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中村氏の「真の貢献」について,長浜氏と同じく日亜化学工業の研究者である岩佐成人氏と山田孝夫氏,成川幸男氏の3人の主張は一致する(図2)。「青色LEDを作るために窒化ガリウム(GaN)を選んだこと。研究開発面で本当に1人で成し遂げたことは,GaN単結晶を作製したことだけ」。しかも,同じく研究者の向井孝志氏(図3)と妹尾雅之氏(図4)は「それも実験室レベル。量産工程での貢献は全くない」と証言する。
高輝度青色LEDや青色LDが光を放つには,三つの要素技術が必要となる。①下地層となる良質なGaN単結晶②p型GaN単結晶③発光層である窒化インジウムガリウム(InGaN)単結晶―だ。日亜化学工業にとっては,これらのすべてが「公知の技術」だった。
中村氏がツーフローMOCVD装置で(1)のGaN単結晶膜の作製に成功したのは1991年2月ころだが,当時名古屋大学の赤崎勇氏と天野浩氏のグループは1985年にMOCVD装置を使ってそれを成功させ,1986年には論文を発表している。(2)のp型GaN単結晶については,同じく赤崎氏と天野氏のグループがマグネシウム(Mg)をドープ*3したGaN単結晶膜に電子線を照射することで世界で初めて作製することに成功したと1989年に発表した。(3)のInGaN単結晶は,1989年に当時NTTの松岡隆志氏が世界で初めて作製したと発表している。「1989年から青色LEDの研究開発を開始した日亜化学工業では,先行する赤崎氏や松岡氏の論文を追試し,製品化することが目標だった」と,当時を知る向井氏と妹尾氏は言う。
中村氏は,赤崎氏のグループのGaN単結晶膜の水準に1年半~2年ほどで追い付いた。そして,さらに結晶の品質を高めることに懸命になる。
ところが,三つの要素技術の中で当時最も難しいと考えられていたのは,GaN単結晶のp型化だった。赤崎氏のグループが電子線照射によるp型化を発表していたが,他の研究者が追試しても簡単には再現できない状況にあったからだ。この難易度の高いp型化を日亜化学工業で実現したのは,中村氏ではなく,妹尾氏と岩佐氏である。
入社2年目の1991年,妹尾氏は研究目標としてp型化を掲げる。「自発的なもので,中村氏に命じられたものではない」(同氏)*4。走査型電子顕微鏡を使って電子線を照射したり,化学処理したりするがすべて失敗する。そしてある時,「電子ビーム蒸着装置」の電子銃を使うことを思い付いて実行すると,強力な電子線で割れた,MgをドープしたGaN単結晶のサンプルがp型化を示していた。
その後,妹尾氏は再現性の実験を繰り返す。確証を得たら中村氏に知らせるつもりだった。ところが,3日ほどたった時に中村氏に見つかり,黙っていたことを怒られたという。2人はこの実験を基に専用の電子線照射装置を外注し,1991年11月に受領した。
だが,結局この電子線照射装置を同社が量産工程で使うことはなかった。1991年に入社した岩佐氏が,わずか6カ月後の同年9月末に,加熱処理によるGaN単結晶のp型化(アニールp型化現象)を偶然発見したからだ。この方が量産性に優れていた。
薄いサファイア基板にGaN単結晶を製膜すると熱膨張の差で反りが発生する。岩佐氏はそれを抑えるために,サファイア基板に液状酸化ケイ素を塗布し,焼き固めることで反りを強制的に抑える方法を試した。そのうち,「加熱すると結晶の質が変わるのではないか」と考えた同氏は,p型GaN単結晶を加熱してみることにした。すると,MgをドープしたGaN単結晶は400℃ほどでp型からn型に変化するが,さらに温度を上げて600℃以上にすると再びp型化することを発見した。この実験を基に「加熱処理だけでp型化できる」と推測した岩佐氏は中村氏に報告する。ところが中村氏は全く信用しなかったため,岩佐氏は再実験して確認した後,報告し直したという。その時にも「そんなはずがない。間違っているだろう」と中村氏に否定されるが,岩佐氏が自信に満ちた態度で断言すると,中村氏は自ら確認実験を行った。
このアニールp型化現象を発見する上で岩佐氏は「中村氏から全く指示は受けていない。入社間もなくてほとんど口を利いてくれなかったほど」と証言する。後に中村氏は,妹尾氏や岩佐氏が実現もしくは発見したp型化現象を,理論を後付けした上で誰にも知らせずに,妹尾氏や岩佐氏と連名の論文として発表する。筆頭者(ファーストオーサー)は中村氏だった。
InGaN単結晶の作製に関しては,向井氏が中心となって岩佐氏と長浜氏の3人が遂行した。中村氏は岩佐氏と長浜氏に実験の指示を出していた。
1992年1月から青色LEDの開発に着手した向井氏は,引き継ぎのために数カ月かけて中村氏からMOCVD装置の運転の仕方を学ぶ。その途中の同年2月ころ,中村氏は偶然1枚だけInGaN単結晶を作製する。ところが再現性がなく,なぜできたのか分からないまま何カ月も過ぎた。「この間に中村氏はMOCVD装置を使わなくなった」(向井氏)。向井氏は試行錯誤するうちに,最適な条件を見つけ出し,かなり安定してInGaN単結晶を作れるようになったのが同年7月ころである。
ところが,当時のInGaN単結晶はInの含有量が少なく青紫色に光っていた*5。可視光ではない紫外線の波長を持つため暗い。そのため,不純物をドープすることで波長を青色領域へシフトする,教科書にも載っている「不純物準位による波長シフト」を試みた。ここで長浜氏が「中村氏の指示の下」,亜鉛(Zn)とケイ素(Si)をドープしたInGaN単結晶を作製し,当時の発光層を試作する。
こうして向井氏と岩佐氏,長浜氏の3人はInGaN単結晶を発光層とし,その下の面をn型窒化アルミニウムガリウム(AlGaN),上の面をp型AlGaNで挟んだ「ダブルへテロ」構造の高輝度青色LEDを試作する。この試作を「中村氏は行っていない」(向井氏)。
製品として高輝度に光るためには,電極にも工夫が必要となる。日亜化学工業は,ニッケル金(NiAu)を材料に選び,透けて見えるほどごく薄くした電極を発明し,「透明電極」と名付けた。透明だから光を遮ることがない分,明るくなる。NiAuには低電圧化の効果もあった。これに取り組んだのは,妹尾氏や先の山田孝夫氏,山田元量氏だった。
その後,歩留まりの低いツーフローMOCVD装置を改良し,後にツーフロー方式をやめたMOCVD装置を使って結晶を作るパイロットライン(少数生産ライン)の確立に主に貢献したのが向井氏で,電極を形成したり,保護膜を付けたりといったデバイス工程の主な貢献者が妹尾氏だったという。
日亜化学工業には「研究記録」が残っている。「月報」や「週報」,装置の使用記録などだ(図5)。それらによれば,中村氏がMOCVD装置で実験した記録があるのは「1992年2月まで」。月報や週報は「1992年5月まで」。中村氏は1993年までは実験の指示を出していたが,それ以降は自分で実験せず,他の研究者たちの成果を論文にまとめて外部に発表するようになった。論文はすべてファーストオーサーで,特許の発明者にも必ず名前を入れた。マスコミの取材や講演の依頼も同氏が対応した。「受賞時の賞金も同氏が1人で受け取った」(日亜化学工業)。
研究記録に基づく日亜化学工業の研究者たちの証言をまとめると「中村氏は青色LDの発明者ではないばかりか,厳密には青色LEDの発明者とも言えない。しかも量産工程にも全く貢献していない」―ことになる。
にもかかわらず,東京地裁が判断した中村氏の貢献度は「50%」。先の若手研究者たちが言葉を失うのも無理はないだろう。
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