第31話 彼のぶんまで生きていく
小松基地の救難隊が出動したのは、荒れていた天気が穏やかになった、翌日のことだった。2番機は海面に激突した衝撃で砕け散り、機体の残骸も秋広も見つからなかったらしい。そして独り帰投した琉青は、徹底したデブリーフィングを受けて、しばらくのあいだは、部外者との接触を一切禁じられた。
一部始終を見ていた琉青の証言で、秋広の墜落の原因は、飛行中に平衡感覚が失われる、空間識失調――バーディゴだと断定された。
バーディゴに陥ると、上下左右がまったく分からなくなり、自分の姿勢も確認できなくなる。そして秋広は、漁船の明かりを航法灯だと思いこみ、海に突っこんでしまったのだ。
医師のカウンセリングを受けた琉青は、しばらく地上勤務をしたあと、部隊の飛行訓練に復帰した。だけれど琉青の心には、空を飛べる喜びはもうなかった。秋広を失ったあの日から、琉青の心は固く凍りついてしまったのだから――。
秋広の事故から数ヶ月が経ったある日。琉青は安宅の関の近くにある海岸にいた。日本海も空も茜色に染まっていて、まるで1枚の絵画のような美しい風景だ。
だけれど琉青は海を眺めに来たわけではない。――自分の命を絶つ目的で、琉青はここにやって来たのだ。
(待ってろよ、秋広。俺もすぐそっちに行くからな――)
冷たい海に入った琉青は、水を掻き分けながら、沖を目指して進んでいった。足下の深さが増していくにつれて、琉青の身体は少しずつ海中に沈んでいく。琉青の身体が腰まで沈んだときだ。誰かが海に飛びこんだような音が聞こえた。
「なにをやっているんだ! 馬鹿な真似はやめなさいっ!」
男性の怒鳴り声が琉青の耳を打つ。後ろから伸びてきた手が、琉青の腕をしっかりと掴んだ。続いてもう片方の腕が胸に巻きついて、琉青を岸のほうに引きずりはじめた。
「放せっ!! 頼むから死なせてくれっ!! 俺は死ななきゃいけないんだっ!!」
波飛沫を立てながら琉青は抵抗する。けれど琉青がどんなに暴れても、彼は決して放そうとしなかった。
火事場の馬鹿力と言えるような怪力で、男性は暴れる琉青を引っ張っていく。砂浜に辿り着いたとき、精根尽き果てたずぶ濡れの2人は、息も絶え絶えになっていた。
「はぁっ……はぁっ……間に合ってよかった……。君が海に入っていくのを見たとき、心臓が止まるかと思ったよ……」
男性は息を切らしながら、安堵の笑みを浮かべた。どうして助けたんだと、琉青が問い詰めようとしたときだ。1人の女性が遊歩道を走ってくるのが見えた。
「勇輝さん!」
男性の名前を呼んだ女性が、急いで砂浜に駆け下りてくる。下りてきた女性は、座りこんだ彼の側に膝をつくと、濡れた顔をハンカチで拭いた。
「無事でよかった……。『彼を助けないと!』って言って、いきなり走っていったから、慌てて追いかけてきたのよ。それで――海に入っていった人は助かったの?」
「うん。危ないところだったけれど、なんとか助けられたよ」
男性が琉青を見やると、女性もこちらに顔を向けた。
「このままだと風邪をひいてしまうわ。ねえ、勇輝さん。私たちが泊まっている旅館に連れて行って、休ませてあげましょうよ」
「そうだね、そうしよう。君もそれでいいね?」
逆らう気力もない琉青は弱々しく頷いた。琉青を立ち上がらせた2人は、自分たちが乗ってきた車で旅館に向かった。
案内された部屋は広く、窓からは日本海が一望できる。部屋のお風呂が沸くと、琉青は先に入るように勧められた。だけれど自分が先に入るのは厚かましい。琉青は首を振って断った。
「……俺はあとでいいです。あなたが先に入ってください」
「私に遠慮しなくていいから、君が先に入りなさい。いまにも倒れそうじゃないか。着替えは私の服を使っていいからね」
着替えの服を渡された琉青は、男性に背中を押されて浴室に入った。檜で作られた浴槽からは、温かい湯気が陽炎のように揺らめいている。入るまえにかけ湯をした琉青は、へりを跨いで浴槽に身を沈めた。
秋広はいまも冷たい海の中にいるのに、自分はのうのうと温かい湯船に浸かっている。それに秋広を救えなかった自分が助けられるなんて――。
心臓を激しく刺されているように心が痛い。痛みに耐えられなくなって、両膝を抱えた琉青は、声を押し殺してすすり泣いた。
借りた服に着替えて居間に戻ると、男性は窓際に置かれた椅子に座っていた。
髪はまだ少し濡れているけれど、服装はさっきとは違っている。紺色の羽織と薄い水色の着物は、旅館が貸し出している衣服だろう。部屋にいるのは彼だけで、連れの女性はいないようだ。
「……あの人はどこに行ったんですか?」
「妻の陽子のことかい? 近くにコインランドリーがあるそうだから、君の服を乾かしに行ったよ」
「――そうですか。迷惑をかけてしまってすみません」
「迷惑だなんてこれっぽっちも思っていないよ。私は自衛官だからね。人助けするのも仕事なんだ。君も疲れただろう。椅子に座って休んだらどうだい?」
勧められた琉青は男性の向かい側の椅子に座った。まさか彼が同じ自衛官だったとは驚きだ。見た目からてっきり普通の会社員かと思っていた。
「そう言えば自己紹介がまだだったね。私は藤咲勇輝。松島基地の第11飛行隊に所属しているんだ。夫婦水入らずで旅行に行ったらどうだって、娘が新幹線の切符をプレゼントしてくれてね。おまけに旅館まで手配してくれていたんだよ。親孝行な娘をもって私は幸せだ」
嬉しそうに語った男性――藤咲勇輝は相好を崩した。頬が緩みっぱなしなのは、目に入れても痛くないほど、娘が可愛いからなのだろう。勇輝の話に興味がなかった琉青は、適当に相槌を打っていた。
「さてと――そろそろ君のことを訊いてもいいかな? 神矢琉青くん」
勇輝に名前を呼ばれたその瞬間、琉青は心臓が止まりそうなほど驚いた。
「どうして俺の名前を……?」
「君のお父さんと同じ部隊にいたことがあってね。そのとき君の話を聞いたんだ。防衛大を首席で卒業した優秀な息子がいると、みんなに自慢していたよ。写真も見せてもらったから、君が誰か分かったというわけさ」
「そうでしたか……。でもいまの俺は、みんなに自慢できるような息子じゃありませんよ。なぜなら俺は――」
「――仲間を守れなかった。だから命を絶とうとしたんだね?」
言おうとしていたことを、勇輝に先に言われた琉青はまた驚いた。
どんなに磨かれた鏡よりも、綺麗に澄んだ勇輝の眼差しは、琉青の心を覗きこむように見つめている。そしていつの間にか、琉青の口と舌は自然と動いていて、勇輝にすべてを話していた。勇輝は一言も口を挟まずに、琉青の話を聞いていた。
「あれは不幸な事故だった、不可抗力だったって、みんなは俺に言った。――でも違う!! 俺は秋広を見捨てた、あいつを独り残して、基地に逃げ帰ったんだ!! 俺が残って捜していたら、秋広は助かったかもしれない!! 不幸な事故でも不可抗力でもないんだ! 秋広は俺が殺した!! 俺が秋広の人生を奪ったんだっ!!」
声を荒げた琉青は拳を握り締めた。手のひらには爪が食いこんでいて、そこから血が滲んでいる。
「――琉青くん、それは間違っているよ」
きっぱりと否定された琉青は勇輝を見やる。琉青を見つめ返す勇輝は、聖者のように静謐な眼差しをしていた。
「秋広くんの事故は確かに痛ましいものだった。でもそれは君のせいでも誰のせいでもない。あの事故はどうすることもできなかった、人の力ではどうにもならない天命だったんだ。琉青くんの気持ちはよく分かる。けれど君が死んでもなにも変わらないし、秋広くんが生き返るわけでもない。悲しみが連鎖するだけだよ」
そのときだ。琉青は凍てついた心に亀裂が走るのを感じた。
「……私はね、こう思うんだよ。私が琉青くんの命を救ったのは、もしかしたら秋広くんの導きなんじゃないかって。君を死なせたくない、生きてほしいという彼の願いが、私を琉青くんのところに導いたんだ。だから君は彼のぶんまで生きなさい。君に生きてほしいと、誰よりも強く望んでいるのは、秋広くんなのだから――」
勇輝の言葉は暖かな光となり、琉青の心を凍てつかせていた氷を溶かしていった。心の氷が完全に溶けたとき、閉じた瞼の隙間から涙があふれ出す。隣に座った勇輝に、優しく肩を抱かれた琉青は、生まれたばかりの赤子のように思いきり泣いた。
琉青の中に深く根を張っていた、死を望む暗い気持ちはもう消えていた。秋広が導いてくれたから琉青の命は救われた、秋広は琉青に生きてほしいと願っているという、勇輝の言葉を信じてみようと思ったからだ。
心に負った傷は深いし、治るには長い時間が必要だ。だけれど自分がいつまでも悲しんでいたら、秋広の魂は来世に生まれ変われないだろう。
だからどんなに辛くても、秋広が助けてくれた命を大切にして、彼のぶんまで生きていこう。それが自分が秋広にできる、最大限の供養なのだから――。