千五百七十七年 四月上旬
秀吉が抱える問題とは『静子に頼りすぎた』という点に集約される。静子は織田家相談役に就任して以降、様々な立場の人々から相談を受けていたのだが、その中でも秀吉からの問合せが突出して多かった。
自身の領地である今浜(現在の長浜)の運営に
これがため自分の施策に自信が持てず、大きな決断を迫られるたびに静子に意見を求めるようになり、その姿勢を見た織田家家中の口さがない者たちは秀吉のことを静子の操り人形だと
そうした中、ようやく播磨平定に於いて際立った成果を上げたことで秀吉が見直されつつあった。乱世に於いてはいくさ上手であるという事が非常に大きな意味を持つためだ。
こうした経緯を踏まえたうえで、有馬温泉開発に再び静子の助力を求めることは秀吉の評価を下げることになるのではないかと静子は危惧していた。
「神戸港の開発に関しては、私の発案であるため各方面に根回しをしております。しかし、当然ながらそこに有馬温泉開発は含まれておりません。突如として降ってわいた案件に私が絡むと、羽柴様の面子を潰すことになりませんか?」
神戸港は静子の
腹芸に
「確かにようやく見直されつつある兄の評価は、再び地を這うことになるやもしれませぬ……とは言え背に腹は代えられぬのです」
有馬温泉開発の結果として生み出されるであろう富は、こうした不都合を呑んでも余りある利を秀吉に齎すと秀長は判断していた。彼らは知り得ないことだが、この苦渋の決断に対して追い風となる動きもある。
「これはまだ開示されていない話になりますが、実は
「そこまで大きな話が伏せられているのは何故でしょう?」
黒田官兵衛が当然の疑問を口にした。その問いに対して静子はどう説明したものかを考えあぐね、『百聞は一見に如かず』だと判断して小姓に地図を持ってくるように命じる。少し間を置いて、この時代では異例の精度を誇る畿内から中国地方、四国を経由して九州までを描いた地図が届けられた。
静子はこれも小姓に用意させた長机一杯に地図を広げると、秀長たちにこれを見せるべく手招きした。当時の価値観に於ける地図と言えば秘中の秘であるため、官兵衛は尻込みしてしまったのだが秀長や半兵衛が応じたのを見て彼らに
「地図を見て頂ければわかると思いますが、内陸と堺とを結ぶ動線を塞いでいる栓が本願寺です。彼らが退去すれば北陸から今浜、琵琶湖を経由して宇治川、淀川を通じて内海へと出られるのです」
静子は北陸に位置する越前へと指を置き、越中と能登の間を抜け、加賀、越前を経て琵琶湖のある近江へと指を滑らせる。そのまま琵琶湖の南端から河川を辿って、途中
静子がなぞった経路は日本海側と太平洋側を結ぶ、巨大な流通経路として浮かび上がる。従来はすべてを陸路で賄うか、北回りであれば津軽海峡を抜けて大きく迂回する、もしくは南回りで関門海峡を抜けて回り込み瀬戸内海を経由する必要があった。
北陸地方こそ陸路ではあるものの、残りを水運で一直線に結ぶ新流通路は凄まじい時間の短縮を実現する。時間が短縮されればそれだけ費用を抑えることが出来、この流通路が生み出す権益は莫大なものとなることは想像に
「長宗我部殿が治める土佐に港湾を整備する理由は明確です。織田の支配圏を結ぶ流通路を面従腹背の姿勢を貫く堺に握らせる訳にはいかない。少なくとも堺を排除しても成り立つ航路を成立させるべく、尾張から紀伊を経由して土佐を結び、そこから更に遠方の
本州と四国を結ぶ瀬戸大橋や明石海峡大橋、瀬戸内しまなみ海道の本州四国連絡橋は当然この時代には存在しない。大量の陸上物流を実現する鉄道は視野に入りつつあるが、海が隔てる地域を結ぶには海運に頼るしかない。
とはいえ一人勝ちしすぎると疎まれるのは世の常であるため堺を商圏に組み込んでいるが、急所を握ったと思いあがらせないためにも他の経路を同時に開発する必要があった。
「……なるほど。既に毛利との
静子の語る言葉から官兵衛は、毛利の滅亡を確定事項としていることに気が付いた。彼女は毛利の敗北を疑っていない。多少は苦戦を強いられるかもしれないが、負けることなどあり得ないと確信している。
彼女の自信はどこから来るのかと疑問を抱いた官兵衛だが、彼女の経歴を振り返れば見当がついた。静子の上げた最大の武功と言えば武田信玄との決戦になるが、それ以外ではそもそもいくさ自体をしていない事が分かる。
更に言うならば初期の戦歴を見れば負けいくさの方が多い。それでも彼女が着実に勢力を拡大してきたことを考えれば、驚愕すべき事実が浮かび上がった。即ち『戦わずして勝つ』を体現しているのだ。
いくさに発展して切り結ぶまでもなく、それ以前の段階で決着をつけてしまい、敵対勢力の全てを併呑しているという事実に官兵衛は戦慄を覚えた。
「ええ、勿論です。皆さんは負けるつもりで戦っておられるのですか?」
「無論勝ちまする!」
秀長が少し食い気味に言葉を被せる。
「皆様が着実に勝利を積み重ねていただければ、毛利討伐はなったも同然。後はそれが早いか遅いかだけの問題にすぎません」
静子の言葉を耳にした官兵衛は、思わず竹中半兵衛へと視線を向けた。彼も彼女の真意に気付いたようで、二人はしばしの間見つめ合う。静子が語った一大流通路は単に経済圏の確立にとどまらない。
(毛利包囲網……)
この巨大商圏が成立してしまえば、毛利は四肢をもがれることになる。如何に毛利といえども、周囲を敵に囲まれた上で経済からも締め出されれば抗うことなど出来ようはずがない。
唯一織田家の支配が及ばない日本海側に出るには険しい山脈を越えねばならず、とても商売として成立しえない。この状況下に追い込まれた段階で、毛利は既に詰んでいるのだ。
「さて、本題の有馬開発についてですが、手がないわけでもありません」
「それは一体?」
「南蛮には『木を隠すなら森の中』という格言がございます。つまりはもっと大きな計画の一部に組み込んでしまえば良いのです。それを上様直々に宣言して貰えれば、私が援助する大義名分となりましょう。とはいえ溜め込んでいた金子をかなり吐き出したため、すぐにご用意できるのは一万
「一万!!」
思わず声を発してしまった官兵衛だが、続く言葉が漏れるのを無理やり抑え込んだ。彼は静子が中長期的に出資してくれるようになれば御の字だと考えていた。しかし、静子は即金で一万貫もの大金を用意すると言う。
如何に織田家の重鎮とは言え、一個人が独断で動かせる金額の範疇を超えていた。唐突に官兵衛は理解する。静子とは激流を抑え込む巨大な
「確かに上様からお墨付きを頂ければ、否と言えるものはおりますまい」
静子の協力を取り付けられそうだと判断した半兵衛はそっと胸をなでおろしていた。悪く言えば巨大商圏構築のおこぼれに
「しかし、上様へとお話を持っていくとなれば、かなりの日数を要するのでは?」
「ああ、お伝えしていませんでしたね。御心配には及びません、折よく上様がこちらにご滞在中です」
信長に会うための段取りを模索し始めた矢先に、静子が爆弾発言を放り込んできた。まさかのニアミスに静子以外の面々が顔色を悪くしたのは言うまでもない。
信長が静子邸に逗留している理由は幾つかあるのだが、そのうちの一つに新たに用意させた通信機の試験運用をすることが含まれる。静子に無理を言って役目を終えて解体を待つばかりであった検証用の通信機を使えるようにさせた。
これを安土城へと輸送させた上で尾張と安土を通信で結び、どの程度の状況把握と指示を出すことが可能となるのかを確かめているのだ。
結果は上々であり、信長は尾張の静子邸で寛ぎながらにして安土で差配しているのと大差ない状況を生み出した。この革命的な通信手段は軍事だけにとどまらず、政治や経済といった生活に直結した分野すらも一変させ得ると確信する。
とは言え問題がないわけではない。未だに片手で数えられるほどしか配備できないことからも分かるように、機材がそもそも高価であること。また通信を制御する技術者や、限られた時間でより多くの情報を正確に伝達する手順に習熟した通信手が少ないことにあった。
しかし、信長はこれら諸問題を楽観視している。日ノ本に鉄砲が伝来して以来、瞬く間に全国へと広まったように、これほどの利便性を齎す技術が支持されないわけがない。
電信は無限の可能性を秘めており、技術を独占しているがために時間を要することになるが、いずれは日ノ本各地を通信で結んだ情報網が出来上がるだろう。それには莫大な費用が必要となるが、信長にはそれらを補って余りある利益を生み出せる自信があった。
「ふむ、これで良かろう。状況が変わり次第連絡するよう伝えよ」
「ははっ!」
そう言うと信長は控えていた小姓に自ら
今頃遠く離れた安土では、掘が信長からの命令を目にしていることだろう。電信技術は未だ黎明期にあるため、通信品質が悪く男性の低い声では聞き取りづらい。そのため通信手はもっぱら女性が起用され、電信室は女性の職場となっていた。
通常であれば成立しえない状況なのだが、幸いにして尾張ならば高度な教育を受けた女性が数多く存在する。女性に学問は必要ないとされる世の中に於いて、尾張だけは特異点が如く女性の活躍し得る状況にあった。
信長はすっかり電信の世界に魅せられ、その利便性に
『一所懸命』という言葉があるように、土地に執着して命を懸ける武士にあるまじきことながら、信長は土地に対する執着を失いつつあった。
(静子が電信を秘する理由が良く判ったわ。これは恐ろしい『力』ぞ。場所と時間を超越するなぞ、神仏にしかなし得なかった空想の世界が、我が物になるのだ)
信長は一人ほくそえんでいた。彼の頭の中では通信を利用した新たな戦略が形になりつつあった。そんな折に、猛獣の唸りにも似た音が信長の腹から響く。
信長は電信に夢中になるあまり、食事をとることも忘れて没頭していた。頭は興奮で冴えわたっていたが、ろくに燃料を補給されない体が先に悲鳴を上げたのだ。何が面白かったのか、信長はくくっと笑うと小姓に命じる。
「急ぎ食事の支度を整えるよう、静子に伝えよ」
「は、ははっ!」
小姓は信長の言葉を受けるや否や、文字通りすっ飛んで行った。
「こんな中途半端な時間に……」
信長の所望を伝えられた静子は思わず頭を抱えていた。主君である信長をもてなすに当たって、当然ながら昼
時が経ち冷えてしまった料理を出すわけにもいかず、それらは既に臣下の腹に収まってしまっている。更に今は昼餐と晩餐の合間という実に中途半端な時間であり、料理人たちも賄いを食べ終わり寛いでいたところであった。
そんな折に急いで飯の支度をせよと言うのだから堪らない。通常であれば晩餐まで待つ信長が、何を思ったのか間食ではなく食事をご所望なのだ。静子は亭主としてこれに応えないわけにはいかない。
近頃とみに食への拘りを強めている信長の食事は難しい。思考が鈍るからと酒を好まない代わりに茶を求め、様々な食材に対して独自の拘りを発揮する。
基本的に濃い味を好むが、野菜類に関しては煮物・炊きものよりも蒸し料理を好んだり、かと思えば肉料理を出す際には野菜にも強い味付けを要求したりもする。食事など腹に溜まれば何でも良いと言っていたころが懐かしい。
「仕方ないか、休憩中のところ申し訳ないけれど、料理人たちに支度するよう声をかけて頂戴」
「承知しました」
腹の虫が鳴くほどに空腹だった信長は、いつになく旺盛な食欲を発揮し、出される料理を片端から平らげた。更には信長の命により定刻通り催された晩餐にも顔を出し、常と変わらぬ食事をとった。
如何に
「……私は晩餐の時刻を遅らせるか、中止すべきだと言いましたよね?」
腹痛で寝込んでいる信長に対して静子は苦言を呈する。ばつの悪い信長はそっぽを向いて布団に
流石に信長が食べ過ぎで寝込んでいるとは言えないため、静子と内密の会談を行っていることにして人払いをした奥の間に引き籠っている。
「別に腹など痛めておらぬ。貴様が心配性なだけだ」
「はいはい。判りましたから、これを飲んで下さい」
あくまでも己の非を認めようとしない信長に対し、静子は抗弁を聞き流しながら湯呑を差し出した。即効性のある胃腸薬など存在しないため、静子が差し出した湯呑の中身は大根をすりおろしたものを布で
さしもの信長も膨満感から来る吐き気には辟易していたのか、素直にこの簡易胃薬を飲み干すと再び静子に背を向けながら声をかける。
「ハゲネズミの手下が来ているそうだな」
信長の言うハゲネズミとは秀吉のことを指し、手下とは言うまでもなく秀長及び半兵衛と官兵衛を示している。猿に似ていることで有名な秀吉だが、信長は彼の貧相な顔立ちを指してハゲネズミと呼ぶこともあった。
肝心の秀長らは静子との会談の後、準備不足のまま信長に会うことを良しとせず、静子邸の一室を借りると頭を突き合わせて何事か相談を始めていた。
「今頃、上様にお話しできるよう準備をなさっているのでしょう。もう暫くはかかりそうです」
「ふん、ようやく上向いてきた流れを余程断ち切りたくないと見える。ハゲネズミはこのところ鳴かず飛ばずであったからな」
信長の言葉通り、秀吉の懐事情は芳しくない。とはいえ、これは秀吉に限った話ではなく、いくさをすればするほどに銭を失うのは世の定めであった。
いくさは軍を維持するだけで金が飛ぶように減ってゆき、たとえ領地を切り取ったとしてもそこから収益が上がるのは先の話になってしまう。辛うじて赤字を出していない光秀は稀有な手腕を持っているとさえ言えた。
「このところ安易に余剰資金を還流したため、己の統治が成功した要因だと思い込む方が増えておりまして……」
静子は東国征伐の準備をする傍ら、手元にだぶついていた余剰資金を織田領の各地でばら撒いた。
まさに外的要因によって降ってわいた好景気に気を良くした領主は、それを己の手腕によるものだと慢心する風潮が見られるようになった。
「捨て置け。その程度で勘違いする奴らは、己が痛い目を見ねば理解せぬ」
静子は己の至らなさを悔いていたが、信長は
「……良し。いずれにせよ、堺が過剰に富むのをけん制する意味でも有馬開発には意味があろう。あ奴らに金を出してやれ」
「承知しました」
「理由を問わぬのか?」
「私も上様と同様の結論を持っております。それに金を出す以上は、丸投げには致しません。是が非でも成功して頂き、そのためには口も手も出しますゆえ」
静子の言葉を聞いた信長はにやりと笑みを浮かべた。静子としても信長からの命であれば否やは無い。更に直接口にはしないものの、
静子が融資をするとなれば、窓口となるのは御用商である『田上屋』が店を出すことになる。既に全国規模の田上屋が現代で言う銀行業を担うのだ、有馬温泉の利権は既に静子が牛耳っているに等しい状態となるだろう。
「貴様のやりたいようにやってみせよ」
「お任せください」
信長の信任を受けた静子は、目線を合わせようとしない信長に深々と頭を下げて見せた。
翌日になり、秀長は静子から信長の許可を取り付けた旨を伝えられる。自分たちの頭越しに事態が進んだため秀長としては面白くないが、処世術に長けた彼はそれでも表面上を取り繕って見せた。
不満をおくびにも出さず静子に丁重な礼を告げて秀長ら一行は尾張を後にする。彼らは尾張港へと到着すると、折よく出航間近であった神戸へ向かう船に乗り込み、船上の人となった。
「我らの
秀長は甲板に出て海面を眺めながら、隣でずっと渋面を浮かべている官兵衛に話しかける。船が湾内を出て安定航行に入った処で、秀長が暇を持て余していた官兵衛を甲板に誘ったのだ。
一人残された半兵衛は船酔いしない体質を良いことに、尾張で仕入れた書物を読み込むことに決め込んだようで、秀長の誘いをやんわりと断っている。
「初期費用として一万貫。更に事業計画を策定して提出するのと併せて、半年に一度静子殿の指定する会計報告とやらを出せば、更に追加で二万貫をご融資頂ける、か」
「話が旨すぎますな。これに裏がないはずがありませぬ。それにかの会計監査というのが曲者です。我らの懐事情が筒抜けではありませぬか!」
「しかし、それを呑まねば有馬開発自体が『絵に描いた餅』となろう」
官兵衛は会計報告の見本として渡された冊子と、複式簿記の基本が記された書籍を前に絶望的な表情を浮かべる。実務に携わるつもりが無いためか、秀長は会計報告を圧倒的に甘く見ていた。
簿記を少しでも学んだ方ならお分かりになるだろうが、日本語と四則演算ができれば簿記の3級程度なら高校生レベルの学力で十分取得が可能である。しかし、戦国時代に於いては高校生相当の学力というハードルが既に相当に高いのだ。
なんだかんだと無理難題を押し付けて融資を断るつもりかと思えば、不安があるのであれば会計に明るい人員を派遣・教育まで面倒をみてくれると言う。官兵衛には静子の狙いが何処にあるのか皆目見当がつかなかった。
(読めぬ……これをすることに何の利があるというのだ?)
官兵衛が理解できないのは仕方ない面もある。会計報告というのは企業のとある基準日時点で見た際の業績評価であり、語弊を恐れずに言うならば通信簿に近い。
MG研修の
このため、統一された評価基準で事業運営を評価できる会計制度の導入を要求したのだ。これは出資者である静子のためだけでなく、経営者となる秀吉にも利のあることなのだが、商家ならぬ官兵衛にそこを理解しろと言うのは酷であろう。
「何はともあれ、良い刺激になったでしょう。して、静子殿をどう見ました?」
まるで官兵衛の心中が見えているかのようなタイミングで秀長が問いかけた。秀長が他者の心の機微を察する力に秀でていると知ってはいても、毎度驚かされてしまう。
「なんとも掴みどころの無い御仁ですな。人の上に立つものとしての覇気などは微塵も窺えぬというのに、遥か遠くを見据えているような物言いをなさる。正直底が見えませぬ」
「ふふふ。初顔合わせで見抜けるほど浅い御仁ではありませんよ。なあに、これから嫌でも長い付き合いになります。じっくりとその目で見定められるが良いでしょう」
「それにしても、海の物とも山の物ともつかぬ事業にポンと一万貫を出すなど正気の沙汰とは思えませぬ。さしもの静子殿にしても一万貫は大金でありましょう? 銭を失うことを恐れておられぬのでしょうか?」
「はした金とは申しませんが、彼女からすれば全てを失ったところでそれほど痛くないのでしょう。静子殿の本質はどこまで行っても百姓なのです。不毛の大地に挑んで種を
「種を蒔き、水をやった上で手を掛けてやらねば実りを得られぬと?」
「神戸港の事業をご覧なさい。あれこそがまさに彼女のなさりようの最たるものでしょう。種を蒔かないことには芽が出ぬのです。そうであれば種を蒔き、手を掛けてやることこそが最短だとご存じなのですよ」
まるで見透かしたように笑いながら秀長が言う。港湾を作るというのは一大事業であり、秀吉にしても豪商や有力者から資金を募っている。ところが静子はそれを単独で賄い得るのだと言うのだ。
それほどの資金力を持っているというのに、静子邸の佇まいは慎ましく、本人にも華美なところがまるでない。まるで我欲を臭わせない静子の人となりに触れて、官兵衛はそんな人間がいるものかと実に胡散臭く感じていた。
「それほどまでに資金力があるのなら、有馬の事業を乗っ取られてしまうのではありませぬか?」
「静子殿にその気があればいつでも出来るでしょうね。それゆえにこそ、決して無体な真似はなさいませんよ」
出来るからこそしないという、秀長の言い分が官兵衛にはまるで理解できなかった。秀長がすっかり静子に取り込まれてしまっているように見えた官兵衛は、己だけでも騙されまいと眉に唾する心積もりであった。
「警戒するなとは言いませんが、頭から疑ってかかると本質を見落としますよ?」
「ご忠告痛み入ります」
そう返事をした官兵衛は秀長に背を向けると船室へと戻っていった。言葉とは裏腹に態度を硬化させた官兵衛を見て、秀長は一人ほくそえんでいた。
「これは面白くなりそうですね」
秀長の呟きは船上を吹き抜ける風に乗り、誰の耳にも届くことなく消えていった。
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