第11話
テンジは眠りについている探索師たちを起こさないよう、足音を立てずに人影のない場所を目指していた。
ダンジョンでのトイレ事情は意外とシンプルだ。
ゴミや糞尿なんかは、その場に放置しておけば三分と立たずに地面に吸収されていく。
そのため簡易トイレを荷物として持ち歩く探索師はほぼいない。稀に潔癖意識の強い探索師は持ち歩くのだが、それは本当に例外である。
テンジは早速良さげな暗がりにあるダンジョンの窪地を発見し、そこでトイレを済ませた。
「ふぅ、スッキリした」
テンジはさっさと排尿を終えると、すぐにレイドに合流するべく駆け足で戻り始めた。
この第51階層のダンジョンは思いの外、視界が悪い。
本来であれば、等間隔に発光する物体が存在するのがこの御茶ノ水ダンジョンの特徴なのだが、40階層を過ぎてからはほんのりと明るいだけで、足元なんかはほとんど見えていなかった。
つるり、と何かに足を取られて滑った。
「うわっ!?」
テンジは油のような何かに足を取られ、どてんと地面に尻もちをついてしまった。
臀部に衝撃が走ると、びちゃりと音がした。
「痛っ」
咄嗟に地面へと着いた手に、液体のような何かがどろりと付着したのがわかった。
テンジは不思議に思いながらも、その場に座り込んで両手を顔へと近づけ確認する。
「なんだろう、これ。暗くて……ん? なんか鉄臭い?」
暗くて、手に着いた何かはよく見えなかった。ただちょっと鉄臭さを感じた。
不思議に思いながらもベルトに引っ掛けていた簡易ライトを手に取り、くるりと持ち手を回すことで明かりを灯した。
「――ッ!?」
視界が照らされたその瞬間、テンジは声にもならない悲鳴を上げていた。
ライトが照らしたその先には、人間の死体が折り重なって山を作っていた。
八人だ。
八人の死体が折り重なるように、小さな山を築いていたのだ。
全員が腹に大きな穴を開けられ、力なくぐったりと四肢を重力に従って下げていた。
ドロリととろみのある赤い液体が山の中から垂れ落ち、地面に小さな赤沼を作っていた。
その八人の顔を見て、テンジの胃から熱い何かがせりあがってきた。
慌てて口元を抑えるも、気持ち悪さの衝動には勝てなかった。
「オェ……オロロロロロロッ……」
地面の血池に、テンジの胃物がぴちゃりと落ちた。
折角の配給された食料を、目の前の光景に耐え兼ねて吐き出してしまったのだ。
もう一度顔を上げ、テンジは目を疑った。
「う、嘘だよね……。も、藻岩さん? 大山さん? 神田さん? 麻生さん? ね、ねぇ……返事、返事をしてくださいよ、みなさん」
もちろん死体が喋るはずもなく、ただただ血がぽたりと地面に落ち、ゆっくりと血池を広げていくだけであった。
彼らの目からはすでに生気が無くなり、明らかに死んでいたのだ。
ようやくテンジは現実を受け止め、その事実に気が付いた。
その瞬間、テンジは慌てて立ち上がった。
(近くにモンスターがいる可能性が高い!? 早く戻らないと!)
血沼に足を取られそうになりながら、テンジは必死に駆け出した。
大声を出すのは最悪だ。周囲のモンスターたちを呼び寄せてしまうかもしれないから。探索師の常識であって、探索師高校でも学ぶ知識である。
テンジは咄嗟の判断で叫ぼうとした自分の口を塞ぎ、みんなのいる場所に辿り着くまでは絶対に声を出してはいけないと思った。
しかし、その判断はすでに遅かった。
「シャァァァァァアッ!」
「うわぁ!?」
白い糸に足を絡めとられ、大きく態勢を前のめりにさせられたのだ。
態勢を完全に崩してしまい、膝や頬を地面に擦りつけながら地面へと倒れ込む。
テンジはまだ見えぬモンスターを視界に捉える前に、咄嗟に大きく息を吸って口を開いていた。
響くよう届くように、腹から声を出した。
「五道さん! 助けて!」
その大声はダンジョン内に大きく響き渡り、何度か反響したのち、テンジの耳に木霊して戻ってくる。
そして五道たちの耳にも微かにテンジの叫び声が聞こえていた。
「どうした、テンジくん!?」
「モ、モンスターが!」
すぐに返ってきた安心感のある渋い声に、テンジは慌てて飛びついた。
そしてずるりずるりと奥へ足を引きずられる中、その白い糸がテンジの口元をぐるぐる巻きにして拘束した。
驚きのあまりテンジは大きく目を見開き、必死に体を動かすことで抵抗していた。
「どこだ!?」
「むーっ、むーっ」
声を出そうにも、顎からすべての動きを塞がれてしまい、思うような声を出せなかった。
それでも五道にとっては十分な振動だった。
すぐに周囲の探索師の声を掛け、テンジの元へと駆けだしたのだ。
そして、テンジと元凶のモンスターを視界に捉える。
「右城っ!」
「わかってます! 『
右城は自分の足に強力なバフ効果を与え、刹那の時間でテンジの元へと辿り着いた。
そのまま水色の蛇腹剣を、テンジに巻き付いていた白い糸へと振り下ろし、切断することに成功したのであった。そこに五道たちが追い付く。
「おい、大丈夫か!?」
五道は焦りを見せながらも、すぐにテンジの口に巻き付いてた粘着性のある糸を力づくで引きちぎった。
ぷはぁ、と息を吸った後に、テンジは慌てて言った。
「見張りの探索師たちが! し……」
「し? なんだ!?」
「し……死んでます。もしかしたらモンスターに!」
「な、なんだと?」
五道はテンジの言葉に耳を疑った。
見張りの探索師たち、つまり今の時間はチャリオットの正規メンバーを中心としてチームを組んでいたはずだと。
それも今回参加しているメンバーの中では、かなり古株でやり手の探索師たちだ。
(嘘だと信じたいが……もしテンジくんの言ったことが本当なら?)
五道は最初、動揺を見せたもののすぐに冷静さを取り戻していた。
さすがの五道正樹というところだろうか、長年の経験が彼を現実へと引き戻したのだ。
そこで右城が「どうしますか?」と、モンスターとテンジの間に入って五道に聞いた。
「みんな! 一旦、引くぞ!」
「「「はい!」」」
そうと決まれば、彼らの行動は早かった。
すぐに糸で絡めとられていたテンジを五道が抱き上げ、他の探索師たちがその周囲をサポートできる立ち位置につき、来た道を戻るように駆けだしたのだ。
幸いなことにモンスターの足はそれほど速くはなく、どんどんと距離を突き放していく。
そして暗い一本道を抜けると、そこにはドーム型にぽっかりと拓けた休憩場所があった。
「全員、ただちに起きろっ! 敵襲だ!」
五道はその場に着くや否や、今までに聞いたことがないほどの大声で叫んだ。
すでにテンジの叫び声で起き始めていた探索師たちは、五道の焦っている様を見て、すぐに隊列を組み直し、戦闘態勢を取った。
五道はすぐにテンジを稲垣累の足元に下ろし、「テンジくんの糸を解け!」と指示を出すのであった。
その間にも敵襲に対する隊列は組み終え、今か今かとモンスターの敵襲に構えていた。
「テンジくん、分かる限りの情報を!」
「は、はい! 見張りの八名が死体となって放置されていたところを見つけ、そこでモンスターに襲われました! 八名全員のお腹に大きな穴が開いているのを見ました! 攻撃手段は粘着性の高い糸かと! それ以外は何もわかりません!」
「いい、十分だ! 全員聞いたか? 火だ! 火系統のスキルがあるやつが、率先して攻撃を加えていけ!」
「「「「了解!」」」」
全員が返事をしたちょうどその時、この場にモンスターが姿を現した。
蜘蛛だ。
牛ほどはありそうな巨体に、八本の足と八つの目。全身が光の反射しない黒い毛並みで覆われ、威嚇するように尖った口元を開いている。
その瞳の四つは黄色に輝いており、もう四つは赤色に輝いていた。
その姿を見て、五道の表情が一層険しいものへと変わった。
「全員、本気を出せよ……こいつは一等級に足を踏み込んでいるぞ」
その蜘蛛型モンスターは、レイドの最高等級天職を持つ五道正樹よりもさらに一等級上である、一等級モンスターに半分足を突っ込んでいる強力なモンスターだったのだ。