ヘルマン・ヘッセ 翻訳の謎 Braunschweig
『漂泊の魂』の原題はクヌルプ(Knulp)であり、主人公の名前である。
それがなぜ『漂泊の魂』になったのか?
昭和8年春陽堂刊の植村敏夫訳(以後植訳)のそれは『プルヌク』(縦書き一文字)となっている。
昭和25年人文書院刊芳賀檀訳(以後芳訳)のものは『漂泊の人』となっている。
ヘッセは題名に人物名をつけることが多いのだが、不思議なことに別の邦題がつくことも少なくない。「ペーター・カーメンチント」(Peter Camenzind)は『郷愁』だし、「ゲルトルード」(Gertrud)は『春の嵐』だし、「ナルチスとゴルトムント」(Narziss und Goldmund)は『知と愛』、In der alten Sonne(古い太陽でといった意味。太陽は店の名前)は『流浪の果て』というようにである。こんな勝手な事許されるのか?と思うほどである。
原題と邦題の関係は映画において顕著である。
『沐浴(ゆあみ)』(ヴィクトル・トゥールジャンスキー監督。原題はモーパッサンの「従卒」L'ordonnance)のように邦題の方が評価されている珍しいケースもあるが、問題は良し悪しではなくオリジナルに対する介入の是非の問題だろう。
有名なケースは『アラバマ物語』(ロバート・マリガン監督)で原題は「To Kill a Mockingbird」である。
このMockingbirdが映画の中で重要なモチーフなので邦題の意図が不明である。さらにいい作品であるから尚の事残念に思う。おそらくMockingbirdの適当な訳がなかったのだろう。ただアラバマ州でアフリカ系の人たちの教会が爆破され数人の少女が亡くなった事件があり、その連想は映画内容と連動するので批判されないのかもしれない。
滑稽なケースとしてアラン・ドロン出演の太陽シリーズがある。
『太陽がいっぱい』(PLEIN SOLEIL)がヒットしてから、『太陽はひとりぼっち』はまだ許せる。原題は「Eclipse」で日蝕であるからやや太陽に関係がある(笑)。映画も音楽も良く好きな作品のひとつだが、ミケランジェロ・アントニオーニという巨匠の作品に勝手に邦題を付けたのだろうか?
太陽シリーズで許せないのは『太陽がいっぱい』のコンビ、アラン・ドロンとモーリス・ロネが出演し他にロミー・シュナイダーとジェーン・バーキンが出演したなかなかの作品(映画の良し悪しとは別)で原題は「LA PISCINE」でプールという意味である。
殺人(例によってドロンがロネを殺す)がプールで行われるからだ。付いた邦題は『太陽が知っている』なのである。殺人は夜に行われるから太陽は知らないと思うのだが…
007シリーズでは「ロシアより愛をこめて(FROM RUSSIA WITH LOVE)」の公開時の邦題は『007危機一髪』(007はゼロゼロセブンと発音)だった。外交的な問題があったのか(笑)ロシアという言葉は使われなかった。ただ後に『ロシアより愛をこめて』という素敵な原題にかわった稀有なケースである。
チャン・イーモウ監督の『初恋のきた道』の原題は「我的父親母親」(私の父親母親)であるが、英語タイトルも準備されていて、それは「The Road Home」であり邦題はそこからRoadをとったのだろうか?それにしても「初恋」とは安直である。
ここで言うRoadは文化大革命で弾圧された後に家に帰れたことをさすRoadなのでかなり重要な意味を持つ。昨今は韓国や日本の映画も英語タイトルをつけるようになった。
The Catcher in the Rye の邦題は『危険な年齢』『ライ麦畑でつかまえて』『ライ麦畑の捕手』『キャッチャー・イン・ザ・ライ』と4つもある。これは詩を間違えて引用したことに端を発するタイトルなので、訳者の悩みが分るものの、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』はTheを省略しているので最もまずい邦題かもしれない。
話をヘッセのクヌルプへ戻そう。
私はクヌルプの辿った道を歩きたくて(彼は徒歩旅行を好んだ)地名を書き出す作業に没頭した。
物語は病み上がりの主人公クヌルプがレヒシュテッテン(Lächstetten)の友人の所へ訪問するところから始まる。いわゆるクヌルプはワルツ(Walze:マイスター前の遍歴職人、あるいは放浪職人)なのだが、ワルツ制度を知らなかったため、それが単なる放浪に見え憧れた。なぜならフーテンの寅さんのように行く先々に知人がいるのだ。そんなこともヘッセを読ませるきっかけになったと思う。
ところがそのLächstettenが地図上では見当らなかったのだ。おそらく地図に出ない小さな地名なのかもしれなかった。語尾に就く、-stettenは南部に多い地名で、ヘッセ本人もドイツ南部バーデン=ヴュルテンベルク州のカルフに生まれており、南ドイツを舞台にした小説が多いし、シュバルツバルトは常にモチーフとなっている。
そしてその町で知り合う女性の出身地のシュバルツバルト(Schwarzwald)を越えたところにあると言うアハトハウゼン(Achthausen)も(この地名に関しては植訳では「八軒屋村」というルビを振っている)その女性とダンスをしに行くゲルテルフィンゲン(Gertelfingen)も、そのどれもが地図上で見当らないのだ。ただクヌルプが遠くまで旅をしたというたとえに出てくるブラウンシュヴァイク(Braunschweig)はニーダーザクセン州の首都ハノーファーの東にある。ところがこれがとんでもない問題をひきおこすことになる。