村岡恵理さんが語る「村岡花子と広岡浅子」

晩年の広岡浅子が御殿場二の岡の別荘で開催した夏期勉強会そこには後に赤毛のアンの翻訳者となり連続テレビ小説花子とアンNHKのヒロインのモデルとなった村岡花子も参加していました

村岡花子(一八九三〜一九六八)提供:赤毛のアン記念館・村岡花子文庫

二の岡の勉強会とはどのようなものだったのか浅子との出会いは花子にどのような影響をもたらしたのか──

今回は村岡花子の評伝アンのゆりかごの著者であり村岡花子の孫でもある作家の村岡恵理さんにお話をうかがいました

村岡恵理さん

浅子との出会い

──今でこそ広く知られるようになった広岡浅子ですがつい最近まではほとんど知られていない存在でした著書アンのゆりかごには浅子が登場しますが恵理さんはどういったきっかけで浅子のことをお知りになったのでしょうか

村岡:いつか祖母である花子の評伝をまとめたいと思い残された資料の整理をしながら記念館赤毛のアン記念館・村岡花子文庫を運営していましたそうした中かれこれ二十年ほど前になるでしょうか祖母の書斎を整理しているとセピア色をした肖像写真の束が出てきましたその中には外国人宣教師や柳原白蓮花子と親交のあった歌人さんの写真もありましたそしてその中に群を抜いて異彩を放つ一枚を見つけましたただ者ではないオーラを発している威風堂々としたドレス姿の年配の女性の写真でした

──それは浅子のメッセージが添えられているポートレートでしょうか

村岡:そうです風貌からして明らかに一般の女性ではなく添えられているメッセージも達筆なのできっと名のある方なんだろうと思いましたただし署名は浅子としかありませんでしたのでその時は誰かわかりませんでした

その後写真の整理をしながら祖母の随筆を読んでいると御殿場にある広岡家の別荘で開かれた夏期講習会いわゆる二の岡の勉強会に花子が参加していたことがわかりましたそこではじめて広岡浅子……あっ浅子とつながったのです

浅子が花子に贈ったポートレート東洋英和女学院にて展示中

愛する

安中花子嬢によみて贈る


友祈祷

相思う清き心をとことわに

神に祈りて深さくらべん

浅子

花子と浅子の出会い

──花子と浅子はどうやって出会ったのでしょう

村岡:誰が二人を引き合わせたのかどこではじめて会ったのかはわかりませんがおそらく日本キリスト教婦人矯風会きょうふうかいがきっかけだと思います

──矯風会というと日本初の婦人団体ですよね

村岡:はいその初代会頭を務めたのが矢嶋楫子やじまかじこ女子学院東京都千代田区の初代院長という方でしたジャーナリストの徳富蘇峰とくとみそほうや小説家の徳富蘆花ろかの叔母にあたる人物です矢嶋はキリスト教の教えに従って社会の風紀を正そうと矯風会を結成し禁酒運動禁煙運動などの活動を行っていました当時はまだ民法などが整っておらず子どもや女性の置かれた環境が恵まれていなかった時代です晩年に洗礼を受けた浅子は矢嶋に共鳴して矯風会の活動に参加するようになったようです

──浅子は矯風会で講演をしたりしていますよね

村岡:二人とも教育者だったので共通の問題意識を持っていたのかも知れませんね浅子は矯風会の会員にはなりませんでしたが二人には深い親交がありましたそして浅子の秘書を務めた千本木せんぼんぎ道子後に矯風会理事小橋三四子こばしみよこなどもその活動に関わっていました

──そして花子も矯風会に関わっていたわけですね

村岡:そうなんですおそらく東洋英和女学校現・東洋英和女学院の校長だったミス・ブラックモアイサベラ・スレイド・ブラックモアの推薦だと思いますが花子は若くして矯風会の書記を務めていました浅子が出席する会議に書記として花子が同席したことが二人の出会いかも知れませんね

花子にとっての特別な時間 二の岡の勉強会

──そして花子は浅子が主宰していた二の岡の勉強会に参加するわけですね

村岡:浅子は一九一四大正三年から一九一八大正七亡くなる前年まで毎年勉強会を開催しました計五回開催された勉強会のうち花子は少なくとも二回参加したと考えられます

──花子は矯風会で浅子と知り合ったとはいえ二の岡の勉強会は浅子が個人的に開催したもの花子はなぜそこに招かれたのでしょう

村岡:当時花子は山梨英和女学校現・山梨英和中学校・高等学校の英語教師として教壇に立っていました彼女は文筆の道に進みたかったのですが経済的な問題や東洋英和の給費生という立場もあって簡単に進路を変えることができず非常に歯がゆい思いがあったようです

一方で花子は矯風会の書記として機関誌の編集や執筆も続けておりそこが花子にとって社会との接点のようなものでした花子はそういう状況で今後歩む道を模索していた時期に浅子と出会いました浅子ってそういう人間に優しいですよね花子の置かれた状況や想いを知って勉強会に招いたのではないでしょうか

──一方の浅子も何かを模索しながら勉強会を開催していたような気がします

村岡:きっと浅子は日本女子大学校さえできれば世の中を変える女性を輩出できると考えていたと思いますところが実際にはせっかく大学校を卒業しても十分に活躍できる場がないことに失望もしていたようです

──そんな中で開かれた二の岡の勉強会ですが具体的にはどんなことが行われたのでしょうか

村岡:聖書や比較文化論などの講義が行われ活発な議論が交わされたようです特に文学のみを学ぶ場ではなくまた参加者に社会の改革を促すようなものでもありませんでした

──花子はどのような気持ちで参加したのでしょうか

村岡:勉強会に参加すれば何かを得られる同年代の若い女性から刺激を受け先輩から有益なアドバイスを得られることで悩んでいる自分の道が開けると思ったのではないでしょうか

勉強会に参加した女性はみな一種のエリートだったと思いますがけっして至れり尽くせりではありませんでしたみんなで食事を作ってみんなで掃除をしてという共同生活が基本でした

それから浅子のすすめでみんなで富士山に登ったりもしました高齢の浅子は登らなかったようですが花子にとってはその富士登山も大きな転機になったようです

──富士登山では何が得られたのでしょう

村岡:花子は一人でスタスタと登って行ったのですが八合目あたりでヘトヘトになってしまいましたそこで自分を置いてみんな先に登ってほしい帰りに合流すればいいからと言ったらしいのですが帰りは違う道を通るのでどうしても一緒に登らなければならなかったのですそこで一緒に行った人たちの助けを借りてなんとか頂上まで登りきったそうです

その時に花子は自分の思い上がりに気づきました当時の花子は結婚をする気もなく経済的に自立していることに誇りを持っていました原稿を書きながら生涯一人で生活していくと思っていたのでしょうねそれが思い上がりであった

──浅子としてはそういうことも見越して富士登山をすすめたのでしょうか

村岡:まさに浅子の狙いどおりだったのかも知れませんね社会を変えるために歩まねばならない道のりは富士山よりも険しいしけっして一人では登れないといったことを伝えたかったのかも知れません二の岡に集った若い女性たちには同志になってもらいたかったのではないでしょうか

──二の岡の別荘はすでに存在しませんが恵理さんは建物が取り壊される前に訪問されたことがあるそうですね

村岡:はいちょうどアンのゆりかごを執筆した二〇〇八年に行きましたその時の敷地は勉強会が開催された頃よりもかなり狭くなっていました建物に入って驚いたのが浅子の名声や地位を誇示するような華美な装飾などは一切なかったことですむしろ質素で合理性を重んじた造りになっていたのです別荘とは言うものの浅子はここでのんびり優雅な生活をしようとは思っていなかったのだなという感じでした浅子が別荘を建てた経緯はわかりませんがもしかしたら当初から皆でともに生活しともに学ぶ場にしようと考えていたのかも知れません

浅子と『赤毛のアン』の関係

──浅子と花子双方に関わりのある新たな資料が見つかったとのことですが

村岡:花子に赤毛のアンの原書を託したカナダ人女性宣教師のミス・ショーロレッタ・レナード・ショー一時帰国の折にカナダで出版した本で浅子を紹介していたのです私がミス・ショーの母校に行った時に本の存在を知りその後知人がその本をカナダで見つけてくれました浅子が紹介されていることはその本を読んで発見したのです

ミス・ショーが一九二三大正一四年に出版したJapan in Transition東洋英和女学院にて展示中

一部訳

浅子は自立心旺盛で負けん気の強い性格により手がけたことすべてに成功を納め偽善怠惰無気力遅鈍を憎んだ怠け者や悪人には恐れられ彼女に雇われていた人々だけでなくすべての働く人々にとって襟を正されるような存在だった

村岡美枝訳ミス・ショーが伝えた浅子広岡浅子のすべて日経BPムック 二〇一六年より

──どういう経緯で浅子がカナダで紹介されることになったのでしょう

村岡:この本は在日したカナダ人宣教師が当時の日本の女性を紹介したものです浅子は宣教師たちの目から見てもきちんと紹介したくなるような人物だったのでしょう

ミス・ショーと花子は教文館東京・銀座の出版社書店の同僚でしたがミス・ショーはその前に大阪のプール女学校現・プール学院に二十七年間勤務していました大阪には加島屋がありプール女学校の校舎もヴォーリズが手掛けたものです二人に直接の交流があったかどうかはわかりませんがミス・ショーが大阪で浅子のことを知り浅子について自ら調べて紹介したことは確かです

作家・村岡恵理の目から見た浅子

──恵理さんからご覧になられて花子にとっての浅子とはどういった存在でしょうか

村岡:後年花子は二の岡の勉強会が文学の原点だったと書いていますしかし二の岡の勉強会は文学を研究する場ではなく浅子も文学者ではありませんでしたではなぜ二の岡が原点になったかというと夢と希望使命感に溢れたその時間と場そのものが花子に大きな影響を与え文学者としての出発点になったのだろうと思います

また浅子の説く小我にこだわらずもっと大きな世界の中で自分が成すべきことは何か真我というものを見つけてほしいという言葉を受けて花子は社会の中で自分がなすべきことを考えますそこで出した答えが子どもと女性のための文学でした自分の好きな文学を自分ひとりの世界にとどめず社会に特に子どもと女性のために還元していこうと決意したのですこれが浅子のいう真我花子の使命感となったのです

──花子の人生にとって大きな意味を持つ勉強会だったのですね

村岡:その後の花子には子どもを亡くしたり関東大震災や戦争を経験するなど様々な苦難もありましたしかし花子の子どもと女性のための文学を社会に還元するという目的は決して揺るぎませんでした自分のためではなく誰かのためにという使命を持つことができた花子は幸福な人生を送ったと思いますその出発点しっかりとした目標を持つことができたのが二の岡の勉強会であり浅子との出会いであったと思います

──花子にとって浅子との出会いは運命的なものだったということですね

村岡:浅子という人はいわば巨木ですそして花子はその枝に止まった一羽の小鳥だったのです小鳥が行く先を探し求めていた時に非常に強く背中を押されそこから飛び立っていったのではないでしょうか

花子は生涯を通じて出会いに恵まれた人でした師に恵まれ友に恵まれ仕事に恵まれました

浅子は花子が出会った師の一人でしたミス・ブラックモアは人間的な基礎と文学への道を開いてくれた師でした佐佐木信綱歌人国文学者日本語の奥深さを教えてくれた師でしたそして浅子は社会とのつながりを与えてくれた師であり花子が社会のなかで追い求めるべき使命つまり真我を見つけさせてくれた師だったのです

──恵理さんにとって浅子はどういった存在でしょう

村岡:私たちは浅子の願い浅子が夢みた未来の延長線上にいると感じますそしてそれはまだ実現していないのだとも思いますなぜなら浅子ほどの存在がずっと歴史に埋もれていたのですから他にも歴史に埋もれている素晴らしい仕事をした女性もきっといるでしょうですから浅子が望んだすべての女性が活躍する社会はまだ実現しておらず私たちもその過程にいるのだと思います私たちは浅子の存在を感じながら浅子の願いをしっかりと受け止めその願いを繋いで前に進んでいかないといけないと思います

村岡むらおか恵理えり

作家一九九一年から二〇一四年まで祖母村岡花子の書斎を赤毛のアン記念館・村岡花子文庫として翻訳家の姉村岡美枝と共に著作物蔵書資料を保存現在は東洋英和女学院に寄贈また赤毛のアンの著者モンゴメリの子孫やプリンス・エドワード島州政府と交流を続け日加友好促進につとめている


主な著作

アンのゆりかご二〇〇八年 マガジンハウス二〇一一年 新潮文庫

村岡花子の世界 赤毛のアンとともに生きて監修二〇一二年 河出書房

花子とアンへの道本が好き仕事が好きひとが好き二〇一四年 新潮文庫

《撮影協力》
東洋英和女学院 村岡花子文庫展示コーナー