私は、それぞれの学者が安保法制に賛成でも反対でも構わないと思う。私は当時、安倍政権が安保法制を成立させることには反対の立場で論じていた(第115回・P1)。だが、1人の学者の意見を、集団で「大学の名誉を傷つける」と批判するというのは、大学が何を置いてでも死守すべき「言論の自由」「思想信条の自由」「学問の独立」に対して与える悪影響が大きすぎるのである。
悪影響とは、さまざまな学問領域で先端を走るべき若手の学者たちが、萎縮して自由に意見を言えなくなってしまうことだ。学者として外国育ちの私には無縁な世界だが、日本の大学には「徒弟制度」のようなものが残っている。学者の間で師匠・弟子の上下関係が存在するのだ。
連名で声明を出した学者たちは、おそらく多くの若手を「弟子」に持つ「師匠」だろう。仮に、弟子が自由に意見を表明して「大学の名誉を傷つけた」と師匠に非難されるとなれば、弟子は「破門」を恐れて沈黙するしかなくなってしまう。
たとえ、直接的に師匠・弟子の関係でない学者の間でも、自由に意見を表明した結果、多数の学者から連名で「大学の名誉を傷つけた」と責められることになるのは面倒である。できればこの問題には触れないで沈黙しようということになってしまう。学内での自由闊達な議論は次第に失われ、重い空気が流れてしまうことになる。
その上、問題なのは学生に対する悪影響である。学者は大学教員として、学生の成績評価者なのである。大学での成績は、学生の人生を左右することもある重いものであり、学者が学生に対して、ある種の「権力」を持っているのは明らかだ。だから、学者が自らの思想信条を明らかにするとき、授業の受講生である学生に対して、極めて慎重な配慮が必要になってくる。
私は、論壇のさまざまな場で政治・社会問題に対して考えを表明する機会が多い。だからこそ授業等では、学生に対して「私と異なる意見を持っても全く問題がない。試験やレポートにそれを書いても構わない。むしろ、多様な意見は歓迎である」と繰り返し話をしてきた。しかし残念ながら、それでも試験の答案用紙に、私の意見をまるでコピーしたような答えを書く学生が少なくない。
学者は、大学で学ぶ若者の「言論の自由」「思想信条の自由」「学問の自由」を守らねばならない。しかし、現実の大学教育の現場では、それは簡単なことではない。慎重に取り扱わなければならないことなのである。ところが、そのことに軽率な学者が多すぎるように思うのだ。
そして、さらに問題なのは、憲法学を「平和を守る善い学問」とし、国際関係や政治学、安全保障研究、戦史研究、外交史研究、地政学、戦時国際法を「現実と称して戦争へ向かう悪い学問」というレッテルを貼るような空気が流れていることだ。日本のさまざまな大学で、そういう動きが広がっているように感じるのである。
要するに、日本の大学で起こっていることは、学者がお互いの「学問の自由」を制限し合ってしまっていることだ。学者が自らの首を絞めるようなことはやめなければならない。すべての学者個人の「学問の自由」を完全に尊重し合わない限り、「権力」からの攻撃に対して、「学問の自由」を守り切ることなどできるわけがない。