大正初期浪曲雑誌の一動向――『正義之友』から『駄々子』を素材に

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――この間初めて一席ぶっ通して聞いたがね、妙なもんですな、浪曲って奴は。なんとなく憎めない駄々っ子といった感じですな。古い浪曲の範疇に属する語り手なんだろうが文句なんか相当デタラメが多い。それでも糞ッと思えない所がなんとも妙だ。(1)

――何でえ生意気野郎、浪花節を藝術だの通俗教育だのと俺には分らねえやうな符牒で云ふやうになったから浪花節藝人なんてものが頭が高くなったんだい、チョンガレの時代が餘ッ程面白かったぞ藝人も亦其の時の方が熱心だった、聴く方の奴が詰らねえ事を云って褒めやがるから藝人なんて云ふものは蛸坊主のやうに飯を頭に食ひ上せて了ふんだい、褒めるのも大概にしやがれ。(2)



 浪曲雑誌、というのは、とりあえずの便宜的呼び方である。明治末から大正期にかけての浪曲浪花節)勃興期に、専門誌として一定の版元から定期的に刊行されるようになった雑誌(紙)メディアをさすもの、と理解していただきたい。
 浪曲の興行にまつわる印刷物には、「三点セット」と呼ばれるものがあり、それらは、1.チラシ・ポスター類、2.雑誌・番付、3.大入袋、とされている。(2) これらは実際の興行の現場における宣材として機能する「もの」であるわけだが、ここで取り上げる浪曲雑誌というのは、これら具体的な宣材としての「もの」としてよりも、むしろ一般的な意味での専門誌(紙)、浪曲という芸能を媒介に読者を相互に共通の「趣味」でつないでゆくような役割を主に担わされたメディア、という意味に重心をかけているつもりである。
 本稿で紹介、考察を試みるのは、そのような意味での浪曲雑誌の中でも、ごく初期のもののひとつ、『駄々子』『正義の友』である。共に、筆者の手もとに、何部か現物がある。市井の浪曲研究家であり、今なお唯一の浪曲定席として残る「浅草木馬亭」の後見のような立場にあった故芝清之氏の所蔵されていた資料を、氏のご厚意によって生前、譲り受けたものの中に含まれていたものだ。(3)
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 『駄々子』という雑誌については、浪曲関連の研究の中でも、これまでほとんど触れられていない。何よりこれら浪曲雑誌自体、これまでのメディア研究、新聞雑誌研究などの脈絡でも正面から言及されたことは、まずなかったと言っていい。実物がまず現存していないということと共に、やはりここでも「学問」の視線の側からどのように分類して位置づけていいものか、悩ましいところがあったものと思われる。浪曲の研究というのが、まず浪曲という芸能のジャンルの成立から転変についてと、個々の演者や演目そのものについての言及で埋められるのが常で、それが同時代の情報環境でどのように聞かれ、楽しまれ、そして意味を持っていたのか、といった広義の歴史的/文化的な脈絡も含めた複合的、立体的な解釈にまではなかなか手が届かないのが実情だった。(4)
 わずかに、唯二郎がこの『駄々子』に言及している。

 「大正に入ると、浅草千束町の立志社から『駄々子』が出版される。最初は週刊誌大で花柳記事などもあるが、のちに一回り小さい菊版となり、『芸界の友』と改題され浪曲専門の雑誌となった。昭和のはじめまで約十七年間、時に休刊はあるが通巻にして百五十六号を数える。(…)『芸界の友』は昭和のはじめ『浪界新聞』とさらに改められ、一面が浪界消息、裏面が番付となり、さらに十数年つづく(定価十銭)。」

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 通巻百五十六号と言われているが、いま、手もとにあるのは、このうち週刊誌大の初期のもの十二部と、菊版になってからの一七部。すでに発行以来一世紀近くたつ資料であり、どれも背表紙はあちこち破れ、また本文も含めて紙自体朽ち始めているので、できるならば早急に保全管理が必要な状態になっている。
 それら『駄々子』名義のものに加えて、同じ発行所である立志社から、これまた同じ木村正義名義で発行されていた『正義之友』と称される週刊誌大のものも三部、残っている。第一号の発売日は、大正二年五月十日で、以後三号まで現存。こちらは内容的に特に浪曲中心というわけでなく、むしろ社会評論や言論中心の構成だが、目次を見ると一部筆者が『駄々子』と重複していて、広告欄にも浪花節関係が散見される。さらに口絵に『駄々子』同様、桃中軒雲右衛門など当時の浪曲師たちのポートレートがあしらわれている号もある。(図1)
 『正義之友』創刊号は、今のB4版ほどの大きさを横にふたつ折りにした形である。一応は中とじになっているが、版組みは横長の縦組み。ふたつ折りゆえ、奥付が真ん中に隠れてしまう形になり、実際に読むにしても読みにくく、何より目次が中身と対応していない部分もあり、その部分を「二部」と称したり、と、雑誌としての定型からは大きく外れていて、とりあえず試験的に刷ってみたという印象がしないでもない。第二号からは通常の左開きの冊子になり、丁合もノーマルな形になっているが、内容について第一部第二部という区別はまだ残っていて、第二部の方に小説や創作系の原稿が集められている形になっている。 経緯から言えば、これら『正義の友』は『駄々子』の前身にあたる。だが、この『正義の友』については、前出『実録浪曲史』でも具体的には触れられていない。さらに、この『正義の友』は三号まで発売されて発売停止の処分を食らっている。その次号から『駄々兒』(のちに「駄々子」)として再出発。しかしその再出発した『駄々兒』第一号もまた、発売禁止処分になっている。メディアの性格として浪曲雑誌の形を整えてゆく以前の段階で、まずこの『駄々子』は御難続きだったようだ。


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 『駄々子』(当時は「駄々兒」)創刊の辞は、こんな具合である。

 「雑誌「駄々兒」新に生る、爾は何を駄々捏むとする乎、世事爾の意に満たざる乎、爾よに容れられざる乎、何ぞ、與に拗たるの名詮自称なるぞ、今や、時は昌平に屬し、與は文明を唱へ、人は平安を願ふの時、獨り、爾が之に逆ふて、世を迎合せざるは、文を以て法を亂す儒生の流れを汲み、當世を冷罵し去りて、獨り、自ら高うせむとするの意乎、抑も、亦武を以て禁を犯す游侠の徒を學び、人の難に趨りて、郷曲の誉を博し、以て流俗間に矜らむとするの意乎、嗚呼豈に何ぞそれ然らむ、彼の儒生の強ひて世を避け、好で俗を罵り、獨り、自ら潔うせば足れりとするが如き、非社會的の言動は、固より爾の取らざる所なり、又其行ひの不軌にして、正義と合はず、往々気を負ひ、時の文罔を干して、顧みざる任侠の如きは、初めより、爾の與みせざる所なり、爾の義苟も當世に合はず、臂を攘て崛起し、身を挺して、時潮に抗するは、斯の如き非社會的の偏狭、没道義の誇負心より起りしものに非ず、更に、一段の高尚なる、倫理及び風教上、黙止せむと欲して、黙止する能はざるが故なり、豈に、何ぞ漫然世に拗ねて自ら快とするものならむ哉。(…)
 人は物質に流れ、世は名利に奔り、社會は虚栄を競ふて、人間貴重の他あるを知らず、故に人道を無視して、不義の暴冨を極むるものあるも、社會はこれを咎めず、世は反って之を適存の優者と唱へ、人は之を成功者と称して、其膝下に讃辞を捧ぐるに至れり(…)
爾の傲然として世事に拗ね、敢然として現状に駄々捏ねるは、社會の不在、人心の堕落を慨すればなり、強者の跋扈、人権の蹂躙を憤ればなり、富豪を迎合し、権門に阿附するを惡めばなり、是れ「駄々兒」の駄々兒なる所以の本領なり、然れば即ち、時艱にして、世事日に非なるの今日に於て爾の生れる、亦偶然に非ざる也。」

 当時の「雄弁」のスタイルが直裁に反映されたとおぼしい、ある種の美文調である。実際に声に出して朗読することも想定されていただろうし、筆者は筆をとりながら音読していたかも知れない。いずれにせよ、「駄々ッ子」という自己規定に、素朴な「自由」を込めようとしたことは明らかである。そして、このような文体とそれによる自己規定をよしとして受け入れるような「気分」を持つ者たちが、ある一定の層と共に浪曲の周囲に、雑誌を媒介に集まり始めていたということだろう。
 雑誌の成り立ちはどのようなものだったか。
 一応は月刊の定期刊行物だが、経営的には「賛助員」と呼ぶ同人のような立場の者を募って賛助金を徴収、広告と共に運用を想定して、雑誌自体は郵送で会員のもとに送る形をとっていたようだ。1.名誉賛助員、2.特別賛助員、3.普通賛助員、の三種類で、それぞれ年に十円以上、五円以上十円まで、二円以上五円まで支出できる者、と規定がある。ちなみに、賛助員は本誌を無料講読できると共に、「何時にても紙面を仕様して自家の意見を發表する」権利を有することになっている。いわゆる同人誌の形式に近い。
 一般読者に対しても一部単位の頒布を想定。市中の書店などの一般販路で配本されていたのかどうかは、現状では不明だが、装丁まわりに定価が記されていないところから、現実には郵送での配布が主だったのではと思われる。定価一冊十五銭、郵税一銭。三ヶ月以上一年までの定期購読は郵税込みになっている。
 末尾の奥付のページ、賛助員規定の欄の上に朱書がある。

 七月末日現金入
 百八十五円三十銭
 残四十二人分あり
 一人○四○見積るも
 八十四円あり

 発売月の末日での決算なのか、賛助員ひとりあたり二円として約百人程度。一般読者にどれくらい読まれたものか現状ではわからないが、当初は推定数百部前後といったところだったのではないだろうか。(7)
 ちなみに、発行の趣旨に規定されている雑誌の性格とは、このようなものだ。

「第一絛 本社發行駄々兒の目的は毎號内外の實業、経済、文學、演藝、其他凡ゆる社会の出来事を最も確實に最も詳細に報道し以て實業の振作、國家の發展に資する所あらんことを期すに在り。」(8)

 「実業」「経済」が最初に置かれていることに注目しよう。「実業」というのは当時、新たに使われるようになっていた新しいもの言いであり、近代化がある程度の段階に達して、社会自体も初期の大衆社会化が進行していった状況での新たな〈リアル〉を表現しようとした一群の言葉のひとつである。(9) 実際に誌面も、経済関連の記事が一定の割合を占めているし、広告も金融やマスコミ系が多い。
 デザインも見てみよう。
 表紙は黄と赤の二色刷りの背景に、文字などは濃紺で乗せられている。意匠は、シルエットの子どもが装具ともども外されて転がっている形の佩刀(サーベル)にまたがり、握りを右手で持ち、手前のシルクハットの紐を手綱よろしく左手で握って、おそらくは後ろ向きに仁王立ちしている図。子どもの服などはシルエットゆえに不詳だが、輪郭などから推測するに、厚手の靴下に半ズボン、襟回りなどから上着はセーラー服様のものを身につけているように見える。頭髪も洋髪に、何か小さな帽子かかぶりものを乗っけたような形。何か海外の雑誌か何かに図案の雛型でもあったのかも知れない。版面左肩に縦書きで「駄々兒」と記され、そのやや左下に「(ダダッ子)」と読み下しが付されている。(写真a)
 裏表紙には広告が入っていて、こちらも三色刷。出稿は、帝國鑛泉株式会社と、日本蓄音器商會本店。前者は「宮内省御用達」の「三ッ矢平野水、サイター、ヲレンジ、シナルコ」清涼飲料水の、後者は「鷲印」「赤鷲印」レコードの新譜広告で、ピアノ入り唱歌などの新譜が並べられている。(10) 
 版型は、ほぼ現在の週刊誌大。写真も含めた口絵もついているから、同人誌のような成り立ちのメディアながら、当時としてはかなりの豪華版と言っていいだろう。


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 『正義之友』から『駄々子』に移行する中での、発行禁止処分について見てみよう。
 文中、大正二年五月十五日に発行禁止命令を受けたとある。前号『正義之友』三号は五月十日発行だから、発行後五日で処分がくだされたことになる。理由は明らかに記されていないので、目次や誌面内容から推測するしかないが、「霞外」署名で書かれた「土地所有権」と題する原稿中、私有財産制度を撤廃する主張あたりが当局の禁忌に触れたことは考えられる。

 「斯くして、地主は文明の進歩、社會の發達に因りて生ずる利益を、坐ながら獨占して、暴冨を極むるに至れり、之れ佛のプルドン、獨のマークスが、地主と資本家を捉えて、社會を強奪する盗賊なりと喝破したる所以なるべし、(…)苟も、此弊害を人類社會より除却せんと欲せば、先ず根本に遡り手て、倫道に反する私有制度を撤癈し、天意に適ひたる公有制度を復帰せしめざる可らず、(…)假令ひ百の地上權法を設定し、千の小作絛例を制定したりとて、決して、此弊毒を根本より●除すること能はざるなり。(…)今日の社會的弊害を除かんと欲せば、必ず先つ土地私有制度を癈して、國有制度に改めざる可らず、乃ち、天惠を少数者に獨占せしめずして、社會人類に均等に之に浴せしめざる可らず、而して後ち初めて社會の精算は、自ら公平に分配されて、現今の弊害は、自然に消滅するに至るべし」

(11)

 前掲「發刊の辞」の頁の右肩に重ねてさらに、朱書で「大正貳年七月八日発行禁止発賣停止ノ事あり」と記されている。前号『正義之友』三号で発売禁止処分を食らい、雑誌名を変えて心機一転、再出発しようとしたこの『駄々兒』創刊号においても再度禁止処分。当局ににらまれていたのかも知れない。さすがにその次の号では、社長の木村正義自ら釈明をせざるを得なくなっている。

 「余輩は元来文士にあらざれば、妙句麗語を並べ、意を婉曲に用ひて、事を論ずるの道を知らず、直情流露、動もすれば言論、危激に渉り、筆端、矯越に馳せて、往々、不測の奇禍に陥いることあり、曩に五月號の正義之友は、發行停止の命を蒙り、又前號の駄々子は、治安妨害の簾を以て、發賣禁止の厳命に接し、同誌は挙げて其筋の為め押収せられたり、之れ固より自ら作せる●にして、又誰をか咎めむ哉、然れども、屡々忌諱に觸れ、再三筆禍を重ぬるは、自か、ら世俗の誤解を招き、當路者をして、益々、危惧を抱かしむるを以て、余輩所信の要旨を一言明治するの必要を、感ぜずんば非ざる也。(…)
 余輩は、彼の極端なる個人主義が、國家の職務を、漸次縮小して、終に自由放任の無秩序に、陥らしむる主張の如きには、初めより賛意を表せざるなり、又凡ての職務を舉げて、國家の経営に委ね、個人の自由を、全然没了し去らむとする社會主義の如きは、素より絶對に、反對を唱ふる者なり」

(12)

 文面を見る限り、やはり個人主義社会主義を鼓舞したと受け取られる部分があり、そこが問題にされたらしいことがわかる。続いて、それらふたつの主義の中間をめざすのが自分の本意であり、その意味で国家社会主義に立っている、と弁明した後、以下のような部分に続く。

 「而して、猶ほ此主義は上古より既に我國に於て實施せられ、上列聖の、下細民を慈しみ給ひたる、幾多の例證は、明に此世運の進歩と共に、我國體の精華をして、益々發耀せしめ、我民をして、益々其堵に安ぜしむるには、此國家社會主義を、汎く實施するの外途なしと、余輩の確信するに至りし所以也。」(13)

 大正二年。数年前の大逆事件の記憶も、東京市内在住のこれら新興知識層においては、まだなまなましかったはずだ。釈明にもその影は揺曳している。巻頭、先に紹介した葬列の口絵の次ぎにある「正義の友を弔ふ」と題した、黒枠で囲まれた文章も高い調子の悲憤慷慨になっている。

 「嗚呼哀哉
 正義の友よ、爾は五月十五日夜、●焉として逝きぬ、爾は今春呱々の聲を舉げ、月を閲する僅に三ヶ月、號を重ぬる未だ三號に過ぎず、而かも、羽翼既に就り、将に大に高飛せむとするの時、突然天の一方より、發行禁止の厳命下り、茲に敢へなく、終焉を告ぐるの止むなきの運命に至りぬ。
 正義の友に、夙に爾は遠大の経綸を懐抱し、高遠の志望を把持し、社會人類の為め、前途大に為すことあらむことを期し、着々之に向て、其歩武を進め居りしも、良薬は口に苦し、直言直行は、國法の耳目に逆ひ、終に奇禍を蒙りて、空しく永久の闇に、葬られることとなりぬ。正義の友よ、爾は不幸短命、未だ抱負の萬分一も、世に行ふ能はずして逝きぬ、遺憾何ぞ限りあらむ、然れども、世豈に其人中ラムかな、必ず爾の遺志を継ぎ、爾の事を行ふものあらむ、故を以て、仮令ひ、爾は世に亡しと雖も、爾の志は永く社會に存す可し、以て爾は地下に瞑目して可なりぬ、噫。
               大正二年五月十五日發行禁止受命の夜 編輯同人謹記」

 『駄々兒』第一号には、折り込みの口絵もある。これもまた異彩を放つ内容だ。
 発売禁止処分になった『正義之友』の葬儀の様子が色刷りで印刷されていて、先頭に「弔 正義之友」と書かれた幟、輿の後ろには「正義之友の霊位」と記された位牌が続き、さらにそれに続いて「博善株式会社」と典礼社の社名とおぼしき名前の入った旗を捧げ持つシルクハットの紳士連が描かれていて、ごていねいにもその少し後のページの広告欄には典礼社の広告まで入っているという趣向。さすが「駄々っ子」を以て任じるだけの揶揄、諧謔の精神を髣髴させるが、個人主義社会主義に連なるかのごとき主義主張もさることながら、こういう茶化したような書生流の態度に必要以上に当局が神経を逆なでされたのかも知れない。(写真b)(14)
 これらの箇所以外にも、手もとにある『駄々子』には、随所に朱で書き込みがされている。表紙周辺に記されている「だいちょう」「台帳」以下、主に広告欄に集金の金額やその成否などだろう、記号や数字が多い。(15)(写真c)
 これらのことから考えると、手もとにあるこれら資料は一般に流通していたものではなく、発行元の編集部に事務作業の控えとして保管されていたものと思われる。発行元の立志社主幹の木村正義は、浪曲関連の事業をやっていた人物。後には、公民教育や郷土教育などについても著書がある。立志社名義での浪曲雑誌や番付の発行は、息子の正一氏に引き継いでいたらしい。おそらくは、その関係者周辺の資料を芝氏が譲り受けたなどの事情があったものと推測される。(16)


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 このように、『正義之友』から移行して創刊された『駄々子』だったが、当初はまだ必ずしも浪曲雑誌としての内実を伴っていない。『正義之友』の二部にあたる芸能評論、批評や芸界消息、ゴシップといった部分が拡大して、浪曲と女義太夫のふたつのジャンルを主に取り扱うようになってはいるけれども、浪曲専門という誌面にはまだなっていない。目次前半には木村正義以下の社会評論、主張などが並び、それに小説などの創作が連なるという、ある意味では素朴な同人誌的構成になって、それが週刊誌大の版型のまま、ひとまず大正二年いっぱいは続いている。
 それが、翌大正三年にはいると版型を菊版変えてくると共に、一気に浪曲専門誌の色合いを強めてくる。誌名にも「藝界之友」という副題的なものが付与され、目次もあるパターンができ始めているのが見てとれる。
 たとえば、創刊三年目の第三巻、大正四年春の二十三号を見てみると、天中軒雲月と津田清美の速記が目玉として配されていて、それらをはさんで前半に浪曲の、後半に女義太夫の芸界消息やゴシップ、演者月旦といった記事が並ぶ組み立てになっている。『正義之友』以来の社会批評、言論系の記事は前半にまだ残っているが、小説や短歌といった創作原稿と一緒になっていて、誌面全体の重心が浪曲以下の芸能に移行しているのが見てとれる。

■駄々子 藝界の友 廿三號 第三巻第二號
大正四年二月廿六日 印刷納本
大正四年三月一日 発行

感想と評論 「浴後の安楽椅子にて」主幹 木村正義
短歌 「亡き妻の位牌を抱いて」樋口麗陽
泰西思潮 「オイケンの社會主義」城北散史譯
新聞記者の手帳より 「火の女その一 棄てられたる琉球の女」落花流水亭主人
短歌 「をりにふれて」 園田璋子
雑録 「現代女性観」杢兵衛
    「歓楽へ歓楽へ」樋口破魔二 三津木榮子
    「良心のない奴」 一記者
    「旅客虐待列車」
小説 「病葉」南繁夫
北雪美談「金澤實記」湊家秀蝶
「藝界駄々子」
「浪界私見」白頭巾
「蓄音機に現はれた雲と奈良の相違點」狭山孤影
「浪界月旦 東家楽燕」猪股秋霧樓
「浪界ポスト」
「雲月と我輩」萍浪
◎「赤垣源蔵徳利の別れ」天中軒雲月
「竹本素昇さんへ」尾上鈴吉
義太夫五段聴」喜美夫
「女義評論 豊竹富榮」美奈美生
「駄々子ポスト」
「自殺した和光」鳩の舎
「ピラミッド底遍文學」山口初子 樋口麗陽
「五九郎のすましぶり」
「熊に於ける駒子と萍緑と五九郎」白波權三
「新派の捨て所」
「へなぶり」四藝子 樋口麗陽
◎「明治武傷對T木将軍 濱松の美舉」津田清美

……◎は、口演の速記。

 小説や短歌などがあしらわれているのは初発の同人誌的な性格からしてともかくとして、浪花節と共に、女義太夫に大きく誌面が割かれているのが眼につく。同時に、批評や評論、ゴシップの類も、「女義」と称する女義太夫についてのものが浪花節とほぼ同等の分量がある。このあたり、当時女義太夫を支えていた書生、ないしはそれに準じる新興インテリ/知識人予備軍層の「書きたい」欲望に適合していったことがうかがえる。『正義之友』の頃のような生硬な社会批評、評論は後退し、おそらく書き手もある程度入れ替わったのではないだろうか。
 寄席を中心とした芸能、相撲、そして花柳界以下、「玄人」女性の話題。当時の社会的人格としての「成人男性」の日常的な関心事というのはそのようなものだった。いわゆる芸能と女性、この二本立ては当時の『都新聞』に代表されるようなジャーナリズムの世界観に重なる。「大新聞」――政治や天下国家の動きを漢文脈のリテラシーをフレームとして切り取って行くメディアではなく、それ以外の分野に焦点を当てる、明治二十年代に「小新聞」と呼ばれたようなメディアのそれだ。一般に、この大正初期にはすでにそのような区分は溶解していたとされるが、この『駄々子』の目次からうかがえる世界観は、たとえば当時、花柳界専門紙と揶揄され、同時に「実業家の虎の巻」を任じていた『都新聞』のテイストに近しい。
 本来の『駄々子』に加えて「藝界の友」という名前が誌名に寄り添い始めた理由も、当初は直言型の言論誌をめざしたいたものが、当局の弾圧を食うことで、浪曲や娘義太夫といった「芸能」に焦点を合わせた「趣味」雑誌との性格に変えることで、存続をめざしたものかも知れない。言い方は悪いが、浪曲を隠れ蓑にしたとも言えるだろう。
 とは言え、当初から浪曲関係者の広告は入っているし、本文中に浪曲に関係する原稿がない場合でも、口絵に桃中軒雲右衛門以下、当時の浪曲師の写真が載せられていたりするから、もともと浪曲への共感はあったのは間違いない。もっとも、それらと同様の扱いで芸妓や女義太夫の演者たちの写真も口絵になっているのだが、それらは当時の視線からは同じ「芸能」として等価のものであったということを、ここでは再度指摘しておきたい。浪曲とは同時代の「場」において、そのような位置づけにあった。


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 このような批評や評論も含めた言説を大きく扱うような浪曲雑誌の出現は、浪曲という芸能がそのような批評眼にさらされるようになってきたことでもある。
 紙媒体への浪曲のコンバージョンについては、いわゆる速記本の出現が先にあった。これは落語や講談などに始まる速記術の転用の一環として位置づけられるが、ふりがなつきで口語混じりの文章を読み得る程度のリテラシー初等教育の普及によって身につけた読者層がそれら速記本を、新たな「読みもの」として消費するようになっていったのと少しずれながらも並行して、このような批評や評論といった言説を生み出すようなリテラシーを持った読者層が浪曲の周辺に集まり始めていた。
 もちろんこれは東京周辺に限ってのことであって、当時浪曲がまた別に盛んであった名古屋や京阪神、さらには軍談語りなどと融合しながら雲右衛門のリニューアルに力を与えた九州など、それぞれの地方で、このような紙媒体へのコンバージョンなどがどのように行われていたのか、比較検討してみないと断定できないところはある。たとえば、九州におけるこのような浪曲雑誌(紙)として、すでに『藝一聲』なども知られているが、彼の地において台本作者の介在が早くから行われていたことなどを考え合わせてみても、類似の批評、評論系のメディアが先行してあった可能性は十分あり得ると思われる。特に、立川文庫に代表される速記本から新講談へと移行する時期にこのような出版物が簇生した大阪および京阪神地域の状況は、今後さらに精査が必要と思われる。
 あと、この時期の浪花節の勃興を考える場合には、「寄席」と「劇場」という、「上演」の「場」を規定する物理的な建物=「ハコ」の違いにももっと着目が必要だろう。雲右衛門の爆発的な人気に要因には、「劇場」という新たな千人規模上限の大きな「ハコ」での上演形式を自ら編み出してきたという部分は見逃せない。

浪花節は聞くと同時に見るべきもの也、其の演ずる節調と演者自身の態度と相待って其處に人物は活躍するもの也と云ふ、然り演者の演中人物と同化が藝の真髄。」
大石内蔵助を演ずるの人、態度野卑ならんか聴衆誰か内蔵助を眼前に髣髴するものあらんや、態度表情は演者の最も注意を要する處たらずんばあらざるなり。」(「浪界 匕首一閃」 『駄々子 藝界の友』 廿四號 第三巻第三號 大正四年四月 駄々子三周年記念號 p.51)

 上演としての浪曲が、声やフシと共に、視覚的な要素もまた重要な芸能だったことを表わしている。その限りで浪曲は演劇的であり、「個」としての演者に観客の、そしてその背後に想定され得るようになった不特定多数の視線を一点集中させてゆくような「場」の編制が可能になっていったことでもある。
 当時、雲右衛門がもたらしたとされる「総髪」「紋付き袴」以下の「演出」の機微についても、このような脈絡からもう少していねいな解釈が施されるべきだろう。衣装はもとより、舞台上の装置、道具だて(立っての語り、テーブルとテーブル掛け、幟など)から、発声や節まわしに至るまで、それまでの「寄席」の大きさに適応して発達してきた関東節とはひとつ別のステージを提示したと考えていい。もともと関東で修行をしていた雲右衛門が、九州へ「逃亡」して上演形式を一新してきたこと、そのような「劇場」に対応する形式の「発見」に当時の西南日本、とりわけ九州の「軍談」「薩摩琵琶」「筑前琵琶」どの語りもの、話芸が大きく作用していたことなども含めて、一律に「草の根ナショナリズム」「国民国家形成」といった術語でのっぺりと塗り込められるばかりの当時の「気分」のディテールをほどいてゆくことにつながるはずだ。
 浪曲についての研究は、これまで十分な蓄積がされてきたとはとても言い難い。そのこと自体がまず、浪曲を「歴史」の相においてとらえようとする時の興味深い補助線にもなり得る。それは大きな枠組みで見れば、日本の近代の「学問」がどのような枠組みで現実を、〈いま・ここ〉をとらえようとしてきたかについての限界について、裏返しに示してくれる地点でもある。
 いわゆる大衆文化をそのような脈絡でとらえることについては、カルチュラル・スタディーズなどの文脈で近年、一部で称揚されてはきている。それは従来の大衆文化研究の脈絡とはまた違う位相、異なる情報環境において〈いま・ここ〉を相手どる動きとしてとらえることができる。そんな流れの中で浪曲浪花節についても言及されることもないではないし、また、多少は光が当てられてきているところもある。それ自体は喜ばしいことだが、しかし同時にそのカルチュラル・スタディーズそのものが近年の日本の「学問」をとりまく情報環境においてどのように受容されてきたのか、もっとはっきり言えば、日本におけるカルチュラル・スタディーズが受容されている枠組み自体を相対化する視線を共に等価に内包しておかない限り、真に「歴史」の相において浪曲をとらえることはできないだろう。
 もちろん、これは浪曲に限ったことではなく、いわゆる大衆文化、サブカルチュアの領域を現在、日本語を母語とする広がりにおいて「学問」として相手どろうとする時に、まず最前提として要求される、知的誠実さでもある。それなくしては、浪曲なら浪曲を語る、そのもの言いや言説自体がある限界や不自由の内側にあらかじめ閉じこめられていることを等閑視した手続きが自明のうちに行われるばかりで、言葉本来の意味での「歴史」の復権、〈いま・ここ〉からの一点透視が可能なものにはつながっていない。これは80年代以降、いわゆる「ポストモダン」状況以降の日本の人文/社会科学の言説が置かれてきた情報環境の問題なのでこれ以上この場では深入りしないが、それら既存の「学問」市場内側に幽閉されたままの平板な言説よりは、ここで焦点を当てた芝清之氏や唯二郎氏といった市井の研究者、言葉の最も豊かな意味での「好事家」の手による素朴な資料整理や収集の仕事の方が、〈いま・ここ〉を中空から俯瞰して素描をするだけの既存の「学問」の言葉に比べれば、信頼するに足る知的共同性を前提にした下ごしらえとしてはるかに誠実で、何より本当の意味での「学問」の未来につながるものと思う。何よりも、彼らが浪曲を素朴に「好き」であったということ、それがまず彼らの作業を推進させてゆくエンジンになっていたということが、浪曲を語る言説にどのような違いを与えているかも含めて自省の俎上にあげてゆく構えなくして、今後、国民国家形成の重要なメディアとして機能した浪曲の歴史的/文化的意味を本当に説きほどいてゆくことはできないだろう。
 ともあれ、この『駄々子』の誌面が浪曲雑誌として安定してゆく過程、そしてそれらをとりまく人脈や時代背景などについては、次回以降の機会にまた改めて、詳述してみたい。

*1:註が紙媒体から挿入されないままアップしてあるのはご容赦。図版など含めて、いずれちゃんと入れるようにします。