でも今回の嘱託殺人事件は、これまでの安楽死事件とは明らかに内実が違う。二人の医師と被害者との接点はSNSだけだ。二人がマンションを訪ねてから薬物を投与して立ち去るまでに要した時間は10分。あまりに軽い。そして薄い。ぺらぺらだ。二人の医師の行動に葛藤や煩悶は欠片も見当たらない。まるで自動販売機のように機械的だ。
命の価値。命の査定。命への見積もり。あなたの命はあなたのもの。私の命は私のもの。どう扱うかは私が決める。
でも、あなたは一人だけで生きているわけではない。ならば他者の思いをどこまで尊重すべきなのか。私が意志発動の手段を失っている場合はどうするのか。そもそも意志はどこにあるのか。大脳皮質か。身体全体か。他者との関わりの中にあるのか。この人は生きることで苦しんでいる。ならば死ぬことに手を貸すべきか。自分だったらどうしてほしい。……とりとめなく僕は考え続ける。ただし補足しなければならないが、安楽死の議論と相模原事件を同じ位相で語るべきではない。これこそ内実はまったく違う。でもひとつの可能性だけど、この嘱託殺人事件は、相模原事件が提起する何かに共振したのではないか。ならば考えねば。凝視しなくては。命の価値とは何か。すべて尊いはきれいごとか。相模原事件が提起する何かとは何か。僕はそれを言語化したい。見究めて次に進みたい。
Zoomのミーティングを設定してから郡司真子にURLをメールで送った。つまり僕はホストだ。でも当日、僕はすっかり予定を失念していた。まだ数日先だといつのまにか思い込んでいた。何度もメールに通知が来て、ようやく自分のミスに気がついた。あわててZoomに入る。一時間以上は待たせてしまった。普通はあきれて接続を切るだろう。でも郡司はパソコンの前で待っていてくれた。それだけではなく、まったく僕をとがめない。感謝しつつ不思議だった(とがめられなかった理由は最後にわかる)。
とにかく時間がない。そんな気の焦りと後ろめたさもあって、インタビューを始めると同時に僕は、この連載のテーマに近いことを、初対面の郡司にいきなり一方的にしゃべりだしていた。
「今この段階で、相模原事件や裁判について僕が考えていることを言葉にします。日本には死刑制度があります。現行の法制度においては、例えば3人以上殺したら、まず死刑になる。永山基準です。でもオウム以降は厳罰化が進んで、犠牲者が1人か2人の場合でも、死刑になる事例が増えてきた。ただ唯一、被害者が3人だろうが5人だろうが10人だろうが、死刑を免れる方法があります。刑法39条。責任能力がないと認定されれば、死刑を回避できる。
だから凶悪で大きな事件になればなるほど、絶対に加害者をそちらに逃がしちゃいけないという圧力みたいなものが、刑事司法やメディアに対して、もちろん社会全体でも働いているような気がしています。何が何でも責任能力ありにする。多少の矛盾や疑問はスルーする。裁判全体がこうして進む。ならば加害者の内面や事件の骨格がわからなくなって当たり前です。
一昔前に比べれば、明らかに動機が不明瞭な事件が増えてきた。それは相模原事件だけではなく秋葉原の加藤智大とか付属池田小事件の宅間守とか土浦連続殺傷事件の金川真大とか、何といっても麻原彰晃とか宮崎勤とかも、この系譜に入ります。これらはすべて、事件発生時には新聞一面を飾った大事件です。そして必ずのように、終わってみると動機がよくわからない。ある程度はわかる。でもある程度です。必ず曖昧なまま終わる。もちろん人の内面は簡単にわかるはずがない。動機も同様です。カミュが「異邦人」で示したように、すべてを明確に説明できるはずがない。でも少なくとも以前は、一つひとつの事件に対して僕たちは、もっと理解できたという感覚を持てたような気がする。メディアはこれほどに『闇』という言葉を濫用していなかったと思うんです」
一方的な僕の話をじっと聞いていた郡司は、同意を示すように小さくうなずいてから、「(加害者の)過剰な攻撃性ばかりが強調されていますね」とつぶやいた。「そして自己責任。ならば責任能力はあるから早く処刑しなければ税金の無駄使いだ。こうした世相に刑事司法が従属してしまっていることについて、私も強い違和感を持っています」