一時代前のもの、今回は、バイト研きである。
【簡単な説明】
バイト研きとは、旋盤や平削盤などで使う切削工具(バイトという)を研磨することを言う。
実際は、「焼き入れ」に近い作業のことをいうらしい。
【活躍時期】
たぶん、明治時代から1960年代前半頃。
【絶滅危惧状態に至った時期】
切削工具の研磨の概念が変わったため。
【コメント】
さて、筆者の幼い頃の記憶にある風景を描くことにする。
時代は、1960年代前半。
筆者が小学校に上がる前の12月末。
多分、お餅つきの前後だったと思う。
母の実家では、小さな工場(こうば)を営んでおり、祖父と叔父、そして大叔父がその工場で仕事をしていたのだ。
主な仕事は、ナットの作成。
ベルトドライブの機械で、細長い鋼を切って螺子切をしていたのだったか。
詳細は不明である。
そう、作業の話。
年末で、仕事もお休みになった時期に、大叔父が工場の入口にある道具を持ち出して、何かを始めたのである。
高さ50cmの何かを焼く道具には、下に何かを回す仕掛けが付いており、大叔父が何かを焼くか温めるかしていたのである。
お餅つきの前の寒い日が続く中の陽だまりの下での風景である。
さて、あの道具と大叔父の行為が気になり、最近になって、父親に、あれは何だったのか、尋ねたのである。
一世代後の生まれである父親は、簡単に答えてくれた。
大叔父のやっていたことは、「バイト研き」というのだそうだ。
旋盤や平削盤を使う際に使用する切削工具のことを、「バイト」というらしい。
その工具は、使っていくうちに切れ味が悪くなったり使い勝手が悪くなるようだ。
なので、その手の職人たちは、自分たちで、愛用の「バイト」の焼き入れを行ったらしいのである。
そして、その時に、大叔父が使用していた道具は、「コークス炉」。
鉄製で五徳のように足が三本ある道具である。
足の上には、直径40センチくらいの、ちょうど焼肉鍋のように平底で淵が高くなっている円形の鉄の板(桶?)が設置されている。
板の下には、人間が手で回す「ふいご」が付いていたのである。
ちょうど、幼児向けの三輪車をひっくり返すと、その形状に似たものになる。
筆者は、三輪車のペダルを手で回し、その大叔父の行為の真似をしていたのである。
たぶん、大叔父は、そのコークス炉をふいごで適切な温度にまで高め、その炉の中に工具(バイト)を置いて、焼き入れをしていたのだろう。
(残念ながら、4-5歳の幼児では、そのあたりは記憶していない。)
たぶん、1910年代に生まれた大叔父が青年時代に学んだことと想定する。
なので、1930年代の日本の工場地帯のこの手の工場では、一般的に行われていた作業なのだろう。
今思うと、1960年代までは、小さな工場にも、小さなコークス炉が常備され工具の整備まで自前で完結してできていたのである。
その作業ができる技術者がおり、その伝承が家内工業の中で行われていたのだ。
このバイト研き、その一世代後の父の世代では、その存在等は知られていたようだが一般的に行われていたのだろうか。
工場が、生産性向上一辺倒になり、「無駄」とされることを忌避するようになったら、このような非効率な「バイト研き」は、排除・禁止の対象になったはず。
いや、それ以前に、そんな行動ができる明治生まれは、もう現場にはいなくなっていたのでは、なかろうか。
今、切削工具を使う技術者は、自分で工具の切れ味を加工するなんてことはするのだろうか。
工具屋さんで、文房具を買うように、新しいものを買っていそうである。
これはひょっとすると、この行為、日本に続いている「鍛冶屋」の伝統かも知れない。
考えれば考えるほど奥の深いものを、筆者は学校に行く前に見ていたのである。
このバイト研き、その後、みた記憶はない。
工場の前にあった五徳のような小さなコークス炉も、どこへ行ったのだろうか。
全ては一時代前のものとして、記憶の中にしか残ってはいないのである。