それは、「ひたすら憲法を守れば平和国家になれる」「安全保障を論じること自体が悪」であるという古い固定観念とは一線を画す姿勢である。一方で、「改憲すれば軍隊を自由に使える」「戦争をするために安全保障政策を進める」という単細胞的な思考とも相容れないものだ。厳しい覚悟を持って、さまざまなことを学び、考えながら、長い時間をかけて茨の道を一歩一歩進んでいくことになるのである。

「知の拠点」であるはずの大学で
次第に広がる自由な言論がやりづらい空気

 日本が「ならず者国家」のレッテルから脱し、「真の平和国家」を志向するための「知の拠点」となるべきは大学であるはずだ。しかし、その現状は深刻だといわざるを得ない。

 もちろん、政治に関心がないといわれ、政府に反発するデモなどとてもイメージできなかった日本の大学生から、「戦争反対」のムーブメントが起こってきたこと自体は、評価に値すると思う。海外では、学生は政府の意思決定に強い影響力を持つ「アクター」の1つである(第91回・3p)。香港の民主化運動や、英国の学費値上げに反対するデモなどだけではなく、学生は世界中で「民族問題」「マイノリティの人権」「反核」「軍縮」「環境問題」など、さまざまな社会問題に対して、常に意見を表明している。それと比べると、日本の学生はあまりに政治に対する意識が低く、政府に無視される存在でしかなかった。その意味で、今回大学生が「戦争に行きたくない」と政府に訴えようとしていること自体は、悪いことではない。

 しかし、大学生は「純粋」であればいいかもしれないが、学者は純粋なだけではいけないはずだ。現在、さまざまな大学で、「安保法制成立に反対する声明」を学者が連名で出す動きが広がっている。筆者は、学者の連名での意見表明自体に肯定的ではない(第107回)。だが、百歩譲って、それも「言論の自由」だと認めることはできる。ところが、安保法制に肯定的な考えを表明した同じ大学の1人の学者を、集団で「大学の名誉を傷つけた」と批判したというのは、いかがなものだろうか。

 それは、「言論の自由」「思想信条の自由」「学問の独立」を守るべき大学という場に与える悪影響が大きすぎるのだ。まず、さまざまな学問領域で先端を走るべき若手の研究者たちが、委縮して自由に意見を言えなくなってしまうことだ。