第33話 父親は航空幕僚長
冷たい雪が溶けて桜が満開に咲き誇り、桜がすべて散ると空の青は濃く深まり、山野を埋める草木は、鮮やかな緑色に色づいていく。
そういう具合に、色合いと匂いに、微かな日々の変化によって、季節は凍える冬から穏やかな春に変わり、そして春から暑い夏へと、万華鏡さながらに移り変わっていった。
実桜が第11飛行隊に着隊してから1年半の月日が経ち、2回目の夏が蝉の声と一緒にやってくる。江波1尉からすべての技術を継承した実桜は、いまでは誰もが認める6番機パイロットに成長して、みんなと日本各地の空を元気に飛び回っていた。
松島基地航空祭を今月末に控えたある日。午後の訓練を終えた実桜は、なんと基地司令に呼び出された。
伝言を頼まれた霧野1尉によると、基地司令は実桜に話があるらしい。司令といえば基地で1番偉いお方である。なので実桜は内心ビクビクしながら、急いで司令部庁舎に向かった。
(あれ……? 神矢さん……?)
司令部庁舎が見えてきたときだ。庁舎から琉青が出て来たのである。実桜と同じく琉青も、司令に呼び出されたのだろうか。実桜に気づいた琉青は、彼女のところにやって来た。
「神矢さんも司令に呼び出されたんですか?」
「まあ……そんなところだ。おまえも司令に呼び出されたんだってな。怒られることはないし、解雇されることもないから、安心して行ってこいよ」
実桜の肩を叩いた琉青は、隊舎のほうに歩いて行った。なんだろう――琉青は浮かない顔をしていたような気がする。
琉青の様子が気になるけれど、いまは司令のところに行くのが先だ。実桜はドアを開けて司令部庁舎に入り、司令が待つ3階の部屋に向かった。
「藤咲実桜2等空尉、ただいま到着しました!」
実桜が到着を知らせると、中から「入りなさい」と、基地司令の穏やかな声が返ってきた。基地司令の松川空将補に、彼と同じ紺色の制服姿を着た男性が、部屋のソファーに向かい合って腰かけている。
男性の年齢は50代前半だろうか。すらりとした長身の知的でスマートな印象だ。松島基地では見たことのない顔なのだけれど、男性は実桜が知っている誰かに、似ているような気がした。
「突然呼び出してすまないね。君を呼び出したのは、君に会って話がしたいと、神矢航空幕僚長が訪ねてこられたからなんだよ」
「えっ!? 航空幕僚長がわたしに会いにですかっ!? それに神矢ってまさか――」
実桜が男性のほうに視線を向けると、彼はにっこりと微笑み返した。実桜に向けられた微笑みは、熟年男性の色気が全開になっている。おまけに彼はとても端正な顔立ちだ。なので実桜は一瞬ときめいてしまった。
「初めまして、藤咲実桜さん。私は神矢龍一郎といいます。お気づきかと思いますが、神矢琉青は私の息子です」
受けた衝撃の大きさに実桜は絶句した。神矢龍一郎航空幕僚長が、まさか琉青の父親だったとは――。まさに驚天動地・青天の霹靂である。
どうりで実桜は誰かに似ていると感じたわけだ。長い睫毛の涼やかな切れ長の瞳も、真っ直ぐにとおった鼻筋も、端整な顔立ちも琉青とそっくりだった。
「松川くん。すまないが席を外してくれるかね? 彼女と2人で話がしたいんだ」
「分かりました。では――私は応接室にいますので、話が終わりましたら、そこの電話を使って、お知らせください」
松川空将補が出て行ったので、実桜は龍一郎とふたりきりになってしまった。半端ない緊張感で固まる実桜は、さながら道端に置かれたお地蔵様のようである。そんな実桜に龍一郎が笑って声をかけた。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。君にちょっかいを出すなよと、琉青にきつく言われたからね。それにしても、息子にこんな可愛いガールフレンドがいたとは知らなかったよ」
「ガッ――ガールフレンド!? 違います違います違います! わたしと神矢1尉は先輩後輩の関係で、空幕長が思っているような、甘々な関係じゃありませんからっ!」
龍一郎の衝撃発言に、慌てふためいた実桜は全力で否定した。
「ぷっ――! はっはっはっ! 冗談だよ冗談。君が緊張しているから、リラックスしてもらおうと思ったんだよ。しかし残念だな。どこからどう見ても、君と琉青はお似合いだと思うんだがね」
大笑いする龍一郎を見た実桜は唖然としてしまった。どうやらこのおっさん――ではなくおじ様は、琉青とは違ってかなりお茶目な性格をしているらしい。本当に琉青の父親なのか疑いたくなりそうだ。
「さてと……そろそろ本題に入るとしようか。立ったままでは疲れるだろう。遠慮しないで座りなさい」
「はっ……はい……では失礼します……」
座るように勧められた実桜は、相変わらず緊張しながら、龍一郎の正面に腰かけた。
「どうして航空幕僚長が自分に会いに来たのかと、君は不思議に思っているんじゃないのかな?」
「はい。おっしゃるとおりです。航空幕僚長がわざわざ会いに来られたなんて、まだ信じられません。怒られることはないし、解雇されることもないと、神矢1尉は言っていましたけれど――本当のところはどうなんでしょうか。……わたし、F転かP免になるんですか?」
おっかなびっくり実桜が訊くと、龍一郎はまた大笑いした。笑われたのはこれで2回目だ。それにしてもよく笑う人だと実桜は思う。もしかしたら龍一郎の身体の中には、笑い袋が入っているのかもしれない。
「F転もP免にもならないから安心しなさい。君が藤咲勇輝2等空佐の娘だから、私は会って話がしたくて来たんだよ。たぶんもう知っていると思うが、私は藤咲2佐と同じ部隊で飛んだことがあってね、そのとき彼に命を救われたんだ」
「父が神矢空幕長の命を……?」
目を丸くする実桜に頷いた龍一郎は、真面目な面持ちで話しはじめた。
「あれは――単独で飛行訓練をしていたときだったかな。いきなり海霧が発生してね、道が分からなくなった私は、基地に帰れなくなってしまったんだよ。私が死を覚悟したときだった。藤咲2佐は危険を顧みずに、私を助けに飛んできたんだ。『必ず基地に連れて行くから、絶対にあきらめるな!』と、彼はずっと私を励ましてくれた。そして私は生きて帰ることができた。いま私が生きてここにいるのは、藤咲2佐のお陰なんだよ」
実桜を見つめる龍一郎の双眸には、勇輝に抱く深い感謝の思いがあった。
「……情けない話だが、琉青から話を聞くまで、私は息子が死のうとしたことや、藤咲2佐に助けられたことを知らなかった。今度は娘の実桜さんに励まされて、生きる力をもらったと聞いて、私はいても立ってもいられなくなった。君に会って話をして、感謝を伝えるために、私は松島に来たんだよ」
座っていた龍一郎が立ち上がる。次の瞬間実桜はさらに目を丸くした。なんと龍一郎が、実桜に深く頭を下げたのだ。
「実桜さん。琉青の傷ついた心を、あなたたち親子は二度も救ってくれた。感謝の言葉しか言えないが、どうか言わせてほしい。琉青を救ってくれて――ありがとう」
航空幕僚長に頭を下げられるなんてとんでもないことだ。実桜は慌てて立ち上がった。
「頭を上げてください。感謝したいのはわたしのほうです。神矢1尉の指導のお陰で、わたしは6番機のORパイロットになれて、夢を叶えることができました。わたしは憧れの神矢1尉と一緒に飛べるだけで、幸せで満足です。だから――じゅうぶんすぎるほど、お礼はしてもらっていると、わたしは思っています」
頭を上げた龍一郎は、まるで太陽を見上げるような眼差しで、実桜を見つめ返した。
「そうか――。琉青は素晴らしい仲間に恵まれたんだね」
「はい。部隊のみんなは最高の仲間たちです。そしてわたしは――ブルーインパルスのパイロットであることを、心から誇りに思っています」
実桜は力強く言いきった。実桜にとってブルーインパルスのみんなは、年齢・性別の垣根を越えた最高の仲間たちである。
それは彼らだけではない。防府北基地で訓練をともにした、チャーリーのみんなや第8飛行隊のみんなも、実桜の最高の仲間たちなのだ。
「藤咲実桜2等空尉。君のような自衛官を部下に持って、私はとても誇らしく思うよ。これからも最高の仲間たちとともに、パイロットを目指す若者たちの鑑として、訓練に励んでくれたまえ。それと――琉青のことをよろしく頼むよ。君が側にいてくれるなら私も安心だ」
「はい! 空幕長のお言葉を胸に、部隊のみんなと一緒に誠心誠意頑張ります!」
龍一郎に力強い言葉をかけられて、早朝の冷たい空気を吸ったときのように、実桜の心身は凜と引き締まる。共に飛んできた仲間のように、実桜は龍一郎と固い握手を交わす。龍一郎の肩で輝く桜星が、実桜にはとても眩しく見えたのだった。