきた。そこでも、再び、はっきりさせなければならないのは、全共闘とこれらの「党派の論理」とは、明らかに異なるということであり、引き受けるべき責任は、全共闘運動にはないことを強調しなければならない。これは常識的な思考にはなじまないかもしれないが、どうしても云っておかなければならないことのひとつである。
また、全共闘が残したものとして、大学の大衆化のみではなく、大衆社会の水位そのものが上がった、あるいはより大衆化が深まったことを上げなければならない。サブ・カルチャーへの大衆のなだれこみや、知識の専門化と分極化などは、その顕著なあらわれといってよい。
今後、このような社会運動がおこるかどうかは分からない。それは大衆の無意識が、自然と必然が交叉した場所できめることだから、なんともいえないからである。
わたしはこの論文で、現代の左翼過激派の系統図を書いたのでもないし、イデオロギーやスローガンに関する分布図を描きたかったのでもない。全共闘運動が、なぜ、あの時代、燎原の火のようにひろがり燃えさかったのか、理由を訪ねたかった。その前哨とでもいうべき‘60年安保闘争についても、同様である。その歴史を書いてみたかった。
全共闘体験者のアンケートによる『全共闘白書』によると、多くの体験者が「悔いはなかった」といっている。これは特異な現象といってよい。なぜという答えは難問だが、今のわたしなら「開かれた運動」のイメージへの固執が、一番妥当な気がする。息がつまるような集団や組織が、あまりにも多すぎる。そんな組織や運動なら、ないほうがましだ。
その当時、全共闘学生は“暴力学生”とよばれたものだが、彼らの暴力につきあってみて、当方も、幾分、解放感を味わうことができたのが収穫であった。
全共闘運動や新左翼運動について書かれた書物の記録は、案外少ない。限られた資料を丹念に読み解くほか方法がなかったが、全体のニュアンスの流れとでもいうものを感じとっていただけたら幸いである。
これは、いわば、自分探しの旅のようなものであった。「身体的言語」の解放ということが分かった時点で、わたしの旅は終わった。これはある面で、精神のリハビリテーションとしての意味をもった。
(了)
<参照した文献>
『日大闘争の記録 叛逆のバリケード』日大文闘委書記局編 三一書房 1991
『東大闘争反撃宣言 果てしなき進撃』東大全学共闘会議編 三一書房 1991
『1960年代論』三上治著 批評社 2000
『1960年代論�』三上治著 批評社 2000
『1970年代論』三上治著 批評社 2004
『新左翼二十年史~叛乱の軌跡』高沢皓司、高木正幸、蔵田計成著 新泉社1995
『革命的マルクス主義とは何か?』黒田寛一著 こぶし書房 1974
『マルクス主義とスターリン主義』対馬忠行著 現代思潮社 1974
『擬制の終焉』吉本隆明著 現代思潮社 1971
『埴谷雄高政治論集』埴谷雄高著 講談社文芸文庫 2004
『中核VS革マル』立花隆著 講談社 1982
『全共闘白書』全共闘白書編集委員会編 新潮社 1994
『全学連と全共闘』高木正幸著 講談社現代新書 1985
『全学連』中島誠編著 三一書房 1986
『全共闘グラフィティ』高沢皓司編著 新泉社 1984
『60年安保 センチメンタル・ジャーニー』西部邁著 文芸春秋 1986
『おんりい・いえすたでい‘60s』山崎正和著 文春文庫 1985
『現代革命論への模索』廣松渉著 新泉社 1975
『日本現代史』藤原彰、荒川章二、林博史著 大月書店 1995
『戦後再考』上野昂志著 朝日新聞社 1995
『昭和精神史 戦後編』桶谷秀昭著 文芸春秋 2000
『戦後 日本共産党私記』安東仁兵衛著 文春文庫 1995
『語られざる連合赤軍』高橋檀著 彩流社 2002
『戦後欲望史』赤塚行雄著 講談社文庫 1984
『谷川雁 革命伝説』 松本健一著 河出書房新社 1997
『安田講堂1968-1969』島泰三著 中公新書 2005
『わが解体』 高橋和巳著 河出文庫 1980