リベラルな非モテ論に共感できない理由 ―絶対的恋愛不可能性と無限に開かれた恋愛可能性の相克―

リベラルな非モテ論への反発

小野ほりでいさんの記事を読んで、以前から「リベラル(親フェミニズム的)な非モテ論」のアプローチを理性では理解しつつも自身の過去の非モテ経験に照らし合わせて反発を感じる部分があった私は、何か反論のようなものを書きたい気持ちがあった。一方で、そういう観点で記事を書き始めたら意外に論点が深くなったので、私の非モテ論のコアにある「絶対的恋愛不可能性と無限に開かれた恋愛可能性の乖離による苦しみ」という考え方を用いて各種非モテ論を整理しつつ、何故「リベラルな非モテ論」には共感できないのかを考えたい。当事者性を抜きにこの問題を語ることは不可能という立場から、この記事では「非モテ」と言ったときに「交際経験が一度もないが潜在的に恋愛を経験したい欲望のあるヘテロ男性」を主な対象として想定している。

絶対的恋愛不可能性と無限に開かれた恋愛可能性の乖離による苦しみ

恋愛に強烈な苦手意識を持つ非モテは、自身が恋愛を経験することは絶対に不可能だという意識に自覚的または無自覚的に束縛されている。その一方で、潜在的に恋愛を経験してみたい欲望がある非モテにとっては、身の周りのあらゆる異性に恋愛可能性を見てしまう。この絶対的な恋愛不可能性と抑え難く感じてしまう恋愛可能性の乖離が(過去の私のような)非モテの苦しみのコアだと解釈できる。

非モテ論の二大潮流

この苦しみを解消するためには

  1. 交際を経験する
  2. 恋愛可能性を放棄する

の2つのアプローチがあり、ここに非モテ論の二大潮流が生まれる。

恋愛を経験するという最もシンプルかつ効果的な解法

こういった苦しみの最もシンプルな解決法は、普通に交際を経験することだろう。性的パートナーができれば、世の中に広く流通する性的パートナーは一人までというモノアモリー規範によって、身の周りの異性に恋愛可能性を想定せずに済むようになり、恋愛は可能であって、かつ無限に恋愛可能性を見出すことはしなくて良いという苦しみのない境地に辿り着くことができる。

非モテに恋愛を経験させるというアプローチでは、非モテ特有の恋愛に不向きな認知を矯正するという観点が重視される。具体例としては、反リベラル的なものでは藤沢数希の「恋愛工学」のような非モテ向けの味付けがされたPUA、ナンパ論があり、そうでないものとしては、二村ヒトシすべてはモテるためである*1森岡正博草食系男子の恋愛学*2などがある。

ちなみに私自身もこのアプローチで非モテ(であった過去の自分の)救済を熱心に考えていた時期があった。

非モテに恋愛可能性を見出すことのナンセンスさ

その一方で、こういったアプローチは、前述した「自身が恋愛を経験することは絶対に不可能だという意識に自覚的または無自覚的に束縛されている」非モテのあり方と決定的に矛盾しているという点で、非モテ論としては半ばナンセンスとも言えるものだ。現に上述した例はどれも純粋な非モテ論というよりは恋愛ハウツー的な要素を多分に含むものとなっている。恋愛に不向きな認知を矯正して恋愛を経験しようというのはある種合理的な解法だけれど、非モテ論としては恋愛不可能性に向き合うものこそがその真髄に近いと言えるだろう。

恋愛可能性を放棄する非モテ

自らの恋愛可能性をどのように放棄するか、また、抑え難い恋愛への欲求に抵抗して確かに放棄できたとどのように自身を納得させるかという難題に対して、非モテ論の先人は知恵を凝らして来た。

MGTOWとブッダ

完全に自分はMGTOWだとわかっている男性は、女性との関係をすべて避けている。それは短期間でも、長期間でも、恋愛においても言える。そういう人は結局、社会そのものを避けている。

彼等は古今東西あらゆる偉人が残した「女性とは関わるべきではない」という思想・言葉を漁り、それをミグタウの起源として主張しているのだ。

彼等は「ミグタウは人間社会において消える事のない火であり、近年それにフェミニズムがガソリンをかけて燃え広がった」と主張している。

近年の動きでまず注目すべきは、ダイレクトに恋愛可能性を放棄するMGTOWだろう。また、reiさんの記事で触れられているように、ブッダもMGTOWに近い発言を原始仏典『スッタニパータ』に残している。

交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。

「犀の角のようにただ独り歩め」がMGTOW(Men Going Their Own Way)と酷似している点と言い、女性を糞尿に喩える現代的視点からは極めて女性蔑視的な言及と言い、あまりにも現代のMGTOWそのもので驚くほどだ。

二次元(非リアル)への欲望の転換

電波男

電波男

  • 作者:本田 透
  • 発売日: 2005/03/12
  • メディア: 単行本

恋愛資本主義社会では、女はモテない男にちやほやされる存在だ。女自体が「商品」なのだから。いかにモテない男から金品を収奪し、自分のために大量に消費をさせるかが、女の「商品価値」をはかるバロメーターなのだ。恋愛資本主義においては女は(若くて綺麗なうちは)「強者」かつ「勝者」であり続けられるのだ。だが、オタク界は、男だけで成立しており、女は脳内の萌えキャラで代替されている。オタクにとっては、三次元の面倒臭い女よりも、二次元キャラのほうが「萌える」のだ。故に、たいていのオタクは三次元の女に対し、恋愛資本主義のお約束となっている奉仕活動を行わないし、彼女たちの機嫌も取らない。男だけ、自分だけで自足している。

今となってはかなり昔感もあるけれど、日本における非モテ論の代表的存在の一つとされる本田透の『電波男』は、二次元のキャラクターを恋愛対象とすることによって、リアル(三次元)の女性への恋愛可能性を放棄する議論と解釈できる。本田透の議論でもまた、上に引用した部分のように恋愛資本主義批判にかこつけた女性蔑視的な言及が多用されている点に注目したい。

ウエルベック非モテ論の隆盛

ここまで見て来たのは、直接的にリアルでの恋愛可能性を放棄する非モテ論だけれど、恋愛可能性を放棄する非モテ論の亜種として、近年強い影響力を持つ「ウエルベック非モテ論」と私が認識している非モテ論がある。

服従 (河出文庫 ウ 6-3)

服従 (河出文庫 ウ 6-3)

女性が男性に完全に服従することと、イスラームが目的としているように、人間が神に服従することの間には関係があるのです。

ウエルベックの『服従』は、2022年のフランスにイスラーム政権が成立する小説だけれど、非モテ論的観点に絞って引用したい。以下は、イスラーム政権に降るように主人公を勧誘する役回りのルディジェとの会話だ。

「(中略)(筆者注:主人公が結婚相手を)本当に選びたいと思っているのですか」
「それについては……ええ。そう思います」
「それは幻想ではないでしょうか。あらゆる男性が、選ばなければならない状況に置かれたら、まったく同じ選択をします。それが多くの文明、そしてイスラーム文明において仲人を作り出してきた理由です。この職業は大変重要で、多くの経験を積んだ賢い女性だけに限られた職業です。彼女たちは無論、女性として、裸の若い女性たちを見て、一種の価値評価をし、各人の身体と、未来の夫の社会的地位とを関係づけます。あなたのケースについて言えば、あなたはご不満に思うことはないと思いますよ……」

(小説内の架空の)イスラーム社会では社会的地位に応じて半自動的に魅力的な女性があてがわれると言うのだ。そしてこの発想は日本のTwitterを中心とした非モテ論に大きな影響を与えている。

そりゃそうでしょ。テポ東や、エタ風さんのネタ元がウェルベックで、テラケイは、その二人からパクってるだけなんだから、元を辿ればウェルベックに似るだろうね。

流石に「女をあてがえ」と明示的に主張するのはテポ東さんくらいと思われるけれど、非モテ論の文脈で「女性が半自動的にあてがわれるプロセス」として「(架空の)昭和のお見合い結婚文化」がユートピア的に持ち出されることは多い。

また、大量の統計をいかがわしく活用することで有名なすももさんなど、主に「女性の上方婚志向」への批判を軸としてリベラルやフェミニズムの欺瞞を指摘するネット論客もこのウエルベック非モテ論の一種と解釈できる。

現在この系統の議論を得意とするTwitterのアルファ、準アルファのアカウントは非常に多く、今の日本のネットで最も広く流通し、勢いがあるのはこの系統の非モテ論だと言えるだろう。

私がこれらの議論を「恋愛可能性を放棄する非モテ論の亜種」と述べたのは、まず「女性が半自動的にあてがわれるプロセス」を希求するのは自由恋愛を忌避する欲求に基づくことと、これらの議論を支持する人々の多くが言葉とは裏腹に本当に女性があてがわれる保守的な社会の実現を求めている訳ではなさそうという点にある。と言うのも、フェミニズムやリベラルの欺瞞を指摘するための言い回しは熱心に工夫する一方で、フェミニズムのように権利運動レベルで保守的な社会の実現に向けて活動している人はほぼ存在しないように見えるからだ。自由恋愛可能性を否定するフィクションとして、「女性が半自動的にあてがわれるプロセス」をある種現実逃避的に求めているのがその本質ではないだろうか。

フェミニズム非モテの相性の悪さ

必ずしも私に網羅的な非モテ論の知識がある訳ではないけれど、これまで見て来たように、広く支持される非モテ論の多くと女性蔑視的言及には半ば必然とも言えるような関係があるように見える。

その一方で、そのことが必ずしも非モテ男性の多くが反フェミニズム的思想を持っていることの証左にはならない。自身の恋愛可能性を抑圧する非モテは、非モテ論にわざわざコミットしたいと思わないケースも多いだろう。私の場合は非モテ時代から一貫してリベラル、フェミニズム支持の立場だった。

しかし、今非モテ時代の自分を振り返ってみても、フェミニズムの知識は非モテ意識のこじらせを強化する効果を持っていたように思う。上の赤木さんや琵琶さざなみさんの議論は相当極端に書かれているように見えるけれど、これに近い錯誤は当時の私にもあった。実際の女性とのコミュニケーションがまともに出来ていない状態でフェミニズムの知識だけがあって、そのことが頭でっかちで痛々しい認知の歪みを生じさせていたのだ。

リベラルな非モテ論に共感できない理由

さて、長大な前置きを書いて来て、やっとタイトルの本題に入る。ここまで触れて来なかったけれど、リベラルの立場からも「恋愛可能性を放棄する非モテ論」を構想することが可能だ。

ジェンダー論やフェミニズムは「女性が男性から」自立するという視点で繰り広げられるが、これは同時になぜ男性が女性から自立することができないのかという問題でもある。男たちには、「他者を介して」しか幸福になることを許されない呪いがかけられているのだ。

リベラルな非モテ論は、フェミニズムジェンダー論を応用して、非モテの欲望の相対化、脱自然化を試みる。それは典型的には、非モテの苦しみを「男性ジェンダー(男らしさ)の呪縛」として解釈したり、異性愛中心主義(ヘテロセクシズム)の内面化を批判したりするなど、非モテの苦しみの原因を保守的ジェンダー規範の抑圧に求める議論になる。

私が自身リベラル、フェミニズム支持の立場でありながらこういった非モテ論に共感できないのは、端的に非モテ当事者の立場を軽視しているように感じるからだ。現にTwitter小野ほりでいさんの記事への言及を検索すると、記事に強く反発する非モテ当事者の声が多くヒットする。

そもそも非モテが脱規範的生き方を望んでいるという前提がまったくないのに、コミュニケーションに対する足場も固まっていない非モテに脱規範的な生き方を要請するのは、脱規範的生き方を抑圧下の逃避ではなく主体的に選択できる立場からの押し付けではないだろうか。

ではどうすれば…

これまで見て来たように、「非モテが恋愛を経験すること」と「女性の人権を尊重すること」の両立には何か決定的な相性の悪さがあるように思えて、この点を上手く解消できる理論については私も相当な時間を割いて思索して来たけれど、これだと言えるほどの解は未だに得られていない。

特に何か明快な答えという訳ではないけれど、私は烏蛇さんの「幸運(確率)」を評価する考え方が好きだ。確率、幸運ラック、そういうもので人生が大きく動くということは往々にしてある。ありのままの欲望を受け容れることができれば、あるいは。

*1:自身のキモチワルさと向き合い、性的欲望の形を把握することで非モテ的状態からの離脱を目指す。具体的実践としては、性風俗で女性に慣れることや、趣味のコミュニティでの出会いの可能性を説く。

*2:女性の立場を尊重した共感的コミュニケーション能力の醸成を試みる。