大使館を「駆け込み寺」として機能させて、「ならず者国家」に対して強い交渉力を確保するのは、英国のお家芸である。国交正常化による平壌への大使館設置を優先させることは、決して荒唐無稽な話ではない。リアリティのある戦略として成立するものである。

左派の戦略的思考(2)
集団的自衛権行使容認

 この連載で指摘したように、集団的自衛権行使容認の是非を巡る議論で、左派は旧態依然たる「護憲」「平和」を訴えるのみである。「憲法の基本原理の1つである平和主義を、一握りの政治家だけで曲げてはならない」「集団的自衛権行使を容認するならば、憲法改正すべき」であるのに「閣議決定での憲法解釈変更は、時の内閣の裁量で憲法を事実上改正する前例を作った」という主張であり、要は集団的自衛権行使容認を決めた「手続き」が問題だという批判に終始していた(第85回を参照のこと)。

 だが、左派は中国の軍事的拡大による、安全保障における危機対応の必要性の高まりという、多くの国民が共有する危機感に対して、なにも答えていない。ただ「平和」を訴えていれば、国民の心を掴めると考えているのであれば、あまりにも考えが古いのではないだろうか。

 もちろん、左派が目指すものが「平和」だということは間違っていない。大事なのは、「平和」を維持するための戦略を考えることだ。左派が唱える「平和国家・日本」とは、「世界で最もシビリアンコントロールの効いた国家」ということだろう。その観点から、集団的自衛権行使容認が、保守が主張する通り「日本の抑止力を高める効果がある」のかに議論の焦点を絞っていくべきである。

 ところが、左派は現状、集団的自衛権行使容認が日本の抑止力を高めるかどうかの専門的議論に参加できていない。左派は、安全保障を論じること自体が「悪」であるという古い固定観念に捉われ、その研究そのものをしていないからだ。日本国内には、安全保障研究を日本の大学から排除しようとする動きすらある(「軍学共同反対アピール署名」を参照のこと)。だが、安全保障政策の本質は「武器を使わないために、武器を揃えること」であり、「武器を使うことになったら失敗」なのである。つまり、平和を追求する左派こそ、安全保障政策に精通していなければならないのではないだろうか。

 総選挙後、集団的自衛権の問題は、安全保障政策の個別法の整備に移っていくことになる。ここでも左派は、相変わらず「護憲」「平和」を訴え続けるというむなしい戦いを続けるのだろうか。むしろ、「武器を使わないため」の安全保障政策が適切に整備されるよう、推進派に負けない専門的な論争の準備を早急にしなければならない。