第75話
「お待たせ~」
こちらに向かってくる千郷が若干早足に変わり、相も変わらず買ったばかりの出来立てほやほやなマフィンに齧り付いている。
ときどき右手に持つミルク入りの何かのドリンクを飲み、のどに詰まらないように調整しているようだ。
周囲の男どもは、ぷるんと揺れる大きな双丘に目をくぎ付けにされていた。
「その飲み物は?」
「これ? あそこのマフィンのお店特製のブレンドティーが入ったミルクだって。美味しいよ? ちょっと飲む? ちょっとだけだよ?」
「へぇ~、そんな美味しそうなものあったなんて知らなかったな。ちょっとちょうだい」
冬喜は探索師の卵であるので間接キスなんて気にしない性格だ。もちろん千郷もだ。
それでもいつもよりも少しだけ千郷の傍に寄り、自分ではドリンクを持たず千郷が持ったカップのストローに直接口を付けて、ちょこっとだけ飲む。
「どう? 私、ここのミルク好きかも」
「うん、美味しいよ。俺も今度からここで買おうかな」
「えへへ~、いいでしょう。私が見つけたんだからね!」
「はいはい、千郷ちゃんは凄いよ」
そんな甘い会話をする二人を、テンジは傍から優しく見守っていた。
さすがに恋愛未経験で、未だに初恋すらしたことのないテンジでも、この一週間で冬喜の気持ちには気が付いていた。
たぶん、冬喜が初めて完封されたあの日からだろう。少しずつ冬喜は千郷にアピールをするようになった。その優しい瞳も、千郷と平凡な会話をしている時だけは恋をしている瞳に変わる。
しかし、千郷はやはり千郷なのだ。
天然で、いつもぽけーっとしている。まだ冬喜の気持ちには当たり前のように気が付いてはおらず、日々のマジョルカをのんびりと楽しんでいる。
「二人とも、もういいの?」
千郷は立ち上がって準備万端と表情で語る二人に聞いた。
テンジはすでにアイアンソードを肩ではなく手で持っている。もちろんまだ街中なので武器袋には入れたままではあるのだが。
冬喜はあまり武器を使わないタイプであり、両手にはリオンからプレゼントされたという指なしの黄色いグローブを着用している。
普通ならば防具アイテムはこの世に存在しないのだが、冬喜のそれは少し特殊で、アイテム扱いされる貴重な効果を持っているらしい。
(確か、運動性能が格段に向上するんだっけ。それとスキルで鋭利で半透明な刃もだせるらしいよね……まだ僕は見たことないけど)
世の中には学生ではあまり知らないような面白い物がたくさん眠っているんだなぁ、と思わず感心してしまうテンジであった。
千郷が言っていたことだが、そのアイテムをオークションに出品するならば何十億はくだらない高価な値が付くらしい。
そんなものをプレゼントと言って、ぽんと渡せるリオンも凄い。
「うん、俺は準備万端だよ。というか朝からちょっと動きすぎたかな? ははっ」
「冬喜くんが朝から家に来て『稽古をつけてくれ』なんて言うんだもん。朝は力加減できないんだよね~」
「ははっ、確かにぼこぼこにされちゃったな」
冬喜の服装には所々に土埃のような汚れが目立つ。
おそらく力加減のできない朝の千郷に、何度も何度も家の庭で転ばされてできた汚れなのだろう。
逆に千郷の体には汗や汚れ一つ見当たらなく、二人の才能の差を間近で感じてしまう。
「テンジくんは?」
「僕も大丈夫だよ。そもそも毎朝自転車で走ってるから、軽くストレッチできれば十分だよ」
「そっか、それじゃあ行こうか。みんなより少し遅れちゃったしね」
すでに周囲には生徒や教師の姿は無くなっており、この日本人班しか残ってはいなかった。
というのも、のんびりと買い物をしていた千郷のせいでもあるのだが、ここには千郷を責めるバカ男はいなかった。
三人は千郷の歩幅に合わせて転移ゲートの方へと進んでいく。
扉の半分が白く、半分が黒いゲート。その周囲にいくつもの噴水が並んでおり、そこは一種のアートのような空間だ。頂点には水瓶を持った裸の女性の彫刻が乗っかっている。
その噴水の周りの地面にはいくつかの陣が刻まれており、その陣の一つに立つ。
「――11階層へ」
千郷は両手に一杯のマフィンを持っているため、二人で千郷の肩に手を置く。
そうして目的の階層を口頭で唱えると、カッと三人の体が光り輝いた。
瞬き。
気が付けば、彼らは第11階層の森林エリアにいた。
そこはどこにでもあるような森林空間で、どこか富士の樹海のような様相を持っている。
地面に這う極太な蔦に、背の高い木々、ツンと香る濃い自然の香り、マイナスイオンたっぷりの新鮮な空気。そして日本で言うと六月くらいのちょうどいい気候が延々と続く季節感。
この第11階層は非常に日本人にとっては過ごしやすい空間だ。
逆に、赤道付近や北極付近から留学で来ている外人たちにとっては、少し過ごしづらい場所らしい。
そこで千郷は手に残っていたマフィンの欠片をぱくりと飲み込む。
「それじゃあ、人目の少ない場所に行こっか。それまでは冬喜くん主体でよろしくね」
「了解した」
「うん、了解」
小鬼たちを召喚するには、人目に付かないダンジョンフィールドの奥地に向かう必要がある。
そこまでテンジは体を休め、冬喜が全てのモンスターに対応する。
冬喜もこんな低階層で自分を高められるとは思っておらず、正直に言うと消化試合のようなものである。
そうして、三人は巨大な楕円型フィールドの端に向かって進み始めるのであった。
† † †
地面に這う巨大な蔦を飛び越え、ざわざわと木霊する木の葉の擦れる音を聞きながら、テンジたちは第11階層フィールドの端の方へと辿り着いていた。
このマジョルカにあるダンジョンは大きく二つに分けることができる。
第1階層から第5階層までは危険も非常に少なく、五等級モンスターが主な出現タイプのため『マジョルカリゾートダンジョン』と呼ばれることが多い。その名の如く、リゾート感の強いダンジョンということだ。観光客に対して、ツアーを行っていることも知られている。
そして第六階層から、現在の最高到達階層である第75階層までをマジョルカダンジョンと、単に呼ぶ。
第六階層以下からはいわゆる普通のフィールド型ダンジョンであり、おおよそ長辺の最大距離が20km、短辺の最大距離が15km前後の楕円型フィールドである。
もちろん平坦なんてことはなく、山のように凹凸しているフィールドや、この第11階層のように階層の全てが深い森で覆われ、先を見通せないようなフィールドも存在する。
こういった視界の通らないフィールドでこそ、テンジは自分の能力を遺憾なく発揮できるようになるのだ。
そんなテンジの事情を汲み取り、冬喜も付き合ってくれる形で一緒に班を組んでいる。
「あっ、前方800m先から一体来るね」
冬喜が当たり前のように索敵を行い、結果を二人に伝えた。
「何?」
「マキスネークだね。この体を擦る独特な音は間違いないよ」
冬喜は耳を澄ましてそう言った。
そんな冬喜の頭部には、人間にはないはずの猫のような耳が生えていた。それがちょこちょこと音に反応して動く様は、少し愛らしく思える。
黒鵜冬喜は零等級天職《幻獣王》という、現役の探索師の中でも七人しかいないと言われている零等級天職を持つ青年である。
未だに発展途上のため、探索師等級は二等級であるのだが、ポテンシャルだけで言えば零級探索師と言われている。それでもこの一年ですでに一級探索師レベルの実力を備えたと噂されている。
《幻獣王》はその名の通り、元々地球にいた動物でもない、それこそモンスターでもない『幻獣』と呼ばれる生き物の能力を複数扱う天職だ。
今、冬喜が使っているのは幻獣『アントレアキャット』という猫型の能力である。
耳の感覚器官が非常に優れており、数キロ先の音を聞き分けられるらしい。その他にも速度がいつもの何倍も速くなり、体の柔軟性が蛸のようにグニャグニャとなるとか。
攻撃力自体はそこまで高くないが、見通しの悪い環境では非常に役に立つ幻獣能力だ。
「あっ、久しぶりに冬喜くんのあれ見せてよ!」
「あれ?」
「そうそう、スナイパーみたいに打ち抜くやつ!」
「あぁ、『シャドースナイパー』のこと? あれかぁ……ちょっとカッコつけてるみたいであんまり好きじゃないんだよね」
「えぇ!? 僕はあれかっこよくて好きだよ!」
「そ、そう? じゃあ、人目もないし今回だけね」
冬喜は少し困ったように苦笑いを浮かべながら、瞳を輝かせて待つテンジと千郷の要望に応えることにした。
ふぅと息を吐くと、その瞬間に頭に生えていたふさふさ耳や尾てい骨から生えてた二本の猫尻尾が掻き消える。同時に猫目も普通の人間の目へと戻っていく。
そうして再び集中するように息を吐くと、冬喜の纏っている雰囲気が一変する。
「――幻獣王が望む、『シャドースナイパー』よ」