orangestarの雑記

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のび太の新恐竜についての追記および、映画よりも度し難いのは映画を見ずに語るひとたち。


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映画よりも度し難いのは映画を見ずに語るひとたち。

※これは前回の記事
orangestar.hatenadiary.jp
の追記記事です。

 前回のドラえもんのび太の新恐竜についての記事。上げるべきかどうか悩んでいたのだけれども、やっぱり上げるべきではないと思った。
あの記事の感想をいろいろみた。「見ていて言葉にできなかったモヤモヤがすっきりしました」という感想が一番多くて、自分の言葉で自分の中のモヤモヤを形にしたらいいのに、と、思ったりはした。
 せめて、どこをどう思ったみたいな具体的な事を一つでも書いて欲しかった。それは、誰かの意見に左右されないその人自身の感想だから。
 この前のエントリの怒りは僕自身のもので、他の誰かのものじゃない。怒りを覚えたとしてもそれはその人の中にある、何らかの根拠によるもので、それはきっと別のものだと思う。
 「たかが子供向けのアニメにムキになっちゃって」というような冷笑的な意見があったけれども、これは本当に失礼だと思う。僕にじゃなくて、アニメを作ってる人たちに。アニメを作ってる人たちは、本気で、ドラえもんとのび太たちが生きている物語を作ろうとしていて、そして作っていて、だから、自分も真剣になってそれに対して怒っている。そもそも子供向けだから子供騙しで良いなんて子供に対しても失礼だ。
 あの記事を読んだ人には誤解されてるみたいだけれども、のび太の新恐竜は決して駄作ではない。映画単体としての出来なら、新ドラ映画のたぶん5本の指に入る。本当にただの駄作なら、ああいうエントリは書かないし、書けないよ。
 しかし、一番度し難いのは「自分は見ていないけど、駄作だとわかった」「見てないけれども、ほんと今のドラえもんはクソだな」というような意見。自分で見ずに他人の感想だけで分かったような気分になる人間、他人の尻馬に乗って何かを叩くような人間が、一番度し難い。

名作駄作の基準は人それぞれであって、それは、人それぞれに受容体が違うから。

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傑作かどうかを周りの評価で判断する愚かしさ - orangestarの雑記
 これは以前書いたエントリなんですが、自分の意見ではなく他人の感想やセールスで名作と決めるのは、本当に愚かですよ。
 万人が万人とも、その本人の中にそれぞれ違う琴線と逆鱗を持っていて、それは他人にどうこう言われるものではない。自分は、自分の琴線と逆鱗にまかせてあのエントリを書いて、だから他の人も、自分で感じた感想を自分の言葉で自分の砂場に書けばいい。たとえ、どんなに名作だって言われていても、その人の中で駄作なら駄作だし、どんなに駄作だってその人の中で名作なら名作になる。
 緑の巨人伝が最高のドラえもんだって人間も世の中にはきっといる。いるんじゃないかな。いるだろ、多分……。自分の感想を言いますと、正直よくわかりませんでした…、でも世の中には緑の巨人伝が親ドラ*1だった人もいるのだ……
 だから、感想を言うときは本当に気をつかう。
 この間のエントリも上げようかどうかを迷ったのは、あの記事を読むことによって、不快に思う人がいるからです。それに、映画を作った人達も。(ほかのどんな映画やコンテンツもそうですが)
 それでも書いたのは、どうしても書きたかったから。そして、最近の、”批評でもほかの作品を悪く言わない”という風潮がどうかとも思っていたから。でも書くからには、なんで怒ってるのか、どうしてダメだと思うのかっていう根拠をちゃんと書かないとならないと思った。それが、真剣に映画を作った人たち、その映画を好きな人たちに対する最低限の礼儀だと思っているんですよ。
 だから、映画そのものを見ずに、伝聞やうわさ、セールスだけで、映画の出来不出来を論じるという人たちに、自分は与しません。

なんのために考証をし、設定を練り、キャラクターを作りこむのか。

 前回のエントリで『感動できるなら何をしてもいい』という不道徳が、こののび太の新恐竜にはあるんですよ。と書きました。書きましたけれども、でも、そもそもの話、すべての物語は”感動”させるための装置なんですよ。(この場合の”感動”というのは、一般的にいう”泣ける!”だけでなく、笑える、楽しい、怖い、物の見方が変わる、というような、人間の心の動きすべてです)すべての物語において、キャラクターはハリボテでできているし、背景(世界観は)書き割りです。舞台演劇と同じように。
 それを本物にする、魔法をかけるための仕事が、考証や世界観の設定、キャラクターの作りこみです。リアリティをだす仕事。ファンタジーでも、その世界の法則やルール(世界観)を作りこんで、その世界で起きていることはその世界の本当だと思えるようにする。キャラクターが生きているように、何を思い、何を見て生きているのかを、作りこんでいく。それはギャグ漫画でも同じでキャラクターが”生きている”って思わせないと、どんなギャグも面白くならない。(逆にキャラクターが生きていると、ちょっとした掛け合いでも面白くなる。カラブリ、BLEACHの4コマ漫画とかまさにそれ)
 そして、その仕事には、果てがない。歴史や事実は風俗は調べても調べてもきりがないし、キャラクターも、一人の人生すべてを作りこむのは難しい。映画の大道具小道具だって、作りこみには限界がある。どうしても”今はここまでしかできない”、というラインが存在する。テーブルの中に入っている誰も読まない芝居上も使わない手紙をちゃんとしたものとして作りこむことはできても、山を動かすことはできない。
 そして、その作りこみが甘いせいで、それが嘘だってわかってしまうと、キャラクターはハリボテに、背景は書き割りに戻ってしまう。
 そしてその需要レベルは人によって違う。みんながみんな知識があるわけじゃないから、例えば自分は中世ヨーロッパにトマトとジャガイモが出てきても、気にならないで、その中の物語を本当のことだと思うと思う。チャーチルを主人公にした映画をしたときに、自分はチャーチルのことをよく知らないから、でたらめな映画でも、リアルなんだと思ってしまうと思う。
 そして、その物語が見せようとしているリアリティ深度によって、必要とされる考証のレベルも変わってくる。厳密な18世紀の話を、生活をリアルに描くことを目的としている作品でその時代にない食べ物があったら、それはその作ろうとしてる世界のリアリティを毀損するけれども、そういう細かいことを気にしない痛快アクションだったら、そういうことは気にならない。
 また、リアリティレベルの調整ができてないと、覚める原因になる。ドラゴンボールの世界では人は階段から落ちたくらいでは死なないけれども、anotherの世界では必ず死ぬ。ドラえもんのび太の宝島では、のび太が垂直の壁を駆け下りたり、エネルギータンクのなかに飛び込んで平気だったりして、ドラえもん世界の肉体のリアリティを逸脱してしまったので、それで魔法が解けてしまった。
 今回の新恐竜で”恐竜→鳥”の年代が問題になるのは、この作品の物語のコンセプトが”恐竜→鳥”のミッシングリンクが明らかになる!というフィクションなので、それ以外の部分は”本当”にしないとならない。一番大きな嘘を『本当』に見せるために、それに関するところはそれ以外のところはしっかり事実を並べないとならない。今回、途中で酸素濃度の話が出てきて、”すごくうまく魔法をかけてきてくれてる、と思ったのに、一番肝心なところで、魔法が解けるようなことをされて、それで、ひどくガッカリした。
 でも、それが気にならない人もいるし、そういう人にとっては魔法にかけられたまま、すごく面白い映画だったのだと思う。
 (あと、感動させるためになんでもするって言ったら、藤子ドラも、感動手法の中の禁じ手の『自己犠牲』をやってますからね……。しかも三回も……。(海底鬼岩城、鉄人兵団、雲の王国)(そのうち、雲の王国では、不思議パワーで壊れたドラえもんがよみがえるまでやってますからね……)(それでも、辟易しないのはなんでだろう、そこに至る過程をエモく書かずに出来事として書いているからかも)(よくわからん))
 (あと、昔の特撮界隈では、見方の作法として『細目で見る』というのがあったらしいのだけれども(どう見ても偽物のセットを本物としてみる)そこらへんは自分のよく知らない文化なので……)

キャラクターは生きている、どこに?みんなの心の中に。

 うまく魔法がかかったとき、その世界は本当の世界になって、そこにいるキャラクターは生きているキャラクターになる。見た人の心の中で。その人の中に生まれた生きているキャラクターというのは、その人と一緒に生き続ける。なので、その人の中のキャラクターから逸脱したキャラクターの出てくる作品をみると、拒絶反応がでる。
 今回の自分のはソレだったし、ただ、その心の中のキャラクターはその人だけのものなので、今回のキャラクター造形に齟齬がない人もいるだろうと思う。(自分は基準点が藤子ドラになってるけれども、新ドラが基準点になってる人はそこまでずれを感じなかっただろうと思う)
 自分の中のドラえもんは、5歳ごろからずっと自分の中にいるドラえもんで(初めて見に行った映画は魔界大冒険、石にされるシーンは本当に怖かったですね!)そこから、藤子先生が亡くなってから少しインターバルが開いたけれども、飛び飛びでずっと見ていて、(飛んでいる間の映画は後で全部見直した)子供が生まれてからは子供と一緒にみて、最初は新しいドラえもんに戸惑ったけれども、今では新しいドラえもんも含めて、自分の中のドラえもんだ。ほかの人とは違う自分の中のドラえもん。そのドラえもんに対して今回の新恐竜はnot for meだった、客観的にみたらただそれだけのことなんだけれども、どうnot for meなのか、言語化しないと気持ちが整理できない性分なので…あんな長い文章に……。
 for me になるか、not for meになるかは、その人次第で、それで今回の映画はnot for meだった。普通だったらそれで終わりでいいのだけれども、なんであんなに憤っていたかというと、映画の出来が、ドラえもんと切り離した映画自身ではとても良かったからだ。
 でも、脚本家の人は、本当にドラえもんが好きで、心の中にドラえもんが住んでいるのだと思う。それは映画を見ててわかるし、ただ、脚本家の中に生きているドラえもんと、自分の中に生きているドラえもんが全く別なのだと思う。それだけのことだと思うけれども、真剣にお出しされたものには真剣に感想を書かないいけないし、許せないものには許せないと言わないといけない。

新恐竜はプロット、構成、キャラクター配置、シナリオの緩急が無茶苦茶テクニカル。ワクワクさせる描写がすごくうまい。

 自分にとってはnot for me だったけど、とにかく脚本がテクニカル。まず一つ目。観客の脳の負荷のコントロールが計算されている。
 映画でも、小説でも、漫画でも、演劇でも。見てる人間のの脳容量(負荷に耐える力)は一定で、だから、そのリソースをいい感じに管理するというのがパッケージ化されたコンテンツには重要になってくる。
 一度に変数(状況が不明な要素)が3を超えると一気に理解度が下がってしまうので、それを超えないようにするとか、逆に、単純なシナリオでも、変数を増やすことによって脳の負荷を上げて難解に見せけるとか。
 京極堂シリーズも解きほぐすとものすごくシンプルな構造をしてるのに、情報の出し方がうまくて(常時展開される変数が多い)、すごく難解な話を読んでるように思える。(さらにその出し方がうまいので、難解でも話が理解できる)
 これの難しいところは漫画や小説では後戻りしながら読めるので、負荷の限界を考えなくてもいいけれども、演劇や映画の場合はリアルタイムで時間が流れるので、瞬間的な負荷の限界を見極めながら作らないとならない。また、この脳容量は、よく動く絵や、音楽、そういうもの情報を理解、分解している間も使われるので、それも踏まないといけない。
 新恐竜は、この負荷の管理が成功している。
 のび太恐竜展→発掘→キューとミュー誕生→育つ→見せる→過去へ返しに行く→過去で仲間を探す
 までがシングルタスクで、記憶しておかなければならない情報、謎のまま結論や答えが示されない情報がない。(キューを返すかどうかのことを悩んでいるとき、自分で餌をとれて飛べないと生きていけない(だから返すのかどうかを真剣に考えないといけない)ということが問題にしなければならないことを、問題にされていないが、これは、多分、最初はその部分の会話なりがあったがこの負荷の管理のために意図的にやっていると思う)(シナリオの中に、それをにおわせる残りを感じる)
 そしてシングルタスクにした結果、くるくる動く絵や、魅力的なキャラクターに集中できるようになる。魅力的な秘密道具やその効果、ワクワクさせるためのギミックに。伏線として振られるジオラマを1億6500万年前に落とすシーンも、ギミックの合間、ちょうど静かなシーンに差し込んで、みんなが確実に覚えられる。
 その後、中盤、アニメとキャラクターに慣れてみる人間の脳の負荷が減ったころに謎のサル(キムタク)の登場、謎の恐竜(ケツァルコアトルスの影)の登場。謎を差し込んできて、中だるみしないようにしている。
 そして終盤、のび太とキューの感動的なシーンは、すべての謎が解かれてから。
 頭に入れる、残しておくべき疑問点がすべて解消された後に挿入される。その、ふたりの物語にだけ没入できるように。ぐいぐいと圧倒的な画面の情報をこちらに投げ込んでくる。
 絵の情報量も含めた脳の負荷を踏まえて脚本を書ける人間は稀有だし、素晴らしい技術だと思う。
 (宝島も、構成が凄くテクニカル。のび太たちがしていることは船に乗って何かを追いかける、という状態が続いてるだけなんですよ。状況がものすごくわかりやすい、そういう状態にもっていくためのプロットの組み方が整理されている。状況がものすごくわかりやすいから、人間の関係性のドラマをいくらでも入れられるし、状況がややこしいしずかちゃんサイドに尺も割けるし、観客も状況理解のためのリソースをさける。
 そして、やっていることは、純粋な追いかけっこ、が続いているだけなのに(だからこそ)その意味の切り替わりで関係性や、目的が変化していっていることがわかる。とてもきれいな構図だと思う。)
 ただ、そのために新恐竜では、のび太が、今までわかっていた問題に唐突に気付いたようになったり(飛べないと野生でやっていけない)、ジャイアンとスネ夫がどっか行ったことが意図的に無視されていたり、見ている間はおそらく気が付かない、気にならない矛盾点を作ってしまってる。(そしてそれが発生することも織り込み済みで、こういう方針をとっている)
 そして、二つ目。プロットの組み方とそのためのキャラクターの配置。
 この物語は、成長の物語、そして鳥から恐竜に代わる進化の物語だ。成長の話を作るときに、キューが一匹だとその成長の度合いがわからないので、比較としてもう一匹の恐竜、ミューを設定したのだけれども、この発想がでるっていうのが、すごい。出来上がりから見てるから、そうなんだって思うかもだけれども、誰も知らない恐竜の一般的な成長、を描くために、もう一匹出すっていうのは本当にコロンブスの卵で、なかなか出るものではない。すごいアイデアだと思う。
 そして、恐竜の進化の物語についても。その二匹用意するというのは、鳥になる(予定)の恐竜が、既存の滑空恐竜とどのようなところで異なっているのか(尾羽や体の形状など)を示すこともできる。一石二鳥というか、本当にすごい。(このギミックが最初、短所として語られて、それが長所として最後に示されるのも本当に心憎い)(だから、この話を努力による成長の物語ですよ、ってねっとりやられなければ(煙幕的にやってもらえば)このギミックで最後無茶苦茶泣いただろうし、神作品だ!って自分でもなったろうに、って思う)

あごだしで丁寧に作ったスープのラーメンに背油をたっぷりとぶち込んだような。

 とにかく、映画の構成だけでみると、感動させるための装置として、本当によくできている。ものすごく楽しい映画だと思うよ。
 でも、よくできているんだけれども、そのために特化しすぎていて、とにかく、いろんなものがチグハグになっていたり、意図的に無視されたりしている。それが本当に自分には許せなかった。
 ドラえもんとのび太のキャラクターも、そのために今までのものと連続性のないものになってる。
 途中、酸素濃度の話が出てきたとこから、おそらく、徹底的に白亜紀を調べていて、当時生息している恐竜や、”鳥”の発生年代も絶対に調べているであろうに、絵的な面白さを優先して、いろんな恐竜をいっぺんに出してしまったり(でも間違えて1億年前に行ったときにステゴザウルスを出したのはよかった。ああいうのは好き)”恐竜から鳥”への進化の発生年代を無視したりしている。(直接”感動”に結び付くところ以外の考証はとても丁寧にされているところからも、それはおそらく確かだと思う)
 上で書いた、一般の客が嘘だとわかる(魔法が解ける)知識のラインを、低めに見積もってる。観客に対して誠実ではない。子供含む観客を舐めているといってもいい。not for meだ。
 あごだしで丁寧に作ったスープのラーメンに背油をたっぷりとぶち込んだような。でも、構造も、構成も、背油なしでも十分においしいラーメンだし、おれはそのラーメンを食いたいんだ。成長と、巣立ちの、素朴な物語のドラえもんのび太の新恐竜が見たいんだ。
 作中で伏線が雑(学芸員とか)なところがいくつもあって、それがとても不思議なんだけれども、おそらく最初のプロットでは意味があったのだと思う。それを、”感動”のために骨が見えるまで、そして骨まで削っていってしまった結果、変に残ってしまったように思える。

うまくfor meにさせてくれ。

 映画としては、とてもいいんだ。うまいと思う。うまくfor meにさせてくれたら絶対に泣く。いろいろ書いたけど結局、そういうことなんだ。前回のは、だから、本当に個人的な文句なんだ。
 泣けるのもわかる。最高傑作だという人がいるのもわかる。でも、自分には、not for meだった。not for meだったんだ。
 そして、それは見る人によって違うから、not for me か、for meかは、自分の目で確かめてから言ってほしい。
 映画を見ずに、駄作だとか、失敗作だとか言わないで、みて、自分の言葉で映画の良し悪しを語ってほしい。本当お願いします。

自分には子供がいるのですが

 うちの方針として、子供が見たいものを見せるようにしていて、でも、まあ、『見せたい』作品というものもある。
 ただ子供が見たいと望んだものは法律の問題や余程の事情がない限り、できるだけ与えるようにしています。
 で、うちの嫁の話なんですけれども。嫁はドラえもんのび太の新日本誕生が地雷なんですね。どこが地雷かっていうと、物語そのものではなくて、親目線への目配せが大きい、親から子供を心配しているという描写があるところ、「それを観客である子供に見せる」ところ。親が常に子を心配しているというメッセージを子供に理解させようとしているところ。それは、多分、親子で一緒に見に来ていることへの配慮もあるのでしょうけれども、嫁はそれが苦手で。のび太たち(子供たち)の冒険は、のび太たち(子供たち)だけのもので、後ろ(親の方向)を振り返って欲しくない、全力で冒険できる年齢は短いという、哲学?みたいなものを持っていて。だから新日本誕生は観客の子どもの親のエゴに対する配慮が地雷だとか。ちなみに漫画版のび太の恐竜の、ラスト、机の引き出しから出てきた5人に、ママが「あら、どうしたの?みんなそろって」というのに対して、のび太がそっけなく「うん、ちょっとね」って答えるシーンがものすごく好きらしいです。(細部不明、今ちょっと手元にのび太の恐竜がなくて。家の中で遭難中)
 たしかに大長編ドラえもんは、子供たちの、子供たちだけの冒険だと思っていて、あんまり、大人への目配せがないほうがいいなあ、ってたしかに思いました。
 大長編ドラえもんは子供向けだからこそ、慎重に描かねばならないし、子どもを信用して、でも信用し過ぎずに、誠実に作って欲しいと祈っています。

そして新恐竜におけるのび太と、取り巻く状況について

 最近の学校のカリキュラムの方針では、子どものダメなところを叩いて伸ばすのではなく、子どもの長所、得意なところを褒めて伸ばしていく、という風に変わってきています。
 子どもの自己肯定感をあげていって、自信をつけさせていくというやり方で、そして、そのやり方の方が、最終的に子どもが伸び、全体的な底上げができるという事も実証されてます。
(そして当たり前のことですが、自己肯定感の高い子どもは精神的にも安定して、幸福度ももちろん高い)
 この作中でのび太は、苦手なことが多い、本当に駄目な子どもとして描かれています。
 本来の彼の得意なあやとりや射撃、大長編ドラえもんでよくあるスタンダードではない故に思いつく突飛な発想による問題解決など、新恐竜ののび太には一つも取り柄はありません。
 学校でも叱られ馬鹿にされ、自己肯定感をバキバキに折られて、正しいやり方が分からないまま逃避します。
 そしてそのバキバキに折られたやり方を、自分よりも弱い立場であるキューに強要しています。だってそれしか知らないから。負の連鎖。
 最後は感動的に終わって、のび太も、正しい方法は分からないまま、がむしゃらに特訓した結果鉄棒ができるようになるけれども、でも、その過程のやり方、それを是として描くことには問題があると思います。
 少なくとも、新恐竜で描かれたのび太のような傾向の子どもにとっては。

 うちの子どももあまり運動ができる方じゃなくて、逆上がりもできませんでした。
 でも、逆上がりができるようになったのは、スパルタ式の教育ではなく、褒めて、ちゃんと逆上がりのやり方を理論的に教えてくれる体操の先生のおかげでした。
 そこに大きすぎる感動はありません。でも、当たり前にできる理論や技術で向上していって一つずつ成功を積み上げて、自己肯定感を伸ばすという事が一番大事だと思っています。
 出来ない人間が必死に(傷を負いながら)努力してやっとできるようになる、というのは大きな感動だけれども、そのシーンのために、できない子の自尊心を削るようなことをしたら駄目なんですよ。 
 そして努力による成長を進化と子どもにミスリードさせることの罪深さはここにあると思っています。
 たとえば、誰かがのび太に逆上がりのテクニックを教えてくれたら、同じようにキューにただ努力しろと迫るのではなく羽ばたき方を教えるような描写があれば、また違ったのになと思います。
 またはさっき書いた本来ののび太くんの特技があれば、今回みたいな卑屈な子どもにならなかったんじゃないかなと思うと残念でなりません。
 
 これは子どもに届ける作品として、考証を削っていくのとはレベルの違うダメなことだと思っています。
 のび太の新恐竜は、とてもテクニカルで上手な映画なので、語られる言葉や感動が強く心に刻まれる映画なんですよ。
 その時に刻まれる感動がその後の人生にどう響いていくのか、子ども向けの作り手はもっと慎重に誠実に向き合ってほしいのです。

*1:人生で初めて観るドラえもん映画のこと