失われた未来を求めて
木澤 佐登志

「未来はわれらのものだ」と言いながら死んでいったサン=シモン、「未来を構築しなければならない」と言いながら自殺していったマーク・フィッシャー、そして「未来はここで終わる」と言ったリー・エーデルマン――。ルイス・キャロルは暗室の中で少女たちの写真を現像し、カール・マルクスは大英図書館で来るべき革命のための書を執筆する。これは、未来と子どもたち、近代と脱近代、革命と反動、19世紀と20世紀、ユートピアとディストピア、メランコリーとノスタルジー、テクノロジーとオカルティズム、そして失われた未来に捧げるエッセイである。

第七回LSDと幻想世界、サイケデリクス

前回はヨーロッパにおける「反脱魔術化」の系譜を追った。アスコーナやエラノス会議など、とりわけスイスにおいて近代文明に対抗する豊穣な知のネットワークが形成されていることを私たちは見た。ヨーロッパで育まれた対抗的な土壌は、アメリカのカウンターカルチャー、とりわけLSDに象徴されるサイケデリック・カルチャーとどのようにして関わってくるのだろうか。

LSDもスイスという地と深く結びついている。スイスの化学業界は1920年代以来、サンド、チバ、ガイギーの三社がカルテルを結成していたが、このうちのサンド社の製薬研究所で1938年、アルバート・ホフマンという一人のスイス人化学者が世界ではじめてLSDを合成した。

LSD。正式名リゼルグ酸ジエチルアミド。このリゼルグ酸はライ麦などに麦角病をもたらすカビから抽出される。麦角病は中世ヨーロッパでは「聖アントニウスの火」や「聖ウィトゥスの踊り」として知られており、黒死病と同じく共同体に大量死をもたらすほか、麦角菌に含まれる毒素である麦角トキシンはしばしば「宗教的」興奮や痙攣、そして幻覚をともなう。村落ではこのような徴候を起こすのはひとえに妖術(ウィッチクラフト)のせいであるとされた1

そのときホフマンは薬用アルカロイドに含まれるライ麦菌、麦角菌の化学的薬学的特性について調べており、彼が麦角菌の派生物から合成したものとしては25番目にあたっていたそれはLSD25と名付けられた。初期の動物実験ではどうともなかったのでLSD25は研究室の棚にしまい込まれてしまうが、その5年後の1943年4月16日、ふとした偶然からLSD25を指先から少量吸収してしまったホフマンは最初のトリップを体験する。LSDが人類にもたらされた記念すべき日である。そのとき彼の身に起こった特異な出来事は報告書にまとめられている。

先日、つまり1943年4月16日(金曜日)の午後、私は実験室で研究の最中に、それを中断せざるを得ないような状態に陥ってしまった。そして帰宅したが、軽いめまいを伴った奇異な興奮状態に襲われていた。家に着くなり私は横になったが、きわめて刺激的な幻想に彩られながら、不快な酩酊状態にあった。目があけられない状態(日光がぎらぎら輝き眩しく感じられた)で意識はぼんやりとし、異常な造形と強烈な色彩が万華鏡のようにたわむれるといった幻想的な世界が、私の目の前に絶え間なく展開していた。そのような状態が二時間ぐらい続いたであろうか、やがてそれは消えうせたのである。2

ホフマンはその日の体験と研究中のリゼルグ酸ジエチルアミドとの因果関係をより詳細に突き止めるために、自身を被験者としたさらなる実験を遂行することにした。三日後、彼はごく微量(0.25ミリグラム)を研究計画にもとづき慎重に服用してみることにしたが、それでもこれはLSDの服用量としては適量をはるかに超えたものであることを後になって知ることとなるだろう。以下のホフマン自身によるドキュメントは、彼の著書『LSD―幻想世界への旅』(原題は『LSD-MEIN SORGENKIND』で「LSD―私が生んだ問題児」とでも訳せようか)に記された、およそ知る限りでもっとも客観的に描写された、LSDのオーバードーズが引き起こすバッドトリップの臨床記録である。

感覚の変化が深まるにつれて、私は非常な努力をしなければ、自己実験中の供述を記録している女性の実験助手に、もはやわかりやすく述べることができなくなり、私を家まで送ってくれるよう彼女に頼んだ。自転車で送られている最中も――自動車は戦争中のために使用許可がなかなかおりず、したがってわずかな時間の利用すらできなかった――私は一種の強迫状態に陥っていた。私の視野にあるすべての像は揺れ動き、しかもわん曲した鏡でも見るかのように歪曲化されていた。また私は自転車が一向に前進していないように感じていた。そこで私はその助手に、もう少し速くペダルを踏むようにせき立てた。家についてもまだその症状が治まらず、私の家庭医を呼んできてくれるよう助手に頼んだ。また隣家の奥さんがミルクを差し入れてくれた。

・・・・・・]めまいと気が遠くなるような感覚が時として強く襲いかかり、私はもはや立っていられなくなり、ソファに横になってしまった。周囲はおそろしく不安な状況へと変化していた。空間はすべて回転し、普段から慣れ親しんでいるはずの品物や家具がグロテスクで、ほとんど強迫的な形態へと変容してしまった。それらはあたかも生命を持っているかのごとく、また心の不安におののいているかのごとく絶え間なく揺れ動くのであった。

・・・・・・]今や、私は閉じた瞼の裏に絶え間なく展開する今までに経験したことのない色彩や形態を自然な形で享受することができる状態になっていた。万華鏡のように千変万化する多彩で幻想的な形象が、私の中で鮮やかに展開していた。それは環状と螺旋状を開いては閉じ、あたかも色彩のある噴水のしぶきが飛び散るようであり、絶え間ない流れの中に新しい配列と交差が形作られていた3

上に長々と引用したホフマン自身による二度にわたるトリップ・レポートには、バッドトリップ中の心理的作用だけでなく、酩酊感、色彩の変化、物体の輪郭の変容、閉眼幻視(目を閉じた際に現れる極彩色の眼閃)、時間感覚の変化、手足の脱力や弛緩、といったLSD特有の幻覚作用がほぼ正確かつ中立的なタッチで記述されており、その意味でも貴重なドキュメントといえよう。

ホフマンはリゼルグ酸ジエチルアミドが引き起こす精神作用に強く興味を引き起こされ、この作用物質は神経学的および精神医学的に有益な効果をもたらすに違いないという確信を抱いた。だが、このときのホフマンはまだ、彼が生み出した新しい物質が、やがて医学的領域の外で、酩酊を享楽するためのドラッグとしてヒッピーと呼ばれる若者たちの間で熱狂的に迎え入れられることになるだろうとは想像すらしていなかった。

ホフマンはLSDのトリップ実験のパートナーに、反脱魔術化の使徒の一人であり、かねてより交流のあったエルンスト・ユンガーを選んだ。エルンスト・ユンガーは、当時の右派知識人の間で異質な位置を占めていたドイツの文筆家である。第一次世界大戦後に保守革命派の一人として頭角を現し、自身の戦場体験をベースにした特異な「総動員」の思想を展開、塹壕の彼方に資本主義的交換関係によって堕落されていない共同体――武装した兵士たちの剥き出しの生が対決し交叉するユートピアを幻視した。

近代合理主義に対する大いなる反動(反脱魔術化)としての政治的ロマン主義者であるユンガーは、他方で幻視文学の書き手でもあり、たとえばサイケデリックな光学的イメージの奔流によって幕を開ける幻想的未来都市文学『ヘリオーポリス』(1949)には、ドラッグによる幻想世界への航海(トリップ)の章が含まれている。彼が少年時代に耽溺したドン・キホーテやロビンソン・クルーソーの幻想的冒険世界は、後年のアフリカに対する憧憬や、文明の意匠に逆らう初限的な自然状態としてのアナーキーな戦場のヴィジョン、そして動植物や昆虫や鉱石に対するフェティッシュともいえる嗜好、言い換えれば「考えるのではなく視る人」としての、夢と幻想と形姿(ゲシュタルト)において現実の象徴的意味を観照する思索家=形而上学的耽美主義者としてのユンガーを用意した。

ユンガーとホフマンの交流のきっかけは、ホフマンが1947年にユンガーに送ったファンレターであった(ホフマンはその手紙のなかでユンガーの1939年の小説『大理石の崖の上』を称賛している)。文通が進むにつれ、ユンガーは彼の友人を通じてすでに知っていたホフマンのLSD研究についても問い合わせてきた。ホフマンが彼にLSD研究に関する出版物を送ったところ、すぐさま二人はこの神秘的な物質について意気投合し、盛んに意見を交換し合うようになった。ユンガーは1948年3月3日のホフマン宛の手紙の中で、やや興奮気味に次のように記している。

私が今、特に興味を抱いているのは、この物質と、それが作り出す幻覚との関係についてです。私は、創造的な仕事には覚めた意識が必要で、薬の力の下ではそれが抑制されるという経験を持ったことがあるのですが、私のこの着想は反対の意味を持っていて、その薬効がなければ全く得られない洞察を得るのです。モーパッサンがエーテルに関して記した、あのすばらしい研究もこの洞察に加えることができると思います。さらにまた人は、新しい景色、新しい群島、新しい音楽をその中に見つけるという印象のとりこになっています。4

『ヘリオ―ポリス』が出版された二年後の1951年2月のはじめ、ユンガーとホフマンは大きな冒険に出ることにした。すなわち、LSDセッションである。当時のLSD実験に関するレポートは、医学従事者によるものしかなかった。よって、医学の枠内の外にいる芸術的な人間にLSDがどのような作用を及ぼすかを観察する機会を得られる、という点でもホフマンはこのセッションに対して大いに関心を抱いていた。

かくして、ホフマンと彼の知人の薬理学者、そしてユンガーを加えた三人は、ボットミンゲンのホフマン宅にて午前十時、居間に集いそれぞれがLSDを同時に摂取。だが安全を期してのごく少量( 0.05 ミリグラム)であったためか、根っからの幻視者であるユンガーにはいささか物足りなかったらしく、「メスカリンが虎であるとすれば、あなたのLSDは家猫のようなものだ」とコメントした5

このLSDセッションを機に、二人の関係は一層親密なものとなり、会合を行ったり、薬物関連の文献を互いに交換したりした。

二人はその約二十年後、再びLSDセッションを行っている。内的宇宙(インナースペース)を探索する最後の共同実験は、1970年2月、ヴィルフリンゲンの現在はユンガーの自宅となっている旧営林官事務所で行われた。ユンガーは0.15ミリグラム(初回セッションの三倍の量である)、ホフマンは0.10ミリグラムを服用した。以下はホフマンによる記述である。

陶酔は急にことばのない深みに沈んでいった。びっくりするような意識の変化を私はユンガーに書いて知らせようとしたが、二、三のことばしか思いつくことができず、さらにそれはまやかしで、体験を表すにはあまりに不適当な響きしか持っていなかった。それらのことばは、かぎりなく遠い、見慣れなくなった世界からやってくるように思え、空虚に感じられたので、私は空しく笑いながら、その努力をやめてしまったのである。ユンガーも明らかに同じような状態にあった。しかし、われわれにはことばは必要でなかった。ことばのない了解をするには、まなざしで十分であった。6

トリップの最中にホフマンは断片化された文を紙に書き残していた。そこには、「ブリューゲル風の庭――対象と(共に)、対象の(中で)生きる。」それから「このひととき――それは体験されている世界と何らの関わりもない瞬間。」そして最後の紙には「今回は、私のやり方で確かめることができた」と記されていた7

「私のやり方でたしかめることができた」・・・・・・、しかしホフマンは一体何をたしかめることに成功したのだろうか。その答えを探るためには、ホフマンの原体験にまで遡る必要があるだろう。

アルバート・ホフマンは、『LSD―幻想世界への旅』の序文において、幼少時代の彼の身に起きた神秘的な体験を述懐している。五月のある朝、スイスはバーデンの北方、マルチンスベルクにある森の小径をそのとき少年ホフマンは歩いていたのだった。

朝の光が射し込んできて、鳥のさえずる声が聞こえる新緑の森の中をあてどもなく歩いていると、すべてのものが急に不思議なほど明るく見えてきた。それまで私はしっかりと見ていなかったのか? そして今になって突然に春の森を、それが現実にあるかのように見たのだろうか? 不思議な足どりで心に近づいてきて語りかける美しさの輝きの中で、その森は光を放っていた。それはまるで、私をその輝かしさの中に包み込もうとしているかのようだった。その一部になり、この上なく幸せに保護されているという、言いようもない至福感が私の体をかけ巡った。8

幼い頃からバーデンの豊かな自然と親しんでいたホフマンは、やがて化学者になり、薬用植物の成分を調べることを自身の研究領域に選んだ。そして彼はLSDを発見したが、そこではじめて彼は自分の職業上の活動と、少年時代に見た幻覚めいた光景との間に必然的な連関を認めることができたのである。

よって、ホフマンの幻覚剤に対する姿勢や考え方が、バーデンの森とともに自己形成されてきた世界観を深く反映していたものであったとしても驚くに値しない。

ホフマンの世界観を特徴づけるのは、「現実は複数存在する」という思想である(今や私たちはホフマンを化学者としてだけでなく一人の思想家としても捉えつつある)。ホフマンは自著のなかで次のように述べている。

一般に「現実」と呼ばれるものは、個々の人間の現実をも含めて、決して固定したものではなく、むしろ多様である。その存在はただ一つに限定されるものではなく、その時々の自我意識と結びついた複数の現実が存在する。このような考え方は、私にとって非常に重要な意味を持ち、またあらゆるLSD実験を通して、ますますその確信を深めていくことになったのである。9

ホフマンによれば、現実というものは、それを体験している主体すなわち自我を抜きにしては考えることはできない。現実、それは「送り手」である外界と、「受け手」である自我の相互関係において成り立っている。ホフマンはこうした外界と自我の関係性をラジオの受信機に喩えている。すなわち、現実とは自我の内奥にある感覚器官のアンテナを用いて受信された外界の写しであって、送り手と受け手のどちらかが欠けても現実は成立しないのである。そして、LSDはわれわれの脳、つまり受け手の中枢にあるアンテナに強く働きかけ、生化学的な変化をそこに生じさせ、それによって受け手は通常の現実とは異なった波長を受け取ることが可能となる。LSDはそれまでの、さながら自然律であるが如く強固で不動であるかのように思われた「現実」とは本質的に異なるまったく異質な「現実」を構成するのである。外界の波長が無限に多様であるとすれば、LSDがその都度もたらす様々なアンテナの変化によって構成される現実も権利上は無限に存在するだろう。「その現実は、否、もっと正確に言えば現実のこの様々な層は、互いに排他的な関係にあるのではなく、むしろ相補的であり、それが一緒になってすべてを包括した悠久の超越的な現実を構成しているのである。」10

もう一つ、ホフマンは日常の現実と、LSDによって引き起こされるもうひとつの現実との間の本質的な相違はどこにあるのか、という問いを提起している。彼はそれに対して、日常においては、我々の自我と外界との間には本源的な分離が横たわっているのだが(外界は我々にとって客体として立ち現れる)、LSDの酩酊状態においては、外界とそれを体験している自我との境界が、その酩酊の深さに比例して取り払われることになるのではないか、と述べている。

つまり受け手と送り手との間に区別がなくなり、両者の間に行き来が生ずる。自我の一部が外界へ、事物へと転移される。それによって、外界は生き生きとし始め、より深い意味を持つようになる。それはわれわれに至福感を感じさせることもあれば、逆に恐怖を抱かせるような悪霊的なものを感じさせることもある。至福感を伴う場合には、新しい自我は外界の事物そのものと結びつき、また他の人びととも精神的に一体化するように感じられる。この体験は、自我と宇宙に存在する一切のものとが一体であるという感情の昂まりとなる。11

自我はその輪郭を曖昧にしていき、外界へと溶け出していく。ホフマンにとって、LSDがもたらすのは「没我」の経験であり、その意味でそれは多かれ少なかれ「自分自身からの離脱」(フーコー)を本質的な契機として含み込む。他方で、とりわけ強烈な酩酊状態にあって到来する、陶酔を伴う「宇宙との一体化=合一」の経験は、さながら中世ドイツのマイスター・エックハルトや、あるいは十六世紀ドイツのヤーコプ・ベーメといった神秘思想家の宗教的ヴィジョンを思わせる。

一方、1947年にLSDの化学式がジャーナル『スイス神経学情報』で発表されて以来、この化学物質にまったく別の側面から注目しだした組織が大西洋を介して存在していた。その組織とは言うまでもなくアメリカの中央情報局(CIA)であり、その長官には前回登場した、大戦中のスイスにおいてインテリジェント活動に従事していた元アメリカ戦略情報局(OSS)スイス支局長、アレン・ダレスが就任していた。ダレス率いるCIAは、本来の役目である情報収集に加え、中東や第三世界を舞台とした秘密工作を各地で遂行していた。第二次世界大戦は、植民地と宗主諸国とのパワーバランスを大きく崩した。旧来の宗主諸国の弱体化は、植民地における支配体制の崩壊を加速させ、結果として共産主義勢力の跳梁を促した。1953年には、イラン領内の石油利権を独占するイギリスに対抗するためソ連に接近しつつあったイラン首相モハンマド・モサッデクを打倒するためのクーデター計画がCIA主導のもと遂行された。8月19日、CIA配下の工作員によって集められた親国王派の群衆がテヘラン市内の通りを埋め尽くした。イラン陸軍は国王への忠誠を貫き、モサッデクは逃亡した12。このクーデター計画を成功させたCIAは、翌年には中央アメリカの小国グアテマラを標的とした秘密工作の計画を推し進めることとなる。グアテマラのアルベンス大統領を含む政府首脳は、当時すでに共産主義の影響下に置かれていた。

こうした世界情勢のなか、1953年4月10日、プリンストン大学でおこなったスピーチにおいて、CIA長官アレン・ダレスは聴衆に向かって、「人間のマインドコントロールをめぐる戦いがソ連の勝利に終わった場合の恐怖」について警告した13

彼はこう警告している。人間の精神は「どうにでもなる道具」で、おそるべきアカどもはひそかに「頭脳歪曲の技術」を開発した。その技術のいくつかは、「非常に微妙かつわれわれの生活習慣にとって唾棄すべきものなので、さすがのわれわれもそれらに立ち向かうのにためらいをおぼえるほどであります」。ダレスはつづける。「そういう薬を投与された者の精神は、(中略)じぶんの考えることを口にする能力を失ってしまうのです。そして外部からの指示によって精神内部に植えこまれた考えだけを、オームのようにくり返すだけなのです。実際、頭脳が、(中略)蓄音機が人間の手で置かれたレコードを自動的に針でなぞるだけで、じぶんではなにひとつコントロールできないのとおなじ状態になるわけです」。14

ドラッグによるマインドコントロール計画「MKウルトラ」をCIAが発動したのは、このダレスのスピーチの3日後のことである。

当時のアメリカの権力層はさながら洗脳パラノイアに陥っていた。悪しき共産主義の科学者たちが、ひそかにアメリカ国民を洗脳させてアカに寝返らせようとしている、というシナリオだ。50年代のアメリカにおいて「洗脳」がいかに重大なテーマであったかは、たとえばジョン・フランケンハイマー監督によって映画化もされた、リチャード・コンドンが1959年に発表したサスペンス小説『影なき狙撃者』にその一端が現れている。朝鮮戦争下で捕虜となった米軍兵士が、帰還して以来奇妙な悪夢にうなされる。実は、小隊が捕虜になっている間、彼らは暗殺者に仕立て上げるための洗脳の実験体にされていたことが発覚する・・・・・・、というのが基本プロットであるが、ここに当時のアメリカが抱いていた共産主義圏に対する形のない不安と恐怖、そして人種的偏見(作中にはエン・ロウという、洗脳のプロフェッショナルとされる中国人科学者が登場する)を読み込むことはさほど難しくない15

つまり、共産主義者の洗脳テクノロジーに対抗するだけでなく、あわよくばそれらを上回る洗脳テクノロジーをみずからの手中に収めるためにCIAが目をつけたのが、当時スイスのサンド社が手掛けていたLSDであり、そのために発動されたのがMKウルトラ計画であった。

こうして、奇しくもLSDはダレスの手によって、戦後の冷戦レジームに組み込まれる形でアメリカに上陸することとなった。ダレスと彼が擁する化学者シドニー・ゴットリープ博士はLSDを民間人に無断で投与し、トリップの経過を観察した。彼らの見立てによれば、「一時的な精神障害的混乱」を引き起こすとされるLSDを多量に投与された被験者の脳は一時的な白紙(タブラ・ラサ)状態に置かれる(この過程は「パターン解除」と名付けられた)。この間に徹底した条件づけ(コンディショニング)を行うことで(この過程は「サイキック・ドライヴィング」と名付けられた)、洗脳または逆洗脳が可能になるのではないか、というわけだ。有り体に言えば、ソ連のスパイをトリップさせて、その間にたくみに誘導することで祖国への忠誠心を合衆国への忠誠心に切り替えさせることができるのではないか、とCIAの科学者たちは考えたのだ(だがLSDを洗脳ドラッグとして使用するという素晴らしいアイディアは次第に採用されなくなった)16。このドラッグによる「ショック・ドクトリン」(!)は、しかし70年代になるとまったく異なった形で、すなわちチリにおける軍事クーデター(パターン解除)とその後の新自由主義化(サイキック・ドライヴィング)という形で回帰することになるだろう。私たちはその過程を第二回「資本主義リアリズムの起源、アジェンデの見果てぬ夢」のなかで既に見てきた。

CIAによるMKウルトラ作戦は、結局ケネディ政権下の1963年まで中断されることなく極秘裏に行われたが、その頃になるとアメリカ国内に大量に流出していたLSDは、必然的に反体制側の手にも行き渡っていた。かくしてケン・キージーやティモシー・リアリーをはじめとした導師(グル)たちの伝道によって、LSDは「精神をエンパワーメント」するためのツールとして60年代以降のカウンター・カルチャーの原動力となっていく。もっとも、それ以前にもカナダのウエインバイン病院でLSDとメスカリンを研究していた精神科医ハンフリー・オズモンドなどは、1952年の時点でメスカリンによって引き起こされる意識変容と統合失調症(精神分裂病)に見られる症状との類似性を指摘しており、1953年には、そのオズモンド立ち会いのもと、『すばらしい新世界』の著者オルダス・ハクスリーみずからメスカリンを服用、そのレポートを翌年『知覚の扉』にまとめている。以来、Psychedelics(サイケデリクス)という呼び名とともに幻覚剤はその他の麻薬類と区別され肯定的な響きを伴うようになっていた17。こうした土台のもとに、ケン・キージーらに象徴されるフラワーチルドレンのLSD受容がカウンターカルチャーの到来とともに大々的に華開いていくのである。

リアリーらサイケデリクス派は、LSDを「洗脳」ドラッグとしてではなく、隠された真理を開示するための「啓蒙」ドラッグとして見なした。だが、これら二つの態度の差は、見かけほどに開いているとは必ずしも言えないのではないか。

1961年、当時まだハーバード大学に所属していたリアリーと彼の研究グループは、コンコード州立刑務所においてとある実験プログラムを行った。その実験とは、収監中の受刑者32名に幻覚剤シロシビンを投与するというもので、このドラッグが受刑者の行動パターンを変え、再犯率の低下に貢献できるかを確かめようとしたのだ18。ドラッグを投与された後、受刑者たちは変化を調べるために人格テストを受けた。リアリーが期待したのは、サイケデリクスによる客観的な人格変化の測定であった。「彼らがみせた客観的な変化は、心理学者にとって実に驚くべきものだった。憂鬱度、敵意、反社会的傾向などが減少し、やる気、責任感、協調性などが増していた。彼らの人格テストの結果は精神的健康の方向へと著しい劇的な向上をみせていた。」19

リアリーによる囚人の更生プログラムは、ドイツの動物行動学者コンラート・ローレンツの「刷り込み」の理論をベースにしている。「刷り込み」は従来のアメとムチによる「条件付け」理論と異なり、一度の経験により永久的な学習が行われうることを示唆していた。リアリーの目的は、サイケデリクスによって人間の人格を新たに「再プログラミング」することにあった。彼は自伝『フラッシュバックス』のなかで次のように述べている。

心理学者たちは初め、この刷りこみの原理を人間の行動に適用することを躊躇した。おそらくそれがこれまでの自由意志という概念に疑問を投げかけるからだろう。しかし、私たちの実験の結果現れた行動の劇的な変化は、この刷りこみという概念で一番うまく説明できる。サイケデリック・ドラッグはそれまでに刷りこまれた現実(この場合は刑務所生活での精神状態)を一時的に消して、新しい刷り込みの可能な特別な時期を誘発させるようだ。

・・・・・・]被験者の間の絆よりも重要なのは、他者や社会に対するこれまでとは別の価値観と態度が新たに刷りこまれることである。好ましい肯定的な条件下では、犯罪とは無縁の現実が新たに刷りこまれるのだ。

その後の二十年間にわたるドラッグ研究を通じて学んだすべてによって、幻覚剤による再刷りこみはDNAの解読とともに、今世紀の最も重要な発見のうちの一つであるとますます確信するようになった。20

この刑務所における更生実験によって得られたサイケデリクスによる再刷り込みというプログラムは、後年のリアリーの活動を特徴づける「エクスタシーの政治学」にそのまま引き継がれているといえる。自伝『フラッシュバックス』における以下の箇所には、そのことがもっとも顕著に現れている。

私たちには戦争、階級闘争、民族間の緊張、経済的搾取、宗教紛争、無知、偏見はすべて偏狭な社会的条件づけに原因があると思えた。政治問題は心理的な問題の表面化で、その本質は神経。ホルモン、化学的な問題なのだ。人々を脳の共感回路にプラグ・インさせることができれば、望ましい社会変革が起こるのだ。21

リアリーにとっては、社会変革も革命も少し規模の大きい集団的な刷り込みと条件付けの問題にすぎない。その意味では、リアリーの採る戦略はどこまでも唯物論的かつプラグマティックである。だが、この再刷り込みプログラムは、実のところCIAが研究していたLSDによる「ショック・ドクトリン」的洗脳プログラムと果たしてどこまで差異があるのか(LSDにおける洗脳ドラッグとしての側面をもっとも狡猾に活用してみせたのは言うまでもなくヒッピーの徒チャールズ・マンソンである)。現に、リアリーの提唱するプログラムに最後まで警戒感を解かなかった人物の一人に、私たちはウィリアム・バロウズを挙げることができる。

バロウズは私たちの研究があまり科学的でないことを知ってがっかりしたようだ。彼は集団療法的なサイケデリック・セッションを体験したり、私たちの愛や宇宙の調和についての戯言を聞くためにわざわざハーバードまで来たのではなかった。彼は私のことを選手たちにロッカー室で内面の自由についてアジっているだけのノートルダムの意識専門のコーチだと思っていた。

「コンピュータだよ、君。脳の中の敵と味方の領域の正確な位置づけ。神経学的な移植。脳波発生機。バイオ・フィードバック」

もちろん、彼は正しかった。彼は私たちのはるか先を行っていた。22

バロウズは、サイケデリクスは大衆を解放するより、むしろ彼らを「コントロール」するのに利用されるのではないかと警戒していた。バロウズは小説『ノヴァ急報』のなかで次のように書き付けた。「やつらは幻覚剤に毒を入れ、そいつを独占しようとしてやがるんだ。化学薬品抜きでトリップできる術を開発しろ。」23

リアリーに対するもうひとりの批判者は、もちろんアルバート・ホフマンその人に他ならない。

1971年、刑務所を脱獄しスイスに亡命していたティモシー・リアリーは、ローザンヌ湖畔の駅食堂でLSDの生みの親ホフマンと対面した。リアリーの伝記では、このときの会合に割かれた分量は多くなく、概ね友好的な雰囲気であったことを伝えるに留めている24。一方、ホフマンの著書では、この会合の際にホフマンがリアリーに対していくつかの詰問を行っていたことが記されている。最初の非難は、若者たちにLSDの濫用に走らせたリアリーの罪に対して向けられた。青少年にとってLSDは有害であるとするホフマンの意見に対して、リアリーはそれを認めつつも、アメリカの十代はヨーロッパ成人と同程度の情報(知識)と人生体験をすでに持ち合わせていると述べた。

もうひとつのホフマンの非難は、リアリーがサイケデリクスの実験をメディアを通じて大々的に喧伝したことに対して向けられた。リアリーのメディア活動によって、アメリカ社会の特に若い世代に対して、LSDには害がほとんどないという「とんでもない誤解」を植え付ける結果となった、とホフマンは主張した。

ホフマンは、この会合を通して、リアリーの個性(純粋さ、使命感の強さ)に対しては好意的な印象を持ちつつも、反面、リアリーの中に雲のように漂う楽観主義に対しては断固として批判的な態度を取りつづけた25

ホフマンとリアリーとの間には、和解しがたい何か根本的な対立が横たわっているように思われる。そして、やや先取りして言えば、この対立は極言すれば「反脱魔術化」と「再魔術化」の対立に置き換えることができるように思われる。

ホフマンの思想の根底にあるのは、近代合理主義に対する批判精神である。ホフマンは、ドイツの詩人ゴットフリート・ベンの論文「挑発された生」を引用しながら、自我と外界=世界を分け隔てている現実意識が、近代的なヨーロッパ精神の形成に寄与してきたと述べている。近代を特徴づける自然科学やテクノロジーは、世界を対象=客体として、言いかえれば人間が対峙し征服すべき事物として把握することによって発展してきた。その結果、人間は地球の豊かな資源を乱掘してきたが、その技術文明の多大な業績によって惑星規模の環境破壊を招くことになった26

もし人間が環境から分離せずに生き生きとした自然や創造の要素としてうまく融合していたならば、そのような知識の濫用はありえなかったであろう。今日、たとえ環境保護政策によって損害を回復しようとしても、ベンのことばを借りれば「西欧の運命的ノイローゼ」の治癒がうまくいかない限り、その努力はただ表面的な、望みのうすい継ぎ当て作業でしかありえない。治癒するとは、自我を包括したより深い現実を実存的に体験することを意味しているのである。27

ホフマンの近代文明批判は、さながらハイデガーのテクノロジー批判を思わせるものであり、故郷喪失とそれへの郷愁によって彩られている。だがホフマンは、「西欧の運命的ノイローゼ」を治癒するための霊薬をすでに生み出している。上述したように、ホフマンによればLSDがもたらす酩酊状態は、自我と外界を隔てる境界を取り除いてくれるのだ。自我は世界と一時的にせよ和解し、故郷への根源的な帰郷が達成されるだろう。「自我を包括したより深い現実の実存的体験」は他でもないLSDによってこそもたらされる。

注意しなければならないのは、以上のホフマンの思想は、リアリー的な「変革」とも「革命」とも相容れないだろうということだ。あくまでホフマンが志向するのは、「変革」ではなく「治癒」、「革命」ではなく「復帰」であり「帰郷」なのだ。少年時代に歩いた、あの春の森の幻想的な輝き・・・・・・

こうした意味で、リアリーが印付ける「断絶」は決定的であり、そこにはすでに「反脱魔術化」から「再魔術化」への不可逆的な移行が含まれている。

アメリカのカウンターカルチャーは、やがてニューエイジ・カルチャーへと引き継がれていく。私たちは、リアリーに端を発する「再魔術化」の帰結を、カリフォルニアのエスリン研究所が探求したプログラムの内に見出すことになるだろう。

【了】