第7話 久しぶりの平穏
翌日、俺は春の若葉亭がある町――グリーンホロウ・タウンの公衆浴場で、体の汚れを綺麗さっぱり落とすことにした。
半月間のダンジョン遭難生活のうち、最初は湧き水を使って体を拭くよう心がけてきた。
しかし後半になるとそんな余裕はなくなって、細かいことは気にしなくなってしまった。
さすがにこんな状態で宿屋のベッドを使い続けるのは、悪質な嫌がらせだ。
「凄いな、まさかの露天風呂だ」
俺は早朝の公衆浴場に足を運ぶなり、驚きの声を漏らした。
浴場の管理人によると、グリーンホロウを囲む山々には天然の温泉が湧いているらしい。
そのままでは入浴に適さない熱湯なので、町へ引き込む間に川の水と混ぜたりして、ちょうどいい温度に冷ましているのだそうだ。
住人達は毎日のようにこの公衆浴場に通い、入浴を楽しんでいるという。
その割には利用者が俺一人しかいなかったが、単に時間帯の問題だろう。
こんな朝早くではなく、仕事が終わった後でゆっくり疲れを癒そうと考えるのが普通のはずだ。
「貸し切りみたいで、何かテンション上がってくるな」
まずは石鹸を使って、体中の隅々までを洗い尽くす。
次にヒゲを全て剃り落とし、最後にナイフで髪を大雑把に短くする。
入浴というよりも大掃除をしているような感覚だ。
「ふぅ、さっぱりした」
心の底から清々しい気持ちになって、湯船に身を沈める。
「……なんか、随分と痩せちまった。ダイエットなんて趣味じゃなかったんだが」
改めて自分の体を観察する。
半月に渡って何も食べられずに迷宮をさまよい歩いたことで、俺の体からは脂肪がこそげ落ちてしまっていた。
下手をしたら筋肉まで減っているんじゃないだろうか。
「むしろ、こういうのは『痩せた』んじゃなくて『やつれた』って言うんだろうな。ああ、嫌だ嫌だ。不健康な体重の落とし方しちまった」
皮肉と冗談を込めて笑いながら、お湯を浴びせるように二の腕を叩く。
何かと独り言をこぼしてしまう悪癖は、なかなか治りそうにない。
迷宮をひたすら孤独にさまよった後遺症だ。
いっそこういうのも【修復】できればよかったのだが。
入浴を終え、グリーンホロウ・タウンを一通り散策してから、春の若葉亭に戻る。
宿泊客の冒険者達は既に仕事へ出かけたらしく、宿のエントランスも食堂も閑散としていた。
部屋に戻って休もうかと思った直後、不意に黒髪の東方人から親しげに話しかけられた。
「ルーク殿!」
「ん? あんたは……」
「よかった。目を覚まされたとは聞いてはいましたが、外を歩けるほどに回復されていたのですね」
「……サクラ、だっけ。そっちこそ、怪我の具合はもういいのか?」
最初は誰かと思ったが、すぐに名前を思い出す。
シルヴィアをかばってドラゴンと戦っていた女サムライだ。
一目で気付くことができなかった理由は、単純明快。
あのときの俺は、ほとんどサクラの顔を見ていなかったからだ。
最初に駆けつけたときは後ろ姿で、剣を投げ渡したときも後ろから。
更にサクラはドラゴンを仕留めた直後に倒れてしまい、手当を始めてすぐに俺も気を失った。
結局、俺がサクラの顔をはっきり見たのは、合わせて一分にも満たない時間でしかなかったのだ。
これでは顔をよく覚えていないのも当然である。
というか、シルヴィアの顔だってすぐには思い出せなかったわけで。
サクラについても同じだったというだけのことだ。
「おかげさまで傷も残らず回復しました。この御恩、必ずお返しいたします」
「大袈裟だな……とりあえず、立ち話もなんだから中で話そうか。俺も色々聞きたいことがあるからさ」
春の若葉亭に入って食堂の椅子に座る。
すると、看板娘のシルヴィアが頼んでもいないのに立派な朝食を持ってきた。
「……自慢じゃないけど、金はないぞ?」
「そんなのいりませんってば。うちのお店からのお礼ですし、これくらいじゃまだまだ足りません。ルークさんとサクラがいなかったら、私はドラゴンのランチになってたんですからね」
「これから食事ってときに聞きたいジョークじゃなかったなぁ」
しかもメニューは肉料理だった。
「ルーク殿、ありがたく頂いてしまいましょう。好意を遠慮するのは無礼にあたります」
「口元めちゃくちゃ緩んでるぞ」
「はっ! ……今のは見なかったことに」
「…………」
まぁ、格好つけて奢りを断れる状況じゃないのは確かだ。
ここは好意に甘えさせてもらうことにしよう。
俺とサクラが相席で朝食を取っていると、シルヴィアがサクラの隣に腰を下ろした。
しかも、何故か自分の分のランチまで持ってきている。
「仕事中じゃないのか?」
「休憩時間ですよ。ちょっと早いお昼ご飯です。お客さん達のランチタイムには、忙しくって食べられませんから」
今の時間帯は朝食には遅く昼食には早い頃合いで、食堂には客の姿がほとんどない。
もう少し経ったら、看板娘のシルヴィアにとって忙しい時間が始まるのだろう。
「にしても、薬草を取りに行ってドラゴンに遭遇するなんて災難だったな」
「不甲斐ない限りです。愛刀が折れなければあるいは……というのは言い訳ですね」
「そう言えば、サクラは冒険者なのか?」
俺がそう尋ねると、サクラは首を横に振った。
「いいえ、武者修行の途中の身です。この町には温泉での休養を目的に立ち寄りました」
ということは、サクラがシルヴィアの護衛をしていたのは、営利目的ではなく純粋な善意だったということか。
真面目な堅物というサクラに対する第一印象に、お人好しというイメージが上乗せされた。
「ルーク殿の剣を借りれば一太刀で仕留められた相手。私の準備不足と言うより他にありません」
「いやいや、武器が良かっただけで勝てるような相手じゃないぞ。万全の装備で挑んで瞬殺される奴だって珍しくないんだからな」
正直、昨日の戦闘は剣の切れ味以上に、サクラの動きの凄まじさが強く印象に残っていた。
瀕死の重傷を負ったままあんな動きができる奴なんて、一流冒険者でもそうはいない。
そういえば、サクラが持っていた刀は真っ二つにへし折れていた。
あれはどうしたのだろう。
……ということを考えた矢先、サクラの方からその話題を切り出してきた。
「ところでルーク殿。貴殿は【修復】スキルの使い手であると伺いました。ひとつ修復依頼を請けては頂けませんか」
「あの刀のことか。もちろんいいぞ。だけどまぁ、まずは腹ごしらえだな」