第85話
リィメイ学長はワインをもう一杯注文し、グラスを傾けながら堪能していた。
テンジと千郷は食後のデザートであるアイス乗せふんわりパンケーキをパクパクと食べている。
そこでリィメイ学長が徐に口を開いた。
「そういえばもう24階層を攻略らしいわね」
「うん、私たち……というかテンジくんの目標は75階層への到達だからね」
「あら? 千郷ちゃんは目指さないの?」
「目指さないよ。だって、私がここに来たのってテンジくんを独占的に育てるためだもん。だから、私は一度も戦うつもりはないよ。全部、テンジくんが一人でやるの。私は後ろで見ているだけ」
「ふぅ~ん……そんなにこの子が大事?」
「大事というか……なんだろうね。私はテンジくんの行く末を傍で見てみたいだけかも。あんまり深くは考えたことないから難しいけど」
不意に、リィメイ学長の鋭い視線がテンジを襲う。
さすがに現役零級探索師に睨まれて、全身を縮こませるテンジであった。
(あぁ、トイレに逃げたい……)
テンジは、リィメイ学長が自分のすべてを知っているのだと勘違いしている。
実際にはリィメイはテンジという人間が「千郷の弟子で、リオンが目にかける子」程度の認識でしかないのだ。
というのも、千郷があえて天職の情報を誤認させているところがあった。
――ちょっと変な天職なんだよね、テンジくんって。剣士って出るけど、剣士じゃないんだ。まぁ、だから面白いんだけど。
千郷がリィメイに伝えた言葉だ。
それだけの言葉でテンジの留学を許可したリィメイも大層な親バカ具合なのだ。千郷にだけは異常なほどに甘いリィメイである。
だから、テンジが特級天職という唯一無二の天職を持っていることを、リィメイはまだ知らない。……はずなのだが、リィメイは薄々テンジという異物には気が付いていた。
このレストランで初めて天城典二という人間を見て、彼女は心の底からぞわりと悪寒のような何かを感じ取っていたのだ。
それが何かを探るように、リィメイは腹黒い瞳をテンジへと向けた。
「ねぇ、天城典二くん。君……『九王』って言葉聞いたことある?」
不意に、リィメイ学長はテンジへと話を振った。
(九王? ……地獄では十王なんて言葉があるけど、九王は聞いたことないな。でも、なんでそんな質問をするのだろうか)
「いえ、ないですね。九王ってなんですか?」
「あら、知らないのね。少し残念だわ。うーん、どうしましょう……そんなに知りたい?」
「ま、まぁ」
「いいわよ。でも、今から聞くことはできるだけ心の内に留めておくのよ?」
リィメイほどの人間がそう言うということは、おそらく凄いことが話されるのだろうとテンジは思った。
千郷はすでにその話を知っているのか、気にせずにパンケーキをパクパクと食べている。
テンジがごくりと息を飲んだ。
「とはいっても、知ってる人は知ってる話なのだけどね。この世界に九人の王が現れるとき、何かが起こるらしいのよ。まぁ、私も良くわからないのだけどね」
「何かって……曖昧ですね」
「そうね。でも、その兆しはもう見え始めているのよ」
「兆し……もしかして冬喜くんですか? 幻獣王、黒鵜冬喜」
「そうね、彼も日本人だったわね。確信はないのだけれど『幻獣王』なんて、いかにも九王の人柱らしい名前じゃない? いつかその日をこの瞳で見られればいいのだけれど……さすがにその時は私も死んでるわよね」
少し、リィメイ学長は顔に影を落として悲しんだ。
なんと言えばいいのかわからなくなったテンジは、口を閉ざした。生きてますよと言うのは違うし、安易に大丈夫なんて言葉も掛けられない。
寿命とは人の終わりだ。例え零級探索師だろうと、寿命と言う怪物には勝てない。
――九の王が現れるとき、何かが起こる。
テンジはこの言葉に妙に心打たれていた。
身近な友達が持つ『幻獣王』といういかにも王様らしい天職もそうだが、テンジの閻魔の書の最初のページに書かれた『王と成れ』という達筆な一文。
この文字だけは、例え千郷と言えど誰にも話したことはない。これだけは自分の中に押しとどめておくことにしていたのだ。
(僕が九王の一人だという可能性? ……いや、まさかね。でも、今度調べてみようかな)
自分には関係ないと思いたい。
それでも自分に無関係だということは絶対にないのだと、薄々気が付く。
九王、初めて聞く単語だけにどこかわくわくしていた。
「あら? そろそろ学長室に戻らないとイロニカに怒られてしまうわ」
リィメイ学長は時計を見て、冷静に呟いた。
すぐに近くの給仕を呼びつけ、お会計を持ってくるように伝える。十秒も経たずに給仕が綺麗な仕草で戻ってきて、リィメイ学長に重厚な伝票を渡す。
「あっ、私たちの分は私たちが……」
当たり前のようにテンジたちの分も払おうとしたリィメイ学長に、千郷が慌てて声を掛け、支払い用のカードデバイスを取り出す。
しかし、リィメイ学長はそっとカードデバイスを返す。
「いいのよ、お婆ちゃんのお節介よ? 子供たちのお金を払うのが年寄りの仕事なのよ。そのお金はもっと違うことに使いなさい」
さらりとカッコいいことを言ってしまった。
そうして支払いを済ませると、リィメイ学長は優雅な所作で立ち上がる。
「じゃあ、先に失礼するわね。ダンジョン攻略頑張ってね、二人とも。私は75階層で待っているわ」
「はい、ごちそうさまでした」
「うん、待ってて! また一緒に食べようね」
最後にリィメイ学長はふふふと笑って、レストランを後にしたのであった。
その後、二人もパンケーキを食べ終えてしまうと、家へとゆっくり帰り始めるのであった。
† † †
レストランの帰り道。
外はすでに真っ暗で、街並みに見合わない現代の科学的な街灯が、中世の街並みを綺麗に輝かせている。メイン通りは夜でも車や人通りはあるものの、街の郊外の住宅街にはこの時間ほとんど人影は見えない。
そんな夜道でテンジはとぼとぼと二人で歩きながら、気になっていたことを千郷に投げかけてみた。
「千郷ちゃんは九王の話知ってた?」
「知ってるよ? というか知ってるも何も、九王の話に一番詳しいのは世界でもリオンだからね」
「えっ? そうなの?」
ここにはいない百瀬リオンの名前が挙がったことに、テンジは驚いていた。
千郷はその後も、当たり前のように答える。
「なんだっけなぁ……十年前くらいかな? リオンがロシアのメインダンジョンを攻略したのは知ってる?」
「うん、確かノリリスク三等級ダンジョンだよね? 教科書に載ってたよ、日本人の零級探索師が世界で二例目のメインダンジョン攻略者になったって」
元々世界には50のメインダンジョンが存在していた。
それが今では三つのメインダンジョンが攻略され、47個へと減っているのだ。その内、一つのメインダンジョン攻略をやってのけたのが百瀬リオンという人間である。
それも、たった一人で。
「そうそう、そこの最終階層のボス部屋に『九王』の文字が刻まれてたんだって。最初は協会にその資料を持ち込んだらしいんだけど、なんでかもみ消されたらしいよ? それからリオンは九王について、独自の研究を始めたんだ」
リオンという探索師の知らなった情報が、千郷の口から教えられた。
元々リオンは名前や容姿すら、ほとんどの人は知らない極秘中の極秘的存在である。
これは少し異例で、リィメイ学長ですら一応写真の一枚や二枚は出回っているのだが、リオンだけが世界でマスメディアさえ知らない人物なのだ。
その他の二人の零級探索師は、むしろ目立ちたがり屋でメディアにばんばんと出ている。
そんな未知数なリオンが、九王について熱心な研究を行っていることを、テンジは初めて知った。
「零級探索師だから、もっとダンジョン攻略に躍起になっているのかと思ってた」
「あはは、リオンは全然ダンジョン攻略に興味ないからねぇ~。あれはゲームか、女の子か、寝ることか、九王についてしか考えていないおじさんだよ」
千郷はさらりとリオンのことをおじさん扱いする。
こんなことをできるのは、世界でも千郷くらいなものだろう。他の探索師ならば、一歩引いて話をしたり、緊張して話をすることすらできないのだから。
「今度、話を聞いてみようかな? できるかな?」
「何? テンジくんも九王について気になるの?」
「うん、ちょっとだけね」
「……あっ、でも今はリオンと連絡つかないや」
「そうなの?」
「うん、なんでも忙しいらしいよ? 珍しくね。どこかのダンジョンに籠ってるんじゃないかな?」
どうやら今すぐにリオンから『九王』についての話は聞けないようだ。
そのことについて少し残念に思いつつも、テンジは冬喜にでも聞いてみようかと考える。
「さぁ、家についた~。もう寝たい~」
そんな話をしていると、二人は家の前へと辿り着いていた。
千郷がすぐにカードデバイスで鍵を開けると、家の中に土足のまま入っていく。そのままリビングのソファにどしんとうつ伏せに倒れ伏した。
「テンジくん、先にお風呂入っていいよ~」
「千郷ちゃんは?」
「私はここで少しぐだるので」
「はーい、じゃあお先にお風呂貰いまーす」
こうして、テンジのマジョルカでの一日が終わる。
朝は千郷の朝ごはんを作り、午前はマジョルカエスクエーラでの講義を二つ受ける。
その後、千郷とマンツーマンでのダンジョン攻略が始まる。
こんな生活をかれこれ一週間近く続けていた。
そのおかげもあって、テンジのレベルはもうすぐ2へと上がりそうであった。