『つたない直訳から、こなれた翻訳へ』

第5章 補足


 この章では、下記の点について述べます。

1.         望ましい翻訳の進め方

2.         複数の訳語を当てた原語の例

3.         この本では使用を避けた言葉と表現

4.         3種類の文才


5.1  望ましい翻訳の進め方


5.1.1  誤解を避けるために


 この本の中心である
3.3節では、英文和訳は悪訳につながることを実際に示すために、原文をわざと英文和訳的に訳し、その結果を検討して、問題点と改善の着目点を示しました。そのために、そのような翻訳の進め方が通常の翻訳方法である、と受け取った読者が数多くおられるかもしれません。

 実は、3.3節の記述は、言わば仮定法です。つまり、英文和訳的に翻訳したら、このようになります、という例を実際に示したわけです。粗訳(つまり最初の試訳)を英文和訳的に行うことを推奨しているわけではありません。

 学校での英語の授業においては、このような方法が取られるのはやむを得ないでしょう。では、実際に翻訳を目指す人が、このような方法を取るのでよいのでしょうか。私の答えは「いいえ」です。

 翻訳を行うには、まず粗訳し、それを推敲して、最終的に仕上げます。このような過程を踏むことについては、ほとんど誰も異存がないでしょう。しかし、粗訳のあるべき水準については、説がいくつかあるようです。私は、粗訳は英文和訳と最終仕上がりのどこか中間の品質のもの、と考えています。それについて、5.1.3節に詳しく説明します。

 その前に、粗訳を直訳の水準と見る見方があることを確認しておきましょう。

5.1.2  粗訳は直訳とすべしとする説


 翻訳について書かれている本の中には、翻訳方法として、まず直訳し、それから推敲すると説いているものが多いようです。

 その例を挙げておきます。

 小澤勉氏は『ミニマル・トランスレーション』(参考書籍8)において、粗訳には3ステップを踏むと書かれています(1213ページ)。その骨子は下記のとおりです。

1.       文脈において最適な単語の意味を把握する

2.       原文の構造に忠実に直訳体の日本文を考える

3.       日本語らしい日本語に修正または変換する

 上記の書には、この後で推敲すると書かれています。したがって、粗訳には直訳と改善の2段階があることになります。出発点は直訳です。

5.1.3  望ましい粗訳


 
5.1.1項に、私が考えている粗訳は、英文和訳と最終仕上がりのどこか中間の品質のものであると述べました。便宜上、英文和訳の品質を1とし、完成訳の品質を2とします。上で言っていることは、すべての訳文の品質を1.5にすべきであるということではありません。2つの点で異なります。ひとつは、一括してではなく、個々の文についてです。もうひとつは、どこか中間とは、あらかじめ定まっているのではなく、1よりも大きく、2よりも小さい、どこかです。実際にどこに落ち着くかは、翻訳者の能力しだいです。そのようすを下に図案として示します。

 望ましい粗訳

 1人の翻訳者が多くの文を訳す場合でも、各文の粗訳の到達水準は異なりえます。非常に難しい場合、到達水準は限りなく1に近いでしょう。非常に易しい場合、到達水準は限りなく2に近いでしょう。要は、粗訳は直訳と決めつけてしまうのではなく、英文解釈中に気が付いた着目点を粗訳に反映すれば、粗訳の水準が上がるということです。

 このように考えるには、下記の理由があります。

1.       誰でも英文和訳以上の能力をある程度は持っている

2.       英文和訳をすると、原文に縛られる割合が高くなる

3.       英文和訳にはむだな労力が費やされる

4.       推敲の有効性が高まる

5.1.3.1 誰でも英文和訳以上の能力をある程度は持っている

 英語のgood morningが日本語の「お早うございます」にあたることしか知らない中学生がいるとします。その中学生に、good morningを翻訳するさいに、いったん「良い朝」と訳させ、それからそれでは不自然なので、推敲時に「お早うございます」と修正させる意義があるでしょうか。まったくありません。誰でも、どの状況ではどの言葉がどのような意味で使用されるかを完全に理解していれば、英文和訳をせずに、直接完全な翻訳を行うことができます。

 この少年は最初はgood morning以外は正しく翻訳できなくとも、かまいません。それでも、可能なものは、英文和訳しないことが重要なのです。勉強するにつれて、good afternoongood eveninggood nightも、だんだんと英文和訳を経ずに翻訳できるようになるでしょう。

 このことは、すべて一足飛びに、完全な翻訳ができるようになるべきである、と言っているわけではありません。あくまでも、粗訳の話です。上の三角形の図に示されているように、翻訳者の能力の許すかぎり、少しでも英文和訳を離れ、なるべく完成訳に近い、粗訳を行った方がよいということです。図には1.xと記しましたが、それを1.11.21.3と大きくできればできるほど、よいということです。

 原文をきちんと解釈できないときは、人は直訳に頼らざるをえなくなります。しかし、全部が全部、解釈できないわけではありません。少なくとも、正しく解釈できる英文を、わざわざ悪い形に訳すことはありません。完璧ではないまでも、少しでも完成訳に近い粗訳を行う方が賢明です。そうすれば、推敲の労力も少なくて済むようになります。

5.1.3.2 英文和訳をすると、原文に縛られる割合が高くなる

 まず英文和訳し、それから推敲時に自然な日本語に直せばよいという意見があります。しかし、英文和訳した結果は、構文的にも文法的にも語義的にも、原文に縛られたものになっています。その状態から抜け出すには、多大の労力を必要とします。抜け出せない可能性もあります。つまり、直訳が原文に縛られる傾向があるのと同様に、推敲作業が直訳に縛られる可能性が高くなります。

 たとえば、単語の訳をいったん日本語で書き表してしまうと、普通の日本人にとっては英語よりも訳語に強く引っ張られるようになります。その訳が文脈に合わない場合、適当な訳を考案する選択の余地が狭くなります。原文の単語がその文脈ではどのような意味かを考える方が、訳語を自由に選択する余地が広くあります。その結果、辞書には記載されていないが、文脈に適した訳語を考えつく可能性が高くなります。

 語句の訳をいったん日本語で書き表してしまうと、個々の単語の訳をそれぞれ改善しようとする傾向が強くなります。しかし、語句の意味は構成要素の個々の単語の訳の組合せによって決まるとは限りません。原文の語句がその文脈ではどのようなことを意味しているかを考える方が、必ずしも個々の単語の訳の組合せではない、適切な訳を思い付く可能性が高くなります。

 ちなみに、このことは、推敲中に疑問点などを解決するために戻って解釈する先は、原文であることを意味します。

 さらに単位の大きな構文的なことは、次項で検討しましょう。

5.1.3.3 英文和訳にはむだな労力が費やされる

 ここでは、実例を示しましょう。3.3節で入れ子構造の説明に使用した文<14>を取り上げます。その原文を下に再掲します。

I have seen a small manufactory of this kind where ten men only were employed, and where some of them consequently performed two or three distinct operations.

 その英文和訳を下に再掲します。

私は、10人だけが採用されており、その結果として彼等の何人かは2つまたは3つの明確な操作を遂行して
いる、その種の小さな工場を見たことがある。

 この英文和訳を得るために、下記のような手順で処理が行われています。

 まず、文頭から読み進めて、whereが出て来たところで関係副詞を見つけて、後から前に訳しあげる必要性を認識します。さらに読み進めて、whereがどこまで掛かっているかを確認します。この状態で訳し手の頭の中にある構文解析情報は下記のようになっています。2本の縦線が後から前に訳し上げる境目を表しています。

I have seen a small manufactory of this kind || where ten men only were employed, and where some of them consequently performed two or three distinct operations.

 つぎに、後から前に訳し上げる先を判断しなければなりません。そこで頭から読み直して(先行詞はwhereの直前のkindではありませんので)、該当の切れ目を見つけます。この状態で訳し手の頭の中にある構文解析情報は下記のようになっています。1本の縦線が後から前に訳し上げる先を表しています。

I have seen | a small manufactory of this kind || where ten men only were employed, and where some of them consequently performed two or three distinct operations.

 それから訳す作業に入ります。まず、頭から訳せるところまでを訳して、下記の結果を得ます。

私は、

 続いてwhere以下を訳し上げて、下記の結果を得ます。

私は、10人だけが採用されており、その結果として彼等の何人かは2つまたは3つの明確な操作を遂行して
いる、

 最後に、主節の残りの部分を後に訳し足して、下記の最終的な英文和訳を得ます。

私は、10人だけが採用されており、その結果として彼等の何人かは2つまたは3つの明確な操作を遂行して
いる、その種の小さな工場を見たことがある。

 ここまででも、結構な作業を行っていますね。

 つぎに、この英文和訳の結果を改善する作業があります。3.3節では、着目点[46](4)を採りました。そのために、主節の後半部分の訳を主節の前半部分の後に移動させます。その結果を下に示します。

私は、その種の小さな工場を見たことがある。10人だけが採用されており、その結果として彼等の何人かは
2つまたは3つの明確な操作を遂行している。

 これにもう少し手直しを加えて、下記の改善訳を得ました。

筆者はその種の小さなマニュファクチュアを見たことがある。そこには職人が10人しかおらず、何人かは
2通りまたは3通りの加工作業を掛持ちしていた。

 推敲のさいにも、構文を入れ替えるという作業が必要になっています。

 最初から英文和訳を避けるには、着目点[25]を応用します。この場合の訳を進める手順は、上記の構文解析情報を得るまでは同じです。それを下に再掲します。

I have seen a small manufactory of this kind || where ten men only were employed, and where some of them consequently performed two or three distinct operations.

 ここで、2本の縦線の所で原文を分割して、前から順に訳します。すると、上記の改善訳のすぐ上の、構文を入れ替えた英文和訳とほとんど同じ結果が最初から得られます。違いは、関係副詞を表す「そこには」が含まれていることだけです。

私は、その種の小さな工場を見たことがある。そこには10人だけが採用されており、その結果として彼等の何人かは2つまたは3つの明確な操作を遂行している。

 つまり、英文和訳の数分の1の労力で、英文和訳を推敲する半ばに相当する訳が得られます。この先の推敲に要する労力も、わずかで済みます。

 この方法を取ると、さらに利点があります。それは、原文を読み進めてwhereが出て来た時点で、その前の部分を訳してしまうことです。厳密には、最後まで読まないと、そこを切れ目にできるという保証はありません。しかし、慣れてくると、意外と直感が当たるようになります。また、感が外れても、怖くありません。昔のように、手書きで原稿用紙に書いていた場合には、記述する位置を変更することは最悪の場合には該当部分の書き直しに至るので、それは大変な作業です。今ではほとんどの人がワープロを使用しているでしょう。その場合、訳文の一部を入れ替えることは簡単にできるので、ほとんど負担にならないでしょう。

 このように見てくると、先に英文和訳的に直訳すべしという考え方は、非常に思いこみ的であると言わざるを得ません。経験の浅い人もいるでしょうから、英文和訳を捨てろと言うのではありません。英文和訳よりも手間か掛からず、訳の品質も高くなる可能性のある方法が、別にあるということです。なるべくそれを利用する方が賢明でしょう。必要なことは、発想を変換することです。この例の場合、文の流れに沿って訳すことと、文を分割するという、英文和訳にはない発想が、着目点[25]の背景になっています。

5.1.3.4 推敲の有効性が高まる

 粗訳を推敲するエネルギーには限りがあります。英文和訳はもっとも質の低い粗訳と言えます。そこから推敲によって引き上げられる品質のレベルにも限りがあります。粗訳の品質レベルが英文和訳よりも高ければ、同じ粗訳のエネルギーで引き上げられる結果の、品質レベルも高くなります。

 また、問題を解決すると、それまではその問題によって隠されていた、別の問題が見えてくることがあります。粗訳の段階で英文和訳の問題点が少しでも多く解決されていれば、別の問題点を発見して、さらに品質を高められる可能性が出て来ます。

5.1.4  もうひとつの翻訳方法


 安西徹雄教授は著書『翻訳英文法』(参考書籍6)において、下記のような翻訳方法を推奨しています(
2021ページ)。

 下記の原文があるとします。なお、この例文は、江川泰一郎『英文法解説』(金子書房)からの借用だそうです。

The dog's attempts to climb the tree after the cat came to nothing.

 この直訳は下記のようになるだろう、とのことです。

猫を追って木に登ろうとする犬の試みは無に帰した。

 この直訳を、下記のように直したい、とのことです。

犬は、猫を後を追いかけて何度も木に登ろうとしたけれども、無駄だった。

 そのさい、一度まず下記のように読みほどいてから訳すのがよいそうです。

The dog attempted to climb the tree after the cat, but the attempts came to nothing.

 斉藤教授は実際に、このような手順を踏んだ方がよいと述べています。しかし、私には、これはあくまでも理解を助けるための説明であり、実際にはその必要はないだろうと思えます。

 3.3節の冗句半分「無生物主語のその他の例」において、私は似たような言い回しの変換の例を挙げました。その原文を下に再掲します。

This program allows the user to check the spelling of English text.

 これを下記のように訳すのでは、まったく不自然であることは明らかです。

このプログラムはユーザーが英文のスペルをチェックすることを許可する。

 そのことを感じ取れる翻訳者であれば、下記のように直ちに粗訳することができるでしょう。

このプログラムを使用すると、ユーザーが英文のスペルをチェックすることができます。

つまり、原文の言い換えを行える人は、その作業を頭の中で行って、直ちに訳文を書き出すことができるはずです。言い換えを行えない人のためには、説明のために、実際の言い換え結果を示す必要があるでしょう。

5.1.5  粗訳の実例


 では、私の言う粗訳の実例を示しましょう。

 3.3節で取り上げた第1章に続く、第2章OF THE PRINCIPLE WHICH GIVES OCCASION TO THE DIVISION OF LABOUR(分業を引き起こす原理について)の最初の段落を取り上げます。その原文は下記のとおりです。

This division of labour, from which so many advantages are derived, is not originally the effect of any human wisdom, which foresees and intends that general opulence to which it gives occasion. It is the necessary, though very slow and gradual, consequence of a certain propensity in human nature which has in view no such extensive utility; the propensity to truck, barter, and exchange one thing for another.

 この文を私が言う方法で粗訳した、結果を下に示します。3.3節で行ったような、英文和訳ではないことに、注意してください。

多くの利点の起源となる分業は、最初から人が知恵を絞って生み出したものではなかった。人は知恵に基づいて、裕福になることを予見し、それを目指したが、そのことが直ちに分業につながったわけではなかった。たいした
効果があるようには見えない人間のある種の習慣的行為の結果として、分業は非常にゆっくりと徐々に発展して
きたのである。その行為とは、お互いに物を持ち寄って交換し合うことであった。

 どのようにしてこのように訳したか、説明はしません。読者の皆さんは、この訳を見て、どのようなレベルにあるか、自分なりに判定してみてください。3.3節の「検討」の項に記述されている、英文和訳の後で検討されたような事柄が相当に、始めから考慮されていることが見て取れるでしょう。原文を直訳したのでは出てこないような言い回しがあることも分かるでしょう。粗訳として英文和訳をし、その後の推敲ですべてを改善しようとしているのではありません。粗訳を進めながら、気が付く改善点のうち、頭の中で処理可能なものは可能な限り取り込んでいるのです。

 この説明を読んで気が付かれた読者もいることと思いますが、改善点とは英文和訳をした後に初めて気が付くものであるとは限りません。英文を解釈し始めたときから気が付く点もありますし、粗訳を考案中に気が付く点もあるのです。それらの修正をわざと後回しにすることはありません。また、その改善訳は完璧である必要はありません。まだ後に推敲の段階が控えているからです。

5.1.6  普通の人には無理か


 上記の私の粗訳法に対して、普通の人にはそれは無理である、という意見を聞くことがあります。したがって、最初に翻訳を教えるときには、粗訳とは直訳であると言わざるをえないというのです。

 できないという人に、無理強いをすることはないでしょう。だからといって、粗訳とは直訳であると決めつけなくともよいでしょう。できない人にとっては、粗訳の品質水準はつねに1であると考えればよいのです。修練を積めば、それを少しずつでも、2に近付けていく可能性がある、と考えればよいでしょう。

5.2  複数の訳語を当てた原語の例


 原文では同一の語に、複数の箇所で文脈に応じて、違う訳語を当てた場合があります。その例をいくつか下に示します。 訳し分けた理由については、該当の「文識別番号」の「検討」の項を参照してください。

英語 

 文識別番号  

訳語 
 art  20  手工業 
31

 農業 

79

 技術進歩 

84

 技能 

90

 技術 

 business    6  事業
11

 仕事 

27

 作業 

 manufacture   6  マニュファクチュア 
20

 工場制手工業

25

 製品(complete manufactureとして「完成品」 

26

 製造 

31

 工業 

 3.2.3「原文の雰囲気」に「主要な用語が多義的に使用されているようである」と記しました。上の表を見ると、そのことが実感されます。

 『諸国民の富』の全編を通じて、アダム・スミスが用語を定義して使っている事例は、ほんの数件しかありません。経済学書といっても、きわめて初期のものですから、著者は普通の言葉を使用して普通の表現で説明する傾向が強かったものと、推察されます。

 言葉はもともと多義的なものです(付録B.1「機械翻訳における天動説と地動説」を参照してください)。同じ原語だからといって、安易に同一の訳語を当てるのではなく、文脈をよく把握して、適切な訳語を当てるように工夫する必要があります。

5.3  この本では使用を避けた言葉と表現


 翻訳関係の本には、訳し方の論拠として、「忠実である」という表現がよく見受けられます。この本では、そのような論旨で「忠実」という言葉を使用してはいません(第2章で、「直訳」を主張する人の意見として、補足的に使用しただけです)。

 「忠実」という言葉は本来は中立的なものです。しかし、私には、翻訳関係の書物の中ではこの言葉はかなりご都合的に使用されているように感じられます。つまり、自分は「何々に忠実である」と言う人は、それによって自分の意見の正当性を主張するとともに、違った意見を否定しようとしているように、私には思われます。

 文法に忠実に従い、辞書に忠実な訳語を使用して翻訳することは、悪訳につながることをこの本では主張しています。それは、文意や表現に忠実である方が重要である、と主張している、とも言えます。すると、すぐに、「いやそれは意訳であり、文法や辞書に忠実でなくなる」といった声が聞こえてきます。この場合の「意訳」には、本来の中立な意味ではなく、相手の意見を否定しようとする意図が込められているように感じられます。このように、何に忠実かという議論は堂々巡りに陥る危険があります。それよりも、訳出された結果を比較評価する方が生産的でしょう。

 もうひとつ、使用を避けた表現があります。それは「馬鹿のひとつ覚えは止めましょう」です。実は、differentoftenparticularの所では、この表現を使用するとぴったりなのです。ですが、広く一般に公開される文書の中では、あまり適切ではなかろうと思い、自粛しました。ある本には「何とかのひとつ覚え」という表現が見られました。

5.4  種類の文才

 「まえがき」に書きましたように、翻訳に関する本は数多く出版されています。その著者は文芸系の方が圧倒的に多くなっています。たとえば、付録A「参考書籍」に掲げた点数では、文芸系と実務系の割合は16対4であり、文芸系が4倍になっています。

 私はずっと実務翻訳に携わってきました。世の中には、実務翻訳には文才は必要ないだろう、と思っている方がいるかもしれません。そんなことはありません。たとえば、小澤勉氏は『ミニマル・トランスレーション』の「あとがき」(参考書籍8、194ページ)に下記のように述べています。

コンピューターのことがよくわかり、誤訳をしない程度に英語がわかる人で、日本語の文才がある人が、
コンピューター・マニュアルの英文和訳をやってほしいものだ

 ただし、「文才」を定義することは困難です。試みに『広辞苑』を引いてみると、「文章を巧みに作る才能」、「文学作品を巧みに作る才能」と記載されています。

 ただ、文才には下記の3通りがあることを、指摘しておきたいと思います。

1.         文章を書くこと全般に共通する基本的な文才

2.         文芸作品を書くことに特に必要な文才

3.         実務文書を書くことに特に必要な文才

 この本では、原文をまず直訳的に英文和訳し、その結果を改善するという作業を、基本的に進めてきました。その観点からすれば、この本に関係する文才は主として上記の1の「基本的な文才」であると言えるでしょう。

 しかし、第3章「英文和訳を改善する演習」の中で私が記述したことの中には、実務的な傾向が強い面があったかもしれません。

 たとえば、私は長い原文を分割して訳すことを推奨しています。もちろん、文芸系の方でも、同様の考え方の方がおります。それは、文芸系の方も強調している、原文の大きな流れに沿って訳すことに一脈通ずるからです。他方、文芸系の方の中には、原文の文体の雰囲気を出すように訳すことを強調している人が、多くいます。そのような視点からすると、長い原文は長く訳す方がよい、ということになるかもしれません。どちらの方が良いかではなく、文芸と実務では、視点が異なることがあることを認識しておきたいと思います。

 文芸作品は鑑賞するものです。実務文書は利用者に説明して理解してもらうためのものです。したがって、上記の「文芸」対「実務」という対比を、「観賞」対「説明・理解」に変えた方がよいと、私は考えます。前者の場合、著者の芸術作品を読者が鑑賞させていただくのです(わざと、このような表現をとっています)。つまり、著者の方が読者よりも上の立場にあると思われています。後者の場合、究極の目的は、読者に理解してもらうことにあります。したがって、高度な修辞よりも、読者にとって読みやすく分かりやすいことが優先します。翻訳にもそれが表れます。原文を翻訳することが分かりにくくなる場合は、なおさらです。


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