WEB小説 入間人間のウェブ限定小説が読めます。

PAGE1
 生きていますかと聞かれて、どう返事するか迷った。
 雅は自分の生きている部分をゆっくり、一つずつ探してみる。
 とりあえず人差し指は動くので、返信くらいはできそうだった。しかしいざ、操作しようとすると出血に視界を遮られてしまう。眉毛が血に濡れるのを強く感じる。雅はそれを拭おうとして、腕がそこまで上がらないことを知った。関節に独特の熱を帯びた左腕は息を潜めるように動かず、指だけが先走るように震えている。そうして苦労している間に、電話のライトが消えた。
 雅は息を吐いて、返信を諦める。
 考えてみると、指は動いても腕が上がらない。
 どのみち、まだ生きているとかそれくらいの状況ではあったのだ。
 人気を失ったように寂蒔が耳を包む、ビルの一角。前に僅かばかり縁のあった事務所を無断で根城として、新城雅は抗っていた。抵抗の意味も不明瞭なまま、慣れ親しんだ、『生きる』ということを実践した結果が今だった。室内には既に三人の死体が転がっている。
 一晩で三人も相手したのは初めてだ、と雅が自虐をこぼした。
 外は朝方を迎えたのか、青みかかった部屋に色彩の変化を加えていた。少し顎を上げると、小雨の音が聞こえる。閉じ切ったカーテンを透かすように、僅かな夜明けが訪れる。
 しかし日を迎えても、室内の臭いは酷くなるばかりだった。
 血は仲間へ集うように、臭いの下に流れて雅から抜け出ていく。
 六月の蒸し暑さも忘れて、首回りの寒気に震えた。
 三人目に貰った一撃が尾を引いている、と雅は思った。額を深々とえぐるような鋭い一閃を受けてから、意識が散漫としていた。立ち上がるのも億劫となり、横倒しのソファの背もたれに寄りかかるように座ってから雅は身動きできなくなっていた。
 動かないといけないことが分かっていても、ぼぅっと、意識の焦点が定まらない。
 ひどく、眠い。
 雅は少しだけ、膝枕が恋しくなった。
 時間と共に流血の幅が増していくのを、雅は目前にぼんやりと眺める。増水した川の氾濫を思い出して、その向こうでは死体が血の気を失っている。咄嗟の反撃で間一髪仕留められたのはいいものの、雅にこれ以上の抵抗は不可能だった。
 次はないと、雅自身も理解していた。
 吐息と共に剥がれかかった魂が浮いていくような錯覚を味わう。
 雅はしばし、目を瞑る。その先にはいつまでも、真っ暗闇しかない。
「……まだ、死人は見えないね」
 瞼に蓋を重ねるように、血が重い。目を再び開くだけでも手間だった。
 額がじくじくと傷を擦り合わせるように痛んで、雅の唇が不愉快そうに曲がる。
 まだ生きているのか、と思った。
 目を右に左に動かす合間に次々、別の景色が流れる。
 多くは昔のもので、その中に時折、最近見た記憶が混じる。
 雅はそれの正体を悟り、ああでも、そろそろ死ぬのかと思ったが止まらなかった。


 意識が芽生えた時、自分を必要としているのは兄だけだった。
 雅はそう記憶している。最初は、建物の影に屈んでいた。そこには屋根も明かりもなかった。
 側に寄り添うように屈んでいたのもまた、幼さを残す少年だった。その少年は多分、お前の兄だと名乗った。顔立ちが似ていたので血縁は確かに思えたが、年齢差も分からない。
 なぜ自分たちがここにいるのかは、兄にも分からないようだった。
 物陰に潜んでも、兄妹の髪は目立った。金糸のような髪は薄汚れて濁って尚、その異質なるものを隠せない。兄は額にかかるそれを邪魔そうに掻きあげながら、表通りの様子を覗いている。妹も倣って目を向けるが、時折通っていく人影くらいしか見るものはなかった。
 眺めていると、眠くなる。
 そんな妹を一瞥した兄が、軽く息を吐く。
 面倒事と向き合うように、兄は一度目を細めて。
 しっかりと正面を見据えた。
 とりあえず、生きてみよう。
 兄はそう呟き、妹を置いて通りに紛れていく。妹はついていこうか迷ったが、立ち上がると足が痛んだのでまた座り込む。足の裏を確かめると、赤黒い血が破れた皮と混じっていた。
 妹はそこで、自分が裸足だと気づいた。傷を指で不用意につついて、顔をしかめる。
 足と空を交互に見つめて、どこから来たのだろうと妹はぼんやり思った。
 しばらくすると兄が戻ってくる。兄は袋に入ったパンをいくつか抱えていた。
 その袋の上には、黒い財布も載っている。
 どうしたの? と妹は曖昧に問う。
 取ってきた。
 兄は淡々とそう言って、袋を破る。そして、妹に中身を差し出す。
 兄妹にはまだ、名前もなかった。


 最初に見た時は、やや幼い高校生ぐらいに思っていた。
 隣に座ったという理由だけで気まぐれに話してみれば、頼りない笑顔と声だけが返ってくる。
 その愚鈍さえ見え隠れする呑気な態度に、内心、嘲笑めいたものを感じてさえいた。


 思いつきは戯れの延長に過ぎなかった。