歴史が「幾多の他の方向に進むべき機会」を語り始める時
表町通信〈十月〉鎌田哲哉
(前回の続き)もちろん、韓国基地平和ネットワークの人々が、これらの事実に直接言及しているわけでない。だから、何がシン・ジェウクの言う「歴史」=「傷跡」の核心か。それに触れた先月の記述は全て私の臆断にすぎない。それを断った上で続ければ、本土の軍人が沖縄で朝鮮の人々に行使し、沖縄の地元住民までがそれに加担した暴力、それは一定程度、日本全土で無数に、同型的に反復されていたようにみえる。具体的に北海道では、朝鮮の人々だけでなく、「華人」と呼ばれた中国の人々までが、道内各地の炭鉱や発電所建設の現場で、同じく苛酷な労働と耐え難い飢餓を強いられていた。朝鮮人労働者の場合、それは一九三九年の国民徴用令が拡大適用される過程で、北海道の多数の地域で繰り返された光景だと言える。しかもそれを監督し指揮したのは、当人自身が食いつめ、土地を追われて津軽の速潮を越えてきた、貧しい日本人の「職制」なのだ。
これらは単に活字上の知識でなかった。まだ小学生の頃、私を含めて同級の何人かは、祖父母に直話で一連の経緯を聞かされていた。その昔語りが婉曲だったとしても、初めて接した「長い足跡」に怯えて、私達が即座に全てを忘れたとしても、それはやがて次の直観を結晶させずにいなかった。――「戦争」と「平和」は少しも別のものでない。「戦争」が始まったというだけで、人々が「平和」時の卑劣に気付いて突然それを改め、せめて平等に生活を脅かされ、せめて平等にその死を死んでゆく。物事は絶対にそのようには進まない。全く逆に、「戦争」は完全に「平和」と地続きのもの、後者の歪みを圧縮し加速するものでしかなく、ある社会に強固にこびりつく排外主義、我々が日常的に育てたアイヌ民族差別や朝鮮人中国人差別。それらを狡猾に調達し利用しなければ、そもそも政治は「戦争」を遂行できない。
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我々が揚棄すべき対象は、「戦争」ばかりかそれと共犯的な「平和のユートピア」(ルクセンブルク)なのだ。いかなる集団にもその被害者性を特権化する資格などなく、例外なき「法の下の平等」の代りに特定の「アイデンティティ」を優先する所に、我々の絶えざる腐敗が始まるのだ。それらを強固に洞察できないなら、どれだけ「歴史」=「傷跡」をお勉強しようが全てはむだだ。そこに
然し戦争は決して地震や海嘯のやうな天変地異ではない。何の音沙汰も無く突然起つて来るものではない。(略)歴史を読むと、如何なる戦争にも因あり果あり、恰も古来我が地球の上に戦はれた戦争が、一つとして遂に避くべからざる時勢の必然でなかつたものがないやうにも見えるが、さう見えるのは、今日我々の為に残されてゐる記録が、既に確定して了つた唯一つのプロセスのみを語つて、其の当時の時勢が其のプロセスを採りつゝある際に、更に
この一文には慎重な平叙文が続くが、それがかえって書き手を悩ます「問題」を暗示するかのようだ――我々の「歴史」叙述がみえる事実に圧倒されて、それに並行しそれを脅かすべき別個の、みえない可能的選択肢を出現させないのはなぜか。過去を知ろうとする関心が、現在を変革する「批評」(「時代閉塞の現状」)の強度と決して統一されず、前者が孤立し学者的細事の詮索に腐敗するのはなぜなのか、と。石川の標的はつねにこの分離=回避の感覚麻痺にあり、彼が我々の現状を
だがこの数年後(一九一五年)、ルクセンブルクが『ユニウス・ブロシューレ』を書いた時、それは石川の疑問にも同時に実践的解決を与えていた、と私は思う。なぜなら、ドイツ社会民主党の大戦直前の総転向を分析しただけでない――彼女はこの時、仮にこの党が「持場に踏みとどまった」場合に出現したであろう、未知の状況の到来をも一挙に明快に語り始めたからだ(同書第七章)。政党であれ個人であれ、「戦争」が強いる混乱の渦中で、一度もその判断を誤らない主体などありはしない。本当の誤りは、最初の誤謬を透明に対象化し、割り引くことなくその原因を自己批評する行動力の欠如にあり、その結果、迫りくる状況の急所で「幾多の他の方向に進むべき機会」を再び見失い、同じ誤謬を繰り返す臆病のうちにある。それが彼女の答えなのだ。
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たとえば、革マル派の『解放』は先月の引用③に続けて「「ともにたたかおう!」と会場からひときわ大きな呼応と拍手がまきおこり、国境を越えてたたかうもの同士の連帯をがっちりとうち固めた」と書いており、それは全ての党派が共有した高揚に違いない。だが、そう思って各運動紙の沖縄報告を再読しても、威勢のいい宣言でなければ既述のデモ報告以外、殆どそこに何もない。そのために、これらの「連帯」は少しも試されていない、それを強固に獲得する上で省略できない、「歴史」を対象化する労苦を今なお通過していない。「幾多の他の方向に進むべき機会」の発見どころか、「確定して了つた唯一つのプロセス」の分析さえ不足していないか。極論すれば、それは誰かの足を散々踏みつけた後、その事実に無知なまま当の相手に「仲よくしよう」と言い出す恥知らずの反復にならないか。そういう不安にとらわれてしまう。
『かけはし』K・Sの「沖縄報告」の優越は、まさにこの「歴史」の対象化を多様な主題で、おそらく私が通読した期間(最近一年半分)のはるか以前から反芻してきた事実にある。もちろん、この新聞にもキャンプシュワブゲート前の抗議活動や、埋め立てを阻止するカヌー隊の活動の報告がある。だが、それらは沖縄を拠点に「歴史」=「傷跡」の核心を記述する仕事と、同時に統一的に提示されるのだ。
たとえば、K・Sは香港や韓国や台湾に渡航して現地の諸闘争の現状を伝え、逆にゲート前テントを訪れるアジア各地の人々を温かく出迎え、ある南京市民の訪問を契機に南京事件を徹底的に勉強し直し、朝鮮人犠牲者の刻銘や、その遺骨の発掘作業に欠かさず参加している。今年の一月からは、長年心に温めてきた主題であろうか、かつて沖縄からアジア侵略に動員された、青年兵士達の戦争体験の記録を連載する長期企画が始まった。従来の沖縄戦研究は、県内における戦争体験を重視しすぎて、沖縄出身の軍人軍属がアジアのどの地域で何人死傷し、だが同時に何を行ってしまったか、この解明が不十分でないか。彼は概略以上の問いを繰り返し、県内各地の市町村史が掲載した兵士達の、特に中国での戦争体験を抜粋転載し続けている。
だが、正直私はこの連載に接して、民衆自身の戦争体験が
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過去を絶えまなく自己批評する者だけが、現在を正確に伝えるだろう。現在を正確に伝えることは、我々が偽りの「平和」を拒絶し、それを変革して「幾多の他の方向に進む」ことだろう。K・Sの「沖縄報告」において、「運動」はお勉強が終った後、それと別のものとして国際通りやゲート前で始まるのでない。全く逆に、「歴史」=「傷跡」のからくりを感受し、それを明晰に記述する実践こそ革命的な大衆運動の核心であり、これを切り離せば抗議行動自体がその源泉を断たれてしまう。第四インターの活動全てがそうだと思わない。彼らは性暴力や論文盗用の問題をも、同じやり方で克服すべきだったに違いない。だが、それでも(徳は孤ならず、必ず隣あり)という鉄則を私は思い浮べた。K・S他「四人」のゆるぎない実践は、石川やルクセンブルクの透明な認識と交響し、我々の心を奪って後に続かせるに違いなかった。
(かまだ・てつや=批評家、岡山表町在住、江別大麻出身)