第13話
恐怖で強張ったテンジの脇腹を噛み千切り、これみよがしに目の前でぐちゃりぐちゃりと咀嚼音を響かせるブラックケロベロス。
テンジは何もできなかった。
痛みは感じるし、熱さとも寒さとも感じられる感覚は確かにあった。
しかし、それ以上に目の前にいる圧倒的強者からの恐怖で感覚が麻痺していたのだ。
目と鼻の先で自分の肉がゴクリと飲み込まれた。
「グロォォォオッ!」
ブラックケロベロスは虫でも弾くように、テンジの鳩尾に前蹴りをしようと足を振り上げる。
テンジは成すすべもなくその一撃を食らい、腹に強烈な痛みが走った。
この時ようやく、テンジは痛みという感覚を思い出した。
(あぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ゛!? 痛ッッッッッッッッッッ!?)
その痛みを取り戻した瞬間、自分の腹が食いちぎられたことに気が付いた。
失神しそうなほどの強烈な一撃を腹にもらったことに気が付いた。
次の瞬間には、ダンジョンのごつごつとした壁に背中から激しく衝突した。
ボキボキ、と鳴ってはならない音が自分の体内から聞こえ、食道から熱い何かがこみ上げてきた。
それを思わず口から吐き出す。
「ゴホッ!? ……血」
出てはならない量の血反吐だった。
それが自分の口から零れ出たことにも驚いたが、不思議と死ぬことを怖く思っていない自分自身の心にも驚いていた。
――ああ、今日死ぬんだな。
それぐらいの気持ちだった。
今に思えば、テンジは父と母がダンジョンで亡くなったことを知った時から、死ぬことを怖がらなくなっていたのかもしれない。
ダンジョンには、人の「死」が付きものだ。だから、いつ死んでもいいと思うようになっていたのだ。
ただ――。
「――ああ、僕にもっと力があれば」
テンジの口からは自然とそんな言葉が零れ出た。
もっと力があれば、妹の真春にひもじい思いをさせなかったかもしれない。
もっと力があれば、レイドで誰も死なずに済んだかもしれない。
もっと力があれば、こんな状況で死ななかったかもしれない。
もっと力があれば――。
母さんが小さい頃によく読んでくれた王様のように、たった一人の力で多くの人を救えたかもしれない。
「ふざけるな! ふざけるな! ふざけるな!」
テンジは怒っていた。
自分を裏切った人たちに、何もできない自分に、弱さを笑ってごまかそうとする自分に、目の前の犬に恐怖している自分に、この世の不条理なすべてに。
その怒りをぶつけるように、目の前にいたブラックケロベロスの頭を殴り続けた。
殴って、殴って、殴って……それでも瞬き一つしない敵を目の前にして、今の自分がどう足掻いても勝てないことを悟った。
ただテンジの掠れゆく世界の中で、モンスターの赤い瞳だけが、まるで太陽のような光を持って神々しく輝いていた。
「僕に天職さえあれば――」
こいつに勝てたかもしれない。
誰にも負けない、絵本に出てくる王様のような強さが僕にあれば……。
そこでテンジはふと気が付いたように、不敵な笑みを浮かべた。
「なぁ……その瞳を喰ったら、強くなれるのかな?」
掠れゆく視界の中でたった一つ、テンジを肯定するように光り輝いていた赤い二つの明かり。
それを見てテンジは、なぜか美味しそうに見えた。
暗闇の中で光る飴玉。
死を意識して気が狂ったのかもしれないが、テンジにはそんな風に見えていた。
腕を伸ばそうとも届かない。
だったら――。
「直接喰ってやる」
テンジは驚くほど自然な動作でふらりと動き出し、目の前で悠然とテンジの肉を咀嚼していたブラックケロベロスの瞳に歯を立てた。
そのまま抉り取るように、齧りついた。
「グロォォォォォォォォオッ!?」
ブラックケロベロスの咆哮が響き渡った。
「くっそ……まずいな」
くちゃくちゃ、とテンジは赤い瞳を噛み砕き、喉の奥へと無理矢理押し込んでいく。
触感はいくらのようで、腐った鮎のような味のその瞳は、テンジの胃の中へと納まった。
「グロォォォォォオッ!!」
喰っていたはずの自分が、逆に喰われたのだと気が付いたブラックケロベロスはダンジョンが揺れるほどの怒りの咆哮を上げた。
そして、怒り狂ったままテンジの横腹を蹴り飛ばした。
すでに体に力の入らないテンジは、為す術もなく地面をボールのように何度も転がり、ごつごつとした岩肌の壁へと激突した。
「……ゴホッ」
その衝撃を最後に、テンジの意識は暗闇の中へと引きずり込まれていった。
…………。
………………。
《天職クエスト『十王への道』のクリアを確認しました》
《クリア者を検索――確定しました。クリア者『天城典二』、計一名》
《天城典二へ、天職『
《特級天職ギフトその一を自動消費し、損傷の修復を行います。――周囲50m以内に怒り状態のモンスターが存在するため実行できません》
《特級天職ギフトその二を自動消費し、周囲のモンスターの排除を実行いたします》
《特級地獄獣『
《ただちにモンスターの排除を実行してください。天城典二の死まで、残り12秒……11秒……10秒……》
テンジの意識は微かに残っていた。
それでも誰かが何かを喋っているくらいにしか聞こえておらず、目の前に赤い何かがいるくらいにしかわかってはいなかった。
「……くひっ……どこだここ」
酒に酔ったような間抜けな声を出したのは、酒呑童子だった。
元々テンジに与えられるはずであった特級天職ギフトの一つを行使して、一時的に未来の力を使用することで、この地獄獣を呼び出したのだ。
酒呑童子の瞳は、純粋な白色をしていた。
「グロォォォオッ」
その様子を見ていたブラックケロベロスが威嚇の唸り声をあげ、全身の黒い毛をゆらゆらと逆立てた。
しかし、酒呑童子はそんなのお構いなしに手に持っていたひょうたんの中身をぐびぐびと飲み干していく。
《酒呑童子はただちにモンスターの排除を実行してください》
「くひっ……あ?」
《酒呑童子はただちにモンスターの排除を実行してください。残り7秒》
「くひっ……あぁ、なるほど。これってもしかして主が力を前借して、召喚したパターンか。はいはい、目障りな犬っころを殺せばいいんだな?」
《酒呑童子はただちにモンスターの排除を実行してください。残り6秒》
「わかってるよ、うるせぇなぁ。殺しゃ、いいんだろ?」
酒呑童子が面倒くさそうにぷはぁと息を吐いた。
その瞬間、ブラックケロベロスが酒呑童子に飛びついた。
「くひっ……目障りだぞ」
「グロォォ……ォォオ」
酒呑童子は特に力む動作をせずに手刀一本で、ブラックケロベロスの体を縦から真っ二つに斬り裂いていた。
「ちっ、早く帰しやがれ。もう仕事はやったぞ。ちょうどさっきまで
《モンスターの排除を確認しました。酒呑童子を地獄へ帰還させます》
誰かがそう言うと、酒呑童子の足元に白色に淡く輝く門が出現する。門はすでに半開き状態であり、門の間には溶岩のような赤黒に光る油膜のような空間が広がっていた。
酒呑童子はその油膜に溺れるかのように、ゆっくりと沈んでいく。
どうやらこの門が地獄と繋がっているらしい。
帰りの間際、酒呑童子は死に掛けのテンジに向かって小さく呟いた。
「未来の主よ。早く強くなれ、俺はずっと待っている」
その言葉を残し、酒呑童子はこのダンジョンから消えた。同時に白い門も閉ざされ、空中に掻き消えていく。
何もいなくなったダンジョンの中は、テンジの微かな息の音だけが静かに鳴っていた。
《特級天職ギフトその一を自動消費し、損傷の修復を行います》
《――完了。天城典二の体は万全であると判断されました》
《天城典二へ、天職『獄獣召喚』の付与を実行します》
《完了》
再びダンジョンは静まり返った。