李さんから聞いた怖い話・不思議な話

このまとめの作者が親戚の李さんから聞いた怖い話と不思議な話を掲載します。

更新日: 2020年03月14日

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この記事は私がまとめました

親戚の李さんは怖い話や不思議な話をたくさん知っています。それらの話を私の記憶だけに埋もれさせるのは惜しいと思い、ここに掲載する運びとなりました。

RichardGongさん

前置き-まずはこちらをお読みください。

表題の「李さん」は私の親戚です。苗字は「李」ですが、普段は日本名を使って生活しています。よく大陸や半島出身者の中に表札などにご自身の苗字と日本人名を併記している方々がいらっしゃいますが。李さんの家の表札には、日本人名だけが書かれています。李さんは普通の日本人です。
また、親戚の李さんは人数が多いため、以下に掲載した話の時代や場所は多岐に渡ります。この点、あらかじめご了承ください。
こちらに掲載した話は、本人のプライバシーを考慮して一部に仮名を使用しています。その上で本人から了解をもらい、ここに以下の話を掲載しています。

注意: このまとめに関して何らかの問題や損害、それらに類する事象が発生した場合、このまとめの作者はそれらに関する責任を負いません。この点をご理解の上、ご自身の責任の下でお楽しみください。

第26話 恨みの歌

李さんの子供一家か孫一家が体験した話。その家族は父親が羽振りのいい会社の経営者であるため、非常に金持ちだ。どのくらいかというと、カラオケや映画など、一般市民用の娯楽では一生かかっても使い切れないほどのお金を持っている、そんなレベルの富裕層だ。たぶん、プライベートジェットが買えるくらいの金は持っていると思う。
そんな金持ち一家がある日、パーティーを開催した。その家族と近しい人たちだけを呼んだ、かなりクローズドなイベントだった。パーティーの目玉の一つとして、その家族の父親が用意したのは、ある芸能人のコンサート。その芸能人というのが、李さんの遠縁の親戚にあたる人。日本でも大流行したK-POPのあるグループの、ある歌の上手いメンバーのことだ。顔写真を見せれば、「あっ、あのグループのメンバーだ」とわかるくらいの、有名な女性芸能人。
そのパーティーの参加者は、唸るほど金を持っている大富豪たちばかり。あらゆる娯楽を享受してきた彼らを普通の出し物で満足させることは至難の業。一家総出で知恵を絞った結果、思いついたのが「恨みの歌」。これは難易度が高く、歌うのが非常に難しいとされるそう。特に、その歌の歌詞がロシア語であることが、歌うのが困難な要因となっている。それでも李さんのその一家が一族の中から有名歌手を探すまでに至った理由、それはその歌を失敗せずにきれいに歌いきると、その人に繁栄が訪れるというもの。当然その歌に合わせて歌うこと自体が困難なので、繁栄を享受することは簡単ではない。加えて、その歌を歌っている最中、歌い手の元に「大いなる恐怖が訪れる」という言い伝えもある。しかしパーティー参加者に対するその一家の面子、そして歌によって一家が、ひょっとすると一族全体が手に入れられる繁栄のことを考えると、その歌を出し物として使う他はなかった。

パーティー当日、その芸能人が登壇したときの歓声は大きかったそう。何せその芸能人の彼女は世界規模で知名度を上げ、母国でも着実にキャリアを積み上げていたからだ。歓声は引き、コンサートの開始。会場は一気に静まり返った。その芸能人は練習の甲斐もあり、その歌をきれいに歌い切った。彼女自身、大きな手ごたえを感じていた。歌の最中、参加者たちは何も言葉を発さず、彼女一点に視線を注いでいた。それは彼女のパフォーマンスとパーティーの成功、そしてその後に訪れる李さんのその一家の繁栄を意味していた。

歌の後、会場に拍手の花火が鳴り響いた。
「すばらしいパフォーマンスだ」
「一体、どんな仕掛けだったんだ」
「あんなにすばらしいコンサートを、私は見たことがない」
賛辞の豪雨が降り注ぐ中、一人、凍りつく李さんのその一家の主。その父親が凍える恐怖に震えていた理由、それは、そのコンサートに種も仕掛けもなかったこと。

会場にいた全員が目撃者だった。その女性芸能人が歌っている最中、彼女の後ろには一人、また一人と、青白い顔をした女性たちが登壇していた。ある女には、目の周りに痣があった。別の女は全身が切り傷に覆われていた。さらに別の女に関しては顔の半分が焼け爛れており、いくつものコブが顔にでき、人のものとは思えないほど痛々しい顔の女もいた。そして彼女たち全員に共通していたのは、ひどくボロボロになった、とても汚く、粗末で、貧しい服を着ていたこと。

「恨みの歌」、それは虐待や暴力の犠牲になり、無念の思いで亡くなった女性たちの思いを綴った、悲しい歌だった。大いなる恐怖とは、亡くなった彼女たちが現れ、不幸など何も知らない者たちを、恨みの目で見つめること。

繁栄を手に入れた、李さんのその父親。
「それでも、あのとき感じた恐怖は忘れられない。今でもときどき夢に出てくる」
使い切れない富を獲得することが、必ずしも幸せとは限らない。そんな話でした。

第25話 離島の風習

みなさまの中に、離島に行ったことがある、あるいは自分が離島出身である、という方はいらっしゃいますか? これは李さんの孫かひ孫が、とある離島への旅行中に体験した出来事です。

離島の中には、本土から隔絶された場所に位置しているものがある。そのような離島では、本土では想像すらできないような風習や習俗が未だに存在する場合がある。李さんのその親戚も、そのような風習や習俗に巻き込まれた人たちの中の1人。
李さんのその親戚がまだ大学生だった頃、彼は夏休みに友達と旅行に行った。
「離島ってどうよ? 行ってみね?」
友達の提案に、二つ返事で賛成した彼。彼は友達2人と一緒に、とある離島にいくこととなった。

港からフェリーで揺られ、目的地に辿り着いた一行。島内観光は、半日程度で済んだ。一行は離島にある旅館へと向かった。出迎えてくれたのは、美人女将と若い女性の仲居だった。
「遠いところから、よくいらっしゃいました」
美人女将は華のような笑顔で挨拶すると、では、これで、と中へと戻っていった。客室へと案内してくれたのは、仲居の方。年も彼らと同年代で話しやすく、彼らは大学生活のあれこれについて、仲居は離島に来る客や島内や周辺のおすすめスポットについて話していた。
「東京に住んでるなんて、オシャレで羨ましいわ」
若い女の子のそんなお世辞に乗せられたこともあり、一行は
「この島を選んでよかった」
と思った。

客室とその内部、食事や風呂などの説明が終わると、最後に仲居は
「この時期は、夜は外出を控えてください」
とだけ言い、仕事に戻った。
「夜に出歩いちゃダメなのか!? なんでだよー」
「どうする? こっそり出かけるか?」
夜間の外出とは言っても、所詮は小さな離島の中。三人は話し合い、日のあるうちに酒やつまみを買い、客室の中で飲むことにした。

その夜は三人とも酩酊状態だったこともあり、記憶は断片しか存在していない。それでも三人の記憶の断片をつなぎ合わせれば、本土ではまず話題にすら上らないような異常事態が島内で発生していたことがわかった。
酩酊状態の中、三人とも「外がうるさい」と思っていたそう。最初はお祭りか何かをやっているのだろうと思っていたとのこと。それがもし普通のお祭りならば、楽器や太鼓の音、盆踊りで演奏されるような音楽が聞こえるのが自然だ。しかし、そんなお祭りではお馴染みの音が聞こえなかったそう。さらにそこに、悲鳴のような声が混じっていたという話だから、その夜の三人は、
「とりあえず、部屋にいよう」
という結論で一致した。

明くる日、離島での一泊二日の旅程通りに三人は帰りの船に乗った。そしてそこには、あの旅館の仲居もいた。
「実は、昨日突然辞めざるを得なくなって」
元仲居の雰囲気は明るく、話しやすかった。そうは言っても辞めた理由を尋ねるのも失礼なので、一行は前の晩のお祭り騒ぎについて彼女に訊いてみた。元仲居は表情を曇らせ、
「ああ、あれはね…」

元仲居のその人の話によると、その島では毎年夏に「婚期」が訪れるらしい。その「婚期」は世間一般の婚期とは異なり、「誘拐婚をしてもいい時期」とのこと。誘拐婚に関してはインターネットで調べれば詳細が出てくるので、ここでは簡単に触れておく。
誘拐婚とは、相手を連れ去り、連れ去った側の人間が連れ去られた方の相手と結婚することだ。
つまり、一行が聞いていた騒ぎと、歓喜の声に混じって聞こえた悲鳴は、誘拐婚の最中の音だったということになる。元仲居は、夜の戸締りをしっかりと行い、武器を側に置いて自宅に閉じこもっていたそう。

「私、親戚があの島に住んでるから、その伝手であの旅館でバイトしてたの」
夏が来れば、一部の男女が無理矢理結婚させられる。そんな島の風習に、元仲居は嫌気が差していたとのこと。若い女性がそんな島から出て行くのは、当然のこと。そして会話の最後に、元仲居は辞めた理由を明かした。
「お客様に出す食べ物をすり替えちゃったら、もう雇ってもらえないでしょ」
元仲居の話によると、一行の食べ物には睡眠薬が混入されていたとのこと。それをすり替えたのが、その元仲居だった。
「女将さん、あなたのことが好みだったみたいよ」
美人女将に狙われていたのは、李さんの親戚のその彼だったそう。危うく誘拐婚の被害に遭いそうだったこともあり、彼は複雑な心境だったとのこと。

第24話 李一族は中国人? それとも韓国人、朝鮮人?

読者のみなさまが興味をお持ちかどうかわかりませんが、ここで一度、ぜひ李一族について紹介させていただきたいと思います。

はじめに、李一族の祖先が、いわゆる土着の日本人(大和民族)でないことを知っている人間は、ごく少数です。一族のほとんど全員が日本人名を使っているため、この「ごく少数」に留まっています。一族のうちで一部の人間は日本人名を使っていませんが、それは国際結婚をした場合に限られています。そのため一族の人間は、わざわざ親しい人間と、それも「祖先が日本人でないこと」を話しても問題のない会話の空気や話題にならない限り、李一族の祖先の出身地の話を出しません。

ここで厄介なのが、この「ごく少数」の人間から必ず尋ねられる、以下の質問です。

「李一族って、中国人? それとも韓国人とか、朝鮮人?」

厄介である理由、それは、祖先の出身地に関して正確に言うと、
「そのどれでもない」
が答えだからです。苗字が「李」であるにもかかわらず、です。

話しやすいこともあり、一族の人間は上記の質問に対して、ほぼ全て以下のような回答をしています。

「来日前は、中国にいた」

これで李一族は中国人となり、無事に上記の「ごく少数」の人たちに問題なく理解してもらえます。

ですが、本題は、ここから。以下、Q&A方式で話を進めます。


Q1: 李一族の祖先は、どこの出身?
A1:少なくとも、辿れる限り昔の祖先まで遡ると、ロシア中部のとある民族にまで辿り着く。時代で言うと、10~11世紀、キリル文字の誕生から間もない頃。そのため正確に言うと、祖先はロシア人というのが、正しい答えとなる。これも、別に不思議なことではない。ロシア連邦は多民族国家であり、アジア人もたくさん住んでいる。このことを考えると、祖先をロシアに持つアジア人が存在することは、自然なことと言える。


Q2: 李一族の祖先は、どんな人たち?
A2: 詳細は不明。しかしロシアのとある民族として共同体を形成しており、そこで農業や狩猟採集、貿易などを営んで生活していた様子。大小どの共同体にも当てはまるが、当時はその共同体内で身分制度があったという話。カッコ内の言葉は、李一族の記録に残されていた文字をアルファベットに変換したもの。
一番上の階級が、「王(Koroll)」。
次に来る階級が、「王族(Korolevskaya Semya)」。
その次の階級が、「貴族(Dvoryanstovor)」。
最下層、かつ大多数の属していた階級が、「市民(Grazhedanine)」。

上記の身分制度の中で、最大権力者は「王」であり、辿れる限り一番昔の王は、「Vladimus」という名前だった。一族の記録には、この「Vladimus」の時代に記録の作成が始まったという記載がある。同時期に、李一族は他の民族と抗争、あるいは融合を活発に行い始めた。そのようにして李一族は大きくなり、様々な文化や風俗を取り込んでいった。


Q3: 李一族は、いつから『李』になったか?
A3: 残された記録によると、15~16世紀頃、日本の室町時代まで遡る。当時一族は明と交易し、中華社会に入り込んだ。このときに、一族は「李」という姓を使い始めた。これ以降、一族の中で他の民族、例えば女真族(現在の満州民族)や朝鮮民族との混血化が進むこととなる。
時代は流れ、明朝末期。李一族の混血化は進んだものの、一族と婚姻した民族はほとんどが漢民族以外。加えて、満州民族が台頭していたこともあり、一族は明を捨て、清の側についた。これが好機となり、李一族は清朝政府の要職に就くこととなった。

Q4: いつ、どうして李一族は来日したか?
A4: 以前アップした、「コトリバコ」の正体に記載の通り、18世紀後半から19世紀前半に一族は来日し、日本社会に入ったと伝えられている。当時の清朝も、上記の明朝と同様に弱体化していたため、一族は新天地を探していた。そこで一族が狙いを定めたのが、日本。かつて壬申・丁酉の倭乱(文禄の役・慶長の役)で、戦争に慣れていなかった朝鮮半島の全土を日本が侵略したことを記録していた一族は、日本に関する調査を開始した。壬申・丁酉の倭乱で日本は最終的に敗退したものの、江戸時代にはヨーロッパ文化とある程度の接触があったおかげもあり(例: 科学技術の伝来)、ある程度の国力を有していたことが判明。
「交易を通じて日本が利益を上げれば、一族が上手く日本社会に入れる」
そう考えた李一族は、いくつかの「手土産」を用意し、来日するに至った。その「手土産」の1つが、第7話で紹介した「族滅器」と思われる。


Q5: 李一族は主に中国語を使っていた?
A5: 来日直前は、中国語。ただし、清にいた時期の李一族は複数の言語を使っていた。大きく分けると、以下の通り。
・満州語と中国語を使っていた一族
・朝鮮語と中国語を使っていた一族
・ロシア語と中国語を使っていた一族
・その他の言語と中国語を使っていた一族(例-その他の言語: モンゴル系の言語、アイヌ語、チベット系の言語)
中華社会に入る前は、キリル文字、もしくは自民族の文字を使って記録を作成していた。こちらの「自民族の文字」に関しては、現在読める者は、ごく少数。


Q6: 李一族がかつて使っていた「自民族の言語」は、どんな言語?
A6: 説明困難。聞いた話を総合すると、一番近いのは、英語、ドイツ語、北欧系の言語。このため「自民族の言語」は、ゲルマン語系と思われる。


Q7: ちなみに、李一族はどんな宗教を信仰しているの?
A7: 無宗教。ただし、来日以前のある時期に自民族の宗教を信仰していたことがある。しかしその自民族の宗教自体も、中華社会に入ってからはあまり熱心には信仰しなくなった。その理由として、迫害を回避することがあったと、一族の記録には記されている。

第23話 運び屋

李さんの親戚の孫かひ孫が体験した出来事。それは、彼女が友達と一緒に行った海外旅行の帰りに起こったこと。始めにこの話の概要から入る。

概要: ある運び屋が、人間の臓器を運んでいた。それが空港で発見され、その運び屋は逮捕された。後日、その運び屋に臓器運搬を依頼した組織も逮捕された。

概要は、こんなところ。しかし、現場にいた李さんの親戚のその彼女の話では、どうも運搬が発見された経緯が普通ではないとのこと。
例えば麻薬運搬の場合、特別な訓練を受けた麻薬探知犬が麻薬の臭いを嗅ぎ分け、犯人逮捕に至る。これが、標準的で普通の逮捕。
一方、前述の臓器運搬の場合、その運び屋が逮捕される際、明らかに異様な現象が起こった。李さんの親戚のその彼女曰く、
「その運び屋は、犯罪者であることがあまりにも明白だった」
とのこと。彼女の話によると、その運び屋が歩いた場所では、その付近にいる子供が泣き出すのだ。しかも、一斉に。フライト客の中には一部、ペット連れがいた。その人たちの場合、その運び屋が付近を通過したら、ペットたちが次々に鳴く、唸る、吠える、という始末。
その運び屋は、最初こそ何気ない風を装っていたものの、捕まる直前には険しい表情を浮かべていたそう。運び屋の持っていた荷物からは何も臭いや音が出ていなかったので、運んでいる本人は、自分自身が通ったときにそんなふうに周囲の子供たちや動物たちが騒ぎ出す理由に見当がつかない。逮捕の直前、運び屋は荷物を放り出して逃げ出そうとさえした。
一部始終を目撃していた李さんの親戚のその彼女と、彼女と一緒にいたその友達。彼女は目の前の不可思議な出来事に驚いていた。しかしそれ以上に、その友達が浮かべていた表情に驚かされた。その友達の顔には、まるで自分が殺されるのではないかという恐怖が貼り付き、身体の全ての血が抜かれたような青い表情をしていた。
事態が収束したところで、彼女は
「何が見えたの?」
と、恐る恐る訊いてみた。その友達には、霊感がある。そういう理由から、
「彼女自身が見えていない、何が恐ろしいものがあるのでは?」
という不安を、彼女は抱いていたとのこと。
「何本もの腕が巻きついていて、その隙間から、いくつもの顔が覗いてた」
それが、その友達の見ていたもの。だからその友達は、運び屋がなんの変哲もない青いカッターシャツとベージュのチノパンという出立だったことを知らなかった。蠢く腕と顔がその運び屋の首から下を埋め尽くしていたから、服が全く見えなかったそうだ。

後日、李さんの親戚のその彼女が空港での一件を祖父に話したところ、こんな話を聞いたそう。
「その運び屋は、おそらく中身を知らされていないだろう。その運び屋が運んでいたものは、麻薬や武器ではないだろうな。たぶん、人の身体の一部か、全身」
「その運び屋の依頼人は、おそらく子供や老人、障害者や被差別階級の人たちを使って、裏稼業をやっているんだろう。社会的弱者から幸福を毟り取り、搾り取り、啜り、しゃぶり尽くすような奴らは、自分たちが虐げて潰してきた人たちから恨まれる。その運び屋に巻きついていた腕や顔は、被害を受けてきた弱者たちの、救われない魂なんだろうな」
運び屋の荷物が人間の臓器だったという事実が判明したのは、後日の海外ニュースでのこと。依頼人たちは、一網打尽だったそう。

依頼人たちは、逮捕されても、まだ生きて刑務所にいるのだろうか。それとも、恨みが積み重なって…

第22話 予知夢

暗い穴、その奥を覗き見る、明るい月の光。真の闇、その中から聞こえてくる、かすかな呻き声。時折夢に出てくるその穴は暗く、底が見通せないほど深い。その穴を満たすものは、漆黒。
これは、李さんの親戚の孫かひ孫が、今も経験している話。
李さんの親戚のその彼女は子供のときから、ある夢に悩まされている。毎日見るわけではないので、そこまで大きなストレスを感じるわけではない。しかしそれでも、定期的に同じ夢をみると、誰でも気になるじゃないですか。
その夢というのが、ある暗い穴の夢。その穴というのは、どうも井戸の穴のよう。一時期話題になった、某ホラー映画に出てくる井戸が、一番近いイメージとのこと。そうです、あの井戸。あの超有名な、長い黒髪の女性の幽霊が落ちた、あんな感じの井戸。
彼女の夢に出てくる井戸は、その例の井戸と同様、ブロック形状の石を積み上げて造られているそう。しかし全く同じというわけではない。相違点の中の一つとして、まずその井戸がどこにあるか、わからないとのこと。なぜかというと、夢の中で彼女は、月の明るい夜、その井戸の中をずっと眺めているからだそう。井戸の中は暗く、どんなに目を凝らしても、底どころか、中の様子がほとんどわからない状況。それでも彼女は周囲の様子を眺めることなく、夢を見ている間中ずっと、井戸の中を満たす暗闇を凝視し続けている。ほとんどの場合、大体20分から30分くらいの間に夢は終了する。たまに、中から呻き声が聞こえる、その程度。

「だけど一度、はっきりと言葉を発したことがあって…」
それは、何年も前のこと。その日、彼女はいつも通り就寝したそう。その夜見たのが、件の井戸の夢。夢の中の彼女は、井戸の中の暗がりから目を逸らさないこと以外はいたって普通で、その日の彼女もまた、夢の中に例の井戸が出てきたときに、
「またか」
とだけ思い、大して気にも留めなかった。その日もひたすら彼女は暗闇を見つめ、弱々しく漂う呻き声を聞きながら、時が経つのを待っていた。

ガシッ、ガシッ、ガシッ、

その夜の夢では、今まで聞き覚えのない音が聞こえてきた。最初、その音は暗闇の中を渦巻くかすかな呻き声の中に埋もれ、しばらく彼女はその存在に気付けずにいた。それが呻き声でなく、よじ登ってくる何かが内壁を掴む音だと気づいたとき、彼女はすでに暗闇の中で蠢いているものの存在を視認できた。それは黒い男、筋肉隆々の身体に、スキンヘッドの頭。
「一番近いイメージは、車のアウディーで運び屋をやっている、あのスーツ姿の男の人が主役の映画よ。スキンヘッドで細い頭、筋肉質な体型。顔は別として、体つきの特徴だけで言うと、その俳優さんと似てるかしら」
彼女は頭を動かせないまま、その男が井戸をよじ登って向かってくるのを、ただ見ていることしかできなかったそう。
迫り来る得体の知れない黒い男。彼女はひたすら夢が覚めるのを祈っていた。夢の中は常に月の明るい夜なので、月明かりに照らされ、次第に男の姿は鮮明になっていった。恐怖で凍りつく彼女。得体の知れないその男の接近に、彼女の身体は微動だにしない。その黒い男が手を伸ばせば彼女に触れられる、それほどの至近距離まで来たとき、男は顔を上げた。
「絶対に、逃さねえぞ!」
その男の顔は、あの有名なムンクの叫びに描かれた、あの人物と似ていたそう。ただ、その黒い男に関しては、普通の人と異なっている点があった。月明かりに照らされたその半裸の男は濃い灰色の皮膚に覆われ、眼球は暗い穴、というよりは黒い真珠が入っているように見受けられたそう。目の光沢が、彼女の怖気をさらに掻き立てた。そして何より恐ろしかったのは、
「その男の開いた口に、舌がなかったの。私には、舌が見えなかったわ」
確かに喋ったはずのその男。舌がなければ、その声はどこから発せられたのか。そして、暗闇の沼から男が這い出し、下半身が現れ、彼女をその屈強な掌で掴む瞬間。
「無事に戻って来られたの。あの暗い夢の世界から」
窓から差し込む朝の光を見たときは、ほっと胸を撫で下ろしたそう。

その数日後だったそうだ、本当の恐怖が彼女を襲ったのは。2011年3月11日、その恐怖は、突如訪れた。唸る大地、迫り来る汚泥、壊れていく街、荒廃した土地。あの日の恐怖は、何年も経った今でも、身体にしっかりと刻み付けられているそう。
「以前から、うっすらとは、気づいてたのよねぇ」
李さんの親戚のその彼女によると、どうも、井戸の夢を見た後、必ず日本やその近くのどこかの地域で災害が起こっているとのこと。彼女によると、初めてその夢を見たのは、まだ幼少の頃。時期は12月か1月の真冬頃。その数日後だったそうだ、阪神・淡路大震災が発生したのは。当時は井戸の夢をただの悪夢と思い、小さかった彼女は夜に泣きながら目を覚ましたそう。その日以降、彼女はたびたび井戸の夢を見るようになった。そして夢を見てから数日後、必ず災害が発生した。地震、洪水、津波、火山の噴火…何回か夢を見るうちに、彼女は呻き声の大きさと災害の規模、そしてその発生場所と彼女の家との距離が関係していると感じた。

呻き声が大きいほど、災いは近く、激しい。

小さく、離れた場所で起こる災害のときは、ただ井戸の中で蠢く暗闇を見つめるだけ。呻き声が聞こえるときは、激しい災害が近くで起こる予兆。そして、東日本大震災のときに、黒い男が現れた。
「あの男が現れたときは、本当に恐ろしかった。あの男に襲われるんじゃないかっていう恐怖と、夢から覚めて、何日か経ってから起こる災いの恐怖」
夢から覚めたときの安堵が続くのは、ほんのひとときだけ。後で恐怖がやって来るから。
「前は、2、3年に1度。呻き声も、はっきりと聞こえたことは、ほとんどなかったの。でも…」
年を追うごとに、彼女は頻繁に井戸の夢を見るようになったそう。特に最近は、1年のうちに何回かその夢を見るとのこと。

黒い男は、予言者なのだろうか。それとも、災いの主なのだろうか。

真実の光は、蠢く闇の中には届かない。

第21話 Suicide Cliff/自殺崖

李さんの親戚の孫かひ孫が体験した話。カナダで働いている彼と久しぶりに会って飲みに行ったときに聞いた話だ。
「実は僕、『自殺崖』に行った人に会ったことがあるんだ。しかも、5人も」
彼は昔から奇妙な運というか、何かを持っているような男だ。今のところ、その運は彼にとってプラスに働いているみたいだ。工事現場で鉄骨が落ちたときも、真下の落下地点にいたにもかかわらず無傷だったり、たまたま出張に行って自宅から離れた場所にいたことで災害を逃れたり(しかもこのとき、彼の家は奇跡的に無事だった)、車を運転中、あと少しスピードが遅ければ巻き込まれていたという交通事故から逃れたこともあった。事故に遭遇した回数は多いものの、そのほぼ全てで無傷の生還を果たしている点で、彼はある種の幸運を持っているようだ。もちろん事故に遭遇すること自体は不幸なので、彼が運のいい人間だとは言い切れない。それでも大事故や大災害から何度も、しかも何事もなく生還できるその運は、守護神が憑いているのかとさえ思う。
そんな彼だからこそ、「自殺崖」に行ったことがある人、しかも5人に会ったという話を聞いたとき、
「彼ならあり得るかもしれない」
と、私は思った。そのときの私は「自殺崖」を、あのサイパン島にある「Suicide Cliff」のことだと勘違いしていた。第二次世界大戦中、日本人がたくさん自決した、あの崖だ。その理解で話を進めていたため、序盤は話がかみ合わず、私は
「サイパンに行ったことのある人はたくさんいるだろうから、別にそんな大した話でもない」
と考えていた。彼の方でも私があの有名な「Suicide Cliff」と混同しているという理解に至り、私に「自殺崖」のことを教えてくれた。

以下、「自殺崖」の話になる。この話を読めば、「自殺崖」に行った5人の人に会うことが天文学的に低い確率であることがわかる。

-自殺崖-
・起源: 特定できていない。彼の話によると、西暦1000年頃には存在していたとされる。彼もまた、人伝に自殺崖の話を聞いたので、明確なところは知らない。
・場所: これの特定が一番難しい。確実に、地球上のどこにも存在しないはず。彼の考えによると、どうも自殺崖にアクセス可能な地域というものが存在するそう。その地域に行かなければ、そもそも自殺崖に行けない。
・自殺崖にアクセス可能な地域: 基本的に山間部、砂漠、荒野など。収集可能な情報から推測した地域は以下の通り。
ロシア中部(ウラル連邦管区、シベリア連邦管区)、もしくはチベット北部
ロッキー山脈(カナダ側)、五大湖周辺(カナダ側)
スカンジナビア山脈(ノルウェー側)
・アクセス可能な時刻: おそらく、24時間いつでも。朝、昼、夜など、自殺崖に行った時間帯はバラバラ。
・自殺崖に行くときに発生する現象: 上記のアクセス可能な地域を彷徨っていると、濃霧が発生して周囲の景色が見えなくなる。そのくらい、濃い霧が発生する。霧の発生時間は、短くて数分、長くて1時間程度。霧は徐々に晴れ、眼前に自殺崖が現れる。
・自殺崖での時間の流れ: 常に明け方、日の出の時間帯。それ以上時間が進まない。
・自殺崖への行き方: 上記の地域で、強く「自殺したい」と願いながら彷徨うこと。早くて数秒、長くて2日間で行ける。行けない人は、アクセス可能な地域にいないか、もしくは「自殺したい」という思念が足りないか。
・自殺崖に行ってからやること: 自殺崖は小さな島に存在する。崖のふもとや崖に登るまでの経路の途中など、自殺崖に訪れた人たちの着地点は様々だ。周囲を見渡しても海しか見えない。このため到着後すぐに、自殺崖が孤島に位置するという事実を知ることとなる。地面は芝生くらいの丈の低い雑草で覆われている程度。
最初、島を散策すること。島は起伏が激しいので、上り下りが多い。数分から1時間程度が経過した後、最初の人が現れる。この最初の人、さらにこれ以降に会う人が人によって異なるため、ここでは一番最近に李さんの親戚の彼が聞いたパターンを記載する。

最初の人は髪の長い男性。髭を生やし、ワインレッドのローブを着ている。その男性からは中東の言語(アラム語のような言語)で話しかけられるが、なぜか理解できる。会話の序盤は日常会話から始まり、
「一緒に来てほしい」
と言われる。自殺崖に来た人は全員、その男性について行っている。
ついて行くと、秘密の洞窟に案内される。洞窟の奥には扉があり、その男性から中に入るように言われる。
中に入ると、そこは中華風の書斎。部屋の中央に机があり、昔の中国風のローブを着た東洋人男性がデスクワークをしている。その東洋人男性は小さい帽子を頭頂部に付けており、その男性もまた髭を生やしている。机の前には左右に並んでソファーのような椅子が並んでおり、中央に小さなテーブルがある。室内に入ると、その東洋人男性からソファーに座るように促される。その男性は中国語らしきものを話しているが、中国語がわからなくても理解できる。李さんのその親戚の彼の話によると、その中国語は、どうも現存する中国語ではなさそうとのこと。ただし中国の全ての方言を把握しているわけではないため、詳細は不明。
その東洋人男性との会話もまた、身の回りに関する話題から始まる。そこから自殺崖に来た経緯に軽く触れ、最後にその東洋人男性から鍵を渡される。
「後ろの扉から出なさい」

その男性の後方、入口と反対側には扉がある。
言われた通りに出ると、今度は面接室が現れる。そこは普通のオフィスにあるような面接室、窓からエンパイヤ―ステートビルディングが見えることから、ニューヨークのどこかであることが示唆される。入室すると、扉の前には長机が横方向に伸び、数名の面接官が並んで座っている。どの面接官も着衣はバラバラだ。袈裟を羽織っている者、ローブをまとっている者、中東風の服を着て頭にターバンを巻いている者、さらには毛皮を羽織っている者もいる。さらに驚くべきことに、どの面接官も互いに異なる言語を話している。それでも互いに話していることがわかり、かつ漏れてきた言葉を、自殺崖に来た人間は理解できる。長机の目の前にはパイプ椅子が置いてあり、
「着席しなさい」
と言われ、面接のようなものを受ける流れになる。
面接の序盤の方は、これまでの流れと同じように、世間話から始まる。ただし面接形式であるため、名前、出身地、趣味、職業などについての質問と回答を繰り返す。雰囲気は、いたって和やか。
面接の中盤に、自殺崖に来た経緯の説明を求められる。経緯を話し、
「それは大変でしたね」
「難しい問題ですね」
などの反応が返ってくる。このときの雰囲気は、多少暗い程度。しかし自殺に至るまでの経緯を話しているのだから、当然だ。
周囲の空気が強張るのが、面接の終盤。自殺崖に来た人を座らせたまま、面接官たちは互いに忙しく言葉を交わし、何かについて小声で議論を繰り返している。長机の端の方にいる者同士でやりとりをする際は、折りたたんだ紙を渡す形でコミュニケーションを行っている模様。面接官たちから漏れ出る言葉は種々雑多な外国語であるにもかかわらず、面接を受けている本人は理解できる。ほとんどの言葉は、以下のような意味のもの。
「この人は、やれそうか」
「この人は、あの人に当てるとよい」
「この方法で、やるのはどうか」
議論は波打ち、盛り上がりを見せた後に、その場は静けさを取り戻す。この段階で、議論が終着点に到達したことがわかる。面接官のうち一人が、改まった調子で自殺壁に来た本人に結論を言い渡す。
「そこの出口からこの部屋を出てください。退出後、あなたはすぐに案内人と出会います。後のことは、その案内人の指示に従ってください」
面接室には、入室した際に通った扉とは別に、もう1つの扉がある。言われるがまま、入ってきた扉とは異なる方から部屋から出る。するとそこは洞窟のような場所だ。「洞窟のような場所」という表現をした理由は、その洞窟は明らかに一般的な建物の機能を果たしているように見えるからだ。その洞窟にはテーブルや棚、椅子があり、リビングのような役割を担っているように見える。一般のリビングと異なる点として、洞窟のような内装の外に、壁に飾られた奇妙な旗が印象的だ。その旗は、赤地の四角の中央に白い円を描いたようなデザイン。その白い円の中には、Lの字を4つ、90度ずつ回転させた形で結合させたようなマークが描かれている。それぞれのL字は一方の端部で接続され、同じ方向を向いている。外からはドイツ語のような言葉がかすかに聞こえる。その洞窟は、比較的広いところのようだ。
洞窟にいたのは、3人。1人は白人女性、1人はサラリーマン風の男性、残りの1人は頭にターバンを巻いた中東風の男性。
その現場は、明らかに異様な雰囲気だった。白人女性はうずくまって倒れている。サラリーマン風の男性は恐怖で顔が引きつり、直立のまま、一切の動きを見せない。あたかも何か透明なもので縛られているかのように。中東風の男性は近づくと、
「私が案内人だ。早速、要件に移る。この銃で、そこの男性の頭を撃ってほしい」
と伝える。中東風の男性はアラビア語のような言語で話しているが、なぜか理解できる。恐ろしい要件にうろたえていると、案内人から次のことを伝えられる。
「もし撃ち抜かなければ、あなたはこのまま元いた場所に戻り、そのまま自殺を遂げることになる。もしその男の頭をこの銃で撃てば、あなたは生還するチャンスを与えられる」
案内人からそのように言われ、当人は判断に迷う。当人は自殺したいがために彷徨っていたはず。しかしこの現場に来るまでに経験した不可思議な体験を通して自身の人生を客観的に振り返ることとなり、「自殺したい」という意志が揺らぐ。
「早くしろ! 撃つのか、撃たないのか、どちらかだ」
当人は熟慮する間もなく、拳銃を取り、そのサラリーマン風の男性の頭を撃つ。七三分けの黒髪に、唇の上にちょこんと乗ったチョビ髭。そんな彼の、苦悶に歪む表情が、鮮明に記憶の中に刻まれた。

「よくやった! お前は数多の人間を救い、偉大な歴史を造ったのだ」
中東風の男性はそう言うと、再び周囲は濃い霧で覆われた。数分の後、自殺崖に行ったその人は、元いた場所に戻ってきたとのこと。

以上-

李さんの親戚の彼の話によると、「自殺崖」に行った人によって、出会う人たちは異なるそう。最初に東洋人男性に会った人もいれば、最後に髪の長い、アラム語を話すローブの西洋人男性に会った人もいる。また中には、最後に炎に包まれた和風の建物から人を連れて脱出した人もいた。そのときに脱出経路を先導したのは、インド風の僧侶だったそう。そのときに一緒に脱出した人は着物を着ており、「アケチ」という名前だったとのこと。

不可思議な点の多い「自殺崖」。そこから生還した人たちのその後は多様だ。再び自殺した人もいれば、生を謳歌している人もいるそう。

「自殺崖」で出会う人たちとは、誰なのだろうか? 「自殺崖」から出るときにする殺人や脱出は、何を意味しているのだろうか?

「自殺崖」の正体は、深い霧に包まれている。

第20話 Reminiscence in Hong Kong – 九龙寨城里体验之记录

少し前のことだが、李さんの親戚が経営する会社で、ある女性の方が退職した。彼女は長年その会社に勤めており、経営者一家はもちろん、一家以外の李さんの親戚の一部も彼女のことはよく知っていた。これは、李さんの親戚のその経営者がまだ若いとき、彼女と出会った頃の話。

出会ったとは言っても、別に恋愛関係になったというわけではない。単に縁があって、彼女はその会社で働き出したというだけだ。ここで紹介しているのは、彼女の働きに関する、幾分か謎の多い話。

その経営者の彼がまだ本部の経営者ではなかった頃、彼は一時期香港に滞在していたことがある。20世紀の終わり頃、当時香港には九龍城塞という一大スラム街が存在した。そこは家賃が安いため、貧困層が身を寄せ合って生活していた。

彼自身は実家がお金持ちであり、また経営者一家であることもあり、比較的治安のよい地域のアパートで生活していた。当時彼の実家が経営していた会社は香港支社を開設したばかりであり、教育も兼ねて彼はその支店の運営を任されていた。

彼女が入社したのは、開設してから日が浅いときのこと。従業員の募集を始めてから数日しか経っていなかった。彼女が入社した当時、香港支社は香港に加え、中国大陸、マカオ、台湾、そしてシンガポールとの貿易事業と不動産事業を行っていた。香港支社は、日本と中華圏をつなぐパイプ役であり、仕事の覚えが早かった彼女は、その頭角を徐々に現していった。

香港支社が設立されて、一年ほどが経った頃、危機が訪れた。取引先から注文された、ある試作部品が支社に到着しなかったのだ。期限が迫る中、彼は有効な打開策を探していた。しかし彼の思考は暗闇を彷徨い、打開策も、その策まで彼を導く希望の光も見えない有様だった。支店長である彼のそんな窮状を目の当たりにした彼女は、救いの手を差し伸べた。
「私に、心当たりがあります」
意外な一言に、心を揺さぶられる彼。信じていいのか、その一言を? 彼女は続けた。
「A社(彼の香港支社に部品を納入するはずだった会社)の品質には及ばないかもしれません。ですが、要求事項は果たせると思います」
彼女はその日、彼を九龍城塞へと招いた。貧者と犯罪者の巣窟、当時の彼が九龍城塞に対して抱いていたのは、そんなイメージだった。躊躇していた彼も、支店を任されていた立場上、彼女を頼らざるを得なかった。

2人は、九龍城塞へと向かった。

内部の案内は、彼女に一任した。彼が歩んだ思考の暗闇に負けず劣らず暗い場所だった城塞。入り組んだ隘路に、不衛生な住居。頭の回転が速く、勤務態度にも遜色のない彼女自身と彼女がこのようなところに住んでいるという事実が、彼の中で符合しなかった。そんな違和感も、城塞の深くへと入り込むにつれて薄まっていった。顔見知りと気兼ねなく挨拶を交わす彼女。彼女はまさに、この九龍城塞の住人だった。
「着きました」
そこは、ただの部屋。城塞内を歩いている途中でちらほら見えた、人が住んでいる部屋と何ら変わりのない一室。彼女は部屋の奥に向かって声をかけた。中から出てきたのは、何の変哲もないおじさん。灰色のYシャツに黒色の中華風長ズボンという出で立ち。城塞の外を歩いている中年男性の典型的な姿だった。
「それでは、早速会議を始めましょう。Bさん(李さんのその親戚の経営者(当時は支店長)の名前)、図面をお願いします」
本来は機密情報であった図面だが、納入期限が迫る中、躊躇している暇はなかった。彼は図面を取り出し、そのおじさんに見せた。おじさんは顔をしかめつつ、広東語で彼女に何かを喋った。
「『納期は厳しい。でも、何とか間に合わせられるかもしれない』と言っています」
彼は藁にも縋る思いで、そのおじさんに部品を注文した。試作部品とは言いつつ、構造は複雑だった。普通に考えて、城塞でそのような部品を製作するのは不可能だ。調達するのも、非常に困難なはず。
「本当にあの部品を入手できるのだろうか?」
そんな疑念が彼の心の中で寄せては引いていた。

疑念が払しょくされ、彼の心に晴天が訪れたのは、数日後。彼女は再び彼を城塞へと連れて行き、城塞に入ってきた試作部品を一緒に確認した。
「要求事項は満たされている。これなら、納入しても大丈夫だ」
A社が普段納入する製品の品質には及ばなかったものの、城塞で入手したその部品に問題はなかった。取引先には、A社が間に合わなかったため、急遽別の会社に依頼した旨を報告すれば、話はスムーズに運ぶ。香港支社は、城塞に救われた。

それ以来、香港支社は窮地に陥るたびに彼女が城塞とのパイプ役となり、辛くも難を逃れてきた。先ほどの部品のときもそうだが、城塞に依頼をすれば、必要なものが確実に手に入った。稀にではあったが、香港支社がいつも取引している会社のサービスよりもはるかに高品質なものを城塞で手に入れることがあった。
最大の謎、それは、城塞がそのようなモノやサービスを入手している方法だった。
どこで、どんな方法で、誰から誰へ…
今は亡きその城塞、彼女自身もどこまで城塞のことを把握していたかは、未だにわからないまま。

彼女のおかげで香港支社が発展したのは事実。その功績もあって彼女は日本の本社へと招かれ、長年にわたり彼の会社に貢献してきた。

「昔の友人に誘われたので…」
彼女はそう言って、退職した。彼女の新しい仕事は、いったいどんな仕事なのだろうか。「昔の友人」とは、城塞にいた頃の知人のことだろうか。

城塞の内部は、今なお深い闇に閉ざされている。