劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン - レビュー

長い長いエピローグ

長い長いエピローグ『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』レビュー

2度の延期を経て、ようやく公開の運びとなった『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』。2018年に放映された全13話から成るテレビアニメ版では、京都アニメーションの手による美しく繊細なアニメーションによって、1人の少女の成長を綴ったドラマが描き出された。

原作は、京都アニメーション大賞という一般公募による原作募集企画における、はじめての大賞受賞作。大きな戦争を終え、戦火の傷も癒え始めた架空の都市・ライデンで、戦うことしか知らなかった少女、ヴァイオレット・エヴァーガーデンが、手紙の代筆業「自動手記人形(ドール)」として成長していく。

ヴァイオレットという少女の成長と、彼女が生きる世界で出会う人々の人生を通して、多くの視聴者が『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という作品に強い思い入れを抱いた。今回レビューする劇場版は、そんな思い入れに応えるかのように、美しい作画やテーマ設定を用いて、どこまでも誠実な結末を与えることに腐心した作品と言える。しかしその周到さあるいは丁寧さは、本シリーズを貫く構造とぶつかり、一本の映画作品としての面白さを損なってもいる。

架空の職業・自動手記人形と、現実の職業婦人との巧みな対比は、劇場版でも貫かれている

『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』はテレビ版の後日談という時間設定になっており、ヴァイオレットは、すでにドールとしての地位を確立している。輝かしい実績の積み重ねと、きわめて美しい彼女の姿は大いに話題になり、彼女の代筆は3カ月待ちを要するほどの人気だ。

自動手記人形の用いる道具は、現実世界におけるいわゆるタイプライターと同じ機能を有しているが、ヴァイオレットたちドールの仕事はいわゆる口述筆記や手書きの文書の清書にとどまらず、依頼主の状況や感情をヒアリングし、ドール自身が依頼主の伝えたいことをまとめ、言葉として綴るという作業までおこなう。

大きな戦争が終わったあとに女性が手に職を持ち始めた現実の歴史的経緯と重なるように、ヴァイオレットは戦う以外の手段によって自身の姿をあらためて規定していく。職業婦人としての少女を成長と、感情の理解できないヴァイオレットが他者の感情を理解し、獲得するプロセスを重ねるこの設定は、きわめて優れたアイディアであり、本シリーズを貫く大きな柱でもある。

そして劇場版は、テレビ版でヴァイオレットに手紙の代筆を依頼した女性の曾孫であり、その女性が遺した手紙をきっかけにヴァイオレットのドールとしての足跡を追う少女・デイジーの視点を導入することで、タイピストという職業が現在では廃れてしまったものであるという事実を想起させる。その道程は、彼女の成長を見届けた視聴者の時間もまた、すでに失われたものであると同時に、間違いなく尊いものであることを強く刻む仕掛けとなっている。

その意味で、本作はテレビ版で描かれたヴァイオレットの物語に一つの結末を与えるものでありながら、そもそも「感情を表出し、文字として綴る」という行為の価値にひとつの結論を与えるものでもある。これは、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という物語の構造そのものを総括する劇場版として、非常に的確なテーマだろう。

テレビ版に引き続いて物語を語る、リッチな作画と優れた音響

テレビ版や、2019年に公開された『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 -』などから引き続き、ライデンの街並みといった背景美術やヴァイオレットをはじめとするキャラクターたちなど、一つ一つのシーンのアニメーションはその一瞬一瞬に意味が込められているほどの繊細さを有しており、彼女たちの生きる世界をどこまでも美しく輝かせている。テレビ版から印象的だった光の表現も健在だ。ドラマの展開と同期するような陽の光の移り変わり、天候の変化を克明にフィルムに焼き付けるようなライティングなど、ヴァイオレットたちを浮かび上がらせる光は、終盤のキャラクターの心情の変化を記述するためのもう一つの装置として機能している。

抜けるような青空の下のヴァイオレット、夕暮れの中たたずむヴァイオレット、暗いランプの下のヴァイオレット、朝焼けの方へ向かうヴァイオレット。象徴的な彼女の金色の髪の色ひとつをとっても、それぞれの光の中での表現が使い分けられ、時間と風景に合わせた色彩設計も含めて、彼女がその世界に実在するように隅々まで気を配られている。

また、美しい背景美術と繊細なキャラクター描写は、その描線の細やかさから自然に一体のものとして認識でき、画としてのルックは実写的ではないにもかかわらず、アニメーションとして確かにリアリティが構築されうる画面設計がなされている。「外伝」で見られたダンスシーンのような印象に残る撮影こそ少ないが、本作でヴァイオレットに代筆を依頼する少年・ユリスの葛藤と、そしてヴァイオレットがギルベルトに抱く恋慕を描く上では、雨粒と水たまり、海の揺らぎなど、さまざまな表情を描き分ける水の表現や、クロースアップのシーンで徐々に変化していく表情など、世界と人物を丹念に描く演出と作画は、各キャラクターの個人的なドラマを語る上ではきわめて効果的に機能している。

ただ、感情のピークや物語の緊張の臨界点としてキャラクターの「泣く」表情が多用される点は、見る側としての感情が単調になるという意味で、「外伝」から引き続き引っかかる部分となった。

とはいえ、アニメーションの美しさに劣らず、劇中の音響は繊細なドラマを語るにおいて大きな役割を担っている。オープニング、下に空間があるであろう甲板を歩くヴァイオレットのヒールの音の、こもった反響を含む硬い音や、物語が大きな転換を迎える雨のシーンなど、アニメらしい絵ながらリアリティに寄せたアニメーションにふさわしい音づくりが、ヴァイオレットたちの生きる世界をますます豊かなものにしている。

後日談という枷が、アニメーションとドラマのリズムの乖離を生じさせている

他者の思いや感情を代筆として「書く」行為によって自らの感情を獲得していくヴァイオレットのキャラクターは独特だが、非常に説得力のあるものだ。「愛している」が理解できないというヴァイオレットの課題は、ヴァイオレットの特殊な生育環境に由来し、つまりは自身の特殊性に関わる問題としてはじめは視聴者にも理解される。しかし、ドールという仕事を通して視聴者が彼女の姿と依頼人を観察するうちに、ヴァイオレットに限らず、そもそもほとんどすべての人が自身の感情を正確に理解していない、伝えていないのではないか、という極めて普遍的な事実に気づく構造が浮かび上がってくる。

人間は生来的に感情を理解する、他者を愛することができるという前提は決して自明のことではなく、多くの逡巡や葛藤を経てやっと到達できるかもしれないくらいに難解なものなのだ。その成り行きは、観客にヴァイオレットが感情を理解するプロセスを追体験させるとともに、観客自身の中にある他者との関係性を想起させ、画面上で生じている出来事に強い共感性を付与させるという意味で、非常に巧みなものだ。

同時に、その構造が劇場版のストーリーテリングにある種の停滞を生み出してもいる。テレビシリーズとして放映されたアニメの劇場版という枠組みは、総集編的な内容だったり、あるいは本編に影響しないアナザーストーリー的な立ち位置だったりとさまざまだが、本作は完全にテレビシリーズの後日談という位置づけで、ヴァイオレットはドールとしての経験を通して成長を遂げている。アイリスやエリカといった同僚ドールはそれぞれの道を見つけ、物語の前面には出てこない。

上映時間は140分と、アニメーション映画としては長い部類に入る本作だが、起こっている出来事はそう多くない。ユリスとのドラマなど複数のプロットは用意されているものの、テレビアニメおよそ5~6話ぶんの情報量を有しているとは言い難く、しかしアニメーションの情報量はヴァイオレットの一挙手一投足にまで及んでいるため、ストーリーのリズムに乖離が生じているような瞬間もあった。

ことさらにドラマチックな展開を用意しないことは、個人の感情の機微にフォーカスを当てた本作のテーマに対する一種の誠実さではあるが、前述したとおりヴァイオレットの成長と感情の理解という大きな柱はテレビシリーズである程度達成されているがゆえに、全体としてドラマ部分には物足りなさを感じた。

また、アニメーションの詩情を優先させた結果か、サイドキャラクターの台詞と結果の因果がつながっていない部分、もしくは設定を生かすための強引な展開が見えるシークエンスが散見された。

劇中のキャラクターを俯瞰する観客としての設定の居心地の悪さ

最後に。本作は『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という作品とキャラクターの問題を顕在化させた点も付記しておく。

本作の大きなテーマは、ヴァイオレットとギルベルトとの絆、2人の間にあった恋愛感情の行く末だ。その成り行きを見守る過程で観客はヴァイオレットの健気で一途な想いに感動し、涙する。

しかし、戦地で徴用した子供を少年兵として運用するという非人道的な行為を看過したという点ではライデンシャフトリヒの軍部に所属していたホッジンス、ギルベルト、そしてディートフリートは明確に加害者だ。なおかつ、ギルベルトへのヴァイオレットの思慕は、たとえ2人の間に特別な感情の行き来があったとしても、ヴァイオレットと彼の立場の非対称性が前提となっている。実際、劇場で配布された特典小説のひとつでは、ヴァイオレットはディートフリートともそのような依存関係があり得た可能性が示唆されている。

ヴァイオレットの成長の過程で彼らの果たした役割は大きく、彼らの存在が不可欠であったことは間違いがない。実際、ギルベルトはヴァイオレットを少年兵として運用したことに強い罪悪感を覚えており、それが2人の関係性の枷にもなっている。しかしその枷を乗り越える経緯を物語として消費し、男女の恋愛感情とその成就という形に落としこんで感動する一連の感情の流れは、観客としては同時に苦いものである自覚は必要だろう。

女性として成長することによって、年齢、あるいは身分が上の男性との恋愛を成就させるという物語は少女向けのコンテンツの古典的な定型であるし、原作となった小説もかなりの部分そのフォーマットを踏襲している。ゆえにこの設定はジャンル的な要請であり、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』が特別に危うい作品であるとは言えないのだが、2020年の作品として、またアニメーション表現として、戦争あるいは戦闘シーンにリアリズムに寄せた描写に意味がある点を鑑みると、その点を頭の片隅に置いておきたいとは思うのだ。

総評

『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は、1人の少女の成長のひとつの区切りであると同時に、視聴者の思い入れにも優しい終わりを与えてくれる優れた完結編だ。美しい風景描写に、瞬きの瞬間まで描かれた人物のアニメーションは、テレビ版から変わることなくヴァイオレットたちの生きる世界を描出している。しかし、ヴァイオレットの成長というひとつのテーマは劇場版の開始時点でほとんど終わりかけていて、140分のランタイムの緊張感を維持するには物足りない。

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劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン レビュー
劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン
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Great
テレビ版からヴァイオレット・エヴァーガーデンの物語を追い続けてきた視聴者にとっては、彼女の物語を見届けるために必要な、終着点の物語。京都アニメーションの技術力、表現力を存分に注ぎ込まれた映像は変わらずに真っすぐに感動を届けてくれるが、すでにほとんど結論が見えたヴァイオレットの物語に対して、140分のランタイムとリッチな映像は過剰なものにも映る。