思わず赤面?80年代ファッショントレンド総まとめ

昔、ショップスタッフをやっていました。当時の言葉で言えば男性ハウスマヌカン(笑。80年代ファッションとは何だったかを若い方にも理解してもらおうと今回まとめてみました。あなたのお父さん、お母さんももしかしたら、こんな感じだったかも?若い人だとおじいちゃんおばあちゃんの青春時代かも?

更新日: 2018年09月15日

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ボディコンファッションの誕生

「ボディコンシャス」は1981年のミラノ・コレクションでアズディン・アライアが提唱した女性のボディラインを生かしたファッションスタイル。

ボディコンブームはジュリアナ東京の誕生の1991年から終了迄の90年代半ば迄続いたが、いわゆるディスコの「ボディコンブーム」は80年代末から90年代のトレンド。

80年代中盤のディスコに来る人のファッションはニュートラ系カジュアルが中心。ドレスコードのあるMAHARAJAでは男性はジャケットもしくはDCブランドのスーツ着用が基本だった。

ワンレン+ボディコンブームの始まり

日本でサンエーが1981年「ピンキー&ダイアン」と姉妹ブランド「NOVESPAZIO」「プライベートレーベル」をスタート。大きい肩パッドが特徴のボディコンスーツやワンピースがニュートラ卒業組のOLや水商売の女性に普及し始める。全国的な流行は1980年代半ば以降。

ファッション的にはアライアの提唱したボディコンとは別物だが、当時は「ボディコン」とされた。

1980年代末の芝浦GOLD、祇園MAHARAJA、1991年ジュリアナ東京から始まる「ボディコンブーム」では肌の露出の大きなアライア的なボディコンドレスも流行。

80年代の力強い女性 服装企画展
http://goo.gl/Xgv6Ej

横浜銀蝿ブレイク

1979年に結成した横浜銀蝿が1980年9月21日 アルバム「ぶっちぎり」シングル「横須賀Baby」の同時発売でデビュー。1981年のツッパリHigh School Rock'n Roll (登校編) でブレイク。

校内暴力が急増し、地方都市にも不良が大量発生する時代だったが、横浜銀蝿は彼らの学歴からもツッパリではあったものの不良ではなかった。ライブでは若者達の悩み相談コーナーも。

皮肉な話、横浜銀蝿は「覚せい剤撲滅キャンペーン」でイメージキャラクターになり、当時の中曽根康弘首相に総理官邸にも招かれた。ファンの中心層は意外にヤンキー男性ではなくハマトラ風の女の子が多かった。

横浜銀蝿の対抗軸

不良のカリスマと言うよりファン層から見ると当時の横浜銀蝿はアイドル的なバンドだった。絶頂期の横浜銀蠅のライブはヤンキーや暴走族では無い女性ファンがかなり多かった。ホンモノ志向のヤンキー、暴走族の多くはキャロル(1975年解散)、COOLS(バンドとしての)、ブラックキャッツを支持した。彼女を大切する気合の入った不良がモテた時代。

ノーヘル(当時は合法)カワサキ ZⅡをぶっ飛ばず若者達を率いるのは若き日の岩城滉一。キャロルの親衛隊的バイクチーム「クールス」の副団長だった。リーダーは舘ひろし。

なめ猫大ブレイク

横浜銀蝿のブレイクに便乗するカタチでツッパリブームを当て込んだ「なめ猫」が大ブレイク。

一枚100円で販売された「なめんなよ」免許証が1200万枚の大ヒット。カレンダーやポスターもヤンキーの部屋の必須インテリアに。

80年代に入ると暴走族は全国に多かったものの警察の取り締まりも厳しく80年初頭の勢いは徐々に失われ、80年代後半には暴走族やツッパリというスタイルが若者に支持されなくなった。

ちなみにヤンキーは着崩したファッションを好む怠惰な不良。ツッパリは芯の通った男らしい不良と定義されたが明確な区別が当時あったとは思えない。

トシちゃん効果でレッグウォーマー、ナイキ コルテッツ流行

1981年、田原俊彦がザ・ベストテンに「グッドラックLOVE」でレッグウォーマーを着用し登場。その影響でレッグ・ウォーマーを求めて洋服店をめぐる若者が日本中に大量発生。

エアロビクス用のアイテムなので女性はどこに売っているのかはわかっていたと思うのですが、当時メンズのショップ担当だった私もお店で何人にも「レッグ・ウォーマーありませんか?」と尋ねられた記憶があります。

当時のナイキのコルテッツの流行もトシちゃん効果。今見てもあの当時のトシちゃんはかっこいい。

グッドラックLOVE - 田原俊彦
https://youtu.be/I97tLMV8jGA

フラッシュダンスからのエアロビ・ブーム

1980年代のアメリカで空前のエアロビクス・ブームが起こる。当時は「エアロビ」と略されることが多かった。

1983年に公開された映画フラッシュダンスの影響。当時の日本人にはダンスもエアロビも違いはよくわからなかった。

いち早く、ボディコンファッションを取り入れた女性達はスポーツ・ジムへ。地方都市にスポーツクラブはまだ少なく、全国にエアロビ・ブームが拡散するには数年のタイムラグある。

マイケル・センベロ - Maniac
https://youtu.be/0DN37VU0zKs
アイリーン・キャラ - What A Feeling
https://youtu.be/VzALZjoIx0g

フットルースからのダンス・ブーム

1984年に公開された映画「フットルース」で70年代に終息していたディスコの復活に拍車がかかる。いわゆる第二次ディスコブームが地方都市へ拡散。

70年代のサタデーナイト・フィーバーとは違い、Tシャツ+スニーカー+ジーンズで自由にダンスする主人公や劇中のブレイク・ダンスのシーンはその後の日本のダンス・カルチャーとファッションに大きな影響を与えた。

Footloose - Kenny Loggins
https://youtu.be/ltrMfT4Qz5Y

プロデューサー巻き流行の起源

出典amass.jp

カーディガンやセーターを羽織る「プロデューサー巻き」は既に1970年代末には存在。画像は1983年結成されたオシャレ音楽ユニット「スタイル・カウンシル」。石田純一が流行らせたのではありません。

夏場でも半そでポロシャツにラムのニットを肩にかけたり、腰にまいたりするコーディネートも。ラムのニットは海外では昼夜の温度差が大きい為、年中手放せないアイテムだとされていました。1982年に日本に上陸したベネトンの日本上陸の影響も。

The Style Council - You're The Best Thing
https://youtu.be/0HMAVU1k7kg

MAHARAJAが全国各地でオープン

1982年の大阪1号店を皮切りに全国展開を開始。70年代に終息していたディスコブームをMAHARAJAが再び巻き起こす。私の地元金沢では一階がMAHARAJA、二階がKing & Queenという変な状態も。

ドレスコードにより、不良ファッションで入店できなかった為、女性客が増え、更に男性客が来るという好循環を引き起こす。入店したい為にDCブランドのスーツを買う男性も急増。

肌の露出の多い過激なボディコンファッションがディスコで流行するのは90年代以降のこと。過激なボディコンの流行は芝浦GOLD>後期のジュリアナだったと記憶している。祇園マハラジャ、名古屋アビームも当時はそんな感じ。

アニエス・ベー 青山1号店がオープン

1984年、東京青山にアニエス・ベーの1号店がオープン。日本でのアニエス・ベーは当時、サザビーが運営。

DCブランド以降の日本での本格的な海外ブランドブームの先駆け的存在だった。

80年代中期 スーツの流行

ワイズ、コムデギャルソン等のモノトーンを中心にしたブランドとYMOの影響によるヘアスタイル、テクノカットを好む男性やボブカットの女性がお洒落な存在として注目を浴びる。画像はJ事務所のアノ人。

ズートスーツは当時は供給不足で、DCブランドやインポートブランドのオーバーサイズのスーツを肩パッドを追加したり、大きなものに直したりしてズートスーツ化していました。

パンツ丈はソックスが見えるくらいがかっこいいとされ、裾幅を細く「お直し」するのも流行。

この着こなしはスーツ+ツイードのコートなので二重肩パッドで巨大化してますが、パッシュ、テットオムもしくはアーストンボラージュかな?

テクノブームからのスーツの流行

トーキング・ヘッズのボーカル デヴィッド・バーンが1984年の「STOP MAKING SENSE(ストップ・メイキング・センス)ライヴ」で着用した異様なオーバーサイズのスーツで歌い踊る姿に憧れたテクノファンが大きめのスーツを最初に着た、もしくは影響を受けたデザイナーが作ったのが最初だと思われます。

トーキング・ヘッズは今でこそロックバンドとされているが当時の日本ではテクノミュージックとして紹介されていた。

Talking Heads - Stop Making Sense 1984
https://youtu.be/VKNYJx9Ekpw

一世風靡セピアからのスーツの流行

ズートスーツの流行には哀川翔、柳葉敏郎が所属していた一世風靡セピアの影響も。彼らが着たスーツのブランドは大口広司のインアンドヤン。もしくは加藤和孝のテットオムだった気がするけど記憶が曖昧(笑。

コムデギャルソン・オムのスタッフだった友人が当時、「一世風靡セピアみたいなスーツありますか?」と客に言われるとボヤいていたのを思い出します。

前略、道の上より - 一世風靡セピア
https://youtu.be/JK2Zs3LFab8

あぶない刑事からのスーツの流行

1986年10月5日から舘ひろし、柴田恭平主演「あぶない刑事」がスタート。

コートを着ているから尚更なんですが、今見るとやっぱり肩幅が大きい。憧れた若者の中には似たようなサングラス、KAZUTAKA KATOHやMENS TENORASでスーツを買った人も。

二人が乗っていた日産レパードも人気。ノーヘルでバイクをぶっ飛ばす舘ひろしがカッコ良かった。だけど、アメリカかぶれの私は白バイ野郎ジョン&パンチにドップリはまってました(笑。