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BC30C | Cuneiform script 楔形文字 で書かれたSumerian シュメール人 のclay tablets 粘土板 にアヘンの最初の記載があった。シュメールは、メソポタミア(現在のイラク)南部を占めるバビロニアの南半分の地域に興った最古の都市文明で、シュメール人は、BC3500年頃、楔形文字を使い始めたとされている。粘土板は、バグダッドの南のシュメール人の聖地 Nipperで見つかり、アヘンケシの栽培、早朝のケシ汁の採集、アヘンの産生法について記載されていて、メソポタミアにいたシュメール人が、最も古くケシを栽培と考えられている。シュメール人はケシを"歓喜、至福(Gil)をもたらす植物(Hul)”と呼んでいた。 →参考* |
BC | ケシは、Assyria アッシリア、Babylonia バビロニアにも伝えられ、アッシリア人はケシ汁を"aratpa-pal"と名づけた。植物分類学でのケシ属のラテン名であるPapaverの語源はこのアッシリア名に由来するとされている。ニューヨークメトロポリタン美術館の古代アッシリアのレリーフギャラリーには、女神の天使が長い茎がついたケシの実の束をもっている姿が描かれている。 |
BC30C | 地中海の Crete Islandクレタ島のKnossosの西のGoziの小さい村の神社から、「Poppy Goddess ケシの女神像」が1936年に発見された。Herakleion Museum所蔵。ミノア文明(前3500〜1500年)のものとみられる。高さ79cmの像で、3本のケシ坊主がついたティアラをつけ、両手を上にあげている。クレタ島では、ケシの実(催眠性ケシ)の皮膜から抽出した液体の鎮静作用が知られていた。 →参考1/2 |
BC1550年頃 | 古代エジプトの古文書 Evers Papyrus(ナイル川の東のLuxorの近くの墓の中のミイラの足の間から発見された。ゲオルグ・エーベルス(ドイツ人エジプト学者)が1872年に、エドウィン・スミスから購入した。ドイツ−ライプチヒ所蔵)には、アヘンと他のハーブとの混合方法も書かれている。古代エジプトの人々は、鎮痛や睡眠のために、アヘンを広く用いていた。泣いている子供をなだめるために、ハエの糞のペーストにケシ汁を混合して与えていた。以後、エジプト、インドや広くヨーロッパで、子供をなだめるために、乳首にアヘンを塗って、吸わせていた。ヒマの皮に水を加えてすりつぶし、痛む頭に塗るという治療も記載されている。 |
古代エジプトの女神イシスは太陽神ラーの頭痛を治すため、アヘンを用いたといわれる。アヘンのラテン名Opium Thebaicum、アヘンアルカロイドの一つテバインはいずれも古代エジプトの町Thebesに由来するといわれている。 | |
BC1500年頃 | 地中海カプリ島(フランス領)から発掘された青銅器時代後期の工芸品の中にも、ケシの実を模したと思われるものがある。 |
BC13C | 古代ギリシャでは、オリンポス12神のアポロンが最古の医神とされ、医術、音楽、詩歌、託宣、牧畜の神とされた。アポロンの子Asklepions (アスクレピオス or Aesculapius エスクラピウス)、「アスクレピアスの杖」---蛇の巻きついた杖---は、医学の象徴とされ。)は、地上のすべてを知るヘビとケンタウロスに医術を学んだという。Asklepions は、鎮痛と催眠作用のあるnepentheという薬を患者に与えて、無痛で手術を行っていた。彼の息子のマカオンとポダレイリオスは外科医と内科医との守護神となり、娘のヒュゲイア Hygieiaとパナケア Panaceaは健康と薬の女神となった。 |
アヘンはギリシャ神話でもケシは重要な役割を演じている。農業と豊穣の女神goddess of grain デメテル Demeterの弟である冥王ハーデス Hadesは、デメテルの娘のペルセポネ Persephoneをさらって妻にした。デメテルは最愛の娘を奪われ怒りと哀しみにより、仕事を放棄し眠ることさえ忘れ、娘を探し世界をさ迷ったため、大地は荒れ果ててしまった。眠りの神ヒュプノス Hypnosはデメテルを心配しケシを与えると、デメテルは深い眠りにつき夢のうちに娘と再会した。やがてケシはデメテルそのものを表すようになり、彼女の絵には、豊穣を象徴する麦の穂とともにケシの花が描かれるようになった。 | |
BC1200年頃 | キプロスで青銅器時代末期の統制のアヘン用パイプが発掘されている。この時代のキプロスの壺に、傷を付けたケシ坊主の絵が描かれている。 |
BC9C | Homer(ギリシャの詩人)の叙事詩Ilias(イリアス)やOdyssey(オデッセイ)の中で、アヘンの鎮痛作用について書いている。 Iliasでは、トロイのヘレネ戦争に疲れたギリシャの戦士達に、Nepenthes(ネペンテ)をワインに溶かしたものを振る舞った。Nepenthesは、悲しみや怒りを消失され、最悪の苦悩を忘れさせる「忘却薬drug of forgetfulness」として使われていた。Nepentheの主な原料は、アヘンであった。 Odysseyでは、エジプトの王 Thonis の妻であるPolydamnaは、Jove と Leda の娘であり、Menelausの妻であるHelen にNepentheを与えた。そして、父親の運命を深く心配していたTelemachus(トロイ戦争の英)が、SpartaにいるMenelausを訪問した時、Helen は、Telemachusに、彼の心配を忘れるようにと、Nepenthesを与えた。→参考1/2/3 古代ギリシアではしばしばアヘンは眠りの神Hypnos、夢の神Morpheus、夜の神Nyx、死の神Thanatosにたとえられていた。歴史家の Herodotusは、麻の香ついて書いている。ワインやブランディなどのアルコールも、感覚を麻痺させるために、多くの人が使っていた。 |
BC5C | Hippocrates(P ヒポクラテス BC460〜BC377, 「古代ギリシアの医聖」、エ−ゲ海コス島生まれ)は、アヘンの下痢止めと麻薬効果について知っていた可能性があるが、記載はしなかった。ケシからとれるmeconについては記載していた。 |
BC3C頃 | Theophrastus(テオフラストス P BC372〜287, Aristotleの後継者、「生薬学の父」)の著書「植物の歴史」には、アヘンについての記載がある。 |
BC3C頃 | Asclepiades(アスクレピアデス)は阿片によって精神錯乱の起こることを記している。 |
BC330年頃 | Alexander the Great(マケドニアのアレキサンダー大王, BC356 - BC323)はペルシア遠征の時、兵士の疲れを癒す目的でアヘンを持参した。アヘンは、アレキサンドロスが病に倒れ、ペルシアで客死したのち、程なくインドに伝えられた。東アジアで最初にアヘンに遭遇したのは中国人であるが、それはインド経由ではなく、5世紀にアラビア人によって伝えられたとされる。 |
AD30年 | Aulus Cornelius Celsus (P BC25頃 -AD 50頃, 古代ローマの貴族で、著述家、医師)は、そ の著書「De Medicina」に、アヘンとワインを混合した"anodyne pills"は、睡眠を引き起こすことによって苦痛を軽減すると記載していた。マンドレークも鎮痛に使っていた。 |
AD46年 | Scribonius Largus(10〜50, ローマの医師)が著した「Compositiones Medicae」に、アヘンの収集法について記載した。アヘンは、ケシの葉ではなく、ケシの実の皮膜からえられることを指摘していた。 |
AD77年 | Pedanius Dioscorides(P AD40?〜90?, シシリー生まれのギリシャ人、ネロ皇帝の軍医、薬物学の祖)は、ローマ軍の遠征に従軍し、中近東・フランス・スペイン・ドイツ・イタリアなど、各地における薬草とその薬効を、自らの観察によって集積した。著書の「De Materia Medica 薬物誌」はアヘンの採取方法、摂取方法、鎮静作用と鎮痛作用について詳細に記述された最古と記録である。採取法については「(ケシの)葉のついた頭果を砕いてから圧搾機で絞り出したり、乳鉢中ですりつぶしたトローチ状にしたものはメコニウム Meconiumと呼ばれ、アヘンより作用が弱い。露がかれてから、ナイフで頭果の小星状部を切り刻むが、内部までつき刺さないようにする。頭果側面の表面にもまっすぐな切れ込みを入れる。こうして流出してくる滴を指でスプーンにかき取る。ほどなくしてそこへ戻ってみると、また新たな滴がでて濃くなっている。翌日も同様に行う。このようにして集めたものを乳鉢ですり、トローチにして保存する。(「 ディオスコリデスの薬物誌 」 小川 鼎三、 ディオスコリデス:1983年)。 opiumアヘンの語源は、古代ギリシア語 opionであり、「汁(poppy juice)」を意味する。疝痛、赤痢に使用されていた「フィロニウム(Philonium)」という鎮痛解毒薬の処方は、「白コショウ、ショウガ、ヒメウイキョウ種子、濾過したアヘン、ケシのシロップ」が配合されていた。 ケシは、少量であれば痛みを和らげ、眠りを誘うが、量が多すぎれば昏睡状態に陥り、やがて死に至る。Dioscoridesは「感覚の喪失」として、「anaesthesia」という用語→を使っていた。 |
AD2C | Galenus(P 131-201、ローマ時代の名医)は、アヘンを熱狂的にたたえた。頭痛、難聴、痙攣、喘息、咳、疝痛、発熱、メランコリーの治療に使用していた。疝痛や他の強力な痛みには、アヘンのみを使用した。当時小買商が巡回して、アヘンを売り歩いた。Galenusは、アヘンを危険な薬物とみなしていたので、強力な催眠鎮痛薬として注意して使うように指導していた。 |
AD10C頃 | Avicenna アヴィセンナ(=Abu ali al-Husain Ibn Abdullah ibn Sina イブン=ルシュド P 980〜1037年, 「アラビアの医学の最高峰」、アラビアのGalenus)は、伝統的なアラビア医学に、中国・インド・西洋の知恵を取り入れ、イスラムの医学を確立した。著書「医学の規範 The Canon of Medicine」は、それから16世紀に至るまで西洋医学の聖典となる。15 種類の痛みと炎症について記述した。アヘンを下痢や眼病の治療に推奨していた。アヘンの使用はアラブに普及し、 Avicenna自身も、アヘンを飲み過ぎて死亡したと言われている。この頃、アラブの商人により、アヘンは西へ伝えられた。Muslimsの世界ではワインは禁止されていたので、アヘンの常習者が増えた。 |
9世紀 | 中世には、手術の際の鎮痛薬として、アルコール蒸気の利用が試みられた。中世に書かれた多くの文献:イタリア、サレルノ近くのモンテカシノにあるベネディクト修道院にある文献に、催眠海綿(soporific sponges, sleep sponge, anaesthetic sponge)に関する記載がある。 手術を受ける患者を眠らせて、切開の際の痛みを感じさせない眠り薬の処方。アヘン半オンス、葉から搾ったマンドレークの液8オンス、新鮮な毒ニンジン液、ヒヨス3オンスを充分な水に混ぜて溶液とし、きれいな乾燥海綿に含ませて注意深く乾燥させる。手術前には、海綿を温水に浸し、患者の鼻の上に置いて、眠りにつくまで深呼吸させる。手術が終わると、海綿をはずして、覚醒させた。 |
12世紀 13世紀 | もともとアラブでは、吸入による麻酔についての記載があった。12C後半にSalerno school、13CにUgo Borgognoni(Ugone da Lucca, Hugh of Lucca 1160〜1252)が催眠海綿(soporific sponges, sleep sponge, anaesthetic sponge)を紹介した。Borgognoniで開業していたドミニコ修道会のTheodoric Cervia (Theodoric Borgognoni, 1205〜1298/12/24, Hughの息子、イタリアの内科医、司教)が用いた催眠海綿もSalernoの催眠海綿と同一の成分を含んでいた。Theodoricは、手術時の痛みを取り除く方法を積極的に採用した最初の外科医の一人である。 |
16C | Paracelsus, Philippus Aureolus(P 1493〜1541, スイスの医師、錬金術師、本名はテオフラテス Theophrastus Phillippus Aureolus Bombastus von Hohenheim ケルススを超えるという意味でパラケルススと名乗った、スイスのバーゼル大学の医学教授に就任したが、キリスト教を批判したために追放されて、放浪の医者となった。ゲーテの「ファウスト」のモデル。タロットの大アルカナの1「魔術師」のモデル)は、tincture of opium:アヘンチンキ(アヘンのアルコール溶液)を「ローダナム Laudanum」(ラテン語laudare:「神を讚える」)と名づけて、鎮痛剤として使用していた。ローダナムとは、手軽に飲める鎮痛剤、麻薬として、特に芸術家の間で、流行していた。Paracelsus自身も常習者となり、イギリスの作家バイロンや、フランスの詩人ボードレールも愛用していた。 |
1517年 | Hans von Gersdorf(1489〜1540, ストラスブルグの外科医)が外科教科書:「Feldbuch der Wundarzney」を著した。著書には、その当時恐れられていた「聖アントニウスの火」に侵されて壊疽に陥った下肢を切断する手順が記述されている。それを示す挿絵としてJohnnes Wechtlin(1480〜1526, ストラスブルグの画家・木版下絵作家)の木版画が使われた。四肢切断術は古くは壊疽の部分で四肢を切断していたが、ゲェルスブルグの頃は壊疽部よりも近位で切断し、煮沸した油あるいは焼きごてを使って断端を止血し、化膿を予防する手術が行われていた。ゲェルスブルグは、断端の皮膚を縫合せずに、動物の膀胱で包んでいた。ゲェルスブルグは術前にアヘンで眠らせていた。 |
1591年 | Prospero Alpiniが (=Prosper Alpinus, Prospero Alpinio and Prosper Alpin, P 1553/11/23 〜1617/2/6, イタリアーエジプトの内科医、植物学者)が著書「The Medicines of the Egyptians」の中でアヘンの嗜癖opium addictionについて記載した。 |
1596年 万暦23年 | 中国で、アヘンが独立した品目として文献に現れたのは、李時珍(1518年 - 1593年)が著した「本草綱目」(1578年に完成、1596年に南京で上梓された。1892種の本草(生薬)について薬効などを詳しく記述されていて、慶長11年(1606)に日本に輸入された。)である。「阿芙蓉」(あふよう)の名で記載され、阿片は別名とされていた。(日本でもこの名称が使われることもあった。この「阿芙蓉」の語源はケシが芙蓉に似ているから、という説とアヘンをアラビア語で「アフィウーン(アフュヨン)」と呼んだからという説があり。後者の説が一般には説明に使われている。)「前代には聞くことがまれなものであったが、この頃の処方に用いるものがある」とあり、また「これは天方国(アラビア)に産するケシから得られるもので、頭を水につからぬようにし、花が散った後に、青皮を刺してとるものだそうだ」と記載されている。中国でははじめ、赤痢などの激しい下痢の吐瀉薬として用いられたが、「本草綱目」では阿片を主薬とする「一粒金丹」という製剤の記載があり、万能薬として用いられた。 |
16C | William Shakespeare(1564〜1616)のOthello オセロ」には、深い眠りをうるためアヘンシロップを飲むという一場面がある。 |
1656年 | 静脈内麻酔 intravenous anesthesiaは、Robert Boyle(1627〜1691)によって試みられ、Christopher Wren(P 1632〜1723、St. Paul's Cathedralを設計した英国の建築家)によって、立案された。Wrenは、ブタの膀胱にガチョウの羽軸を中空にして付けた自作の注射器↑3で、自分の犬にアヘンなどの薬物を注入しようとしていた。召使いにもアヘンを注入しようとしたが、気を失ったので、実験を中止した。 参考1/1 |
1665年 1667年 | Johann Sigmund Elsholtz(P 1623〜1688, ドイツの医師)とJohann Daniel Major(1634〜1693, ドイツの外科医、Padua大学で学位)は、人の静脈注射と点滴療法に成功した。イヌでアヘンの静脈内注射による全身麻酔手術を行った。 |
17C | Jean Baptista van Helmont(P 1579-1644, ベルギーの内科医、「医療化学派のリーダー」)は、アヘンを頻繁に使ったので、アヘン博士 Doctor opiatusと呼ばれていた。 |
1680年 | Thomas Sydenham(P 1624〜1689, 1624〜1689, 英国での医学の先駆者であり、Hippocratesと呼ばれていた。)流行病の伝染のメカニズムを発見していた。痛みの治療においても、系統的な治療を提唱していた。貧血に鉄を、マラリアにの特効薬として、キナ皮の使用を普及させた。猩紅熱やヒステリー、小舞踏病についてもはじめて記載していた。Sydenhamは、「tincture of opium:アヘンチンキ」を、"Sydenham's Laudanum"として売り出した。ワイン、ハーブ、ミカンジュースにアヘンを配合し、サフラン、シナモン、クローバーなどのフレーバーをつけた。人々を恐怖に陥れていた伝染病ペストにも有効であり、「全能の神が人々の苦悩を救うために与え賜うた薬物の中で、アヘンほど万能で有効なものはない」と言った。当時のヨーロッパで流行したので、"Opiophilos; lover of opium"と呼ばれた。Sydenhamは、彼自身も患っていた痛風について、最初に記載した。 |
1684年 | George Wolfgang Wedel(1645〜1721, ドイツJena大学の医学の教授)は、アヘンの危険性を警告した。 |
1732年 | Thomas Dover (1660〜1742, Sydenham↑の弟子、医師、海賊?)は、痛風の薬として「Dover's powder:ドーフル散(=アヘン・トコン散)、発汗散」を作り、1788年にはイギリスの薬局方に採用された。 ドーフル散の中身は「アヘン1オンス、硝石と酒石酸カリウムを4オンス、カンゾウを1オンス、トコンを1オンス取り、硝石と酒石酸カリウムを灼熱した容器で焼却し、粉砕し、アヘンをスライスして粉末として混合」したものでして、これを白ワインのミルク酒に40〜60ないし70グレイン(1グレイン=約65mg)を加えて処方していた。(その当時アヘンを飲み過ぎて死ぬ人がいたので、飲み過ぎ防止のために、去痰・催吐作用のあるトコンを加えたと言われている。)ドーヴァーの死後、ドーフル散は一時期忘れ去られるが、後にKing George II(ジョージ二世)の加護を受けていたJoshua Ward(1684〜1761, ロンドンのにせ医師?)により再発見され、一躍有名になった。(ドーヴァーは、世界探検旅行もしている。政府の密命を受けて女王陛下の船Duke号の船長となり、1709年22月22日にJuan Fernandez islandsで、Alexander Selkirk(Daniel DefoeのRobinson Crusoeのモデル)を救出している。ドーヴァーはスペインのフリゲート艦を捕獲し、財宝を満載して帰国している。) |
インドへは回教とともにアヘンが入った。回教は飲酒を禁じていたので、阿片の普及を助長した。 | |
1774年 | Robert Clive(1725/9/29/〜1774/11/22, 英領インドの基礎を築いたイギリスの軍人、政治家)もアヘン中毒にかかり、自殺した。 |
1784年 | James Carrick Moore(1763〜1834, グラスゴー生まれのロンドンの外科医)神経圧迫とアヘンを組み合わせて麻酔した。Mooreは術後痛に初めてアヘンを使用した。「A method of preventing or disminishing pain in several operations of surgery」で神経を圧迫する装置を紹介している。 |
1803年 | Jean-Francois Derosne(1774〜1855、パリの薬剤師)はアヘンの麻酔作用成分としてNarcotineを単離したと発表した。(後にNarcotineには麻酔作用はなかったのでノスカピン (Narcotin)と改称され、現在では鎮咳薬として用いられる。) |
1806年 | Friedrich Wilhelm Adam Serturner(P 1783〜1841, ドイツのアインベックの薬剤師)はアヘンをよく使っていたが、その当時のアヘンの薬効は不確実で、効き過ぎたり、あまり効かなかったりした。アヘンの有効成分がわかっていなかったので、抽出しようとしたが、なかなか抽出されなかった。たまたまアヘンに液体アンモニアをかけたところ血漿が現れた。それを硫酸とアルコールで洗う、ついに白い結晶を取り出すことができた。ハツカネズミや野犬で致死量の見当をつけ、自分自身が服用する実験を繰り返し、この白い結晶に発痛効果があることを確認した。ギリシャ神話の夢の神であるMorpheusモルフェスにちなんで、モルフィヌム morphinumと名づけた。1816年に研究成果を発表し、学会はこの発表を正当に評価した。1817年3月イエナでドイツの鉱物学会が開かれた折には、ゲーテが彼を名誉会員に推挙した。同年、イエナ哲学会もからに名誉学位を与えた。各地の大学がこの例にならい、1831年には、フランス学士院が「重要な医学的発見の道を開いた」功績をたたえて、モンチョン賞を与え、2000フランを贈っている。 |
1817年 | Pierre Jean Robiquet↓(P 1780〜1840, フランスの薬学者)が、ノスカピンの化学構造を決定した。 |
1822年 | Thomas de Quincey(1785/8/15〜1859/12/8, イギリスの評論家)が、「阿片服用者の告白 Confessions of an Opium Eater」を書いた。当時阿片は合法であり、Quinceyは歯痛への鎮痛剤として用い始め、のち中毒となった。晦渋かつ華麗な文体で自らの阿片中毒体験を綴って反響を呼んだが、社会的影響が大きく、世人を悪習に誘ったとの非難も蒙った。(詩人ジェイムズ・トムソンや同フランシス・トンプソンは、「阿片服用者の告白」の影響で阿片に親しむようになったと述べている。)この随想はボードレールを愛読者に持っていた他、ベルリオーズに霊感を与えて「幻想交響曲」を作曲させるなど、藝術家たちに多大な影響を及ぼした。 |
1832年 | Pierre Jean Robiquet↑P 1780〜1840, フランスの薬学者)が、アヘンからコデインを単離した。[PubMed] |
1835年 | Pierre-Joseph Pelletier(P 1788〜1842、パリの化学者、薬剤師)が、アヘンからテバインを単離した。 |
1842年 | アラビアの商人により、アヘンは中国にもたらされた。中国では鎮痛には、アヘンよりも附子が使われていた。17世紀に、東インド会社がインドからアヘンを盛んに輸出した。清朝は輸入を禁止したが、中国でアヘンの吸煙の風習が広まった。1842年にアヘン輸入権をめぐって、アヘン戦争が起きた。 欧州には多くの麻薬中毒患者がいたにもかかわらず、廃人には至らなかった。欧州ではアヘンチンキを経口で服用してきたのに対し、東南アジア、中国では喫煙が主流であった。喫煙によるアヘンの摂取では脳中枢系に集中的に吸収され、しかも速効性である。一方、経口では腸管吸収を経るのでアルカロイドの大半は途中で代謝され、脳中枢系まで輸送されるのは比較的少なく、遅効性である。 |
1848年 | Georg Merck(P 1815〜1888, ドイツ→アメリカの化学者)が、生のアヘンからパパベリンを単離した。 |
1853年 | Alexander Wood(P 1817〜1884, エジンバラの開業医)は、Daniel Ferguson(ロンドン出身の機具製造業者)が作ったピストン型注射器の先端に装着する中空の針を発明した。注射器と針を用いて、にモルヒネを局所に注入し、神経痛を治療した。これらの報告の後、注射器と針のセットは一般的な危惧となり、多くの臨床医がこれを使って鎮痛のためにモルヒネの皮下注射を行った。「皮下注射 hypodermic injection」という言葉は、Charles Hunter↑(ロンドンの外科医)によって作られた。Hunterは、モルヒネは身体のどこに注射してもよく、その鎮痛効果は疼痛部位へ注射した場合と同じであると主張して、Woodと論争になった。 |
アメリカ南北戦争(American Civil War, 1861〜1865年)時には、北軍だけで280万オンスのアヘンチンキと500,000万錠のアヘン錠を消費したといわれ、40万人の兵士がアヘン中毒に陥ったという説がある。モルヒネの注射は内服に比べると意識を失わせることなく鎮痛効果を迅速にもたらす。南北戦争帰還兵向けにアヘンの通信販売されていて、多数の帰還兵がこの注射用モルヒネに耽溺となり、このことからモルヒネ中毒は「兵隊病」として広く知られることとなった。 | |
1874年 | Charles Romley Alder Wright(ロンドン St. Mary's Hospital Medical Schoolの化学者)がヘロインを調合した。モルヒネを無水酢酸あるいは酢酸クロリドで処理するとジアセテート(ジアセチルモルヒネ=ヘロイン)となり、コデインではモノアセテートを生成することを明らかにした。 |
1881年 | Alexander Crombie(インドカルカッタのPresidency General Hospital)が、クロロホルム麻酔に先立ち、モルヒネによる前投薬を行った。 |
1898年 | Heinrich Dreser(P 1860〜1924, アスピリンの開発者)の研究室で、新しい鎮痛性モルヒネ誘導体として、ドイツのバイエル社からヘロインが鎮咳薬として発売された。 |
1901年 | Racoviceanu-Pitesti(ローマの外科医)が、はじめてオピオイドの髄腔内投与による麻酔の報告をした。 |
1901年 | 4月2日 北川乙冶郎(名古屋)、東良平(金沢)が、東京で開催された第3回日本外科学会2日目において、本邦初の脊椎麻酔の症例報告及び世界初のモルヒネのくも膜下投与の報告をした。 |
1902年 | Richard von Steinbuchel(オーストリアの内科医)モルヒネとスコポラミンによる Twilight sleep 半麻酔状態による産科麻酔を開発した。 |
1911年 1912年 | 12月1からオランダのハーグにおいて万国阿片会議(International Opium Convention)が開催された。 1月23日 ハーグにて、初の薬物統制に関する条約である万国阿片条約が調印された。アヘンをはじめモルヒネや、ヘロイン、コカイン、大麻などが条約の統制対象となった。 |
1914年 | 米国では初の麻薬取締法である「ハリソン麻薬法 Harrison Narcotics Act」が制定され、国税当局の免許を得ることなく、麻薬の生産、輸入、製造、調剤、販売等に従事することが違法とされた。 |
1914年 | 第一次世界大戦が勃発し、モルヒネは戦場で疼鎮痛薬として用いられ、モルヒネ中毒者が増えた。また、兵士はコカインを使用した。これにより、参戦国では戦後モルヒネやコカインの使用が増加した。特に、ヨーロッパとアメリカで、この傾向が顕著であり、問題の拡大が懸念された。 |
1916年 | Martin FreundとEdmund Speyer(Frankfurt大学)がテバインを原料としてオキシコドンを合成した。 |
1917年 | Paul Trendelenburg(P 1884/3/24〜1931/11/4, ドイツの薬理学者、副腎のアドレナリン分泌などホルモンの生理・薬理学機構に関する世界的な権威)がモルモットから切り出した回腸の内圧を高めるときに観察される蠕動運動が、薬用量に相当するモルヒネで抑制されることを見いだした。 |
1919年 | 6月28日 ヴェルサイユ条約の調印にともない、ハーグ条約に批准していなかった諸国も条約を批准した。 また、ヴェルサイユ条約に基づく国際連盟規約の第23条(ハ)には、連盟加入国は阿片及びその他の薬物の監視を連盟に委託することが記載された。オランダはハーグ条約の職務を国際連盟総会決議に基づき、連盟に渡した。連盟はハーグ条約に関する審議を行う機関として「阿片及び他の危険薬品の取引諮問委員会」(麻薬委員会の前身)を、連盟理事会の決議により設置した。諮問委員会は薬物に関する国際統制政策の審議や各国からの報告書の基づく状況の検討を行った。 |
1920年 | イギリスでアヘンが公的に禁止された。 |
1924年 〜1925年 | ジュネーヴ国際阿片会議にてハーグ条約を補足する協定が作成された。 |
1925年 | Sir Robert Robinson(P 1886〜1975, イギリスの化学者, 1947年ノーベル化学賞受賞)がモルヒネの構造を決定した。 |
1937年 | Max BockmühlとGustav Ehrhart(ドイツの IG Farben(イーゲー・ファルベン社)の科学者)が外科手術で簡便に使用でき、かつ習慣性の低い鎮痛剤を探索して、Hoechst 10820(=メサドン)を合成した。 |
1939年 | Otto Eisleb(ドイツHoechst-Am-MainのIG Farbenの化学者)とO Schaumannがcompound 8909(=メペリジン=ペチジン)を合成した。 |
1952年 | Marshall D Gates(P 1915〜2003, 米国ロチェスター大学教授)がモルヒネの全合成を初めて完成させた。 |
1960年 | Janssen Pharmaceutica(Belgium, Paul Janssen Pのチームが、フェンタニルを合成した。1963年に市場に出た。 |
1961年 | 万国阿片条約は麻薬に関する単一条約(:麻薬単一条約、Single Convention on Narcotic Drugs)に引き継がれた。特定の薬物(主に麻薬)や同様の効用のある薬物につき、医療や研究などの特定の目的について許可された場合を除き、これらの生産および供給を禁止するための国際条約 |
1963年 | Kenneth Bentley(エディンバラのMcFarlan-Smith and Co.)の研究グループが半合成オピオイドとしてエトルフィンを合成した。 |
1964年 | 日本が麻薬単一条約に加盟した。 |
1967年 | Cecily Saunders(P 1917〜2005/7/14)がSt. Christopher's Hospice(ロンドン郊外)を創設した。St. Christopher's Hospiceは、医学的に患者の疼痛を和らげる方法を付け加えた近代的なホスピスである。Saundersは、がん末期患者に対するモルヒネの鎮痛の重要性を提唱し、ホスピス運動を世界に広めた。 |
1969年 | Edward Lowenstein(MGHの麻酔科医)が心臓手術における大量モルヒネ麻酔の使用を広める契機となる論文を発表した。 →オピオイド麻酔 |
1971年 | Avram Goldstein*, Shinro Tachibanaらがオピオイド受容体の発見につながる立体特性の実験を発表した。 ⇒詳細 |
1971年 | Philip H. Sechzer(1914〜2004)が,PCAの原形となる“analgesic demand system”を考案し,オピオイドを使った術後鎮痛法として紹介した。[PubMed, Anesth Analg. 1971 Jan-Feb;50(1):1-10.] * |
1971年 | John C Liebeskind(1935〜1997, UCLA心理学)のLabのDavid Mayerらは、中脳と間脳の種々の部位の電気刺激による鎮痛効果を調べ、PAGのほぼ全域と間脳の第3脳室周囲灰白質の電気刺激が鎮痛効果(SPA)を持つことを示した。 Huda Akilらは、SPAはナロキソンで遮断されることを示し、Liebeskindは脳がオピエート様物質を脳が作ることを予測した。 |
1971年 | 英国で薬物乱用法 the Misuse of Drugs Actが制定された。 |
1972年 | フェンタニルが本邦で発売された。 |
1973年 | アメリカは二つの戦争で敗北した。ひとつはベトナム戦争、もうひとつは麻薬戦争 Drug Warsである。ペンタゴンは南ベトナムの駐留した全陸軍兵士の35%がヘロインを用いたことがあり、20%は勤務中にヘロイン中毒にかかっていたことを認めた。Richard Nixon大統領はヘロインに対する戦争を宣言し、薬物乱用対策にJerry Jaffeを任命した。 |
1973年 | Solomon Snyder(Johns Hopkins大学)とCandace Pert(Snyderの学生)がオピエート受容体を発見し、脳内のオピエートの結合部位を同定した。 ⇒詳細 |
1973年 | Eric J. Simon(New York Medical Center)、Lars Terenius(Uppsala, Sweden)も同年オピエート受容体を発見した。 |
1973年 | イギリスの薬局方が、ブロンプトンカクテルを激痛治療のための妥当な万能薬として承認した。 |
1974年 | Lars TereniusとAgneta Wahlström(Uppsala Sweden)はヒトの脳脊髄液から得たサンプル中の「モルヒネ類似因子」についての論文を発表していたが、正確な組成を確認していなかった。 |
1975年 | John HughesとHans Walter Kosterlitz(P 1903/4/27〜1996/10/26, ベルリン生まれのアバディーンの薬理学者)が、モルヒネがモルモットの空腸とマウスの輸精管の収縮を抑制し、この抑制がナロキソンなどによって拮抗されることを利用して、モルヒネと同じ作用を持つ化合物をブタの脳から単離して、メチオニンエンケファリンとロイシンエンケファリンを発見した。 ⇒詳細 |
1975年 | Rabi Simantov & Solomon H. Snyder(Johns Hopkin大学薬理学)が仔牛の脳からモルヒネ様物質(エンドルフィン)を精製した。 |
1976年 | Huda Akilらは、電気ショックを被験動物に与えると、痛み閾値が上昇し、それに伴い脳内のオピオイドレベルも上昇することを報告した。ストレス鎮痛に関する最初の実験的研究である。 |
1976年 | William Robert Martin(P 1921〜1993)ら*は、 N-allyl-normetazocine (SKF-10,047)の効果がμ受容体にもκ受容体にもよらないので、第3のオピオイド受容体・σ受容体の存在を示唆した。 |
1976年 | Tony L. YakshとRudyがラットのくも膜下腔にモルヒネを投与して、脊髄分節性の鎮痛作用を観察し、脊髄にもオピオイド受容体が存在し、鎮痛に寄与していることを示した。 |
1977年 1979年 | Donald E. RichardsonとHuda Akilが、脳内刺激鎮痛法を始めた。痛みの治療のため、視床破壊手術を行おうと、中脳と間脳の移行部に電極を刺入し、試みに電気刺激したところ、痛みが軽減した。そこで、電極を固定し、患者がスイッチを押すと、脳に刺激電流が流れるようにした。 |
1977年 1979年 | >Yoshio Hosobuchiらは、PAG刺激による鎮痛は、ナロキソンで阻害されることを見出し、PAG刺激による鎮痛には内因性オピオイドペプチドが関与すると推定した。 |
1979年 | 京都大学医学部の沼正作、中西重忠先生らはエンドルフィンを単離し、N末端の5残基がメチオニンエンケファリンと同じであることを明らかにした。 |
1979年 | Avram Goldstein*, Shinro Tachibanaらがダイノルフィンを抽出した。 |
1979年 | 高木博司教授(京都大学薬学部)の大学院生だった植田弘師先生(現長崎大学教授)が中心となって、ウシ脳からkyotorphinが単離された。 |
1979年 | Josef K. Wangらがくも膜下腔へのモルヒネ投与の臨床応用した。 |
1979年 | Murat Beharらの硬膜外腔へモルヒネを投与し、臨床における薬物投与ルートとしての地位が確立した。 |
1986年 | WHOは、がんの痛みからの開放をめざして、がん性疼痛緩和のガイドライン:「Cancer Pain Relief」を発表した。WHO three-step analgesic ladder:モルヒネをはじめとして、限られた数の鎮痛薬の使用を基本とした疼痛治療法を発表した。 |
1986年 | Russell K. Portenoy (New York's Beth Israel Medical Center)とKathleen M. Foleyが、特定の慢性痛に対するオピオイド使用の有用例を示した。[PubMed, Pain. 1986 May;25(2):171-86.] |
1988年 | anesthesiology-based postoperative pain management service.として、Patient-controlled epidural analgesia (PCEA)が導入された。[PubMed, Anesthesiology. 1988 Jan;68(1):100-6.] |
1990年代 1994年 | 1990年代にκ受容体様受容体のクローニングが契機となり、μ, δオピオイド受容体がクローニングされた。さらに1994に、未知のオピオイド受容体:オーファン受容体(opioid receptor-like 1: ORL1)がクロスハイブリダイゼーションでクローニングされた。 |
1992年 | Christopher J. Evansら*とBrigitte L. Kiefferら*のグループが独立して、DOR(δオピオイド受容体)のcDNAのクローニングに成功をした。 |
1993年 | 南 雅文ら(元京大薬学、現北大教授)がKOR(kオピオイド受容体)*、MOR(μオピオイド受容体, 1994年)*のcDNAのクローニングをした。 |
1994年 | 福田和彦(京大麻酔科学)らがラットオピオイド受容体δ,μサブタイプの一次構造とcDNAからの発現*。 |
1997年 | Abba J. Kastinらが、μ受容体に特異的に結合するエンドモルフィン-1,2がウシの脳から単離した。 |
2002年 | 経皮吸収型持続性癌疼痛治療剤「デュロテップ®パッチ」(フェンタニルパッチのリザーバー製剤)が本邦でがん性疼痛の治療薬として発売された。 |
2006年 | 本邦で麻薬性鎮痛薬レミフェンタニルが発売された。1972年↑のフェンタニル発売以来、35年ぶりの全身麻酔に使用できる麻薬性鎮痛薬が増えた。 |
2008年 | 経皮吸収型持続性癌疼痛治療剤「デュロテップ® MTパッチ」(フェンタニルパッチのマトリックス製剤)が本邦でがん性疼痛の治療薬として発売された。 |
2010年 | 経皮吸収型持続性癌疼痛治療剤「デュロテップ® MTパッチ」(フェンタニル)が慢性疼痛にも適応された。 |
Pain Relief |