開天節(建国記念日、10月3日)に続き、ハングルの日の9日にもソウル市内の光化門広場が再び封鎖された。警察のバスが動員されて「在寅(ジェイン)山城」(野党が警察バス動員を皮肉った表現)と呼ばれる車両の壁が再び築かれ、歩道には鉄製フェンスで作られた迷路のような通行路が登場した。警察官たちが待ち構え、通り過ぎる市民らに何度も身分証の提示を求めた。1980年代の軍事政権時代にも見られなかった光景だ。ある外信記者は「平壌の軍事パレードにも2回行ったが、こんなものを見るのは初めてだ」と話した。また、別の外信記者は「今のソウルは実にこっけいだ。狂っている」と語った。
ほぼ同じ時刻に光化門広場近くの駐車場では、50人以上が集まってマスクもせずにテレビドラマの撮影を行っていた。しかし、何の制裁も受けなかった。警察は「われわれは集会を阻止するだけ」と話した。人が集まったとしても、デモ隊だけに新型コロナ感染拡大のリスクがあり、別の目的で集まっていればリスクがないというのか。警察は、道を渡れば5分しかかからないのに道を封鎖し、市民たちを密閉されたシャトルバスに乗せて移動させた。真の目的が新型コロナの防疫だったなら、こんなことはしなかったはずだ。
光化門を徹底的に封鎖したその時刻に、全国の遊園地や山、ショッピングモールは連休を楽しむ市民で間違いなく混雑していた。遊園地では、入場待ちやアトラクション待ちの長い行列ができたが、来場者同士の距離確保は十分に守られていなかった。秋のハイキングを楽しむ市民たちは、マスクをきちんと着けていなかった。新型コロナウイルスが光化門にだけ存在し、反政府デモ隊だけを選んで感染・伝染するとでもいうのか。そう考えないのであれば、なぜこのような選択的対応ができるだろうか。
政府は、新型コロナ感染再拡大の責任を全て光復節の集会のせいにしたが、二つの間に明白な因果関係が認められてはいない。それにもかかわらず、軍事独裁に勝るとも劣らないやり方で集会を相次いで封鎖した。政権批判デモを「反社会的犯罪」とまで言い切った。歴代政権の警察の車壁については「民主主義を妨げる反憲法」と述べていた大統領だが、「在寅山城」については「警察が最善を尽くした」と賞賛した。防疫が完璧だったからではなく、政府批判をしっかり阻止したという意味で賞賛したのではないだろうか。同じように人が集まる場合でも、デモだけが新型コロナの感染リスクをはらんでいるかのように別の基準を持ち出す。「コロナ戒厳」「政治防疫」という批判を免れる道はない。