「党派間ゲバルト」被害資料

 一連の「党派間ゲバルト」での死亡者総計113名、負傷者約4600名以上、発生件数約1960件以上と云われている。被害者の分類は、死者、廃人同様の植物人間、不具者、自殺者、発狂者、重軽傷者という風に分類することが出来る。

 しかし、この基礎資料が作成されていない。「党派間ゲバルト」の是非を喧喧諤諤するにはあまりにもお粗末では無かろうか。以下、れんだいこの知る限りの資料化をしていくことにする。


 2003.9.12日れんだいこ拝


【「党派間ゲバルト」被害総合資料】

年度 死者合計 同負傷者 中核派死者数 同負者数 解放派死者数 同負者数 革マル派死者数 同負傷者数 他死者数 同負者数
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【中核派対革マル派の「党派間ゲバルト」被害資料】
 この両派の抗争の根は深い。そもそも60年安保闘争後のブントの分裂と、革共同の吸収、その後の再分裂から説き起こさねばならない。しかし、それは別章に譲ることとして、1970.8.4日の中核派による革マル派の東教大生・海老原俊夫氏のリンチ死から追う事にする。この事件から説き起こすことは、中核派にとってやや分が悪いことではあろうが、「リンチ死」というエポックを為したのがこの事件であったという画期性とここから両派の向自的な抗争が堰を切ったように始められたという意味で、やはりここに打ったてを据えることにする。

(「ネットマガジン『新左翼大論争』第2号」 参照)
年度 中核派による革マル派死亡者 同負傷者 革マル派による中核派死亡者 同負傷者
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70 8.4日、東教大生・海老原俊夫氏の死体発見、中核派のリンチ・テロで殺害されたことが判明。 8.14日、法政大に侵入襲撃し、中核派学生を捕捉、十数人に陰湿なテロ。
 中核派による1970.8.4日の革マル派の活動家・東教大生・海老原俊夫氏へのリンチ死事件に、革マル派が怒りを爆発させ、10日後の8.14日事件を起こした法政大に侵入襲撃し、中核派学生をテロた。その時のテロが陰湿酸鼻なものであった。以降やられたりやり返す際限のないテロが両派を襲い、有能な活動家が失われていくことになった。

 「海老原事件」以後、中核派拠点大学に対して革マル派の報復が全国大学で激化し、この中でいわゆる集団戦が大学構内や街頭・駅構内で展開され、中核派は、拠点大学から次々に撤退していった。
71 10.20日、美術学院院生・水山敏美が、横浜国大富士見寮で中核派に殺され、他数名重傷。 10.23日首都圏の中核派拠点大学に対する一斉テロ攻撃。
11.1日中核派の長谷川英憲杉並区議事務所を攻撃。
11.8日京都大学前でビラ配りをしていた中核派20名を襲撃。
12.4日中核派の活動家・辻敏明(京大)、正田三郎(同志社大)が死亡。

12.15日中核派の三重県委員長・武藤一郎が三重市でビラ配り中に襲撃され死亡。この時、革マル派は、病院の医者のコメントを引いて「これは持病の結核と風邪により、急性肺炎を起こして死んだ」と声明。その他、この時期に中核派の三人の政治局員が革マル派のテロにあう。 
 6.18-19日、琉球大学学生革マル派活動家町田宗秀氏死亡。革マル派によれば、民青による琉球大学男子寮襲撃によるもの。

 この間の経過が不明であるが、1971.10.20日中核派が革マル派の活動家・美術学院院生・水山敏美を殺害し、他数名も重傷を負っている。これに対し、革マル派は「中核派絶滅宣言」を行い、予告通リ攻勢にでることになる。この間中核派は為す術を持たない風であった。12.4日中核派の活動家・辻敏明(京大)、正田三郎(同志社大)が死亡。12.15日三重県委員長・武藤一郎も殺害される。中核派は、これを十二・四反革命と規定し、報復として「無条件且つ全面的に宣戦布告、カクマルに対する全面的殲滅戦争」を宣言。この時までの対応について、「十二・四反革命以前のたたかいは、70年闘争の爆発に追いつめられたカクマル派が時と所を選ばずにやりたい放題の襲撃をかけてきたことにたいする、われわれのやむにやまれぬ正義の反撃としてあった。それはまさに必要不可欠な反撃であった」と「戦略的防御段階の報復戦」と規定している。

 中核派はこの頃から革マル派をカクマルと呼ぶようになり、権力と一体となって中核派掃討戦に乗り出している「K=K連合」と認識し始めた。こうして、両派の後に引くに引けないテロ戦が開始されていくことになった。
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11.9日早大で革マル派による「川口大三郎君リンチ殺害事件」が発生。中核派シンパとみなされ、革マル派によるリンチ事件であることが判明した。

 1972.1.5日付け「解放」が「首ねっこ急所論」を述べる。9.4日反戦相模原闘争が主催されたが、この時中核派と革マル派がゲバルト会戦している。11.9日の「川口大三郎君リンチ殺害事件」は革マル派の汚点となった。命マル派は、事件に対し、概要「追及過程での意図せぬ事態でショック症状により死亡したものであるが、党派闘争の原則から実質的にはみ出す行為に走ったといわざるを得ない。一部の未熟な部分によって起こった事態であり、率直な自己批判を行う」と表明したが、余計に怒りを呼んだ。
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 1973.9.21で、中核派は革マル派への報復戦を開始する。「赤色テロ」を開始し、「戦略的対峙段階」突入を宣言。以降、中核派と革マル派の「党派戦争」が激化する。「ネットマガジン『新左翼大論争』第2号」によると、「清水序文」で、概要「73年9・21以来の中核派の対革マル派赤色テロは件数で436戦闘、完全殲滅43人、そのうち75年3・14以後の革マル派の死亡は31人」と主張しているとのことである。これに対し、革マル派の中核派テロ攻撃の死者(73年以降の)は、74年9月全逓の高橋氏、76年2月静岡大の2人、反戦世話人の橋本秀次郎氏ら約9人とのことである。解放派との「党派戦争」も含めれば、死亡者は100人以上ということになる。
74 1.24日東大生2名。神奈川大生。
2.8日琉球大学教養学部教室における誤認内ゲバ殺人事件。 
3月解放発行責任者・難波力二、堀内利昭
6.7日大阪産業大生。
10.3日革マル反戦の郵便局員。
12.1日元高校教員。
5.13日中核派反戦の区役所職員。
9.10日中核派反戦の郵便局員。
9.24日大阪市立大生。
10.15日工員。
中核派の政治局員・北小路敏、陶山健一を襲撃し、重傷を負わせる。
 1974.4.15日「解放」で、革マル派は中核派に対して「党派闘争勝利宣言」を出す。中核派はこれを「戦争終結願望」、「平和へのむき出しの願望」と論評。7.1日「解放」で、革マル派は革労協に対して「党派闘争勝利宣言」を出す。こうして、中核派及び革労協に対して無条件降伏を呼びかけた。

 その後、中核派、革労協の猛反攻が為され、その結果の自陣の損害(死傷者)について、「権力の謀略論」を主張し始める。

 これを初めて唱えたのは、7.29日付「解放」(第324号)であり、概要「1974年の6月に,わが同盟がブクロ=中核派との党派闘争に最後的な勝利をおさめたその直後から,国家権力は従来とは異なった形態における革命的左翼破壊の攻撃を開始してきた。すなわち、既に左翼党派としては崩壊し死滅したブクロ=中核派や社青同・解放派を、その指導部内におくり込んだスパイ分子をつうじて操りながら、『内ゲバ』を装った謀略をしかけることによって革命的左翼を破壊する」(「党派闘争論」~こぶし書房)との見解を述べている。

 8月中核派が「戦略的総反攻」を打ち出す。


 「産別戦争」の激化ー革マル派の中核派労働者へのテロで中核派が等価報復を宣言。中核派教育労働者・古川氏、川谷氏へのテロ、全逓労働者・高橋範行テロ死亡(74・9)。

 物理的攻撃だけでなく、「ナーバス作戦」と称して相手方に襲撃を予告したり、犬、鶏の生首等を送り届けるなどの心理作戦も展開されている。
75 3.6日革マル派幹部。
3.20日郵便局員2名(岡本良治2、中島章、25歳、28歳)。
3.27日川崎市役所職員・西田はるみ
4.1日元革マル派全学連中執。
4.26日革マル派政治局員ら2名(23歳、32歳)
5.7日高校教諭
6.4日大阪経済大生ら3名(21歳、24歳、25歳)
6.19日郵便局員22歳
7.17日立命館大生20歳
9.12国学院大生21歳
10.8立正大生21歳
10.27東大生22歳
12.14金沢大生25歳
3.14日、中核派書記長・本多延嘉殺人事件発生。革マル派は、「我々の同志難波力が襲撃されたことへの報復であり、権力と癒着している中核へのみせしめ」、「殺害を目的としたものではなかった。わが戦士の燃えたぎる怒りが激しくて、結果として死亡ということになった」と声明した。
 1975.3.14日中核派の最高指導者本多延嘉氏が殺される。革マル派は、3.28日中核派に対し一方的に「内ゲバ停止宣言」(3.28声明)を発表。「敵対派との激烈な党派闘争に圧倒的な勝利をかちとった。残る任務は小ブル雑派の残務整理のみ」と高言している。

 しかし、中核派の怒りは凄まじく、「復讐の全面戦争への突入、全面無制限戦争」を宣言し、直後から革マル派の「革マル派一人残らずの完全殲滅」を開始した。

 これに対し、「権力の謀略論」を強め、概要「(以後の中核派、革労協による攻撃に対し、)権力が、瓦解した中核派、革労協にテコ入れして、わが派に対する盲動を活用し最後的に双方を一掃しようとするものである」との見解を披瀝している。その後、この論法をエスカレートさせて、「ブクロ派(中核派)と青解派(革労協)は,自己組織の政治的延命をもくろんで国家権力の懐ふかくとびこみ,権力内謀略グループに助けをもとめた。このふたつの集団を権力の走狗にしたてあげた権力内謀略グループは,彼らを謀略追認役者としてあやつりつつわが革命的左翼の組織を破壊するための攻撃をくりかえし兇行してきた」、「(中核派や革労協が)明白に反革命として権力の走狗へと転落した以上、それらとの闘争はもはや党派闘争ではなく,対権力の闘いの一環となる」(昭和50年3月機関誌「共産主義者」)と捉え,両派との党派闘争を国家権力と対決する階級闘争の一環とみなすようになり、今日に至っている。

 6.27日「革共同両派への提言」(「6・27提言」)による内ゲバの停止声明が出される。埴谷雄高、色川大吉、井上光晴、対馬忠行、もののべながおき氏ら12名の発起人、11名の賛同人による。

 中核派は「100%拒否」を声明。同氏らの再提言「殺しを止めよ」(75年7月21日)。
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 12.5日山口県防府市で、中核派による革マル派襲撃事件(以下,「山口県防府市内襲撃事件」という)が発生している。革マル派は、「犯人は山口県警の現職警察官」と宣伝し、大々的に「権力謀略論」を展開している。

 梅本克己氏の内ゲバ論(「何を革命するのか-党派の論理と革命の論理」70年9月、朝日ジャーナル)が発表されている。「内ゲバの底をさぐっていけばそこにはかならず特権意識につきまとわれた『前衛意識』があり、大衆蔑視の思想がある」、「その大衆蔑視が自己絶対化に、そして他者の否定につながる」、「何が階級的であるかということも党派の論理によって決定」、「自己解体の論理の必要」(「何か」所収)等々と書かれている。

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 1.6日千葉県下の江戸川で革マル派活動家の日大生・水本潔氏が水死体で発見されている。革マル派はこれを「権力による謀殺、死体スリカエ事件」(以下「水本事件」という)と大々的に喧伝している。所轄の市川署は外傷などが見当たらないことから覚悟の入水自殺と判断したため、司法解剖はもちろん、行政解剖、血液検査も行われなかった。1月17日、市川署からの通報で駆けつけた両親が、遺留品は確かに潔のものであるが、死体写真を見るなり即座に「これは潔じゃない」と母親が叫んだ。後に歯型がまったく異なっていることが判明した。水本潔氏は、上智大事件の被告人であった。被告人死亡により上智大事件の裁判は控訴棄却されるところであったが、裁判団が結成され、死体は水本さんではないと争うことになった。結局東京地裁は、水死体が水本さんであるという検察側の主張を認め、控訴を棄却した。裁判は非公開で行われていた。まさしく密室の謀略である。なぜ革マル派とはいえ、重要な地位にはついていない水本さんがこのような謀略に巻き込まれたのか。その答えはもう得られない(「宇治芳雄「水本事件 現代の謀略を追う」)。
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80 9月動労中央本部教育宣伝部長・小谷昌幸氏がテロられ重傷。
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88 3月動労高崎地本委員長・松下勝氏がテロられ死亡。
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91 4月、中核派のけしば氏へのテロ、これに対する革マル派への報復テロ(91・5)。
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【社青同解放派対革マル派の「党派間ゲバルト」被害資料】


年度 解放派による革マル派死亡者 同負傷者 革マル派による解放派死亡者 同負傷者
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75 6.24元九州大生26歳
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77 4.15日革マル派4名を車の中に閉じ込めたままガソリンで焼殺した。 2.11日、革労協書記長・笠原正義殺人事件発生。事件後革命マル派は「革労協の最高指導者である中原一に対して、革命的鉄槌を下した。これはあくまでも、我々労働者、学生への彼らの反階級的な襲撃を未然に防ぐための防衛的戦いである」と声明した。
 最高指導者を殺された社青同解放派の怒りは凄まじく、「2.11反革命をとおして、わが革労協と反革命革マル派とは、彼我いずれかの絶滅をもってのみ決着のつく不可逆的な『戦争』関係に突入した」と声明し、中核派をも凌ぐ対革マル派戦争の全面に踊り出ることとなった。4.15日の革マル派4名殺害がその第一弾となった。
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(私論.私見)