「学者の国会」学術会議を政権はなぜ嫌うのか? 両者の歴史を振り返る
「我が国の人文・社会科学、生命科学、理学・工学の全分野の約87万人の科学者を内外に代表する機関であり、210人の会員と約2000人の連携会員によって職務が担われています」(同会議のウェブサイトから)
学術会議会員の所属大学ランキングを表にまとめた(2019年)。
学術会議は時の政権に対して提言や声明を発信してきた。だが、これらをめぐって学術会議と政府が衝突することが何度かあった。
1963年、学術会議(当時の会長は朝永振一郎)は、アメリカ原子力潜水艦日本寄港の反対声明を出した。これが、総理府総務長官(当時、以下同)を怒らせてしまう。こんなやりとりがあった。
「『行政機関のひとつである同会議がこのような反対声明を出すことは遺憾である』と反省を促したが、これに対し朝永会長は『この声明は政府への勧告を一歩すすめた形のものである』として政府の主張をいれなかったため意見の一致をみず“物別れ”の形に終った」(朝日新聞1963年5月3日)
1974年、小坂徳三郎・総理府総務長官は「学術会議はホットな政治的問題に巻き込まれることのないよう慎んだ方がいい」と発言し、学術会議側を挑発する。野村平爾・学術会議副会長はこう述べている。
「政府の気に入った人が選ばれるのでは現在すでにいくつもある審議会と同じになってしまう。学術会議は、研究者の選挙によって選ばれ、時の政治勢力に左右されず、科学的判断に基づいて発言するところに存在意義がある」(朝日新聞1974年6月27日)
学術会議は「左翼の集まり」という見方は政府のみならず、大学教員からもあがっていた。東京教育大、筑波大で学長を務めた三輪知雄氏はこう言い切っている。
「大学自治と称するカーテンによって閉鎖された特殊社会であり、そこを職場とする教師たちにはお坊ちゃん的な甘さがあり、独りよがりの色合いが濃く、またおしなべて反権力的である。このような環境は進歩的左翼の育つ絶好の場であって、学術会議はおもにこのようなところから送り出された人たちから成り立っている」(『赤い巨塔「学者の国会」日本学術会議の内幕』時事問題研究所 1970年)