「心失者には生きる意味がない」この解釈の錯誤は事件をミスリードする

相模原障害者殺傷事件が僕たちに突きつけたもの【第8回】
森 達也 プロフィール

植松の思想の根源にあるもの

そろそろインタビュー時間は終わる。でももう少し聞きたい。『プリズン・サークル』を観ても気づくが、罪を犯した彼らはほぼすべて、幼少期や生育期に親や周囲の人から加害を受けている(TCの過程でその過去を思い起こす)。でも植松は、少なくとも大きな傷がつくような半生は送っていない。両親からは愛され、友人も多く、クラスでもリーダー的な位置にあった。教師を目指していたが、その夢を実現できなかったことが挫折といえば挫折だが、その程度の挫折は誰にだってある。そんなことで人を殺されてはたまらない。

なぜ彼は、役に立たない人は殺すべきである、という思想を持ったのか。怨恨でもなければ私欲を満たすためでもない。その根源には何が駆動しているのか。

……2行前に僕は、「役に立たない人は」と書いたが、これは正しくない。植松は実際にはそんなことは言っていない。彼が標的にしたのは、「意思疎通ができない人(心失者)」だ。

 部屋で寝ている利用者を指した被告から「しゃべれるのか」と聞かれ、職員が「しゃべれない」と答えると、被告は包丁で数回刺した。
 被告は別の部屋でも同じ行為を繰り返し、職員が「しゃべれる」と答えた利用者は素通りした。(毎日新聞2020年1月10日)
 

法廷で「植物状態の人は?」と問われたとき、「絶対回復しないわけではないのですぐ殺すべきではありませんが、安楽死させるべきだと思います」と植松は答えている。つまり殺害するかどうかの基準は役に立つか立たないかではなく、人としての意識を保持しているかどうか。例えば被告人質問が始まった1月24日の公判では、被告側弁護人と植松とのあいだでこんなやりとりがあった。

弁護人 (やまゆり園で)働いていくうちに考え方が変わってきたのですか?
植松 (重度障害者は)必要ないと思いました。
弁護人 安楽死させるべきなのは、障害のある人全てではないのですね。
植松 意思疎通がとれない人です。

峻別していることをとても明快に断言している。ところが彼の主張に対して、(数行前の僕も含めて)社会は、「役に立たない人は殺していいのか」と反発した。

補足せねばならないが、「役に立たない人は殺していいのか」と面会人から質問されて「まったくその通り」と答えたとの記事はある。法廷で殺害の理由に対して、「時間と金を奪っているから」と答えたこともある。重度障害を持つ娘の親である最首悟に送った手紙には、「国債(借金)を使い続け、生産能力の無い者を支援することはできませんが、どのような問題解決を考えていますか?」との記述がある。微妙であることは確かだ。でも少なくとも犯行当日の夜、殺害するかしないかの基準は「役に立つか立たないか」ではなく、「意識活動があるかどうか」だったことは(もちろん、発語するかしないかだけで内面がわかるのかと反論することも可能だが)事実だ。

つまり彼は彼なりに(正しいかどうかの判断はともかくとして)生命を尊重している。しかし「植松は役に立たないとの理由で障害者を殺害した」と解釈している人がとても多い。事件後に「LGBTのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子どもを作らない、つまり生産性がないのです」と寄稿して新潮45を廃刊に追い込んだ杉田水脈議員の騒動やイメージなどが相乗している可能性はある。

もう一度書くが微妙だ。でもこの錯誤は事件の解釈をミスリードする。彼の標的はあくまでも「役に立たない人」ではなく「意識活動がない人」だ。

そしてこの発想そのものは決して植松のオリジナルではない。この国は1996年に改定された母体保護法によって、障害を持つ胎児に対する人工妊娠中絶を認めている。かつての名称は「優生保護法」。母体保護と名称を変えたけれど、(意識がない胎児ならば)劣生を駆逐する(優勢を保護する)という本質は変わっていない。安楽死事件の過去の判例が示すように、終末期にあって苦痛のともなう治療を行っている患者に対する延命治療の中止(消極的安楽死)も、いくつかの条件が揃えば認められている。ならばこの事件に対して、もっと違う角度からの考察や煩悶が必要なのではないか。

僕のこの質問に対して、郡司はしばらく沈黙した。

「……私も妊娠しているとき、決断を迫られたことが2回あるけれど、検査はしませんでした。検査すること自体が生命を選別することだと思ったんです。重複障害を持って生まれた子であっても、親にとっては愛おしい命です」

「郡司さんはそうだった。でも世の中には、障害を持っていることが判明して堕胎することを決意する親もたくさんいます。そのための法律です。でもそれを僕たちは責めることができるのか。僕だって悩むと思う。その子はこの社会で幸せになれるのか。あるいは自分はその子を養育する負荷に耐えられるのか。先に死ぬのは親である自分です。ならば意識や自我がない今のうちにと考えたとしても……」

言い終えて僕も沈黙する。介護に疲れきって夜半に、この子がいなければと一瞬だけ思う人を僕たちは責めることができるのか。この世は生き地獄だから一緒に死んで楽になろうと考える人を、非難して断罪することができるのか。