大腸菌がプラスチック工場に 世界で急成長する「生物工場」ビジネス 日本の切り札とは?
イチゴに歯周病の治療薬を作ってもらったり、イネに花粉症の予防成分を作らせたり…。これまでの概念を大きく覆す「生物工場」が注目を集めている。生物に別の生き物の遺伝子を組み込み、有用な物質を作る工場に変えてしまう技術だ。「新たな産業革命」と呼ばれ、世界各国で研究が加速。イギリスでは生物工場を重大技術に指定し、国家をあげて力を入れている。激化する国際競争の中、日本の「切り札」と期待されているのが「最強の生物工場」とも言われる「カイコ」。5,000年とも言われる養蚕産業の歴史の中で交配を繰り返し、他の生物を圧倒する高い生産能力を有するようになった。脅威のテクノロジー、「生物工場」の最前線を追った。
驚異のテクノロジー「生物工場」 薬も燃料も“生き物”が作る
世界の注目を集める生物工場。例えば、ヤギの遺伝子に人間の血液をサラサラにする成分を持つ遺伝子を組み込むと、ミルクの中に血栓ができるのを防ぐ「抗凝血剤」を作り出すことができる。また、微生物である大腸菌の遺伝子に、樹脂をつくる特殊な菌の遺伝子を組み込むと、プラスチックができる。画期的な医薬品や素材が次々と誕生し、2020年には4兆円規模の市場になるとも試算されている。
アメリカ、カリフォルニア州にあるアミリス社は、この分野で急成長しているバイオ企業のひとつ。売上はここ5年で3倍になった。製品は実に多彩だ。車のオイル、タイヤの素材、ビタミン、抗マラリア薬、化粧品成分や香料など、数百種類にも及ぶ。そして驚くべきことに、これらすべての製品が、お酒やパンなどの発酵に使われる「酵母」を生物工場にして作られているのだ。例えばタイヤ素材の場合、酵母の遺伝子にリンゴなどが持つ精油成分を作る遺伝子を組み込む。すると酵母は、この精油成分を大量に作るようになる。これをゴムに混ぜ込むことで、グリップ性能が高く、劣化しにくい新素材のタイヤができるという。
「酵母を使えば、何十万種類もの化合物をつくれます。この技術なら、自然界のあらゆる物質をつくり出せるのです」(アミリス社 研究開発部長 ジョエル・チェリーさん)
さらなる新製品を生み出すため、アミリス社では人工知能を導入し、ロボットによる遺伝子操作で作業の効率化を図っている。投資家や国から資金が集まり、設備にかけた額は12年間で1,500億円に達した。それだけの価値が生物工場にはあるという。
世界が「生物工場」に注目する3つの利点
生物工場が大きな注目を集める3つの理由がある。まず、安く、簡単に大量生産ができること。次に、人間の力では作ることができない物質を生み出せること。例えば、「アルテミシニン」と呼ばれるマラリアの治療薬は、これまでは希少な植物からしか採取できなかったが、植物の遺伝子を酵母に組み込むことで大量生産が可能になった。そしてもうひとつ、環境に優しいという利点もある。例えば、プラスチック。石油が使われ、加工にも膨大なエネルギーが必要だが、大腸菌から生成する場合は、菌の餌となる糖があればいい。この糖はトウモロコシなどから作られるため、環境への負荷ははるかに軽い。
世界での研究も急速に広がっている。生物工場に関して書かれた論文の数は、アメリカが全体の4割を占めてトップ。次いでイギリス、ドイツ、中国、日本。中でも国をあげて力を入れているのがイギリスで、政府は生物工場をビッグデータや再生医療などと並ぶ、8つの重大技術の1つに指定。およそ223億円を投資した。また、19の大学、研究機関、56の企業が一緒に研究開発をする機関を設立、産官学が一体となった開発に取り組んでいる。またフィンランドでは、洋服や生活用品など、身の回りのあらゆるものを生物工場で作り出そうという壮大な計画も持ち上がっている。
日本はどうか。実は日本には「最強の生物工場」として期待される、ある“生き物”がいる。
日本の切り札 カイコは「最強の生物工場」
日本の切り札とされる生き物。それは、カイコだ。絹糸の原料として知られるカイコの糸は、分子量37万を超える極めて大きなたんぱく質の集まりである。カギはこの分子量。というのは、そもそも生物工場が作り出す物質は、その生物が本来つくることのできる分子量によって左右されるからだ。例えるなら、おもちゃのブロック。数が少なければ単純なものしかできないが、多ければ複雑なものを組み立てることができるのと同じだ。
アメリカのバイオ企業、アミリス社では「酵母」を生物工場にしていたが、カイコの能力は酵母をはるかにしのぐ。酵母は最大で分子量10万ほどの物質しか作れないとされ、生物工場として生み出せるのは、タイヤの素材やインスリン、痛風の薬など分子量が小さいものにとどまる。一方カイコは、抗がん剤や血液凝固剤、鋼鉄強度の糸といった、分子量の大きい複雑な物質をつくり出すことができるのだ。
なぜカイコにそれほどのパワーがあるのか。5,000年ともいわれる養蚕の長い歴史にその秘密がある。もともとカイコの祖先は、小さい繭しかつくれない野生の虫だった。それを、大きな繭を作るものだけを掛け合わせることで、改良が重ねられた。その結果、現在のカイコは、糸を作るタンクのような器官が体重の3分の1を占めるまでに進化。こうしてカイコは、分子量が大きい物質を大量に作り出せる「最強の生物工場」となったのである。
命の根源を操作していいのか 安全性は大丈夫か
いま群馬県前橋市の養蚕農家で、世界初の試みが行われている。農家の経験や知恵を生かし、遺伝子組み換えのカイコを大量に作る取り組みだ。遺伝子組み換えを行った動物を、一般の農家で飼育する例は他にないという。去年(2017年)9月、国から特別飼育許可が下り、実現した。現在は、光るクラゲの遺伝子を組み込んだカイコを飼育しているが、ゆくゆくはこの技術を応用して、血液製剤や抗がん剤などの生産につながることが期待されている。
大きな期待がかかる生物工場、一方で、生命の根源を操作することへの不安もつきまとう。生物工場を今後どう進めるのか、東京大学大学院准教授の五十嵐圭日子さんは、こう指摘する。
「現時点では、他の生物から持ってきた遺伝子を組み込むという作業をせざるを得ない状況です。ただ、技術的にはどんどん進歩していて、最近では「ゲノム編集」が始まってきている。これは、もともと生物が持っている機能を強められるので、結果的に、その生物を短期間で品種改良することができるようになってきています。国際ルールを作って、安全性を守りながら、生物工場をどう利用していくか、これから私たちは真剣に考えながら、もの作りをしていかなければならないと考えています。」
生物工場の技術は、身近な暮らしを豊かにしながら、地球環境の課題も打ち破ることができるという大きな可能性を秘めている。だからこそ、安全性を守るルールに基づいた社会の合意が重要だ。そのための真剣な議論が求められよう。