Wikiによるとエデンの園は旧約聖書(ヘブライ聖書)の創世記Book of Genesisの第二章に現れます。
<創世記の記述>
エデンEdenの園は「(エデンの)東の方」にあり、アダムとエバは、エデンの園を耕し、守るために、神によって、そこに置かれ、そして、食用果実の木が、園の中央には生命の樹と知恵の樹が植えられた。」
「エデンを流れる1つの川は(エデンの)園を潤し、そこから4つの川(良質の金とブドラフと縞メノウがあったハビラ全土を流れるピション川、クシュの全土を流れるギホン川、アシュルの東を流れるヒデケル川(チグリス川)、ユーフラテス川)に分かれていた。」
「アダムとイヴが禁じられていた知恵の樹の実(禁断の果実)を食べたことから“人はわれわれのひとりのように(普通の人間に)なり、”その後、生命の樹の実をも食べたので、彼らを創造したヤハウェ・エロヒム(mh唯一神)は彼らが永遠に生きることを恐れ、エデンの園から追放する(失楽園)。生命の樹に至る道(月)を守るため、ヤハウェ・エロヒムはエデンの東にチェルビン(金星)ときらめいて回転する炎の剣(太陽)を置いた。」
エデンの園の位置の特定に関する要点に着目すると・・・
エデンの「東の方」に園があり、エデンを流れる1本の川は、エデの園を流れ、そこを流れ出ると4つの川に分かれて流れ続けたんですね。
4つの川のうちの2つ、チグリス川とユーフラテス川、は今も流れていますが、どこから流れ出ているかというと・・・トルコの東方、イランの西北、アゼルバイジャン近くの高原です!
エデンは実をたわわに付けた樹木が生い茂る楽園で、アダムとイヴが暮らしていたのですが、2人は大蛇にそそのかされ、彼らを創造した神ヤハウェの命令を破って知恵の樹の実(林檎?)を食べてしまったため、エデンの園を追い出されます。アダムとイヴから生まれた子供がどんどん増えて人間社会を形成していくのですが、また神のご機嫌をそこねることを人間がしてしまったので、神は大洪水を起し、箱舟に乗ったノア(mhアダムの子孫で、アダムから10世代目の男)の家族と動物だけが生き延び、水が引くとアララト山に漂着した箱舟から外に出たノアや動物の番(つがい)は、世界に拡散して繁栄し、今に至るっていう、それはそれは壮大な物語なのです。
今回のブログのタイトルは「エデンの園の比定」とさせて頂きました。
エデンの園の“特定”の方が判りやすいかとは思いますが、専門用語の“比定”の方がカッコ好いですからね。比定とは“他の類似のものとくらべて、そのものがどういうものであるかを推定すること”で、“エデンの園の比定”は“エデンの園の場所を、歴史や史実と比較検討しながら特定すること”となります。
熱心な読者の何名かは我がブログ「エデンの園の不思議」‘15・11・30でザリン博士の見解をご承知でしょう。彼がエデンと比定した所は、今、ペルシャ湾の海底です。
上の図で示されるように、4つの川が合流して出来た1本の川がエデンに流れ込んでいたと言うんです。しかし・・・これはヘブライ聖書の記述“4つの川が流れ出る場所”に反しています。更に、4つの川のうち、ギホン川Gihonとピション川Pishonに相当するかもしれない川の痕跡は衛星写真から見つかるのですが、これらの川がどう呼ばれていたのかはわからないんですね。
Wikiにはエデンの園の比定の現状についても記述があります。
<エデンEdenの場所>
「エデンがどこであったのかについては、古来より様々な場所が主張され、議論されてきた。その中には、創世記に典拠がみとめられないものも少なからずある。
多くの説では、エデンがアルメニア(mh黒海とカスピ海の間の小国)の近くにあったと主張している。ユダヤ教の伝承によれば、エデンはエレバン(mhアルメニアの首都)にあったという。エレバンの近くにはノアの箱舟が流れ着いた場所との説があるアララト山がある。
その他の仮説として、紀元前3000年代~紀元前2000年代にメソポタミア-インダス間交易の要衝として繁栄した古代都市ディルムンがエデンの園のモデルとされる。ディルムンの位置については諸説があり不明だが、一説にはバーレーンのバーレーン要塞がディルムンの首都の跡地とされる。
他に、紀元前2600年 - 前2500年頃、メソポタミアにおいてラガシュとウンマという二つの都市国家(mhバビロン辺りにありました)が「グ・エディン(平野の首の意)」もしくは「グ・エディン・ナ(平野の境界の意)」という肥沃な土地をめぐって戦争を繰り返しているが、このグ・エディンEdin(もしくはグ・エディン・ナ)がエデンEdenの園のモデルであるとする説がある。
他に環境考古学や宇宙考古学(衛星考古学)などの視点から、7万年前~1万2000年前の最終氷期には海面はもっと低かったため、現在は海の底となっているペルシャ湾に比定する説も有る。」
ペルシャ湾説の解説図も載せておきましょう。
しかし・・・
「アダムとイヴがいたエデンの園」など実在していたのでしょうか?
大人気ないのですが、その答えは「否(いな)」と言わざるを得ません。神が土からアダムを創り、アダムの肋骨(ろっこつ/あばらぼね)からイヴを創ったなどという荒唐無稽な話が現実のものとは誰しも思ってはいないでしょう。アフリカ発祥の猿人が数百万年をかけて進化し、ホモサピエンスとなり、そして現人類になったのであって、神が土から創ったアダムとイヴが全ての人間の先祖である、なんていうことは断じてありません!
ならば、エデンの園も無かったと考えるべきでしょう。
しかしですねぇ・・・それらしい場所はあったと思うんです。何の根拠もなく“そこから4つの川が流れていて、その川の名前は・・・”などと空想して聖書の中で物語を創るより、それらしい実在の場所を思い浮かべ、そこを流れ出ていた川の名前や、土地の呼び名を、そのまま流用させて頂くか、そういう物語を読んで、内容を真似(mh盗作?)させて頂く方が、物語の作者にとっても苦労が少なくて済みます。アダムとイヴは現存していなかったが、1本の川が流れ、人々が平和に暮らす、実り豊かな樹木が生い茂る場所があり、その地から4つの川が流れ出ていた。その場所をエデンEdenと呼んで物語を創ったんじゃあないのでしょうか。
とすれば、作者が思い描いていた楽園、パラダイスのエデン、がどこに在ったのかを探求する作業はBiblical archaeology、つまり聖書考古学の範疇(はんちゅう)と言えます。
で、今回はYoutube「In Search Of Edenエデンを探して」から、前回とは異なるエデンの園の比定案をご紹介しましょう。プレゼンテイターの英国人考古学者デイヴィッド・ロールDavid Michael Rohlが1998年に発表した仮説を紹介する内容で、2006年頃にフィルム化されました。
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文明の起源は何だろう?それは、どこから始まったのだろう?
聖書の中に、土(つち)から創られ、神の姿をした男アダムとイヴ、そして、彼らが暮らし、後にその地上の“楽園paradise”から追い出されることになるエデンEdenという美しい園に関する物語がある。エデンの園から追放された彼らは人類の起源で文明の魁(さきがけ)になった。
考古学は、この考えと異なり、人類は進化の賜物(たまもの)だという創造物語を語っている。文明は、男と女が初めて自分たちの周辺の自然界をコントロールし始めた新石器時代に生まれたのだという。科学と論理の出現に伴い、多くの科学者たちはエデンの園の物語を神話学分野の話だと見なしているのだ。
しかし・・・エデンの園の話は本当に作り話なのだろうか?それとも、それ以上の何かがあるのだろうか?旧約聖書の創世記を詳しく調べると、エデンの園が本当に、この目に見えている地上に存在していたことを示す手掛かりに気付くだろう。私はこれからあなた方を、楽園paradiseを見つけ出す旅に連れていくつもりだ。
私はデイヴィッド・ロールだ。古代世界を研究している歴史家として、最近の25年間を世界における偉大な古代の伝説の裏に隠れた歴史に光を当てようと費やしてきた。今、私はあらゆる物語の中で最も古いと言われる伝説を調べるためにオックスフォード大学にきている。エデンの園という聖書の中の伝説だ。
創世記によれば“神はエデンの東に園を創った”という。その園に神はアダムとイヴを住まわせた。しかし、彼らは大蛇に誘惑されて神の命令に背き、エデンから追放された。彼らはその後、繁栄する。息子のケネンは農夫farmerに、エイブルは牧夫shepherdになったという。
人間の始まりに関する近代の世俗的な見方では、これと異なる、人類の歴史的、創造的な瞬間を説いている。更には今から7千年前、石器時代の農耕民や狩猟民が、果物や獲物を探して彷徨(さまよ)うのを諦め、農業集団として定住するようになったと言う。文化人類学者たちは、この大きな時代の変わり目を“新石器時代の革命neolithic revolution”と呼ぶ。
人類学者リチャード・ラジェリー「新石器時代の革命の最中に物事は急激に変化した。人々は動物を自分たちの住家の近くの野原で飼育し始め、穀物を栽培し始めた。これが大きな飛躍点となり、歴史的な文明が造られる基礎となった。」
考古学も聖書も、何か特別なことが今から7千年前に起きたということについては同じ考えのようだ。アダムとイヴや息子たちのケネンとエイブルの神話についても同じ考えなのだろうか?それともこれは新石器時代の革命に対する聖書だけの見解なのだろうか?もしそうだとするなら、エデンの園は本当に存在していたのだろうか?
エデンが現実に存在し、それがどこにあったのかを示す最も重要な証拠の一つは、何世代もの間、我々を見続けているのだが、近年、我々はそれについて真面目に考えることに疲れ切っている。
エデンの位置を特定する決定的な表記は創世記の中の第二章に見つかる。とても直接的かつ地理的な事実に基づいた説明で、奇跡などはどこにもない。
創世記「神はエデンの東の園に植物を茂らせた。」
「そしてそこに、土から生まれた、神の姿をした男を住まわせ、園の中央には実を付ける生命の樹と、実を付ける善悪を知る知恵の樹を植えた。エデンから園に向かって流れ込む川は、そこで4つに別れた。第一の川はPishonと名付けられ、黄金に溢(あふ)れたハビラHavilahという名の土地を流れた。ダリアンDelianはそこで見つけた石を彼に見せた(mh?)。第二の川の名はGihonで、クシュCushと呼ばれる土地を流れた。第三の川の名はヒデカーHiddekelで、アシャーAshaの東に向けて流れた。第四の川の名はペラPerathだ。」
これはとても情報に満ちた説明だと言える。恐らく最も重要なもので、我々に1つではなく、2つの場所に注目するよう伝えている。
1つはエデンと呼ばれる一帯だ。それが何処にあるのかに関する地理学的な手掛かりは沢山ある。もう1つは、我々が探している園Gardenは“エデンの東”にある!
(mh“エデンの東the East of Eden”と言いますが、これは“エデンと言う場所の東側の部分”であって、“エデンに東側に接する、エデンとは別の場所”という意味ではありません。つまり、エデンの中に、エデンの中央、エデンの西、そしてエデンの東、があるってことです。エデンの東端に接していれば“エデンの東”と言えますが、接しているならエデンと一体になっている訳で、エデンの一画だと考えてもよいでしょう。つまり“エデンの東”とは、エデンから離れた所ではなく、“エデンの一部”と考えても好いということです。)
聖書はその場所が4つの川と強いつながりがあることを我々に伝えている。
我々は聖書に描かれていた2つの川、ヒデカーとペラ、については知っている。古代のメソポタミア、現在のイラク、を流れる有名な河で、ギリシャ人はチグリス川とユーフラテス川と呼んでいた。
問題はいつも、残る2つの川、ギホンとピション、の特定だ。初期の教会学者はギホン川がクシュという名の土地を流れていたと理解していた。しかし、そのクシュはどこにあるのだろう?彼らが知っていたクシュはアフリカにある土地だけだった。ファラオが暮らす土地の南で、今はスーダン、エチオピアと呼ばれている。“とすると、ギホンはナイル川のことではないか?”と彼らは考えた。
もしギホンがチグリス川やユーフラテス川から離れた川ナイルだとするなら、ピション川も離れた場所にあったと考えても好いかも知れない。そこで、彼らはインド亜大陸のインダス川やガンジス川がピション川ではないかと考えた。その結果、初期の学者たちは、エデンとはアフリカからインドまでの古代世界の全てを含む広大な地域だと結論づけた。しかし、これでは創世記の内容に整合しない。人類は神から罰せられてエデンから追放され、楽園の境界の外に行くように指示されたのだ。境界の外の地域が、アフリカからインドまでの広大な土地であった訳がない。もし我々がエデンと、そこにある園を見つけようとするなら、もっと違う広さの場所を考える必要がある。もっと狭い、もっと特殊な場所だ。
最近の学者たちは、エデンはチグリスとユーフラテスがペルシャ湾に向かって流れ出て、他の川と合流する場所ではないかと考えている。そこには、都合が好いことに、人類の文明の最初の痕跡が考古学的な証拠として出現しているのだ。
しかし、どんなに都合が好かろうが、私は、彼らが正しいとは思わない。決定的な手掛かりは創世記の第二章の中にあるのだ。「河はエデンを流れ出て園を潤す。そこから4つの“頭head”に分かれる。」
ヘブライ語の“頭”はユダヤ人の新年“ロー・シャシャナ”に在るように“ルーシュRush”だ。新年の“頭;最初”を意味する。言い換えれば、年の“始まり”であって“終わり”ではない。
従って、創世記の第二章の単語の解釈には2通りあるが、“終わり”ではなく“始まり”であって、4つ川の源、または頭、がエデンだと考えている。つまり、我々は高地の流域の、4つの大きな川の源が分散する場所でエデンを探さねばならないのであって、川が海の中に現れる場所ではない。
チグリス川とユーフラテス川の源はトルコの東でイラン西の山地にある。もし、私の考えが正しければ、エデンがあるのはそこだ。
そこには他の2つの川の源もなければならない。
古代メソポタミアはチグリス川とユーフラテス川の間の肥沃な平地にあった。
創世記「エデンを流れ出た川は園を水で潤し、そこで分かれて4つの頭になる。:創世記2:10」
聖書はチグリス川とユーフラテス川がエデンを流れ出る川だと言っている。更に聖書は、存在が判らない2つの川をパイソンPison、ギホンGihonと呼んでいる。
問題は、古代におき、チグリス、ユーフラテスと同じ水源から流れ出るこれら2つの川が存在していたのかどうかだ。
答えはもっと高い場所、宇宙から得られるかもしれない。人工衛星が撮影した映像はエデンの場所の比定の鍵になった。
ラビン博士「私がこの研究を始めたのは衛星映像が使われ始めた時だった。今では、その技術によって私は宇宙から何かを探すことが出来るようになった。もっと見やすい映像も手に入れられる。」
衛星は2つの川だけではなく、聖書にある4つの川の全てを見せてくれた。これらの川はシュメリアSumeriaで合流する。ギルガメシュ叙事詩の場所だ。
ラビン博士「物語で述べられている他の2つの川は今は水が流れていないが、ある時期には存在していた。化石川とも呼ばれる。」
見つけだす唯一の方法は、そこに行って何かを発見することだろう。イギリスを発ってイランに向かうのだ。7千年前、人が文明に向かって歩き始めた場所に行くのだ。
楽園探求の旅は我々をオックスフォード大学の建物から4千6百Km東の、21世紀における強力なイスラム国家イランに連れていく。
我々はユダヤ教、キリスト教、イスラム教という世界の偉大な3つの宗教で存在を認められているエデンの園の追求するため、この地にやってきた。現在、イラン共和国はイスラム国家で、1979年、最後のペルシャ王朝の崩壊後に成立した。しかし、ここには長くて語るべき多くの輝かしい歴史がある。中東は伝説で満ちている。叙事的な伝説は神話と異なり、現実に起きた歴史的な出来事に基づいていることが多い。歴史家は、創世記の中の物語と明らかな関連を示す、極めて多くの伝説について熟知している。
人類学者リチャード「物語自体は古代世界で良く知られていた。古代の物語における人間創造の場面について興味深いのは、それらの話の後の時代になってから、聖書の創世記の中で神の活動の締めくくりとして人間創造が行われた話が現れているということだ。」
そして古代の記録された伝説は聖書の物語と共鳴しているだけではなかった。メソポタマで発見され、大英博物館に所蔵されている、この驚くべき円筒状シールは4千年前のものだ。
シールに隠されている像が粘土板に転写されると、そこに見えてくるのは、王座に座る男と、その対面の女、2人の間のたわわに実を付けた木、そして女の後ろにいる大蛇だ!
これこそが、最も古い、アダムとイヴの存在を感じさせるものではないのだろうか?
このような場所にいると、突然何かを思い出すものだ。
勿論、計画されていたことは間違いないだろうが、しばしば簡単に忘れ去られてしまっている。聖書は英語で書かれたものではなかった。これらの翻訳言語は余りに使い慣れ過ぎている。原典に遡って考えると、理解が全く異なることが多い。例えば、エデンの園に対する元々のヘブライ語は“ガム・デ・エイデン”だ。
“ガム”はある固有の“園”で、壁などで囲まれた庭を指す。ペルシャ語にも囲まれた公園や庭を示す言葉“パリデイザ”がある。この言葉から我々の言葉“パラダイスparadise”が造られた。壁で囲まれた庭と、楽園の4本の川の遺産は、イランでは沢山見つかる。
今、エスファハーンEsfahanの王宮のバルコニーに立っている。下に見えるのは王宮の庭だ。我々の話と関係がある庭で、壁に囲まれ、中央の大きなプールには泉がある。
エデンの園の水の源と同じだ。そして、庭を4つにわけるようにプールから4方向に水が流れ、庭の外に向かっている。これがペルシャの典型的な庭だ。
この基本的な建築様式は、とても特別な建物にも反映されている。インドにあるタージ・マハールだ。しかし、どうしてペルシャの楽園の庭がインドに現れることになったのだろう?
西暦1218年、伝説のモンゴル皇帝ジンギスカンはペルシャ帝国を一掃し、全てを戦利品として奪ってしまった。しかし、占領者たちは占領地が持っていた資質と文化に魅惑されてしまったのだ。ジンギスカンの子孫たちがインドにムガール帝国を創った時、ペルシャのパラダイスの概念をインドに持ち込んだ。
それがシャー・ジャハーンによるムガール建築の傑作として絶頂期を迎えたのだ。タージ・マハールへ続く円形の入口の上には“お前はパラダイスに入ろうとしている”と書かれている。パラダイス庭園は4等分されている。中央にはプールがあり、中央から流れ出る4つの水路はエデンの川を表わしている。
奥には光輝くタージの白いドームがあって、栄光の王冠を表わしている。それは、聖書の中の雪を被る神の山と同じだ。シャー・ジャハーンの華麗なパラダイスはペルシャの建築様式で造られていたのだ。
しかし、ペルシャ人はどこで楽園の庭の概念を得たのだろう?ペルシャ一帯で生まれ育っていた、ずっと昔の伝説からではないのだろうか?
そろそろ、人間の文明の根源となった、イスファハーンの南のメソポタミア平原に向かう時間だ。多くの方言に悩まされる地域なので、ニザムが通訳をしてくれることになっている。
我々はシュメール(Sumerスマー)の古代の土地を目指している。シュメール人は世界で最初に偉大な文明を創った。エジプトのファラオたちよりも古い。彼らの起源はベールで覆われている。
しかし、紀元前5千年、“新石器時代の革命”の終わりの頃、彼らは創世記の2つの川チグリスとユーフラテスの川岸に沿ったメソポタミア平原に定住したことが判っている。そしてそこに地上で最初の都市を造った。シュメール人はジグラットと呼ばれる巨大な高台寺院も建造した。
長く続く階段は最上階に設けられた都市の守護神が祀られている建物に続いていた。これらの人々が彼らの神々の山の住家とするために、平原に人工的な山を造ったのだろうか?そうだとすればシュメール人そのものが山岳地から平原のメソポタミアにやって来たことを暗示する。
これらの人々は北の土地にあるザクロス山脈との関連が強いように思われる。
4千年前の旅行ガイド本に“エンメアカーEnmerkarとエラタの王”という題のシュメリアの叙事詩がある。シュメール人の王エンメアカーは遠く北に棲むミステリアスな支配者に使節を派遣した。使節の目的地は黄金と貴石で溢れているエラタ王国だ。創世記でもエデンのある場所では黄金と貴石が豊富だったと記述されているのだ。
エラタ王国がどこにあったのかを知る人はいない。しかし、例え我々の旅が何処で終るか判らなくても、どこから始まったのかは知っている。粘土タブレットに刻印されていた物語によれば、使節の旅はイランの南西でカルカ川の畔(ほとり)の広い平原にある古代都市スーザから始まる。そしてそこは、5千年後、使節の足跡を辿(たど)りながらエラタに向かう旅を我々が始める場所でもある。
シュメール叙事詩「敵のせいで王の言葉には熱が籠っていた。星の夜は星と、太陽の昼は太陽の神とともに使節は旅をして天国を目指した。」
「スーザからアンシャン山脈までの登り道は塵(ちり)が舞う砂利道が続いていた。5つ目の門、6つ目の門、7つ目の門と、使節は通り過ぎていった。エラタに近くなったところで彼は眼を上げた。記念すべきエラタへの道を辿る彼の足は塵にまみれていた。小石の山を見上げると大きな蛇が平地をうろついているようだった。彼はそれに逆らわなかった。」
エラタに向かう長い旅で、使節は7つの門を通過する。古代の“門”という言葉は山地を通り抜けるための峠(とうげ)とか峡谷を意味する。
これも古代ユダヤ人の伝統の“天国への7段階”と関係が在るのかも知れない。この中世の象牙の彫り物の中には7段の楽園が現されていて、7つ目の天国にはアダムとイヴが木の脇で立っている像が彫られている。今日でも“楽園にいる”という意味で“7つ目の天国にいる”と我々は言う。
シュメール人の文学を使うと聖書に書かれているエデンの場所が判るかもしれない。重要な手掛かりがそこに書かれているのだ。とても長い物語なのだが、物語の終わり近くで、使節は最終目的地エラタ王国に近づいていたことが記録されていた。彼は山を下り、麓の、うねりながら広がっている平地を目指した。エラタの平原だ。ここで使われている言葉が興味深い。シュメール人の言葉“エディンEdin”は多くの学者たちが聖書の“エデンEden”の語源だと考えている。
アービン・フィンクル博士は大英博物館のシュメール専門家だ。
アービン「ヘブライ語のエイデンAidenから英語のEdenが生まれ、それはEdenまたはEdinと綴(つづ)られるシュメール語だったのは間違いないと思う。楔形文字で使われていた言葉で、草原を表わすシュメール語で、住居区とか町の外部で、耕作地を境界とすると、境界の外の一帯だ。そこを彼らはEdinと考えていた。」
つまりイーデンEdinとは単に平原とか耕作されていない土地を意味する言葉だったのだ。
ここからカーディッシュ山脈に入る。
数千年の間、生活様式がほとんど変わっていない一帯だ。ここでは創世記に記された古代世界の雰囲気を感じることができる。車を飛ばし、エラタを目指して4つの門を通過して辿った今日の旅は終わりだ。恐らく使者が徒歩でひと月かけた道を一日で踏破できたのは好かった。
しかし問題は、彼が、ここからどの方向に向けて発ったのか、我々には確信がないということだ。ここから近い所に素晴らしい場所がある。そこが出現したのは今から2百年もしない近年のことだ。残念だが今回の旅ではそこを訪れる予定はない。
もしエデンの園が存在していたのなら、それはザグロス山脈の奥深くにあったと私は確信している。我々が目指している場所だ。
我々はエラタという山岳の王国を目指して王の使節が辿った足跡に沿って旅をしている。7つの山岳地帯を越え、彼はエディンEdinと呼ばれる土地に到着した。そここそがシュメール人の言う、聖書のエデンEdenの場所ではないかと私は考えている。しかし使節の叙事的な物語は、もし英国軍人ヘンリー・ローリンソン隊長Captainの努力が無かったなら、我々の役には立たなかった。1844年、ローリンソンはペルシャの古代遺跡を探検していた。ヘヒスタンの岩山の岩肌の高い所に、彼はペルシャ王ダリオス1世が遺した記述を見つけた。
彫刻された絵はダリオスが政敵を打ち負かし、ペルシャの正統の王となる場面を描いていた。この遺跡で重要なのは、枠で囲まれ、3つの異なる言語バビロン語、イルマイト語、古代ペルシャ語、で書かれている“王の業績”だ。
当時、学者達は古代バビロニア語を解読できずにいたのだが、ペルシャ語をどう読むのかについては知っていた。同じ内容を表記していると思われる、これら3つの言語のコピーを採取する方法を見つけられたら、バビロニア語やイルマイト語を解読するのに役立つはずだ、とローリンソンは気付いた。そこで、彼は細部まで記録しようと考え、60mの岩肌の表面をきれいに掃除し始めた。
ローリンソンの努力の結果、メソポタミアの遺跡都市からすでに発掘されていた数千のタブレット書類を解読することが可能になったのだ。
アービン博士「ヘンリ-ー・ローリンソンは記述を解読するためには、誰もがそれを近くで見られるようにコピーを採取する必要があると考えていた。絵に描くことも離れた場所から写真に収めることも、当時は不可能だった。そこで彼は岩肌を登り、体をロープで縛りつけて岩肌に貼り付きながら、重ねた紙を押し付けて型を取ることにしたのだ。それを持ち帰り、解読に役立つレプリカ・コピーを作って研究者たちに提供した。彼は勇気のある男だった。というのは岩山は険(けわ)しく、レリーフがある場所に近づくのはとても危険だったのだ。風が回っていて、留まっていることすら大変なのに、彼はそこでコピーを採る作業をしたんだ。」
彼の命知らずの行動がなかったのなら、聖書は単なる創世記の原始的な世界に関する歴史的な情報源のままだっただろう。ここ大英博物館には、楔形文字が刻まれた古代のタブレットで一杯の棚がある。その中のタブレットの一つは偶然にも聖書の次に最も有名な古代の書類だった。
イラク北部の古代ニネヴァNinevehで1850年に発見されたもので、一見、破壊されたタブレットでしかなく、重要なものと思われていなかったのだが、その翻訳が1872年に公表された時、大きな衝撃を巻き起こした。それは聖書の中の物語が初めて、別の古代文明の記録の中に発見された時だったのだ!大洪水Great Floodの物語だった。3千年前のタブレットは伝説的な王ギルガメッシュの叙事詩だと判ったのだ。そこには大洪水の話があり、恐ろしい洪水の中で箱舟を造った英雄は、恐ろしい洪水の中を生き延びたのだ。彼はノアの物語と同じように、鳥を船から放って、乾燥した土地を探させている。
アービン博士「それは大きな影響をもたらした。何故なら人々は聖書の記述と関係する内容を聖書以外のものから探し出そうとしていた時期だったからだ。考古学者たちも切望していたことだった。聖書の内容を支持する記述証拠が現実に出現したということは極めて特殊で、驚くべきことだった。ギルガメッシュ叙事詩の翻訳と聖書の物語は驚くほど似ているのだ!」
ローリンソンの熱意のおかげがあるとはいえ、我々には、まだ解かねばならない問題が残されている。ここカルカ川の水源の近くで、エラタ王国を目指していた使節の追跡は途絶えてしまっているのだ。古代のガイドブックには次にどの方向に向かったのか、明確な記述が残されていない。越えねばならない3つの門はどの方向にある山なのか?別の古代の書物を捜し求めなければいけないようだ。
捜し求めていた書物は粘土のタブレットだった。今回のタブレットはパリのルーブル博物館にある。このタブレットには紀元前8世紀の強国アッシリア王サーゴン2世がエラタ王国に遠征する軍事行動の様子が記録されている。
シュメール人の王エンメアカーの使節と同じように、王サーゴンの軍隊も7つの山を越えている。しかし、今回の場合、使節の旅と異なり、我我は、軍隊がどこに行ったのかを正確に知っているのだ!
タブレット「我サーゴンはアッシリアの王で、カーフンを発ち、偉大なグラーテを横切り、あらゆる種類の木々で覆われた高い山を進軍し、そこでは日の光も差し込むことは無く、7つの山を偉大な困難を超越して踏破し、灌漑水路として使われているラッパー川とエラタ川を渡り、ミニオン地方のスリカシュの方向に、私は丘を下った。サーゴン」
サーゴンは古代のスリカシュを目指していたのだ。それはミニオン平原のサケッシュというカーディッシュの町の下にあった。彼は7つの峠を越えて北に向けて進み、エラタ川を渡り、ウラトの平地またはエディンに到着した。聖書でいうアララトAraratだ。エンメアカーの使節も北に向けて7つの山を越え、エラタにある平地またはエディンで旅は終わっている。
彼らが同じ場所に行こうとしていたと考えるのは極めて理に適っている。我々が向かうのはその場所だ。残った3つの高い山を越えて、エラタに下りていくのだ。アララトだ。エデンの土地だ。
サーゴンの助けがあったおかげで、我々はエラタの場所を見つけた。我々の旅の最終目的地は7番目の山地の向うにあった。使節は、7番目の門に到達した時、旅が終わりに近づいたことを知った。山の麓には平地エディンEdinが横たわっている。
聖書のエデンEden、不思議な王国エラタだ。楽園は使節を手招きしていた。彼は7番目の天国に到達したのだ。
我々の目的地、エデンの地、は我々の目の前に横たわっている。しかし楽園に辿り着いた時、我々は何を見つけるのだろう?
我々は7つの天国に繋がる7つの門を通り古代使節の道を辿って楽園までやってきた。大きなオルミエ塩湖に近づいてきた。とうとうエデンにやってきたのだ。エンメアカー以降5千年の間、ほとんど変わっていない。その2千年前はアダムとイヴの時代だ。
あの山の向うでユダヤ人はエデンの園の話を聞いたのだ。
パラダイスに踏み込む前に、創造記の中の手掛かりについておさらいしておこう。もし、ここがエデンだとすれば、我々は見つかっていない2つの川ギホンとピションを探し出さねばならない。クシュとハビラいう名の土地と、園を流れている川については見つけられるかもしれない。
エデンの一帯を撮影した衛星写真を見てみよう。大きなオルミエ塩湖の東岸に向けて、聖書が言う“エデンの東”にある“エデンの園”が広がっている。北と南にある高い山に護られるよう囲まれた長くて肥沃な谷間だ。
古代の楽園の庭は巨大だったのだ。園の西の端は湖の湿地帯marsh Landだ。
しかし東端は峠の東門Eastern Gateを越えると別の世界に繋がっている。
そして谷間を貫くように川が流れている。園を流れる川は湖に注いでいる。園の北には肥沃な一帯があり、カスピ海に注ぐアラス川の幾つかの支流が流れている。
このアラス川は古代においては別の名前が付いている。7世紀、イスラムがペルシャに侵攻した時、アラビアの地理学者は、その川をガイホンと呼んでいる。聖書ではギホンと言う名の川がクシュという名の土地を流れていた。初期のキリスト教学者たちはクシュをアフリカの土地の名だと結論付けていた。しかし、信じられないかも知れないが、ガイホン川が流れていた古代のこの土地の名もクシュなのだ!後ろで雪を被っているあの山は現在でもクシュダーグKusheh Daghと呼ばれている。“クシュ山”だ!
ガイホンと聖書のギホンが同じ川を指し、ここが創世記に言うクシュであることについてはもう何の疑いもない。そこで我々は創世記でエデンを指している3番目と4番目の川を比定することになる。4番目の川が、地図の南東の隅で、この地に割り込んでいるのだ!ケザ・ウイゾンUizon川だ。
もし私が正しければ聖書の作者がピションPishonと呼んだ川だ。黄金に溢れたハビラの地をうねって流れる川だ。金はいまでもケザ・ウイゾン川で見つかっている。ケザという言葉は“黄金”を意味する。“黄金のウイゾン”だ。しかし、どうしてウイゾンUizonがピションPishonと同じだと言えるのだろうか?言語学者が示しているように、その答えは古代のイランの名前をヘブライ聖書の中のセミティック語の名前に変換する方法にある。例えば古代のミニオン地方の町ウシテリUshiteriは、現在はアラビア語の呼び名でピシデリPishdeliだ。
イランの文字Uはセミティック語だとPになるのだ。同じように、古代のイランの川の名前Uizonは聖書の作者によってセミティックでPishonピションと変換されたのだ。
いよいよ地理学上のジグソーパズルの最後のピースだ。アダムの二人の息子、農夫のケネン(カインCain)と羊飼いのエイブル(アベルAbel)について考えてみよう。
ケネンとエイブルは神に捧げものをするよう、父親に命じられていた。ケネンは畑の作物を捧げ、エイブルは山の動物を生贄(いけにえ)として捧げていたが、神は生贄の方を気に入っていた。神に好かれるエイブルに対する憎しみと恨みがケネンの心に生まれた。突然の妬(ねた)みの感情に流されたケネンは全ての罪の中で最も痛ましい罪を犯す。
記録に残された人類最初の殺人の結果、ケネンはエデンの園を追放される。
創世記「ヤハウェ“呪われよ。お前の兄弟の血を受けとめようと口を開けている土地から消え失せよ。お前がこの地を耕しても、何の恵みも得られぬ。地上を彷徨(さまよ)いあるけ。”そうしてケネンは神ヤハウェのいる土地を離れ、エデンの東のノーットNodという土地で暮らすことになった。」
それは聖書の決定的な部分だ。“エデンの東のノーットの土地”!
驚くべきことに我々の地図の東の地域にも似た名前が見つかる。上ノクティUpper Nochdiと下ノクティLower Nochdiだ。
ノクティは“ノックトに所属する”ことを意味する言葉だ。これが創世記のノーットNodではないのだろうか?聖書の作者にとっては外国の名前をヘブライ語に変換することは慣れた作業だった。ノーットは放浪者を意味する。ケネンは追放された放浪者だ!
我々はギホンとピションという2つの川を見つけた。そして、恐らくノーットという名の土地も。いよいよ楽園に踏み込む最後の段階になった。西の方向、エデンの園だ。
都市タブリズTabrizが在る峡谷は招いている。失われていた楽園に戻る時だ。
創世記「そう言うとヤハウェは男をエデンの園から追放した。彼はその男を罰したのだ。」
我々はアダムの次の世代のケネンを園から厳しい土地に追いやった“追放の道”を通って戻っている。
創世記「エデンの園の直ぐ前に、彼は炎が立ち上がっている剣を置き、生命の樹へ続く道を守るため、彼はチェリビンを置いた。」
人類学者リチャード「チェリビンとは羽根をもつ小さな天使ではないかと考えている。しかし、今ではチェリビンが古代バビロやメソポタミアのカリブーだということを知っている。神聖な場所や寺院の守護神だった。
もし大英博物館を訪れたなら、沢山のチェリビンを見ることが出来る。それらは、羽根を持つ偉大な創造物で、驚かされるだろう。エデンの園におけるチェリビンの仕事はアダムやイヴが戻ってこないよう見張ることだ。神は彼らを罰して園から追い出したのだから。」
東門から西に続く追放の道を通ってエデンの園に入ったところだ。アダムとイヴが7千年前に離れた場所に戻っていくというのは特別な気分だ。渓谷の道を下ってタブリズに到着すると、そこではエデンの園が永遠に失われてしまったことに気付く。現代の工業化した人間たちによって冒されてしまっている。
人間が決して楽園に戻らないだろうという聖書の予言はある意味では正しかったのかも知れない。何故なら園は無機質な都市の下に埋められているのだから。しかし、人類が破壊してしまわなかった場所が一つある。聖書にはエデンにある神の山から落ちた男の物語がある。大きな山がタブリズ渓谷を見下ろしていた。その円形の火山はサハンド山Mt.Sahand だ。この山の斜面にアダムが暮していた古代世界の様子と似た場所を見ることが出来る。
もしあなたが聖書の中の些細な文章でも信じているのなら、エデンの園が実際に在った場所だということについて私の証明など不必要だろう。しかし、もしあなたがエデンの物語は詩的な比喩(ひゆ)だと思っているとしたら、問題は、その比喩となったものが何か?何故、他の場所ではなく、この場所が人類の発祥の地なのか?ということだろう。
聖書によれば、石器時代の終わり頃、古代シュメールに最初の都市が造られる凡そ1千年前、アダムやエデンが存在していた。その観点から言えば、当時、誰がここに住んでいたのだろう?考古学者たちは新石器時代の革命の時期、イラン西部のザグロス山脈が重要な場所だったことを明らかにした。
しかし何故、人類学者は、この時期が人類の歴史における変革の時だと考えるのだろう?
人類学者リチャード「新石器時代の革命は恐らく、生活の変化という意味で、人類が行った最も重要な変革と言えるだろう。この時に歴史的な文明の基礎が造られたのだ。農業が始まり、牧畜が始まり、定住していた村の周辺の畑で穀物を栽培した。村が町に、そして都市になるまでには、そんなに長い年月がかからなかった。農業がなければ地上に都市は生まれなかった。」
我々は新石器時代の革命を継承している。従って、その革命が我々の起源だと言える。としたら、この地が物語を創造した場所だとしても驚くことはないだろう。サハンド火山の山頂の近くの、ここカンドヴァンという隠者村では、新石器時代のアダムと同じ古代の社会に触れることができる。
我々は、古代メソポタミアの神話物語から、人間が地面の土と殺害された神の血を混ぜて、神の姿で造られたことを知っている。ここで暮らす現代の“新石器時代の人々”は、園を見下ろしている赤い山から採取した赤い土や粘土を儀式で使っている。
人類学者リチャード「私が知っている所によれば、埋葬で赤い粘土を使っている。死体に赤い粘土を塗り、時には、骨に塗っているようだ。古代の人々が行っていた象徴主義の現れではないかと思う。我々は血に覆われてこの世に生まれてきた。この世を去って次の世に行く時も、血で覆われていなければならない。このことを赤い粘土が象徴しているのだ。」
聖書によれば、アダムも粘土から造られた。アダムという名前自体も“赤い大地”を示す言葉だ。
しかし、人間アダムとは何だったのだろう?恐らく現代人の我々は、アダムが神によってエデンの粘土から造られた最初の人類だと信じる心の準備が成されていない。しかし歴史上のアダムは存在していたのだろうか?聖書の作者の頭の中には彼が存在していたことは間違いない。彼はノアのたった10世代前の男でしかない。そこまでは誰もが理解できる。アダムは存在していた。何故なら彼は子孫たちによって覚えられているからだ。彼は命を持った最初の人間で、最初に神と会話した男だ。
我々は本当の意味では地上の楽園に戻れなかったと言うべきかもしれない。しかし、近代の映像技術を使う事で、古代の美しい園の谷を取り戻すことが出来る。アダムが暮らしていたエデンを垣間見ることが出来る。
気象学者たちによれば地中海からの西風が運んだ暖気が、この長くて細い谷間で微気候microclimateを創り出していたと言う。多湿な大気が植物の繁茂を促し、驚くほど沢山の種類の樹木には、目を奪うような、美味の果実がたわわに実っていた。台地を厚く覆っていた赤い土には、林檎、アプリコット、ピスタチオ、アーモンドの果樹園が広がっていた。
野生の葡萄の樹は丘の斜面を覆い、甘い緑の葡萄の房を付けていた。メソポタミアの“蔦(つたvine)”という意味の言葉の一つが創世記で使われていた“生命の樹”を指す言葉として使われている。谷間を貫いて流れる川はオルミエ塩湖の湿地帯に続いていた。これが地上の楽園だったのだ。
私の旅はここ、神の山の麓で終わる。アダムと呼ばれる男と彼の家系は神の怒りに触れ、ここエデンの園から追放されて、地上を彷徨った。
しかし、これは始まりでしかなかった。人間という創世記の叙事詩はその後、数千年続いたのだ。しかし、それは、また別の話と言えるだろう。
In Search Of Eden
https://www.youtube.com/watch?v=jjuYYFn1cXk
フィルムで紹介されたデイヴィッド・ロール氏の仮説を確認しておきましょう。
次の図で赤い部分がエデンEdin/Edenです。エデンの東側の部分でGANと書かれた緑の部分がGardenつまりエデンの園/楽園/パラダイス、ということになります。エデンの園GANの西に接しているのはオルミエUrmiya塩湖です。
このパラダイス/エデンの園、に暮らし始めたアダムとイヴは、神の怒りを買い、パラダイスを追い出され、そして恐らく、パラダイスではない“エデンの地”で生計を立てることになったんだと思います。ひょっとすると、東に追い出され、エデンの外で暮らすことになったのかもしれませんが。
創世記に書かれている有名な大洪水の話の中で、ノアの箱舟はアララト山に漂着しています。オルミエ塩湖の近くです。今回のブログが比定するエデンの園の位置を裏付ける状況証拠は沢山ありますねぇ。しかし問題は、証拠の信頼性で、残念ながらmhは何ともコメントできません。ノアの大洪水が起きる前にエデンがあったのは創世記の記述で間違いないので洪水でエデンは水没していたんだから、その痕跡なんか残っているわけがない!って主張する人もいるようで、議論は果てしなく続くことになるのでしょう。
今日は9月29日です。東京都の築地移転をどうするか見通しが全く立っていないのに、経費節減のために五輪のボート競技場の新設は止めて宮城の既設コースを使おうか、など代替案が小池知事から提示され、五輪関係者が唖然としているようです。エデンの比定がいつまでも確定されなくたって何の実害もありませんが、築地と五輪は早く、きちんと比定しないと大ブーイングを受けるでしょう。小池知事だけではなく、都や五輪の関係者は、問題を他人ごととせず、実務的に、真剣に、計画的に、取り組んで、早く、都民や世界の人々を安心させてほしいものです。しかし・・・小池百合子女史と森喜朗氏で、うまくまとまるんですかねぇ。mhは懐疑的です。
(完)
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