ルカによる福音書1章37節
「神にできないことは何一つない。」
神が、全能であることの信仰告白である。
「全能」とは、「どんなことでもできること。完全無欠な能力。」(デジタル大辞泉)のこと。キリスト教(ユダヤ教、等)は、「全知全能の神」をその信仰対象としている。
ここで、面白いのは、「全能の逆説」(全能のパラドックス)と言う問題がある。
<以下、Wikipediaによる>。
基本的な問題は、「全能者は自ら全能であることを制限し、全能でない存在になることができるか」。
古典的な例として、「全能者は<重すぎて何者にも持ち上げられない石>を作ることができるか」と言う問いである。
神学の回答として、「伝統的には、神は全知・全能・全善として理解されてきた。・・・神が全能であれば、神は人間に悪いことをできる自由を与えると同時に、悪いことをできない不自由を与えることが出来る。極端な例を上げれば、全能者は自分を、”永遠にいかなる意味でも存在しない”ようにすることはできない。
全能である神は、世界を愛する必要もない(バルトの考え)。神が世界を愛するなら、そうするように自分で決断したからであって、神はそれ以外でもあり得る。何故なら、存在するために何かを愛する必要がある者
――
何かを愛することで存在可能な者
――
は、全能ではないからである。」
哲学の回答として、「存在が偶発的に全能である場合は、逆説は解消できる。全能者は自分に持ち上げられない石(あるいは分割できない原子など)を作る。全能者はその石を持ち上げられず、全能でない者になる。本質的に全能である者と違い、偶発的に全能である者は全能でない者になることが可能である。しかし、ここで問題が生ずる。その全能者は本当に全能だったのか、それとも単に強大な能力を持っていただけだったのか。
存在が本質的に全能である場合は、逆説は解消できる。その全能者は本質的に全能である、故に全能でない者になることはできない。さらに、全能者は論理的に不可能なことをすることはできない。全能者が持ち上げられない石を創造することは、上記の論理的不可能性にあたる。故に全能者がそのようなことを要求されることはない。全能者はそのような石を創造することはできないが、それでも尚全能性を保つ。
一部の哲学者は、全能性の定義にデカルトの観点を含めればこの逆説は解消するという姿勢を崩していない。その観点とは全能者は論理的に不可能なことをなし得るというものである全能者は論理的に不可能なことをすることができる。全能者は自らが持ち上げられない石を作ることができる。全能者は次いでその石を持ち上げる。」
<以上、(Wikipedia)による>
神が全能であるということは、思弁では説明できない、「科学」と「宗教・信仰」の違いの問題である。
いずれにしても、全能である主体、主語は神であり、例えば、人間、財産(金銭)、等がそれにとって代わることはできないのである。
屁理屈爺
大阪のとあるキリスト教会のタダの牧師
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「まいにちきせき」
「あやまつは人の常、ゆるすは神の業」
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