※本記事には物語の核心に触れる部分がありますので、十分にご注意ください。
いつの頃からかわからないけれど、気がつけば最近、ドキュメンタリーばかり見るようになった。
そうなったのは多分、ドキュメンタリーが、その性質上何でもありの展開で予測不可能だから。もちろん、要所要所で既存のジャンル映画の文法に則って「ん、もしかしてこの先はこんな展開?」などと先を読もうとするのだが、たいてい見事に裏切られる。だいたいそのような視聴態度自体、現代のリアリティが大なり小なりメディアで流布された様々なナラティブの欠片をつなぎ合わせて構成されていることに毒されている。そんなナラティブ漬けのものにとって、ドキュメンタリーは脱ナラティブの期待を逆に抱かせてしまうところすらある。
こんな具合にひとしきり嘆息してみせるのは、この『行き止まりの世界に生まれて』というドキュメンタリー映画が、ストリーミングが大勢になる2020年代の映像のあり方を占うものに仕上がっているように感じたからだ。
最初は、『スタンド・バイ・ミー』のような青春ものの現代版か?と思って見始めたのだが、少しずつ風向きが変わり徐々にミステリーやホラーのような感じになっていく。なにしろ中核となるテーマがDV(Domestic Violence:家庭内暴力)であり、途中、個人の内面の暗い部分に向き合わなければならない。
もちろんフィクションとは異なり、絶望的だが劇的な結末には至らないのだが、その分、ここで示された闇は社会的に忘却しようと思えば簡単にできてしまう。だが、それではダメなのだ。そのことを人びとに思い起こさせるために、ドキュメンタリーとして記録される必要がある。
この映画の主要なテーマは、DVとどう向き合うか、どうやってDVの反復という負の遺産を断ち切ることができるか、にある。ただし、このドキュメンタリーは、何か社会問題を訴えるためだけに撮られた“Woke(=社会意識の高い)”なものではない。DVの他にも様々な解釈に開かれたテーマが伏在している。階級格差、人種の差異、アルコール中毒、家庭不和、シングルマザー、父の不在、男性性の失調、有害なマスキュリニティ、ロールモデルの不在、ドロップアウトからのやり直し機会の欠如・・・等々の問題が散りばめられている。現実世界の多面的で多層的な複雑さが万華鏡のように多方面から映される。
DVの厄介なところは、それがあくまでも家庭内の事件であることで、そのため、個人的な不遇をうまく取り上げないことには、ラストベルトに蔓延する憂鬱の病巣はわからない。その点で、同じラストベルトを扱ったドキュメンタリー映画でも、オバマ夫妻が製作した『アメリカン・ファクトリー』 とは全く異なる。『アメリカン・ファクトリー』のように、産業構造や企業経営の話に集約させてしまうと、その地域に生きる人たちの悩みや痛手の元凶にまで気がつくことはできない。工場の現場にすでにいない人たち、あるいは、そのような工場に務めることすらついぞなかった次の世代の人たちの姿は映し出されはしない。
映画『行き止まりの世界に生まれて』は、9月4日(金)よりシネマカリテ、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次ロードショー(公式HPはこちら から)。本編に主要人物として登場するビン・リューが監督・製作・撮影・編集を手がけている。© 2018 Minding the Gap LLC. All Rights Reserved.
「事実に基づくフィクション」の限界 舞台となるイリノイ州ロックフォードの街をスケートボードで軽快に駆け抜けていくシーンから始まるこの映画は、邦題の『行き止まりの世界に生まれて』にあるように、ラストベルトの若者たちの「行き止まり感」を扱っている。80年代以降のアメリカ製造業の低落によって、親の世代が心の安定を失いDVへと転落していく中、その被害者となった3人の若者、すなわち、ザック(白人)、キアー(黒人)、ビン(アジア系)の3人のスケボー仲間の男性がこの映画の主要登場人物だ。この3人が、成人を迎えてDVの経験、あるいはDVをもたらした家庭環境や社会環境とどう向き合っていくのか。その三者三様の対応の様子が扱われる。彼らに加えて、ザックのガールフレンドのニナと、ザックとニナの子どものエリオット、それにキアーの母とビンの母が絡んでくる。
さしあたってザック、キアー、ビンの3人に共通する不安や憂鬱の一因は、マスキュリニティ(=男性性)の機能不全がもたらす弊害にある。父によるDV、家庭不和、シングルマザーの家庭、といった環境で育つ中、かつてあった男としての誇りや、父としての模範的あり方はどこへ行ったのか。ロールモデルとなるはずの父の不在の中、3人は悩み苦しむ。
しかし、そうした心の闇をなんらかの宗教が救ってくれるわけではない。少なくとも白人、黒人、アジア系を横断する宗教はない。代わりにスケボーが、スピリュアルを担う媒介=カレンシーとなる。スケボーが単なる戯れで終わらないところがこのドキュメンタリーのユニークなところだ。スケボーと向き合うことで、子どもたちは自らを省みる機会を得る。スケボーは隠れた精神性を湛えており、スケボーと向き合うことはいわば「道を極める」ような効果をもつ。アメリカという多民族社会においては、日常の消費活動を通じた世俗のライフスタイルを無視できないことがよくわかる。ライフスタイルの鍵となるデバイスは、ちょっとした霊性をまとった物神なのである。
もっとも、それ以前に、そもそも少年期のスケボーを通じた手放しの友情がなければ、多分、このドキュメンタリーが完成することはなかっただろう。撮影すら難しかったはずだ。だが、その結果、ナチュラルな転調が繰り返される魅力的な映像がもたらされた。ジャンルを超えたナラティブが随所随所で差し込まれるような印象を持つのはそのためだ。現実はままならないのだ。
だが、それがドキュメンタリーの魅力だ。
今、ドキュメンタリーに勢いがあるのも、多くの人が、リアリティTVや、“Based on the true story”の映画に飽きてしまったからなのだろう。素人を出してさえいれば「脚本がない」フリができるリアリティTVのやり口は、もうバレてしまった。出演者の間にリアリティTVの「コード」が行き渡ってしまったから。一方、「事実に基づくフィクション」というのも、いやそれだったら、ちゃんと事実の方を映してくれ、という気分になってくる。
作り手にしても、ストリーミング以後の映像インタラクションの時代においては、事件としてすでに完結してしまったものを改めて取材しなおし、そこからその事実を脚色して新規の虚構を立ち上げる、という手間を掛けている暇も余裕もなくなってきた。インターネットの存在とリアリティTVなる文法の流布によって、今観ているスペクタクルは多かれ少なかれ現在進行形のものであるリアル感(=リアリティ)が求められる。そうでないと見るもののほうが迂遠と感じるのだから仕方がない。垂れ流しの「ライブ」がデフォルトなのだ。そのため、“Based on the true story”では、もはや現実の速度にメディアが追いつけない。脚色してフィクションの体裁を整えるまでもなくドキュメンタリーとして「真実のかけら」としてリリースする。当たりをつけてこんな感じだろうという結末=真実を想像しながら、目の前の事実を記録していくことから手をつける。全ての今が、未来のフッテージだ。
とはいえ、ただ映像を垂れ流したからといって「ナマの」「事実の」ドキュメンタリーができるわけでもない。その昔、ニュージャーナリズムやゴンゾージャーナリズムといわれた文芸ジャーナリズムとしての、文学的テイストを抱え込んだ構成が必要になる。その結果、しばしばドキュメンタリーは、作り手や出演者からすれば告白や告発の機会となり、その過程を通じて「癒やし」を受けることすらある。一種のセラピーなのだ。
こうした点で、『行き止まりの世界に生まれて』というドキュメンタリーは傑出している。
観終わってわかるのは、他でもない、登場人物たち自身がこのドキュメンタリーの撮影/製作を通じて癒やされてしまっていること。何かが昇華されたように思えること。そして、その感触は観ている側の心の内にも生じる。
面白いのは、その心が洗われる実感を得るには90分という映像の流れの全てが必要なことだ。交響曲を頭から最後まで聞き続けるようなもので、音楽は、聞き始めてから聞き終わるまでがひとつながりの体験であり、それだけの時間の経過は、言葉でつくすことができないひとかたまりの経験をもたらす。同様にドキュメンタリー映画も、観始めてから観終わるまでが、一つのシークエンスとなった体験であり、それなくして反芻することはできない。
この映画の場合、映画の撮影プロセス自体が、連帯のプロセスだった。DVという主題は、ビン自身が撮影しながら気づいたことのようだが、フィルムに撮ることでビンは、友人2人を救っている。オープンエンドであるがゆえにドキュメンタリーは倫理的で政治的なのだ。そうしてドキュメンタリーは感染する。映像内の展開プロセスの効果を通じて感染していく。そうして映画自体を進化させる。
主人公となるザック、ビン、キアー(写真左から)。スケートボード仲間である3人の12年間の軌跡が、ビンが撮りためたスケートビデオとともに描かれている。© 2018 Minding the Gap LLC. All Rights Reserved.
整った街並みが封じる日常の闇 ところで、映画の中では、要所要所で、次のようなパブリックメッセージを伝える看板が映される。
“You don’t have to be perfect to be a perfect parent.” “Dad is the one that picks you up when you fall.” “It’s 3pm. Where are your kids?”
これらのメッセージの発信元は市政府やNPOであり、舞台となったロックフォードという街が、こうしたメッセージが公に発せられないではいられないほど病んでいることが示されている。ザックたちの日常は、あくまでも個人の日常でしかないけれど、同時に、社会の影響の下で生じていることが示される。彼らの日常を「蝕む」かたちでだ。
これもまた、映画内のニュースで語られることだが、ロックフォードは、20万人未満の都市で全米2番目に危険な都市として知られ、2015年の司法省の調査では、犯罪の4分の1がDVなのだという。かつてはアメリカ製造業を象徴する都市だったことを思えば、大変な没落ぶりだ。
もっともロックフォードといってもピンとこない人も多いだろうが、この街は、Whole Earth Catalogueの創刊者であるスチュアート・ブランドの生地であり、かつてはソ連の核兵器攻撃の標的となる街の一つとされた。1957年のスプートニクショックを受けて、アメリカではソ連の核兵器攻撃の対象都市がリスト化されることがあったが、その際、ロックフォードは第7位に挙げられたこともあった。1938年生まれのブランドは、核の脅威を身近に感じ怯えたのだという。このようにロックフォードは製造業の街として、ソ連に目をつけられるほど経済的にも技術的にも重要な街だった。
だがその栄光は、今では仇になっている。かつての繁栄から社会インフラは遺産として残ったままなので、一見するとロックフォードは陰惨な世界には見えない。実際、ザックやキアーたちがスケボーをするときの路面も悪くない。道路も大きい。一軒家も立派だ。だから、いまだにきちんとした都会であるようにみえる。だが、それはあくまでも見た目だけで、ひとたび家庭の中や個々人の内面に踏み込むと、不安や怒りが渦巻いている。整った街並みはそうした闇を封じてしまう。
主人公の3人は1990年前後に生まれているため、映画の中で最初に現れる10代の彼らは、概ね2000年代の後半の頃の姿だ。彼らが成人するまでの90年代から2000年代というと、ITブームでアメリカ経済や金融市場が盛り上がる裏で、アメリカの製造業が軒並み国外に工場移転をした頃だ。
その結果、彼らの親、とりわけ父親は、社会環境の変化に苛立ちを覚える日々を過ごすことになった。その鬱憤を晴らす先にやむなく選んだのが家族であり、多くの子どもたちがDVの被害にあった。そうした家庭不和によって、離婚まではいかなくとも別居を経験する家庭も生じ、両親が揃っていない家庭で育つ子どもも増えた。あるいは、親の再婚によって、継父や継母と「新たに家族になる」子どもも生じた。
こうして家庭もまた必ずしも安定して安心のできる場所ではなくなり、なかには行き場をなくす子どもたちも現れた。ザック、キアー、ビンの3人はいずれもそのような不安定な家庭環境の中で育った。そんな彼らが向かった先がスケボーだった。スケボーを通じて同年代の間で擬似的な家族関係、兄弟関係を築いていったわけだ。
こうしたスケボーを通じた信頼関係の下で、DV体験者の一人としてビンは、このドキュメンタリー映画をつくった。きっかけは、かつてDVの被害者だったザックが、陰でガールフレンドのニナに手を上げていることを知ったことだ。それでは完全に「負の連鎖」ではないか。しかも、ニナが公に声をあげることを躊躇するため、このいびつさは、社会的には表に浮上してこない。観測されない。記録されない。それでいいのか?
物語の舞台となるのは、ラストベルト(さび付いた帯状の地帯)の一部である米国の都市・ロックフォード。1970年代までは重工業を中心に栄えていたが、現在は全米でもっとも惨めな都市ランキング3位(2013年、米・フォーブス調べ)、米国でもっとも危険な都市ランキング8位(2019、24/7 Wall St調べ)となっている。© 2018 Minding the Gap LLC. All Rights Reserved.
通底するマスキュリニティの不在と機能不全 ザックは、映画が始まってまもなく、近々ニナとの間で子どもが生まれ父親になることが明らかにされる。当初は本人も俄然やる気を見せるのだが、やることなすこと、うまくいかない。
手始めに高卒認定試験を受けてみるものの問題文の意味がわからず撃沈。仕事先でもシフトを増やしてもらえず、給料日の一週間前には手持ちがゼロになる始末。代わりにニナがウェイトレスの仕事に出ることになり、その間は育児をひきうけることになる。だが「育メン」なんてカッコのいいことではなく、子育てのストレスもあって、次第に自分が父親や夫として役立たずのように思えてきて心がささくれだっていく。男としての自尊心を傷つけられることになり、声を荒げることが増え、飲酒量も増えていく。画面に映るザックは、ほとんどの場合、缶ビールを手にしている。
一方、ニナはニナで母となったもののまだ21歳で、仕事の後、一息付くために同僚と飲みにも出かけるが、その結果、ザックとの諍いが増えてしまう。映画の中ではいつから始まったか、きちんとは描かれていないが、こうしたすれ違いの中で、とうとうザックがニナに暴力を振るうようになる。まさに「毒性のある男性性(toxic masculinity)」の発現であり、耐えかねたニナは、息子のエリオットを連れて叔母の家に逃げ込んでしまう。
ザックのストーリーは、このように、かつてDVの被害者だったものが、父になり、今度は加害者になってしまう、という負の連鎖として描かれる。
けれども、もともとザックは根が真面目なアニキ肌の人物だった。面倒見がいいぶん、その冷静な視点は自分にも向かい、自分がダメなことをちゃんと理解している。だから本当に悪いことには手を出さないものの、自分がちゃんと父親をやれるかどうか、自信がもてない。ロールモデルとなる大人の男性が不在なため、見様見真似で父親を演じるしかない。だが、それにも無理はある。悪循環だ。
ザックの姿を見ていて思うのは、どうやらミレニアル世代の場合、先行世代とは異なり、自らの行動の影響や結果を省みる「内省」の習慣を身に着けてしまっていること。トラウマが生じる瞬間を理解し、それらがいかに自分たちを形成するのか。そのようなことにまで思考が及ぶ。だが、その分、思い切ったことができない。
白人の墜落組は、誰にも気にかけてもらえない。ただミドルクラスから落ちるだけのことだ。その意味で、子どもの頃のこととはいえ、白人のザック、黒人のキアー、アジア系のビン、という3人の取り合わせは奇跡的だった
なぜなら、長じるうちに3人の間で、同じ「行き止まりの世界」の中であっても、対処の仕方が少しずつ分岐していくからだ。それは大なり小なりそれぞれの出自のエスニシティがもつ文化的伝統に導かれた結果だ。白人は底が抜けたら参照先がなくなる。黒人は最初から底辺にあると思うことで常に上を向ける。アジア系は、白人とも黒人とも異なる独自の家族観に依拠しながら幸福を求めていく。
たとえばキアーの場合、今は刑務所帰りの兄もいるシングルマザーの家庭に住んでいる。映画の中で子どもの頃のキアーが突然癇癪を起こしてスケートボードを破壊する場面があったが、どうやらそうした行為は、父から暴力を交えて叱られていたことへのいらだちや怒りの発露だった。
だが、それでもキアーは父を慕っていることが明らかにされていく。それは、成人を控えて、黒人の青年として社会で生きていく難しさに直面してきたことが大きい。たとえば、車を買ったことでキアーが新たに学んだことは、警官に呼び止められたら最大級の注意を怠らないことだ。下手をすると殺されかねないのが、黒人のおかれる社会の現実なのだ。
キアーからすると、こうした黒人としての処世術のヒントを残してくれたのが父だった。黒人は常に問題に直面しているから、白人のように簡単にはくじけない。だがこうした教えを、ザックや同年代の白人の友人には直接伝えることは難しい。白人と黒人の間では、異なるモラルでの下で対処しなければならない。
そうして子どもの頃はスケボー仲間として垣根がなかった関係が、少しずつ疎遠になっていってしまう。代わりに記憶の中にある父と向き合うしかない。母は教えてくれない。新しい恋人をつくっては別れるのを繰り返すばかりだからだ。キアーたちは、正しいマスキュリニティを手探りで見つけていくしかない。
ザックのガールフレンドのニナとその子どものエリオット。ザックとニナの関係性が監督を務めるビンにも大きな影響を与えている。© 2018 Minding the Gap LLC. All Rights Reserved.
人生を導くスケートボードの精神性 それでもこの映画は、少年や青年の成長の話である。その成長は、基本的にスケボーの精神性に依拠している。では、スケボーの精神性がどんなものか。「スケートボーディングは、単にカッコいいからとか友だちができるから、という以上の意味がある。ここから抜け出すことや、生きるか死ぬかといった類いのものなんだ」というのが、ビンが子どもの頃によく訪れたスケボーショップのオーナーの言葉だ。
だからキアーのボードの裏には“THIS DEVICE CURES HEARTACHE(このデバイスは、心の痛みを癒やしてくれる。)”という言葉が書かれていた。スケボーをしている限り、心が折れかかっても、なんとかなる。キアーにとって、スケボーは父親代わりだった。だが、その思いは彼だけのものではないだろう。
少なくともザック、キアー、ビン、の3人にとって、スケボーは数少ない、自分だけで制御できる対象だった。「ままならない」相手ではなく、自分のその時の技量に応じてこたえてくれるフェアなバディだった。その点で、スケートボードは自制心の訓練のためのメディアだった。きちんとコントロールしようとしないとノーマルではいられない。うまく操れれば気持ちがいいが、誤ったら当然怪我をする。スケボーでの怪我は、なかば自傷行為であるが、それもわかってやっている。その点で、スピリチュアルな媒介であり、ドラッグのような中毒性をもつものであった。
スケボーは一昔前のバイクのようなものだが、バイクと違って免許はいらない。だからスケボーなら子どもにでもできる。自由そのものだ。だが裏返すと、スケボーに依存すれば、いつまでも子どものままでいられるという幻想を得ることもできる。その諸刃の剣となるスケートボードとどう向き合うのか。自問自答の鍵が、声なき沈黙のバディたるスケートボードそのものなのだ。
このドキュメンタリーで興味深かったことは、記憶は必ずしも本人が最も正確に保持しているわけではないという事実だ。むしろ当事者のほうが積極的に忘却することすらある。ビン自身、忘れていた幼少期のことを、異父弟が覚えていたなんてこともあった。だとすれば、ドキュメンタリーを撮るとは、被写体となった人びとの失われた記憶を辿る旅でもある。もちろん、記憶が失われるには相応の理由があるはずだから、その記憶を掘り返すということは、必然的に消えた記憶をもたらした事件と対峙する状況を招く。
もちろん、それは簡単なプロセスではないが、だがなんとか乗り越えた先には「癒やされる」瞬間が訪れることもある。この映画はその奇跡を成し遂げた。映画の終盤、ザック、キアー、ビン、そしてニナ、のそれぞれのストーリーが短いカットで切り替わりながら連続したシークエンスとして加速し収束していく。そのリズムは実に心地よい。
その時に思い出すべきは、原題の“Minding the gap”。「段差に気をつけろ!」ということだが、この映画で描かれていたことを思い出せば、スケボーにおける「全能感」と、社会における「無力感」の間にある「段差」のことと思ってよいのだろう。その段差=ギャップは、希望と現実の間、あるいは、仲間と思っていた個人個人の間、さらには、理想の自分と現実の自分の間、にある。
だが、そんな段差も、スケボーなら難なく飛び越えられるに違いない。もちろん、転んでしまうこともあるかもしれないけれど。それでもその痛みは、その後の人生の何らかの糧になる。スケボーの経験は自律を教え、自立の道を指し示してくれる。ボードに乗って片足で地面を蹴らないことには前には進めない。勢いがなければ段差も飛び越えられないのだから。
池田純一|JUNICHI IKEDA コンサルタント、Design Thinker。コロンビア大学大学院公共政策・経営学修了(MPA)、早稲田大学大学院理工学研究科修了(情報数理工学)。電通総研、電通を経て、メディアコミュニケーション分野を専門とするFERMAT Inc.を設立。『ウェブ×ソーシャル×アメリカ』『デザインするテクノロジー』『〈未来〉のつくり方 シリコンバレーの航海する精神』など著作多数。「WIRED.jp」では現在、2020年11月の米国大統領戦までを追う「ザ・大統領選2020 アメリカ/テック/ソサイエティ 」を連載中。
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