10月14日、沼津を出発し東京でM、K両青年と合流し、信越線で信州へ。御代田駅で降りて、その夜は岩村田の佐久に泊まる。
10月15日、岩村田での佐久新聞社主催の短歌会に出席し、その夜も同じホテルに泊まる。
10月16日、軽便鉄道で小諸へ出て、島崎藤村ゆかりの懐古園へ。小諸から汽車で沓掛駅へ、軽井沢の星野温泉に宿泊する。
10月17日、軽井沢駅前の蕎麦屋で昼食、草津軽便鉄道で嬬恋へ。嬬恋駅前の旅館に宿泊する。
10月18日、乗合自動車で草津温泉に向かった。
初め岩村田の歌會に出て直ぐ汽車で高崎まで引返し、其處で東京から一緒に來た兩人に別れて私だけ沼田の方へ入り込む、それから片品川に沿うて下野の方へ越えて行く、とさういふのであつたが、斯うして久しぶりの友だちと逢つて一緒にのんびりした氣持に浸つてゐて見ると、なんだかそれだけでは濟まされなくなつて來た。
当初は高崎から沼田へ、そして片品川沿いに歩く予定で会ったが、途中で予定が変更されている。牧水は、旅に出る前に綿密な計画を立てるのが楽しみだったようで、岩村田から先の計画が変更されなったら、暮坂峠を越えることはなく、「枯野の旅」は生まれなかった。 |
■10月14日、佐久 2017/10/26
K-5Ⅱs
十月十四日午前六時沼津發、東京通過、其處よりM―、K―、の兩青年を伴ひ、夜八時信州北佐久郡御代田驛に汽車を降りた。同郡郡役所所在地岩村田町に在る佐久新聞社主催短歌會に出席せんためである。驛にはS―、O―、兩君が新聞社の人と自動車で出迎へてゐた。大勢それに乘つて岩村田町に向ふ。高原の闇を吹く風がひし/\と顏に當る。佐久ホテルへ投宿。
牧水が宿泊した佐久ホテルは佐久市岩村田にある。創業は室町時代の1428年。 |
玄関から少し離れた右手に、「白玉の~」の歌碑がある。 |
玄関左手に井泉水の句碑。和羅那布流遊幾通毛留わらやふるゆきつもる |
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■10月16日、小諸、星野温泉
2017/10/26-17 K-5Ⅱs
翌朝は早く松原湖へゆく筈であつたが餘り大勢なので中止し、輕便鐵道で小諸町へ向ふ事になつた。同行なほ七八人、小諸町では驛を出ると直ぐ島崎さんの「小諸なる古城のほとり」の長詩で名高い懷古園に入つた。そしてその壞れかけた古石垣の上に立つて望んだ淺間の大きな裾野の眺めは流石に私の胸をときめかせた。過去十四五年の間に私は二三度も此處に來てこの大きな眺めに親しんだものである。ことにそれはいつも秋の暮れがたの、昨今の季節に於てであつた。
「千曲川旅情のうた」の詩碑は昭和2年の建立なので、牧水がおとずれたときにはなかった。
「浅間の大きな裾野の眺め」は二の丸跡からだろうと思うが、今はこんな風に見える。
牧水は明治43年・26歳の時に小諸に滞在したが、その時に読んだ歌が二の丸の石垣に刻まれている。
急に千曲川の流が見たくなり、園のはづれの嶮しい松林の松の根を這ひながら二三人して降りて行つた。林の中には松に混つた栗や胡桃が實を落してゐた。胡桃を初めて見るといふK―君は喜んで濕つた落葉を掻き廻してその實を拾つた。まだ落ちて間もない青いものばかりであつた。久しぶりの千曲川はその林のはづれの崖の眞下に相も變らず青く湛へて流れてゐた。川上にも川下にも眞白な瀬を立てながら。
園内の水の手展望台からは、千曲川がこのように見える。牧水の頃にはどう見えただろうか。 |
驛で土地のM―君と松本から來てゐたT―君とに別れ、あとの五人は更に私の汽車に乘つてしまつた。そして沓掛驛下車、二十町ほど歩いて星野温泉へ行つて泊ることになつた。
星野温泉には、与謝野鉄幹・晶子の詩碑と北原白秋の「落葉松」の詩碑があるが、牧水の歌碑はない。 |
星野温泉付近は紅葉の見ごろをむかえていた。 |
「落葉松」の八節目を刻んだ詩碑。 |
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世の中よあはれなりけり。常なれどうれしかりけり。山川に山がはの音、から松に落葉松のかぜ。信州にてうたへる 白秋 |
■10月17日、草軽鉄道 2017/10/26
K-5Ⅱs
我等の小さな汽車、唯だ二つの車室しか持たぬ小さな汽車はそれからごつとんごつとんと登りにかゝつた。曲りくねつて登つて行く。車の兩側はすべて枯れほうけた芒ばかりだ。そして近所は却つてうす暗く、遠くの麓の方に夕方の微光が眺められた。
疲れと寒さが闇と一緒に深くなつた。登り登つて漸く六里が原の高原にかゝつたと思はれる頃は全く黒白もわからぬ闇となつたのだが、車室には灯を入れぬ、イヤ、一度小さな洋燈(を點したには點したが、すぐ風で消えたのだつた。一二度停車して普通の驛で呼ぶ樣に驛の名を車掌が呼んで通りはしたが、其處には停車場らしい建物も灯影も見えなかつた。漸く一つ、やゝ明るい所に來て停つた。「二度上」といふ驛名が見え、海拔三八〇九呎と書いた棒がその側に立てられてあつた。
草軽鉄道は新軽井沢から草津温泉まで55.5kmの路線で、1915年に開業し1962年に廃線となった。
文中に出てくる二度上(にどあげ)は新軽井沢から20kmほど所にある駅。
当時の駅舎が残っているのは北軽井沢駅のみで、新軽井沢と草津温泉の中間よりやや南にあった。 |
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■10月18日、草津温泉
草津ではこの前一度泊つた事のある一井旅館といふへ入つた。私には二度目の事であつたが、初めて此處へ來たK―君はこの前私が驚いたと同じくこの草津の湯に驚いた。宿に入ると直ぐ、宿の前に在る時間湯から例の佗しい笛の音が鳴り出した。それに續いて聞えて來る湯揉みの音、湯揉みの唄。
浴客がすべて裸體になり幅一尺長さ一間ほどの板を持つて大きな湯槽の四方をとり圍みながら調子を合せて一心に湯を揉んでゐるのである。そして例の湯揉みの唄を唄ふ。先づ一人が唄ひ、唄ひ終ればすべて聲を合せて唄ふ。唄は多く猥雜なものであるが、しかもうたふ聲は眞劍である。全身汗にまみれ、自分の揉む板の先の湯の泡に見入りながら、聲を絞つてうたひ續けるのである。
草津にこの時間湯といふのが六箇所に在り、日に四囘の時間をきめて、笛を吹く。それにつれて湯揉みの音が起り、唄が聞えて來る。
たぎり沸(くいで湯のたぎりしづめむと病人(つどひ揉めりその湯を
湯を揉むとうたへる唄は病人(がいのちをかけしひとすぢの唄
上野(の草津に來り誰も聞く湯揉の唄を聞けばかなしも |
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かつての一井旅館はコンクリート造りになって湯畑の前にある。 |
湯畑からの湯が流れ落ちる池はエメラルドグリーン。 |
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■10月19日、小雨村
正面に淺間山が方六里に渡るといふ裾野を前にその全體を露はして聳えてゐる。聳ゆるといふよりいかにもおつとりと双方に大きな尾を引いて靜かに鎭座してゐるのである。朝あがりのさやかな空を背景に、その頂上からは純白な煙が微かに立つてやがて湯氣の樣に消えてゐる。空といひ煙といひ、山といひ野原といひ、すべてが濡れた樣に靜かで鮮かであつた。濕つた地(をぴたぴたと踏みながら我等二人は、いま漸く旅の第一歩を踏み出す心躍りを感じたのである。地圖を見ると丁度その地點が一二〇八米突(の高さだと記してあつた。
とりどりに紅葉した雜木林の山を一里半ほども降つて來ると急に嶮しい坂に出會つた。見下す坂下には大きな谷が流れ、その對岸に同じ樣に切り立つた崖の中ほどには家の數十戸か二十戸か一握りにしたほどの村が見えてゐた。九十九折(になつたその急坂を小走りに走り降ると、坂の根にも同じ樣な村があり、普通の百姓家と違はない小學校なども建つてゐた。對岸の村は生須村、學校のある方は小雨(村と云ふのであつた。
九十九折(けはしき坂を降り來れば橋ありてかかる峽の深みに
おもはぬに村ありて名のやさしかる小雨(の里といふにぞありける
蠶飼(せし家にかあらむを壁を拔きて學校となしつ物教へをり
學校にもの讀める聲のなつかしさ身にしみとほる山里過ぎて
草津から草津高原を越えて、小雨村、現在の中之条町旧六合村の小雨に出た。ここは草津からの国道292号線が通っているが、草津高原経由の方が距離は短い。牧水は、小雨から暮坂峠を越える予定であったが、道標を見て気が変わり、花敷温泉へ向かう。草津から花識温泉へ直接行くのであれば、国道252号線を行き、荷付場から国道405号線を北上した方が近い。
小雨にある六合村第1小学校前の歌碑。「おもはぬに」と「学校に」のふたつの歌が並んでいる。
六合村にある歌碑は、ふたつの歌が刻まれている歌碑が多い。 |
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■10月19日、生須(なます)村
牧水は、小雨から暮坂峠を越える現在の県道55号線に入った。ここでは、たくさんの歌が詠まれている。
生須村を過ぎると路はまた單調な雜木林の中に入つた。今までは下りであつたが、今度はとろりとろりと僅かな傾斜を登つてゆくのである。日は朗らかに南から射して、路に堆い落葉はからからに乾いてゐる。音を立てゝ踏んでゆく下からは色美しい栗の實が幾つとなく露はれて來た。多くは今年葉である眞新しい落葉も日ざしの色を湛へ匂を含んでとりどりに美しく散り敷いてゐる。をりをりその中に龍膽(の花が咲いてゐた。
枯れし葉とおもふもみぢのふくみたるこの紅ゐをなんと申さむ
露霜のとくるがごとく天つ日の光をふくみにほふもみぢ葉
溪川の眞白川原にわれ等ゐてうちたたへたり山の紅葉を
もみぢ葉のいま照り匂ふ秋山の澄みぬるすがた寂しとぞ見し
帽子に肩にしつとりと匂つてゐる日の光をうら寂しく感じながら野原の中の一本路を歩いてゐると、をり/\鋭い鳥の啼聲を聞いた。久し振りに聞く聲だとは思ひながら定かに思ひあたらずにゐると、やがて木から木へとび移るその姿を見た。啄木鳥である。一羽や二羽でなく、廣い野原のあちこちで啼いてゐる。更にまたそれよりも澄んで暢びやかな聲を聞いた。高々と空に翔(ひすましてゐる鷹の聲である。
落葉松(の苗を植うると神代振り古りぬる楢をみな枯らしたり
楢の木ぞ何にもならぬ醜(の木と古りぬる木々をみな枯らしたり
木々の根の皮剥ぎとりて木々をみな枯木とはしつ枯野とはしつ
伸びかねし枯野が原の落葉松は枯芒よりいぶせくぞ見ゆ
下草のすすきほうけて光りたる枯木が原の啄木鳥(の聲
枯るる木にわく蟲けらをついばむと啄木鳥は啼く此處の林に
立枯の木々しらじらと立つところたまたまにして啄木鳥の飛ぶ
啄木鳥の聲のさびしさ飛び立つとはしなく啼ける聲のさびしさ
紅ゐの胸毛を見せてうちつけに啼く啄木鳥の聲のさびしさ
白木なす枯木が原のうへにまふ鷹ひとつ居りて啄木鳥は啼く
ましぐらにまひくだり來てものを追ふ鷹あらはなり枯木が原に
耳につく啄木鳥の聲あはれなり啼けるをとほく離(り來りて
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県道55号線旧六合村総合グランド入口の小高い所には、地元の人たちの歌碑が並んでいるが、その中に牧水の歌碑が2基ある。
左はつづらおりはるけき山路登るとて路に見てゆくりんだうの花と「紅ゐの胸毛を見せて」の歌が刻まれている。
右は「もみぢ葉のいま照り匂ふ」の詩碑。 |
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県道55号線の暮坂峠には木製や石造りの歌碑が並んでいる。
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牧水清水。「みなかみ紀行」の一節と「渓流の」が刻まれた石碑。 |
湯の平温泉口の「枯れし葉と」「渓流の」の歌碑。si |
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ずつと一本だけ續いて來た野中の路が不意に二つに分れる處に來た。小さな道標が立てゝある。曰く、右澤渡温泉道、左花敷温泉道。
枯芒を押し分けてこの古ぼけた道標の消えかゝつた文字を辛うじて讀んでしまふと、私の頭にふらりと一つの追憶が來て浮んだ。そして思はず私は獨りごちた、「ほゝオ、斯んな處から行くのか、花敷温泉には」と。
牧水は、草津から渋峠を越えた時に、「高い崖の眞下の岩のくぼみに湧き、草津と違つて湯が澄み透つて居る故に、その崖に咲く躑躅や其の他の花がみな湯の上に影を落す、まるで底に花を敷いてゐる樣だから花敷温泉といふのだ」ということを聞いていた。暮坂峠で花敷温泉の道標を見た牧水は同行の士を説得して、花敷温泉へ向かう。道標には「二里半」と書かれていて、約9km。
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暮坂牧場近くの花敷温泉への分岐点にある歌碑。
「夕日さす」と「音さやぐ」の歌が刻まれている。 |
少し県道を進んだところに真新しい歌碑があった。
笹原の笹の葉かげに咲き出でて色あはつけきりんだうの花 |
■10月19日、引沼村 |
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今までよりは嶮しい野路の登りとなつてゐた。立枯の楢がつゞき、をりをり栗の木も混つて毬と共に笑みわれたその實を根がたに落してゐた。
夕日さす枯野が原のひとつ路わが急ぐ路に散れる栗の實
音さやぐ落葉が下に散りてをるこの栗の實の色のよろしさ
柴栗の柴の枯葉のなかばだに如(かぬちひさき栗の味よさ
おのづから干て搗栗(となりてをる野の落栗の味のよろしさ
この枯野猪(も出でぬか猿もゐぬか栗美しう落ちたまりたり
かりそめにひとつ拾ひつ二つ三つ拾ひやめられぬ栗にしありけり
芒の中の嶮しい坂路を登りつくすと一つの峠に出た。一歩其處を越ゆると片側はうす暗い森林となつてゐた。そしてそれが一面の紅葉の渦を卷いてゐるのであつた。北側の、日のさゝぬ其處の紅葉は見るからに寒々として、濡れてもゐるかと思はるゝ色深いものであつた。然し、途中でやゝこの思ひ立ちの後悔せらるゝほど路は遠かつた。一つの溪流に沿うて峽間を降り、やがてまた大きな谷について凹凸烈しい山路を登つて行つた。十戸二十戸の村を二つ過ぎた。引沼村といふのには小學校があり、山蔭のもう日も暮れた地面を踏み鳴らしながら一人の年寄つた先生が二十人ほどの生徒に體操を教へてゐた。
先生の一途なるさまもなみだなれ家十ばかりなる村の學校に
ひたひたと土踏み鳴らし眞裸足に先生は教ふその體操を
先生の頭の禿もたふとけれ此處に死なむと教ふるならめ
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花敷温泉の南、引沼の集落に「若山牧水・旅の路」という標識があ
り、立ち寄ってみると引沼3部作の真新しい詩碑があった。
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花敷温泉に着くとすぐに露天風呂に入り、その夜は関晴館に宿泊した。関晴館は現在休業中だった。
溪向うもそゝり立つた岩の崖、うしろを仰げば更に膽も冷ゆべき斷崖がのしかゝつてゐる。崖から眞横にいろいろな灌木が枝を張つて生ひ出で、大方散りつくした紅葉がなほ僅かにその小枝に名殘をとゞめてゐる。それが一ひら二ひらと絶え間まなく我等の上に散つて來る。見れば其處に一二羽の樫鳥が遊んでゐるのであつた。
眞裸體になるとはしつつ覺束な此處の温泉(に屋根の無ければ
折からや風吹きたちてはらはらと紅葉は散り來(いで湯のなかに
樫鳥が踏みこぼす紅葉くれなゐに透きてぞ散り來わが見てあれば
二羽とのみ思ひしものを三羽四羽樫鳥ゐたりその紅葉の木に
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■10月20日、花敷温泉から沢渡温泉経由四万温泉へ
未明に起き、洋燈の下で朝食をとり、まだ足もとのうす暗いうちに其處を立ち出でた。驚いたのはその、足もとに斑らに雪の落ちてゐることであつた。慌てゝ四邊(を見廻すと昨夜眠つた宿屋の裏の崖山が斑々として白い。更に遠くを見ると、漸く朝の光のさしそめたをちこちの峰から峰が眞白に輝いてゐる。
ひと夜寢てわが立ち出づる山かげのいで湯の村に雪降りにけり
起き出でて見るあかつきの裏山の紅葉の山に雪降りにけり
朝だちの足もと暗しせまりあふ峽間(の路にはだら雪積み
上野と越後の國のさかひなる峰の高きに雪降りにけり
はだらかに雪の見ゆるは檜(の森の黒木の山に降れる故にぞ
檜の森の黒木の山にうすらかに降りぬる雪は寒げにし見ゆ
昨日の通りに路を急いでやがてひろびろとした枯芒の原、立枯の楢の打續いた暮坂峠の大きな澤に出た。峠を越えて約三里、正午近く澤渡温泉に着き、正榮館といふのゝ三階に上つた。此處は珍しくも双方に窪地を持つた樣な、小高い峠に湯が湧いてゐるのであつた。無色無臭、温泉もよく、いゝ湯であつた。
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「ひと夜寝て」の歌碑。 |
花敷温泉へはバスが走っている。 |
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暮坂峠の牧水詩碑。「みなかみ紀行」の中では暮坂峠については詳しく触れていないが、「枯野の旅」という詩を残した。 |
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「みなかみ紀行」には書かれていないが、暮坂峠から沢渡温泉への途中、大岩学校で校庭で遊ぶ子供たちを見て詠んだという歌が2首、歌集「山櫻の歌」に収録されている。明治12年(1879)の建造の旧大岩学校は中之条町の文化財に指定され牧水会館として保存されている。
人過ぐと 生徒等はみな 走せ寄りて 垣よりぞ見る 学校の庭の
われもまた かかりき村の 学校に この子等のこと 通る人見き |
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■10月21日、中之条から沼田へ |
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■10月22日、法師温泉 関連サイト法師温泉長寿館
吹路(といふ急坂を登り切つた頃から日は漸く暮れかけた。風の寒い山腹をひた急ぎに急いでゐると、をりをり路ばたの畑で稗や粟を刈つてゐる人を見た。この邊では斯ういふものしか出來ぬのださうである。從つて百姓たちの常食も大概これに限られてゐるといふ。かすかな夕日を受けて咲いてゐる煙草の花も眼についた。小走りに走つて急いだのであつたが、終(に全く暮れてしまつた。山の中の一すぢ路を三人引つ添うて這ふ樣にして辿つた。そして、峰々の上の夕空に星が輝き、相迫つた峽間(の奧の闇の深い中に温泉宿の燈影を見出した時は、三人は思はず大きな聲を上げたのであつた。
がらんどうな大きな二階の一室に通され、先づ何よりもと湯殿へ急いだ。そしてその廣いのと湯の豐かなのとに驚いた。十疊敷よりもつと廣からうと思はるゝ湯槽が二つ、それに滿々と湯が湛へてゐるのである。そして、下には頭大の石ころが敷いてあつた。乏しい灯影の下にづぶりつと浸りながら、三人は唯だてんでに微笑を含んだまゝ、殆んどだんまりの儘の永い時間を過した。のびのびと手足を伸ばすもあり、蛙の樣に浮んで泳ぎの形を爲すものもあつた。
左が本館、右が牧水も入った法師之湯のある建物。どちらも国登録有形文化財、このむこうにある別館も国登録有形文化財。
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本館。 |
川を挟んで別館。 |
ここの立ち寄り入浴受付は10時半から1時半まで。入浴料大人1000円。
法師之湯に入ったが、設備が古いので何だか落ち着かなかった。1泊してゆっくり時間があればもっと違っていたかもしれない。
温泉から国道へ車を走らせていたら、三国街道永井宿という石碑は目にとまった。三国街道は中山道高崎宿から、湯沢、長岡などを経て日本海沿いの寺泊に至る街道である。永井宿郷土館に庭に、牧水の歌碑があった。歌集「山櫻の歌」に収録されていて、永井村で詠んだとされている。
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永井宿の立派な造りの旅館。 |
山かげは日暮れ早きに学校のまだ終らぬか本読む声す |
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■10月23日、湯宿温泉
うす闇の殘つてゐる午前五時、昨夜の草鞋のまだ濕つてゐるのを穿きしめてその溪間の湯の宿を立ち出でた。峰々の上に冴えてゐる空の光にも土地の高みが感ぜられて、自づと肌寒い。
湯の宿温泉まで來ると私はひどく身體の疲勞を感じた。數日の歩きづめとこの一二晩の睡眠不足とのためである。其處で二人の青年に別れて、日はまだ高かつたが、一人だけ其處の宿屋に泊る事にした。 |
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牧水が泊まった金田屋旅館は国道沿いにある。 |
金田屋の前には「みなかみ紀行」の一節が刻まれた石碑がある。 |
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金田屋前の石碑には、長男旅人の筆で次のように刻まれている。
わたしのひとり旅は わたしのこころの旅であり 自然を見つめる 一人旅でもある
湯宿温泉に牧水の歌碑があるはずだが見逃した。 |
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■10月24日、沼田
夜、宿屋で歌會が開かれた。二三日前の夜訪ねて來た人たちを中心とした土地の文藝愛好家達で、歌會とは云つても專門に歌を作るといふ人々ではなかつた。みな相當の年輩の人たちで、私は彼等から土地の話を面白く聞く事が出來た。そして思はず酒をも過して閉會したのは午前一時であつた。法師で會つたK君も夜更けて其處からやつて來た。この人たちは九里や十里の山路を歩くのを、ホンの隣家に行く氣でゐるらしい。 |
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■10月25日、老神温泉
路はずつと片品川の岸に沿うた。これは實は舊道であるのださうだが、故(らに私はこれを選んだのであつた。さうして樂しんで來た片品川峽谷の眺めは矢張り私を落膽せしめなかつた。ことに岩室といふあたりから佳くなつた。山が深いため、紅葉はやゝ過ぎてゐたが、なほ到る處にその名殘を留めてしかも岩の露はれた嶮しい山、いたゞきかけて煙り渡つた落葉の森、それらの山の次第に迫り合つた深い底には必ず一つの溪が流れて瀧となり淵となり、やがてそれがまた隨所に落ち合つては眞白な瀬をなしてゐるのである。歩一歩と醉つた氣持になつた私は、歩みつ憩ひつ幾つかの歌を手帳に書きつけた。
きりぎしに通へる路をわが行けば天つ日は照る高き空より
路かよふ崖のさなかをわが行きてはろけき空を見ればかなしも
木々の葉の染まれる秋の岩山のそば路ゆくとこころかなしも
きりぎしに生(ふる百木(のたけ伸びずとりどりに深きもみぢせるかも
歩みつつこころ怯ぢたるきりぎしのあやふき路に匂ふもみぢ葉
わが急ぐ崖の眞下に見えてをる丸木橋さびしあらはに見えて
散りすぎし紅葉の山にうちつけに向ふながめの寒けかりけり
しめりたる紅葉がうへにわが落す煙草の灰は散りて眞白き
とり出でて吸へる煙草におのづから心は開けわが憩ふかも
岩蔭の青渦がうへにうかびゐて色あざやけき落葉もみぢ葉
苔むさぬこの荒溪の岩にゐて啼く鶺鴒(あはれなるかも
高き橋此處にかかれりせまりあふ岩山の峽(のせまりどころに
いま渡る橋はみじかし山峽の迫りきはまれる此處にかかりて
古りし欄干(ほとほととわがうちたたき渡りゆくかもこの古橋を
いとほしきおもひこそ湧け岩山の峽にかかれるこの古橋に
老神(温泉に着いた時は夜に入つてゐた。途中で用意した蝋燭をてんでに點して本道から温泉宿の在るといふ川端の方へ急な坂を降りて行つた。宿に入つて湯を訊くと、少し離れてゐてお氣の毒ですが、と言ひながら背の高い老婆が提灯を持つて先に立つた。どの宿にも内湯は無いと聞いてゐたので何の氣もなくその後に從つて戸外へ出たが、これはまた花敷温泉とも異つたたいへんな處へ湯が湧いてゐるのであつた。手放しでは降りることも出來ぬ嶮しい崖の岩坂路を幾度か折れ曲つて辛うじて川原へ出た。そしてまた石の荒い川原を通る。その中洲の樣になつた川原の中に低い板屋根を設けて、その下に湧いてゐるのだ。 |
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■10月26日、
老神温泉を出発
起きて見ると、ひどい日和になつてゐる。
「困りましたネ、これでは立てませんネ。」
渦を卷いて狂つてゐる雨風や、ツイ溪向うの山腹に生れつ消えつして走つてゐる霧雲を、僅かにあけた雨戸の隙間に眺めながら、朝まだきから徳利をとり寄せた。止むなく滯在ときめて漸くいゝ氣持に醉ひかけて來ると、急に雨戸の隙が明るくなつた。
「オヤオヤ、晴れますよ。」
さう言ふとK君は飛び出して番傘を買つて來た。私もそれに頼んで大きな油紙を買つた。そして尻から下を丸出しに、尻から上、首までをば僅かに兩手の出る樣にして、くるくると油紙と紐とで包んでしまつた。これで帽子をまぶかに冠れば洋傘はさゝずとも間に合ふ用意をして、宿を立ち出でた
この時に詠んだのが下記の歌である。
かみつけの とねの郡の 老神の 時雨ふる朝を 別れゆくなり
相別れ われは東に 君は西に わかれてのちも 飲まむとぞおもふ
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牧水が老神温泉で泊まったのは現在の牧水苑。 |
片品川にかかる牧水橋の西側に「かみつけのとねの郡の」の歌碑。 |
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沼田市舒林寺の番傘歌碑。
同行のK君と別れる前に、番傘に即興の歌をしたためた。その番傘をかたどった碑で、2首の歌が番傘に刻まれている。
黒い石板に添え書きがある。
若山牧水は大正十一年「みなかみ紀行」の旅に奥利根を訪れた。友人との別れに際し、番傘に酔筆をはしらせた。その複製を歌碑とする
牧水会は發起人代表生方誠の遺志により当山に建立す。
牧水生誕百年記念
昭和六十一年十月二十日
番傘の歌建立の会識 |
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■10月26日、吹割の滝 関連サイト吹割滝
獨りになつてひた急ぐ途中に吹割の瀧といふのがあつた。長さ四五町幅三町ほど、極めて平滑な川床の岩の上を、初め二三町が間、辛うじて足の甲を潤す深さで一帶に流れて來た水が或る場所に及んで次第に一箇所の岩の窪みに淺い瀬を立てゝ集り落つる。窪みの深さ二三間、幅一二間、その底に落ち集つた川全體の水は、まるで生絲の大きな束を幾十百綟ぢ集めた樣に、雪白な中に微かな青みを含んでくるめき流るゝ事七八十間、其處でまた急に底知れぬ淵となつて青み湛へてゐるのである。淵の上にはこの數日見馴れて來た嶮崖が散り殘りの紅葉を纏うて聳えて居る。見る限り一面の淺瀬が岩を掩うて流れてゐるのはすが/\しい眺めであつた。それが集るともなく一ところに集り、やがて凄じい渦となつて底深い岩の龜裂の間を轟き流れてゆく。岩の間から迸り出た水は直ぐ其處に湛へて、靜かな深みとなり、眞上の岩山の影を宿してゐる。土地の自慢であるだけ、珍しい瀧ではあつた。
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■10月26日、千明(ちぎら)家
そろそろ暮れかけたころ東小川村に入つて、其處の豪家Cを訪うた。明日下野國の方へ越えて行かうとする山の上に在る丸沼といふ沼に同家で鱒の養殖をやつてをり、其處に番小屋があり、番人が置いてあると聞いたので、その小屋に一晩泊めて貰ひ度く、同家に宛てゝの紹介状を沼田の人から貰つて來てゐるのであつた。主人は不在であつた。そして内儀から宿泊の許諾を得、番人へ宛てゝの添手紙を貰ふ事が出來た。
豪家Cとは千明家のことであり、茅葺きの家に民具などを展示して千明美術館として公開していたが、おとずれたときは閉館になっていた。したがって、庭にあるという牧水の歌碑を見ることができなかった。
しめりたる 落ち葉を踏みて わが急ぐ 向かひの山に 燃ゆるもみぢ葉 |
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立派な門構えの千明家。 |
かつての母屋だろうか、茅葺きの家が残っている。 |
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■10月26日、白根温泉
村を過ぎると路はまた峽谷に入つた。落葉を踏んで小走りに急いでゐると、三つ四つ峰の尖りの集り聳えた空に、望(の夜近い大きな月の照りそめてゐるのを見た。落葉木の影を踏んで、幸に迷ふことなく白根温泉のとりつきの一軒家になつてゐる宿屋まで辿り着くことが出來た。 |
国道沿いにある白根温泉。
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白根魚苑の牧水歌碑。
時知らず此処に生ひたち枝張れる老木を見ればなつかしきかも |
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■10月27日、大尻沼、丸沼
澤を行き盡すと其處に端然として澄み湛へた一つの沼があつた。岸から直ちに底知れぬ蒼みを宿して、屈折深い山から山の根を浸して居る。三つ續いた火山湖のうちの大尻沼がそれであつた。水の飽くまでも澄んでゐるのと、それを圍む四邊(の山が墨色をしてうち茂つた黒木の山であるのとが、この山上の古沼を一層物寂びたものにしてゐるのであつた。
その古沼に端なく私は美しいものを見た。三四十羽の鴨が羽根をつらねて靜かに水の上に浮んでゐたのである。思はず立ち停つて瞳を凝らしたが、時を經ても彼等はまひ立たうとしなかつた。路ばたの落葉を敷いて飽くことなく私はその靜かな姿に見入つた。
登り來しこの山あひに沼ありて美しきかも鴨の鳥浮けり
樅黒檜(黒木の山のかこみあひて眞澄める沼にあそぶ鴨鳥
見て立てるわれには怯ぢず羽根つらね浮きてあそべる鴨鳥の群
岸邊なる枯草敷きて見てをるやまひたちもせぬ鴨鳥の群を
羽根つらねうかべる鴨をうつくしと靜けしと見つつこころかなしも
山の木に風騷ぎつつ山かげの沼の廣みに鴨のあそべり
浮草の流らふごとくひと群の鴨鳥浮けり沼の廣みに
鴨居りて水(の面(あかるき山かげの沼のさなかに水皺(寄る見ゆ
水皺寄る沼のさなかに浮びゐて靜かなるかも鴨鳥の群
ほよそに風に流れてうかびたる鴨鳥の群を見つつかなしも
風たてば沼の隈囘(のかたよりに寄りてあそべり鴨島の群
さらに私を驚かしたものがあつた。私たちの坐つてゐる路下の沼のへりに、たけ二三間の大きさでずつと茂り續いてゐるのが思ひがけない石楠木(の木であつたのだ。深山の奧の靈木としてのみ見てゐたこの木が、他の沼に葭葦の茂るがごとくに立ち生うてゐるのであつた。私はまつたく事ごとに心を躍らさずにゐられなかつた。
沼のへりにおほよそ葦の生(ふるごと此處に茂れり石楠木の木は
沼のへりの石楠木咲かむ水無月(にまた見に來むぞ此處の沼見に
また來むと思ひつつさびしいそがしきくらしのなかをいつ出でて來む
天地(のいみじきながめに逢ふ時しわが持ついのちかなしかりけり
日あたりに居りていこへど山の上の凍(みいちじるし今はゆきなむ
昂奮の後のわびしい心になりながら沼のへりに沿うた小徑の落葉を踏んで歩き出すと、程なくその沼の源とも云ふべき、清らかな水がかなりの瀬をなして流れ落ちてゐる處に出た。そして三四十間その瀬について行くとまた一つの沼を見た。大尻沼より大きい、丸沼であつた。
沼と山の根との間の小廣い平地に三四軒の家が建つてゐた。いづれも檜皮葺の白々としたもので、雨戸もすべてうす白く閑ざされてゐた。不意に一疋の大きな犬が足許に吠えついて來た。胸をときめかせながら中の一軒に近づいて行くと、中から一人の六十近い老爺が出て來た。C家の内儀の手紙を渡し、一泊を請ひ、直ぐ大圍爐裡の榾火(の側に招ぜられた。 |
大尻沼と丸沼の境にある丸沼堰堤(ダム)は国重要文化財。ダムの建
設により水位が上がり、牧水が泊まった養鱒場は水没した。 |
丸沼。
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■10月28日、菅沼、金精峠
長い坂を登りはてるとまた一つの大きな蒼い沼があつた。菅沼と云つた。それを過ぎてやゝ平らかな林の中を通つてゐると、端なく私は路ばたに茂る何やらの青い草むらを噴きあげてむくむくと噴き出てゐる水を見た。案内人に訊ねると、これが菅沼、丸沼、大尻沼の源となる水だといふ。それを聞く私は思はず躍り上つた。それらの沼の水源と云へば、とりも直さず片品川、大利根川の一つの水源でもあらねばならぬのだ。
ばしやばしやと私はその中へ踏みこんで行つた。そして切れる樣に冷たいその水を掬み返し掬み返し幾度となく掌に掬んで、手を洗ひ顏を洗ひ頭を洗ひ、やがて腹のふくるゝまでに貪り飮んだ。
草鞋を埋むる霜柱を踏んで、午前十時四十五分、終(に金精(峠の絶頂に出た。眞向ひにまろやかに高々と聳えてゐるのは男體山であつた。それと自分の立つてゐる金精峠との間の根がたに白銀色に光つて湛へてゐるのは湯元湖であつた。 |
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菅沼。 |
金精峠から見た男体山と湯ノ湖。 |
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