第32話 貴方は独りじゃない

 そこまで話した琉青は疲れきったように息を吐いた。あまりにも悲しすぎる、琉青の過去を知った実桜は言葉が出なかった。どんなに優しい言葉をかけても、彼の深い心の傷は癒やせないと分かっていたからだ。

 実桜も琉青も黙っているので、辺りは深海のように静まりかえっている。しばらくして琉青が唇をほどいた。話は終わったと思っていたけれど、どうやらまだ続きがあるらしい。


「勇輝さんに助けられたあと、俺は彼と一緒に飛びたいと思うようになっていたんだ。だから――ブルーインパルスのパイロットに抜擢されたときは、本当に嬉しかったよ。そのときの俺は、ナレーションやサイン会が苦手でさ、それでも勇輝さんと飛びたい一心で頑張った。頑張ったかいもあって、俺は5番機のORパイロットになれたんだ」


 琉青はそこでいったん言葉をとめた。その表情はとても辛そうだ。琉青が話すたびに、過去の記憶が鋭利な破片となって、彼の心を深く切り裂いているのだろう。


「でも――勇輝さんはあの事故で命を落としてしまった。それから俺は誰かを信頼するのはやめた。信頼関係が強ければ強いほど、相手を失ったときの喪失感は大きくなる。だから俺は独りで生きていくことを選んだ。秋広と勇輝さんを失って、そのうえまた誰かに死なれたら、俺はもう耐えられないからっ――!」


 唇を噛んだ琉青が両手を握り締めてうつむいた。

 琉青の瞳に溜まっていた涙があふれ出し、重力に引き寄せられて落ちていく。いつも自信に満ちあふれていて、誰にも弱音を吐いたことがない琉青が、いま実桜の目の前で泣いている。だから実桜は驚きを隠せなかった。


 そして実桜の心は痛みを訴えていた。貝のように閉じられた琉青の唇から、堪えきれなかった嗚咽が漏れるたびに、実桜の心は痛みとともに震えるのである。


 ――これはきっと琉青の心の痛みだ。琉青が感じている痛みと悲しみが、まるで波紋のように、実桜の心に伝わってきていた。いま2人の心は強く繋がっている。だから実桜の心は共鳴して、琉青の心の痛みを感じているのだ。


 過去に勇輝が琉青の命を救ったように、自分も傷ついた彼の心を救いたい。なにができるのだろうと考える必要はなかった。琉青を思う気持ちは言葉となって、実桜の口から紡がれていたのである。


「――神矢さんは独りじゃありませんよ」


 静かだが明瞭とした声で実桜は言った。実桜の言葉に反応した琉青が顔を上げる。泣き腫れた瞼が痛々しくて、実桜の胸は締めつけられた。


「神矢さんにはわたしたちが――ブルーインパルスのみんながいるじゃないですか。わたしたちは家族じゃないけれど、家族のような強い絆で結ばれています。過去なんて関係ない、わたしたちは神矢さんが大好きです。父さんの代わりにはなれませんけれど、わたしが一緒に飛びます。だからもう怯えなくていい、独りでいなくていいんです」


 琉青のほうに身を寄せた実桜は、彼の身体に両腕を回して抱き締める。抱き締められた琉青は、一瞬身体を強張らせたけれど、実桜の肩に顔を埋めて泣き続けた。悲しみが早く消えますようにと願いながら、実桜はむせび泣く琉青の背中を優しく撫でた。


 響き渡る琉青の泣く声は、少しずつ小さくなっていき、やがて完全に聞こえなくなる。顔を上げた琉青の瞳は、まだ涙で濡れていたけれど、深い悲しみの影はどこにもなかった。


「勇輝さんに命を救われて、今度は娘のおまえに救われて――どれだけ感謝しても足りないな。それなのに俺は、勇輝さんにもおまえにも、恩のひとつ返せていない。だから俺に恩を返させてほしい。俺にできることはなんでもする。遠慮しないで言ってくれ」


 琉青が真剣な面持ちで申し出る。だけれど実桜は首を振って断った。


「わたしは恩を売るために言ったわけじゃありません。神矢さんに元気になってほしい、これからずっと笑顔でいてほしい。わたしが望むのはそれだけです。恩返しなんてしなくていいんですよ。きっと父さんも同じことを言うと思います。これからは明るい未来を信じて、わたしたちと一緒に頑張りましょう」


 実桜は琉青に明るく微笑んだ。心を打たれたように琉青が目を見開き、瞳に残っていた最後の涙が、彼の頬を静かに滑り落ちていった。


「――ありがとう、藤咲」


 それは短い言葉だったけれど、琉青から実桜への感謝の思いが、あふれんばかりにこめられていた。実桜と琉青は自然と肩を寄せ合って手をつなぎ、夜空を彩る冬の星座の輝きを、いつまでも眺めていた。

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